ネグリ=ハート『マルチチュード―〈帝国〉時代の戦争と民主主義』


はじめに  

ファイル:AntonioNegri SeminarioInternacionalMundo.jpg 今やわれわれの社会は〈帝国〉の時代に突入している。

 前著『〈帝国〉』において、ネグリとハートはそのように主張した。

 〈帝国〉とは、「帝国主義」のことではない。

 帝国主義とは、強大な力をもつ国民国家が世界の覇権を握ろうとすることだが、〈帝国〉とは、支配形態が、もはや国民国家としてではなく、超国家的な制度や資本主義システムを通して、世界中に浸透し張り巡らされたネットワークと化した生権力(人々の生き方それ自体に浸透する権力)のことである。

handsome young ruffian  with curly hair この〈帝国〉の分かりやすいモデルを、私たちは今日「セキュリティ」の概念にみることができる。

 かつての戦争は、「国民国家」同士の戦争だった。

 それが今日では、実体のよく分からないテロとの戦いのために、世界中にセキュリティという名の権力が浸透し切っている。あたかも、セキュリティのためには民主主義が犠牲にされても構わないといわんばかりに。

 要するに〈帝国〉とは、(アメリカの)一国支配をさらに超えて、私たちの生活全般にネットワーク状に浸透した実体なき権力形態のことなのだ。

 『〈帝国〉』において、ネグリとハートは、この新しい権力によって、民主主義が危機に瀕していることを告発した。

 本書は、この『〈帝国〉』の続編である。彼らは本書において、こうした〈帝国〉に抵抗するための、新しい政治概念「マルチチュード」を提示する。

 マルチチュードとは何か。

 私なりに言うと、それは、それぞれの個々人がそれぞれの個々人として、共通の目的のために、ゆるやかなネットワークとして相互作用する政治的プロジェクトのことである。そこに中心的権力はない

 ネグリとハートは、すでにそのようなネットワークは世界中に誕生しつつあり、これをしっかり概念化する必要があると、「マルチチュード」という言葉を提示した。

 実際、本書刊行後のいわゆる「アラブの春」などの革命を見れば、彼らの洞察の先見性を理解することができるだろう。

 インターネットを通じて、同じ目的をもった人々がネットワークを作り出し、そしてついには圧制的権力を打ち倒した。

 ネグリとハートは、こうしたマルチチュードこそがこれからのグローバル民主主義のモデルであり、そして絶対的民主主義を初めて可能にする唯一の形態であると主張する。

 
 ネグリとハートの着眼点からは、大きな示唆を受ける。私もまた、マルチチュードというあり方は、グローバル民主主義をドライブさせる大きな原動力になるだろうと思う。

 しかし同時に、私としては、彼らの考えはやや度を超しているようにも思わざるを得ない。

 たとえば2人は次のように言っている。

一般的あるいは公的なものとみなされてきたものはすべてマルチチュドによって再領有および管理運営されねばならず、したがって〈共〉となるのだ。

 彼らによれば、公権力はマルチチュードとして再編される必要がある。それは中心的権力を持たず、多様な人々がその多様性をそのままに、〈共〉なるもの(共通の目的や共有物)のためにゆるやかなネットワークとして構成される。

 このマルチチュードこそが、グローバル民主主義社会のあるべき姿である。そうネグリとハートは言うわけだ。


新しいグローバルなリアリティを創出する数多くの特異性によって組織されるネットワークに即した社会的関係を法が構築しうる唯一の基盤は、〈共〉をおいてほかにない。もちろんその道筋は直線的ではないが、進むべき道はそれ以外にないと私たちには思われる。」


 しかし私の考えでは、これはきわめて重要な民主主義社会の可能性であるけれども、ここに一切を還元することは、民主主義の原理からいって問題だ。

 というのも、そこには「正当性」の根拠が存在しないからである。

 マルチチュードとは、いわば自己組織化し続ける社会運動体である。それはいわば自動的なシステムであるから、マルチチュードは自らの運動の目的や手段の妥当性を吟味する機能を中々持ち得ない。

 たとえば、国際的ハッカー集団「アノニマス」や、反捕鯨団体「シーシェパード」などを思い起こしてみればいいだろう。

 これら団体(ネットワーク)は、ある意味においては、立派な大義を掲げていると言ってもいいのかも知れない。しかしその目的や、目的を達成するための手段の正当性を吟味する動機を、彼らはその性格上持ちえない。

 「われわれは正しい大義のために、ネットワークを形成し権力に立ち向かっているのだ。」

 彼らはそう主張するだろう。

 しかし私たちは、なぜ彼らこそが正しくて、彼らの攻撃対象が間違っていると言うことができるのだろうか。

 その正当性の根拠を、マルチチュードは自らのうちに持ちえない。それは、それぞれがそれぞれに「正しい」と思い合ったことの集合体に過ぎないのであって、彼ら以外の人々からの明確な合意を得てはいないからである。

 となれば、一切をマルチチュードに還元せよというネグリ=ハートの主張は、結局、それぞれのマルチチュードがそれぞれにそれぞの「大義」を主張し合う、形を変えた「万人の万人に対する闘争」と化すことになるだろう。

 ネグリ=ハートからすれば、だからと言って、ここに何らかの合意形成システムが組み込まれてしまったら、それはまた新たな中心的権力の出現を意味すると批判されることになるだろう。

 しかしそれでもなお、マルチチュードに大きな可能性を見出すのであれば、私たちは、その正当性をいかに担保するかという課題を避けて通ることはできないはずだ。

 マルチチュードは、自己組織化する運動であるがゆえに、その「大義」もまた、時間とともにより民主主義的なものになっていく、という考えもあるだろう。実際、そのような傾向はかなりあるだろうと私は思う。

 しかしその時もまた、なぜそれが民主主義的といいうるのか、どのようにして正当性の合意が得られうるのか、という問いを、決して見落としてはならない。ネグリ=ハートの問題意識には、その観点がすっぽり抜け落ちている。

 マルチチュードという、近年の自己組織化する政治運動体には、実際に大きな実効力がある。しかし、だからこそ、そこにこれからのグローバル民主主義の発展の大きな可能性をみるからこそ、私たちは、マルチチュードの「正当性」をいかに担保するかという課題をこそ、真剣に問い合う必要があるのではないか。


1.本書の目的

本書のおもな目的は、新しい民主主義のプロジェクトがよって立つ概念的基盤を打ち立てることにある。

 この概念的基盤こそが、「マルチチュード」である。マルチチュードとは一体何か。ネグリとハートはこの概念の詳細を本書で明らかにしていくが、しかしその前に、彼らはまず、近代の「戦争」や「民主主義」の系譜を追っていく。


2.日常化した戦争

 ネグリとハートは言う。近代主権理論は、戦争をできるだけ抑止するため、これを例外的なものへと追いやってきた。

「主権を有する至高の権威、すなわち君主あるいは国家だけが戦争を起こすことができ、その相手は別の主権権力に限られるという考え方である。」

 主権国家という考え方を打ち立てることによって、近代は、戦争主体を国家に限定した。そのことによって、局地的あるいは私的な戦争を、原理的には不可能にしたのである。

 しかし今日、このモデルはもはや成り立たなくなっている。戦争は局地的に常に勃発し、日常化・全面化してしまっている。

 こうしたグローバルな戦争状態の日常化は、何をもたらすか。ネグリ=ハートは言う。

 戦時においては、民主主義が抑制される。となれば、その恒常化は、民主主義の機能停止を意味するのではないか。

 それは実際、今日のセキュリティ重視の社会にみてとれる。

今日、セキュリティの名のもとに先制攻撃や予防戦争が正当化されることによって、国家主権は明らかに損なわれ、国境はますますその意味を失いつつある。」

 こうして、唯一の戦争主体という、近代主権国家の役割は消滅する。

戦争を宣言し、実施する近代の法的枠組みは、もはや通用しなくなるのだ。


3.暴力の正統化

 となれば、戦争の正統性は、今日いったいどのようにはかられるのか。ネグリとハートは言う。

今日、暴力がもっとも実効的な仕方で正統化されるのは、道徳的なものにせよ法的なものにせよ、既存の枠組みによってア・プリオリにではなく、暴力がもたらした結果にもとづいてア・ポステリオリになされるときであるように見える。」

 要するに、暴力の結果セキュリティが保持され秩序が回復されれば、その暴力は正統化されるというわけだ。この状況に、2人は大きな危機意識を示す。


4.ネットワーク状の敵にどう向き合うか

 こうして、今日セキュリティ管理型権力(暴力)が登場したが、ネグリとハートはこれを高強度の警察行動と呼ぶ。

 つまり軍隊は、国民国家同士の総力戦から、われわれの生活に浸透する警察的権力へと進化を遂げたのだ。ネグリとハートは、これをフーコーの言う「生権力」として捉える。

 テロというネットワーク状の敵に対して、総力戦型軍隊は効果を持たない。重要なことは、人々の生活それ自体に入り込むような権力を作り出すことである。

「軍事的・技術的な優位の限界と脆弱さについての認識から、戦略担当者は全次元および全方位にわたって敵を抑えつける力をもつ、非限定的な支配形態をとるべきだと提案する。必要なのは軍事力を社会的・経済的・政治的・心理的・イデオロギー的管理と結合させる『全方位的支配』だと、彼らは言う。こうして軍事理論家は事実上、生権力の概念を自ら発見したのだ。

 ここに、暴力は生権力−生政治と化す。そう彼らは言うわけだ。権力=軍隊=暴力は、目に見える圧倒的な暴力から、人々の生活に浸透し、これを全面的に操作・支配するものとなる。


5.マルチチュード

 このような生権力−生政治は、先に言ったように民主主義を機能不全に陥らせてしまう。私たちは、このような権力に抗して、十全なる民主主義を開花させる必要がある。

 それはいかにして可能だろうか。

 こうして彼らは、マルチチュードの概念を提起する。

 マルチチュードとは何か。ネグリとハートは言う。

マルチチュドは、特異性同士が共有するものにもとづいて行動する、能動的な社会的主体である。マルチチュドは内的に異なる多数多様な社会的主体であり、その構成と行動は同一性や統一性(ましてや無差異性)ではなく、それが共有しているものにもとづいているのだ。

 生権力たる〈帝国〉は、私たちをその生き方の次元から規定し支配しようとする。

 それに対抗できるのは、多様な人々が、その「特異性」を特異性のまま保持しつつ、何らかの同じ目的や大切なもの、すなわち〈共〉なるものに基づいて、共に行動していくという運動である。


6.公と私を超えた〈共〉

 この〈共〉の概念が、ここではきわめて重要になってくる。

 従来、政治思想は、社会を「公」と「私」のモデルで考えてきた。しかし本来、われわれは〈共〉をこそ基軸に考えなければならないのだ。

 その意味は、以下のようである。

 現代のグローバリゼーションは、新自由主義的グローバリゼーションである。すなわちその基本的イデオロギーは、民営化である。

 これは、いわば「公」が力ある(資本のある)「私」に呑み込まれて行く過程であると言っていい。あるいは、現代においては、力ある(資本のある)「私」の肥大化にお墨付きを与えるのが「公」権力である。

 たとえば、私的所有権に対する保護、遺伝情報に関する保護がそうだ。力ある「私」企業が、これら権利を独占し始める。「公」はそれを、法的に保護することになる。その結果、一部の力ある(資本のある)「私」(私企業)が、この社会を牛耳っていくことになる。

 しかし、そもそも知的所有物や遺伝情報とは何なのか。これは、ある一部の力ある「私」(私企業)にのみ帰属させていいものなのか。

 社会を、力ある「私」の独占にさせてはならない。そして「公」が、それにお墨付きを与えるようであってはならない。もう一度われわれは、われわれの〈共〉なるものを、取り戻さなくてはならない。そう2人は主張する。

 マルチチュードとは、この〈共〉なるものを基軸としたプロジェクトである。それは、共有すべきもののために、中心的権力を持たないままネットワーク状に連帯するのだ。

一般的あるいは公的なものとみなされてきたものはすべてマルチチュドによって再領有および管理運営されねばならず、したがって〈共〉となるのだ。

 
 こうして、ネグリとハートによれば、マルチチュードこそが、グローバル民主主義の基盤にならねばならないと言われることになる。

新しいグローバルなリアリティを創出する数多くの特異性によって組織されるネットワークに即した社会的関係を法が構築しうる唯一の基盤は、〈共〉をおいてほかにない。もちろんその道筋は直線的ではないが、進むべき道はそれ以外にないと私たちには思われる。」


7.〈共〉的な愛
 
 最後に、ネグリとハートは、唐突に「愛」の概念を持ち出して本書を締め括る。

 〈共〉を重視するこのプロジェクトを理解するには、「愛」の概念こそが適切である。そう2人は言うのだ。

「愛は〈共〉にもとづく政治的プロジェクトと新しい社会の建設の基盤になるということ、ただそれに尽きる。この愛がなければ、私たちは無に等しい。」

愛を政治的なものととらえるとき、この新しい人類の創造は究極的な愛の行為にほかならない。

 〈共〉なるものを大切にするということ、これこそが愛の概念である。そう2人は言うわけだ。

 十分な論述がないまま唐突に「愛」について語られるので、最後の最後にせっかくの考察を詩的表現でイメージ化してしまった感もないわけではないが、この箇所、著者の思い入れは十分伝わってくる。

(苫野一徳)


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リオタール『こどもたちに語るポストモダン』




はじめに

 1979年、『ポストモダンの条件』によって、「ポストモダン」「大きな物語の終焉」といった言葉を流行させた、リオタール。本書は、その続編とでもいうべき著作である。

 「こどもたちに語る」と言っても、子ども向けの分かりやすい本という意味では全くない。若干羊頭狗肉の感を免れない気もするが、自らの思想を「親」として現れた、若い思想家たちへの言葉という意味らしい。1980年代半ば、世界各地からリオタールが「こどもたち」に書き送った手紙を編纂したものである。主著『ポストモダンの条件』に対する、若干の修正も含まれている。

 ただ私としては、本ブログでも随所に書いていることだけれど、いわゆる「ポストモダン思想」の賞味期限は、今やもうほとんど切れてしまったと考えている。

 全体主義やマルクス主義など、あらゆる暴力的「主義」を味わい尽くした20世紀、思想家たちは、とにもかくにも、一切の「主義」を相対化し、これらへ抵抗することに力を注いだ。

 その問題意識は、きわめて真摯であり妥当なものだ。

 しかしこの思想は、結局のところ、ただに「否」を言い続けるだけの、きわめて非生産的な思想になった。

 では、われわれはどのような人間的生や社会を「よい」といいうるのか、そして、そのような生や社会を可能にする「条件」は何なのか。

 哲学が問うべきはそのような問いであると私は思うが、「ポストモダン思想」は、そうした問い自体を相対化しようとやっきになってきた。

 もちろん、絶対に「よい」生き方や社会などはあり得ない。しかし、それでもなおわれわれは、何らかの形で「共通了解」を得られる、建設的な哲学を探究していく必要があるのではないか。

 そろそろ、ただ「否」を突きつけ続けるだけの思想から、再び、「よりよい」人間的生や社会のあり方の探究へと、建設的な哲学を始め直す必要がある。

 そしてそのような哲学的探究は、すでにもう始まっている。


1.リアリズムの幻想を打ち破るアヴァンギャルド

 アヴァンギャルド芸術は、従来のアーティストや批評家たちから、激しく拒絶されている。それはなぜか。リオタールは言う。

「芸術的実験を中断するようにというさまざまなかたちの呼びかけの中には、秩序への召喚の声、統合性・同一性・安全性・通俗性(Öffentlichkeit[公開]つまり「公衆に出会う」という意味で)への欲望がある。」

 あらゆる秩序を打ち壊すアヴァンギャルド芸術に、従来の人々は不安をかきたてられているのだ。

 そうして従来のアーティストたちは、公衆にただおもねるだけの作品を作り続ける。

「われわれはレゲエを聞き、西部劇を観、お昼にはマクドナルド、夜には地元の料理を食べ、東京ではパリの香水をつけ、香港ではレトロなファッションに身をつつみ、知識はテレビのクイズ番組の材料でしかない。折衷的な作品にとって、公衆を見つけるのは簡単だ。キッチュになることで、芸術は、愛好家の〈趣味〉を支配している混乱におもねる。」

 こうしたアーティストたちに求められているのは、ただただ、公衆にとって分かりやすく馴染み深い、人々を安心させられるような作品を作ることである。

「それらの探求に対して勧められているのは、次のような作品を提供しなさい、ということだ。まず、受け手である公衆の眼に見えているさまざまな主題に関係のある作品。そして、その公衆が、何が問題となっているのかを認識し、そこで何が意味されているのかを理解し、理由を十分に知りつつそれらに対して承認を与えあるいは拒絶することができ、ついにはできることならかれらが受け入れる作品から何らかのなぐさめを引きだすことさえできるように、そのように作られた(〈良くできた〉)作品を。」

 アヴァンギャルドは、そうした分かりやすさをことごとく覆す。そうリオタールは言う。

 芸術は、本来名づけ得ないもの、「提示しえないもの」の崇高さの表現である。それを、通俗的な芸術家たちは分かりやすい表現形式に貶めている。

 そこで、アヴァンギャルドに象徴されるポストモダンは、こうした「提示しえないもの」を、そのままに引き出す「何か」として定義づけられることになる。

「ポストモダンとは、モダンの内部において、提示そのものの中から『提示しえないもの』をひきだすような何かのことだろう。不可能なものへのノスタルジアを共有させてくれる趣味のコンセンサスの上にたって良い形式からもたらされるなぐさめを、拒絶するもの。新しいさまざまな提示を、それを楽しむためにではなく、『提示しえないもの』がそこに存在するのだとより強く感じさせるために、たずね求めるもの。」


2.抵抗としてのポストモダン

 以上見たような、モダン的表現への反逆であるポストモダンは、より大きな文脈からいえば、「普遍性」という近代的理念への反逆である。リオタールは言う。


「近代の計画(普遍性の実現という計画)は、見捨てられ忘れられたのではなく、破壊され、〈清算され〉たのだ」


 ここには、19〜20世紀における、近代が行き着いた全体主義への批判が込められている。

一九世紀および二世紀は、われわれに嫌というほどのテロルを与えてきた。全体と一に対する、概念と知覚可能なものとの和解に対する、透明で伝達可能な経験に対する、ノスタルジアの代価を、われわれはすでに十分に支払ってきた。弛緩と鎮静への要請がひろがる中で、テロルを再開し、リアリティの支配という幻想を達成しようという欲望がつぶやくのを、われわれは耳にしているところだ。」

 そこでリオタールは次のように言う。

「それに対する答えはこれだ。全体性に対する戦争だ、提示しえないものをしめしてやろう、さまざまな抗争を活性化しよう、名前の名誉を救出しよう。

 こうしたリオタールに代表されるポストモダン思想は、全体主義的近代への大きな批判として、70年代以降大きな影響力を奮ってきた。

 しかし冒頭でも述べたように、彼らは結局、「抗争」「反逆」「抵抗」「否」の言葉を紡ぎ続けただけだった。

 ポストモダン思想は、その歴史的な役割を終えた。私はそう思う。これからの哲学は、この思想を乗り越えつつ、積極的で建設的な、共通了解可能な哲学を構築していく必要がある。


(苫野一徳)



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