デュメジル『ユピテル・マルス・クイリヌス』



はじめに

Georges Dumézil 20世紀を代表する神話学者、ジョルジュ・デュメジル。

 前著『ミトラ=ヴァルナ』に引き続き、デュメジルは本書において、インド=ヨーロッパ語族の神話と、これと相似形をなす太古の社会の構造について考察する。

 デュメジルによれば、インド=ヨーロッパ語族の社会は三重の構造をなしていた。

 祭司階級戦士階級飼育=農耕階級である。

 たとえば、インドでは、それぞれブラフマンクシャトリヤヴァイシャと呼ばれ、これに、征服された民族である奴隷階級シュードラが付け加えられる。

 この三階級に、それぞれの守り神とも言うべき存在が対応している。

 ブラフマン(祭司)には、ミトラヴァルナ、クシャトリヤ(戦士)にはインドラ、ヴァイシャ(飼育=農耕)にはナーサティヤ双神である。

『ミトラ=ヴァルナ』で詳論されたように、このうち第1機能は、呪術的権力と司法的権力の相互補完的関係から成り立っている。つまり、社会においてはバラモン(司祭)と王、神においては、呪術的神であるヴァルナと司法的神であるミトラである。

 さて、この「三機能」は、あらゆるインド=ヨーロッパ語族に共通して見られるものである。つまり、インドだけでなく、イランでも、ケルト民族においても、ゲルマン民族においても、そしてローマにおいても、例外なく当てはまるのだ。

 はるか遠く離れたインドとヨーロッパの人びとが、もとは同じ民族だったことが分かったのは、神話や言語学の研究によるところが大きい。

 19世紀、ヨーロッパ人は、ヨーロッパの太古の神話と、自分たちが植民地化したインドのそれとが、神々の名前を含めて細部にいたるまであまりに酷似していることを発見し驚愕した。

 その結果、彼らは、ヨーロッパ人とインド人が、紀元前3000年紀から2000年紀にかけて、ハンガリー平原とバルト海のあいだと想定される地域から、四方八方に飛び出していった同じ民族だったことをつきとめたのだ(と、デュメジルは言っているが、現在では、カフカス山脈周辺の出自という説の方が有力なのではないかと思う)。

 いわゆるアーリヤ民族の大移動である。

 デュメジルの最大の研究テーマは、このインド=ヨーロッパ語族の神話を研究し、彼らの思考形式を浮かびあがらせることにあった。

 その1つが、先に述べた「三機能理論」だ。

 本書でデュメジルは、とりわけ古代ローマにおける「三機能」について、他のインド=ヨーロッパ語族たちのそれとを比較しつつ詳論する。


1.呪術神(ユピテル)と戦闘の神(マルス)

 デュメジルは、まず、インド=ヨーロッパ語族の神話における、呪術神と戦闘神の関係性について考察する。

 呪術神は、司法神と並んで至上神だ。しかし彼は、無双無敵でありながら自ら戦うことをしない。

 戦争を司るのは、どこまでも戦闘の神なのだ。

 たとえば、インドにおける呪術神はヴァルナだが、彼は戦うことをせず、戦争はインドラに任されている。

「ヴァルナに関しては戦闘の神話はない。にもかかわらずヴァルナは神々のなかで無双無敵である。彼の最大の武器は影や幻覚を作り出す「至上神の呪術」であり、それによって彼は世界を支配し、調和させることができる。〔中略〕これに対して戦士神は、戦う神、雷震を放つ神であり、数えきれぬ決闘をし、敢然と数々の危機に立ち向い、あまたの勝利を競った英雄インドラである。」

 ケルトの神話でも同様だ。北欧神話における三機能を担う神は、それぞれオージントールニョルズ・フレイ・フレイヤだ。

 デュメジルは言う。

「オージンが、この世でもあの世でも戦士の守護神であり、長であるのは確かである。しかし散文の『エッダ』においても韻文の『エッダ』においても、彼自身は戦わない。」

 初期ローマの三機能を担う神々は、それぞれユピテルマルスクイリヌスだ。ここでも事態は同様だ。

「ユピテルやマルスに関する伝承から、ローマにおいても同じ事実を確認することができる。両者はともにローマ人のために等しき神通力でもって戦闘に介入したものの、その方法はまったく異なっていた。」

 つまり、ユピテルが呪術によってローマを守ったのに対して、戦いによってローマを救ったのは、やはり軍神マルスだったのだ。

 では、残るクイリヌスとはいったい何者か?

 容易に察せられるように、それは農耕の神である。祭司・戦士・農耕の三機能は、あらゆるアーリヤ民族に共通の社会・神話構造なのだ。


2.三大フラメン

 ローマには、ユピテル、マルス、クイリヌスに対応して、それぞれの神を祀る祭司、すなわちフラメンたちがいた。それぞれ、フラメン・ディアリス、フラメン・マルティアリス、フラメン・クイリヌスと呼ばれている。

 ちなみに、このフラメンは、インドにおける祭司階級ブラフマンと音声上等価である。こんなところからも、遠く離れたインドとローマとの親近性がうかがえる。

 さて、デュメジルによれば、しかしこのフラメンたちには、一つだけ、インドやケルトなどとは大きく異なる点があった。

 インドのブラフマンやケルトのドルイドは、国に縛られない、いわば超国家的な存在だった。

「ブラフマンたちは、個人としてであれ集団としてであれ、国境を自らの意思で越える。すなわち彼らは、自分の知識や能力が最も高く評価されるところへ行く。」

「ドルイド教も王国に対して同じように外にあり、同じように優位に立っていた。〔中略〕異教時代最後のアイルランドには、戦争をしている王たちが競って協力を求める国籍のない偉大なドルイドたちがやはりいて、彼らはときには正当な側に味方したが、多くの場合、最大の利益を自分たちに保証する側に味方した。」

 もっとも、彼らは同時に、王付の祭官になって王を助ける存在でもあった。

「インドでもケルトでも、ブラフマンやドルイドを味方につけること、とりわけ一種の王付祭官を雇うことは王の利益である。かくしてインドのそれぞれの王には王付祭官が付き、王のためにあらゆる呪術を行使し、王の穢れをことごとく取り除き、王に助言を与え、王の傍らで大いに尊敬されて生活し、ヴェーダ讃歌が述べているように、またプローヒタの名(purah「前に」、hita「置かれたもの」)が意味するように、「王宮では先頭をきって歩む」。同じく、アイルランドの叙事詩では、いかなる王にも私設ドルイド(ときとして幾人も)がいて、予兆を解き明かし、助言し、守護し、補佐し、離れることのない伴侶であり、恐れられ、尊敬されていた。」

 他方、ローマのフラメンたちは、国家に徹底的に縛られていた。

「都市ローマから出ない、続けて三晩ベッドを空けさえしない、あまり遠くへは行く気が起こらないよう馬に乗らないといった、彼に課せられる「居住のタブー」を思い起こそう。」

 これは、ローマがその他の民族とは大きく異なる道を進んだことを示している。

 彼らは、強力な国家を意図的に作り出したのだ。

「草創期以来、小さな「祖国」を大きな「民族」の上位に置き、市民同士を区別するものよりも、あらゆる外部の集団に市民を連帯して対抗させたものに価値を与えたのである。」


3.ラムネス・ルケレス・ティティエス

 続いて、初期ローマの社会階層を見てみよう。

 ローマには、その建設者ロムルスが創設したとされる三階級があった。

 ラムネスルケレスティティエスである。

 デュメジルによれば、音声的に見ても、ラムネスはロムルスを、ルケレスはルクモを、そしてティティエスはタティウスを示している。

 ルクモとは、かつてロムルスとともにサビニ人と戦い、戦場に倒れたエルトリア人の英雄のこと。

 タティウスとは、そのサビニ人の王の名だ。ロムルスとの戦いの後、彼はロムルスとともにローマの共同統治者となった。

 要するに、この三階級は、異なる民族が融合してできたものなのだ。

 その意味するところは明白だ。

 ラムネス(ロムルス)は呪術・祭司的地位を、ルケレスは戦士的地位を、そしてティティエスは農耕的地位を意味しているのだ。


4.アース神族とヴァン神族との戦い

 ここでデュメジルは、北欧神話とローマのそれとの類似性について言及する。

 北欧神話に登場する神々は、かつてアース神族ヴァン神族とに分かれ、お互いに争い合っていた。

 アース神族に属していたのは、呪術神オージンと戦闘神トール。

 対するヴァン神族に属していたのは、豊饒の神のニョルズとその息子フレイ、娘フレイヤである。

 繰り返される戦争の結果、両神族はついに和解し、互いに融合した。

 さて、この神話は、先に見たロムルス(ラテン人)とタティウス(サビニ人)との戦いに完全に合致する。

 よく知られているように、ローマを建国したロムルスは、子どもを増やすため手下たちのためにサビニ人の女たちを誘拐した。

 これをきっかけに、サビニ人との戦争が始まった。そしてその結果、両者は和解し一つの民族へと融合したのだ。

「ヴァン神族とアース神族と同じく、サビニ人とローマ人は物語の初めには隣り合った民族であるばかりか、「専門分野をもつ」民族でもあり、フレイがアース神族のもとで、タティウスがローマで統治するとき、ともにかつての敵が具現している他の二つの機能と対照的に、多産性と豊饒の機能をどちらも同じように確保することになる。」

 要するに、北欧神話も、ラテン人とサビニ人との融合も、いずれも戦争を通した農耕民族の融合を意味していると考えられるのだ。


5.プラトン『国家』に見られるインド・ヨーロッパ語族の思考形態

 以上のように、あらゆるアーリヤ民族の神話および社会構造には、祭司・戦士・農耕という「三機能」が共通して見られる。

 本書の最後に、デュメジルは、この「三機能」が、古代ギリシアにおけるプラトン『国家』にも色濃く見られることを主張する。(プラトン『国家』のページ参照)

「プラトンの理想の都市国家は、最も厳密な意味でインド=ヨーロッパ共通基語時代の経験の非意図的想起というものではないだろうか。この都市国家は、〔中略〕統治する賢者、戦う戦士、耕作者と職人が一つになり富を生み出す第三身分、という三機能、三身分を調和よく配合して構成されている。第三集団の上位二集団の連帯と、三集団それぞれの独自性はとりわけ顕著である。〔中略〕第三身分は節制を旨とするだけでよく、戦士は節制に加えて勇気をもたねばならず、「守護する者」はそのうえに思慮深くあるべきである。」

 そして言う。

「インドの法典と『国家』は呼応し合っている。それは両者が同じ先祖の歌を歌っているからではないだろうか。」

 さらにデュメジルは続ける。

「『国家』第四巻の最もみごとな一節までも、ここでは言及しなければならない。社会を三区分する方式を見出した後にプラトンは、個人、つまり「一人の人間」に取り組み、この小宇宙の中に、〔国家の場合と〕同じ階級序列における同じ要素、同じ徳を必要とする同じ調和の条件を見出す。「正しい人は、正義という点では、正しい国家と少しも異なるところがない」。正しい人は自らの中に賢者、戦士、金を儲ける者に相当するものをもっている。」

 プラトンによれば、「正しい人」は、先の三機能のすべての徳を持っていなければならない。

 この「一人の人間」への融合という思考モデルは、インドにおいてもケルトにおいても見られるものだとデュメジルは言う。

「インドは、表象もインド特有の表現も変わりやすさはあるものの、社会や宇宙と同じ三つの性質をもつ魂を、あるいは少なくともそうした魂の現身を作り上げている。」

「アイルランドの最高王権を望む者の誰もが、「嫉妬せず、恐れず、物惜しみせず」、権力の座にあっては寛大で、戦闘では勇敢な、自分の財産を惜しみなく与える男でなければならなかったと読み取るならば、ドルイドたちもまた王国においてと同じ構造を魂においても認めていた証拠をわれわれは手にしているのである。」


 (苫野一徳)



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デュメジル『ミトラ=ヴァルナ』



はじめに

Georges Dumézil 20世紀を代表する比較神話学者、ジョルジュ・デュメジル。

 デュメジルと言えば、インド・ヨーロッパ語族の神話における、いわゆる「三機能理論」が有名だ。

 インド・ヨーロッパ語族には、「祭司」「戦士」「飼育=農耕民」という社会階層があり、各民族の神話にもそれが色濃く表れているという理論である。

 たとえば、古代インドにはブラーフマナ(祭司)、クシャトリヤ(戦士)、ヴァイシャ(飼育=農耕民)という階級があった。そしてそれぞれに対応する神が、ミトラとヴァルナインドラナーサティヤ双神とされていた。

 あるいは、初期ローマの三神は、ユピテルとディウス・フィディウス(祭司)、マルス(戦士)、クイリヌス(農耕)の三神である。

 北欧神話では、オージンとテュール(祭司)、トール(戦士)、フレイ(農耕)の三神となる。

 上から分かるように、祭司階級の神、すなわち「至上神」は、「対の神」となっている。

 ここに、デュメジル理論のもう1つのポイントがある。

 至上神は「対の神」として存在する!

 このことを詳論したのが、本書『ミトラ=ヴァルナ』である。

 本書の目的は、インド・ヨーロッパ語族の神話を検討することで、太古の昔の人びとのいわば弁証法的な精神構造・思考様式を解き明かすことにある。


1.ルペルクス

 対の神としての至上神について論じる前に、デュメジルはまず古代ローマのある大祓について述べる。

 古代ローマでは、1年に1度、ルペルクスと呼ばれる騎士階級の若者たちが、半裸になって女たちをヤギ革の鞭で打って回るという大祓が行われていた。

 ルペルクスが解き放たれるのは、この1年に1度だけである。

 これはいったい、何を意味するのか? ルペルクスとはいったい何ものなのか?

「ルペルクスという名称はルペルカルという洞窟の名前と同様に、ロムルスとレムスの兄弟を育てた「牝狼」〔ルペルカ〕と、二人の心を鍛え過酷な運命に立ち向かう素地を作った野育ちの幼年時代を彷彿させる。」    

 ロムルスレムスとは、言うまでもなく、ローマ建国神話の主人公たちだ(兄ロムルスが弟レムスを殺して、ローマの建設者となった)。

 要するに、ルペルクスはローマ建国者を教育した者であり、また偉大なロムルスの象徴なのだ。

 ルペルクスが女たちをヤギ革の鞭で打つのは、かつてロムルスがサビニ人の女たちを誘拐した際のエピソードを再現したものだ。

 子孫を増やすため、ロムルスは手下たちのために大勢の女を誘拐した。

 しかし彼女たちには子ができなかった。

 そこでロムルスが神に訊ねたところ、女たちをヤギ革の鞭で打てとのお達しがあった。

 はたして女たちは子を身ごもった。

 大祓におけるルペルクスの所行は、この歴史的エピソードを再現しているのだ。

 こうして、ルペルクスはロムルスと等価の存在と見なされる。

 しかし彼らは、1年に1度だけ解放されることからも分かるように、決して「公的」な存在ではない。

 デュメジルは言う。

「それは文明化途上にあるほぼすべての民族に見出されるような「男性結社」の一つなのである。こうした結社は仮装とイニシエーシヨンを行い、並外れた呪術的力をもつばかりか、少なくとも部分的には「秘密結社」の名に値し、公的宗教の通常の働きとは対極の働きをなすためにだけ、つかのまのあいだ(ただしそのときには最高の威厳をもって)公に姿を現すのである。」    


2.ガンダルヴァ

 ローマのルペルクスと同じような存在が、古代インドにも存在した。

 彼らはガンダルヴァと呼ばれた。

 ガンダルヴァもまた、インドの英雄たちの教師という位置づけの存在だ。そしてまた、女を鞭打つ(身ごもらせる)ルペルクスと同様、ガンダルヴァもまた淫らな存在である。

「(彼らは)人間の胴体に馬の頭をもつ存在として描かれ、彼ら独自の世界に住むとされている。〔中略〕彼らは大酒飲みで、ソーマや他の酩酊飲料を盗み、女や妖精(アプサラス)を掠い、淫らな形容辞を喜んでいくつも戴いており、儀礼文献によればどんな女でも正式な夫以前にガンダルヴァを最初の夫とすると言われるほどである。」

 半人半馬として描かれていることから分かるように、ガンダルヴァもまた、ルペルクスと同様「騎士階級」の象徴である。

「つまり、「英雄の教育」を行い、馬と関連する結社こそが問題なのであり、ローマのルペルクス集団が依然として騎士階級の若者たちよりなることからすると、おそらくそうした結社はインド=ヨーロッパ語系諸族における「馬を御する者たち」によって独占されていたのだろう。」    

 ルペルクスとガンダルヴァ。両者は、「馬を御する者たち」による秘密結社であり、宗教組織だったのだ。


3.フラメンとバラモン

 このルペルクスとガンダルヴァにある意味で対立する存在が、フラメンバラモンだ。

 フラメンとは、古代ローマの神官のこと。バラモンは、古代インドの最高階級にして祭司である。

 どちらも、日常の宗教世界、つまり「秩序」の世界を象徴する存在だ。

 それに対して、ルペルクスとガンダルヴァは無秩序的で神秘的な存在だ。たとえば、フラメンやバラモンが酒や乱交を絶つのに対して、ルペルクスやガンダルヴァは、酩酊と乱交をこそ仕事とする。

 ここに、わたしたちは「秩序」と「無秩序」の二つの世界の同居を見ることができる。あるいは「規範」と「豊饒」とでも言うべきだろうか。

 デュメジルは言う。

「「過剰なるもの」であるがゆえにルペルクスとガンダルヴァは創造をなしうるのであり、「規範通りのもの」でしかないため、フラメンとバラモンは維持することしかできないのである。」    

 
4.ロムルスとヌマ

 同じような対立は、ロムルスとその後継者ヌマとの間にも見ることができる。

 ロムルスは、都市ローマを建設した。

 それに対して、ヌマはこの都市に制度を作った。

 ロムルスは、若く、血気盛んで、野心的な男である。

 それに対して、ヌマは年配で(と言っても40歳だが)、野心などは全く持ち合わせていない。

 デュメジルは言う。

「すでにお気づきのことかと思うが、これまで検討してきたどの項目においても、ロムルスとヌマの対立関係はルペルクスとフラメンのそれに根底から合致しているのだ。すなわち、どちらの場合も一方には喧騒や情熱、一人の荒れ狂う若者の絶対的支配が置かれ、他方の静穏さや厳格さ、聖職に就いた老人の中庸と対置されている。」    


5.ミトラとヴァルナ

 ここでようやく、デュメジルは、本書のタイトルにもなっている古代インドのミトラヴァルナの二神について論じる。

 これまでの言い方を用いるなら、ミトラは「秩序」を象徴する存在であり、対するヴァルナは、「攻撃的」で「騎士的」な存在なのである。


6.オージンとテュール

 続いてデュメジルは、スカンディナヴィアの三主神群についても論じる。

 すなわち、呪術的至上者オージン、雷霆を放つトール、そして、淫乱で平和を好むフレイである。

 これが大陸のゲルマン民族になると、ウォーザナズトゥンラズネルスズという名前になる。

 オージンのかたわらには、常にテュールという神がいる。

 ウォーザナズのかたわらには、ティーワズという神がいる。

 これは、ヴァルナのかたわらにミトラがいるのと同じ構造である。

 つまり、オージンは呪術的至上者、テュールは司法的至上者なのだ。

 以下、詳しく見てみよう。

 呪術的至上者であるオージンは、隻眼の神である。

 彼は、片眼を失うことで、その呪術的な千里眼や超能力を手に入れた。

 他方、司法的至上者のテュールは、隻腕の神である。

 彼もまた、片腕を失うことで、自らが司法的至上者であることを示した。

 テュールが片腕を失ったエピソードは、神話では次のように語られている。

 神々にはある悩みがあった。ある幼いフェンリル狼が、将来神々に災いをもたらすと予言されたのだ。

 そこでオージンは、一見したところ絹糸にしか見えない魔法の足伽を、鍛冶屋の黒いエルフたちに造らせた。

 神々は狼に、この絹糸につながれてみろと狼を挑発した。

 狼は、ワナだと疑ったが、メンツを失わないよう挑発に乗る。

 しかしその際、狼はこう言った。

「あなたたちのうち誰か一人が、嘘偽りはないという保証に、私の口の中に片手を入れてください」

 そこでテュールが右手を差し出し、狼の口の中に入れた。

 はたして、狼はとらえられ、しかしその代償に、テュールは片腕を失った。

 デュメジルは言う。

「ここでのテュールの行為が司法神にまさにふさわしい行為であることはあえて強調するまでもないだろう。」

「最古の時代から、すでに法が問題となる以上、そこでの最大の関心事は形式を遵守したうえで、いかに国際的に非難されることなく自民族にもっとも有利になるよう振舞うかということにあったはずである。」

 テュールは、自らが腕を失うことを通して、神々のペテンを正当化した。つまり、彼こそが法を制定したのである。


7.コクレスとスカエウォラ

 このように、特にヨーロッパでは、呪術的至上者は隻眼、司法的至上者は隻腕としてイメージされる傾向がある。

 古代ローマにも似たような神話がある。

 隻眼のコクレスと、隻腕のスカエウォラの物語だ。

 コクレスもまた、呪術的力によって敵を倒し、その後スカエウォラが敵との間に和平を結んだ。

「つまり、通常の戦闘に見られる釣り合いの取れた勝利の上には、「天才」の「戦意を喪失させる力の放射」によって確実に勝ち取られた戦闘と、法的手続きを英雄的に活用することによって終結させられる戦争という、二つの勝利の形態が存在すると考えられているのである。」
 

8.結論

 こうして、インド=ヨーロッパ語族の神話を一通り検討したデュメジルは、本書の結論をこう述べる。

「二つの項のうち一方(ヴァルナなど)が霊感を受けたもの、予見しがたいもの、熱狂的なもの、素早いもの、呪術的なもの、恐ろしいもの、暗いもの、気むずかしいもの、全体主義的なもの、若々しいものといった領域を包含するのに対し、もう一方の項(ミトラなど)は規則に則ったもの、正確なもの、鷹揚なもの、ゆっくりとしたもの、司法的なもの、穏和なもの、明るいもの、寛大なもの、分配主義的なもの、老いたるものといった領域をカヴァーしていると。」



(苫野一徳) 


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カント『啓蒙とは何か』



はじめに

イマヌエル・カント「啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜けでることである」

 あまりにも有名な、冒頭の言葉。

 近代以前のヨーロッパは、「神」が中心の世界だった。

 それに対して、カントは、人間の「理性」とこれに基づく「意志」に、わたしたち人間の生の基盤を見出した。

 時代を画した、啓蒙主義の宣言の書。短い論考なので、ぜひ多くの方に手に取っていただきたいと思う。

 もっとも、本書に併録された他の論文を読むと、論理の精密機械であったはずのカントが、現代からすればお話にならないような「フィクション」にとらわれすぎているのに驚かずにはいられない。

 たとえば、論文「世界公民的見地における一般史の構想」において、カントは、人類の歴史には自然によって定められた「目的」があると主張する。

 後のヘーゲルにきわめて近い、目的論的歴史観と言うべきものだ(もっともわたし自身は、ヘーゲルの歴史哲学にはある重要な意義も見出している。ヘーゲル『歴史哲学講義』のページを参照されたい)。

 また、「人類の歴史の憶測的起源」において、カントは、聖書をもとに人類の起源を想像するということをやっている。

 人類はアダムとエヴァから始まった。

 カントは、この聖書の記述に基づいた独自の歴史論を展開する。

 もっとも、カントのすごさは、このフィクションの中に自らの哲学理論を強引に捩じ込んでいくところにある。

 その様は、聖書と近代哲学とのスリリングな対決のようでもある。

 カントにしてみれば、聖書の記述もまた、人間「理性」の進化の過程ととらえるべきものなのだ。


1.「啓蒙とは何か」(1784年)

 理性をもつ人間は、本来啓蒙されなければならない存在だ。カントはまずそう主張する。

 しかし社会は、わたしたちを無知蒙昧なままに留めようとする。

「私は、諸方から「君達は論議するな!」と呼ばわる声を聞くのである。将校は言う、「君達は論議するな、教練せよ!」。財務官は言う、「君達は論議するな、納税せよ!」。聖職者は言う、「君達は論議するな、信ぜよ!」」

 人類の啓蒙を阻止するような社会は、きわめて罪深い社会である。そうカントは訴える。

「私は言おう、――人類がこれからの啓蒙にあずかることを永久に阻止するために結ばれるような契約は絶対に無効である、よしんばその契約が最高権力により、国家により、また極めて厳粛に締結された平和条約によって確認せられようとも、それが無効であることには変りがない、と。」

 なぜか?カントは言う。

「啓蒙を進歩せしめることこそ、人間性の根源的本分だからである。」

 カントに言わせれば、人間が人間である限り、理性を働かせ自らを啓蒙することは、いわば義務であると言うべきなのだ。


2.「世界公民的見地における一般史の構想」(1784

 本論文において、カントは、人類史とは人間が自らの「理性」を進化させる過程であると主張する。

 そして言う。その結果、社会はやがて、「各自の自由が他者の自由と共存しうる社会」へといたるのであると。

 以下、本論文を構成する9つの命題を紹介しよう。

 第1命題は、人間本性の目的論的発展について。

「およそ被造物に内具するいっさいの自然的素質は、いつかはそれぞれの目的に適合しつつ、あますところなく開展するように予め定められている。」

 第2命題は、人類は個ではなく類において進化するという命題。

「人間(地上における唯一の理性的被造物としての)にあっては、理性の使用を旨とするところの自然的素質があますところなく開展するのは、類においてであって、個体においてではない。」

 第3命題は、人間は理性によって幸福を得るという命題。


「自然が人間に関して欲しているのは、次の一事である、すなわち――人間は、動物的存在としての機械的体制以上のものはすべて自分自身で作り出すということ、また人間が本能にかかわりなく、彼自身の理性によって獲得した幸福、或いは成就した完全性以外のものには取り合わない、ということである。」

 第4命題は、敵対関係こそが長い目で見て社会の合法的秩序を作り出すという命題。

「自然が、人間に与えられている一切の自然的素質を発展せしめるに用いるところの手段は、社会においてこれらの素質のあいだに生じる敵対関係にほかならない、しかしこの敵対関係が、ひっきょうは社会の合法的秩序を設定する原因となるのである。」

 第5命題は、各自の自由が他者の自由と共存しうる社会こそが自然の最高の意図であるという命題。

「自然が人類に解決を迫る最大の問題は、組織全体に対して法を司掌するような公民的社会を形成することである。組織において最大の自由が保たれ、従ってまたその成員のあいだに敵対関係が普ねく存在するが、しかしこの自由の限界が厳密に規定せられ、かつ守られていて、各自の自由が他人の自由と共存し得るような社会においてのみ、自然の最高の意図――すなわち、自然が人類に与えたところの一切の素質の開展が達成され得るのである。」

 第6命題は、しかし人間は、どうしても支配者を必要としてしまう動物だという困難についての命題。
  
「如上の問題は、 最も困難であると同時に、また人類によって最後に解決するべき課題である。この課題をちょっと思いみるだけでも現前する困難は、――人間は、同類であるところの他の人間のあいだに生活する場合には、支配者を必要とする動物だということである。」

 第7命題は、人類はやがて国際連合を作り出さねばならないという命題。

「かかる国際連合においては、どの国家も――従ってまた最小の国家といえども、その安全と権利とを、自国の威力や法的判決に求めるのでなくて、この大規模な国際連合(Foedus Amphictyonum)に、すなわち合一せる威力と合一せる意志とによって制定せられた法律に従うところの決定とに期待することができるだろう。」

 この命題については、後の『永遠平和のために』においてより詳細に論じられることになる(カント『永遠平和のために』のページ参照)。今日の国連が、このカントの構想に多くを負っていることはよく知られていることだ。

 第8命題は、人類は国内外において完全な組織を創設しなければならないとする命題。

「人類の歴史を全体として考察すると、自然がその隠微な計画を遂行する過程とみなすことができる、ところでこの場合に自然の計画というのは、――各国家をして国内的に完全であるばかりでなく、更にこの目的のために対外的にも完全であるような国家組織を設定するということにほかならない、このような組織こそ自然が、人類に内在する一切の自然的素質を剰すところなく開展し得る唯一の状態だからである。」

 第9命題は、「一般世界史」の試みは、自然の意図の実現促進の企てであるという命題。

「自然の計画の旨とするところは、全人類の中に完全な公民的連合を形成せしめるにある。かかる計画に則って一般世界史を著わそうとする試みは、可能であるばかりでなく、また自然のかかる意図の実現を促進する企てと見なさざるを得ない。」

 哲学的な「一般世界史」は、世界史の出来事を単に叙述することとは異なっている。

 哲学的な「一般世界史」、それは、歴史とは人間が理性を展開させるプロセスにほかならないことを洞察するものである。
 だからこそ、この洞察は、そのような歴史の営み(自然の意図)を促進するのに寄与するであろう。
 そうカントは言うのだ。

3.「人類の歴史の憶測的起源」(1786年)

 本論文は、聖書を手がかりに人類の起源を想像しようという試みだ。

 文字通り、カントの「想像力」の賜物にほかならないこの論文に、歴史的な実証性はほとんどない。カント自身、この論考は「ただの漫遊」にすぎないと言っている。

 それはともかく、まずカントは、人類史は1組の夫婦(要するにアダムとエヴァ)からはじまったと述べる。

 彼らは神によって、食べてはならないものを決められていた。

 しかしやがて、彼らには「理性」が芽生え始めた。そこで、食べてはならないものを食べればどうなるかと考え始めた。

「やがて理性が独立にはたらき始め、すでに食べた経験のある食物と、本能に結びついている器官とは別の器官――例えば、視覚器官がいつか食べたことのある品に似ていると思いなす新たな食物とを比較し、こうして食料に関する彼の知識を、本能に依る制限を超えて拡張しようと試みたのである」    
 
 禁断の果実を食べた理由を、欲望ではなく「理性」に見るのがカントの面白いところだ。

 さらにカントは続ける。

「ひとたび活潑にはたらき出した理性は、その影響力を性の本能の上にも及ぼさずにはおかなかった。〔中略〕それだから彼等が、イチジクの葉を綴り合せて腰に巻いたことは、理性が初期の発展段階におけるよりも、遥かに進んでいたことを示す成果にほかならない。」
 
 性欲もまた、人間は理性によってコントロールしたのだとカントは言うわけだ。

 さらに人間は、自身があらゆる動物界の頂点にいることを自覚した。

 しかし同時に、人間は自らの理性によって次のことをも知るのだった。

「およそ動物はもはや彼と同格の被造物ではなくて、彼自身の任意の意図を達成するために、随意に使用し得る浮段であり道具であると見なすようになった。ところでこのような考えは、他方においてこれと対をなす思想を(たとえおぼろげにもせよ)含んでいるのである、すなわち――彼はこのようなこと、をほかの人間に向って言うことは許されない、この人間とても彼と等しく自然の賜物に与り得る仲間と見なされねばならぬ、ということである。」

 カント道徳哲学の根本は、他者を「手段」としてではなく「目的」として扱えという命法にある(カント『道徳形而上学原論』のページ参照)。

 聖書の記述の中に、こうやって自身の哲学を捩じ込んでいくところは、近代哲学の王者カントの面目躍如と言うべきだろう。

 以上の話からカントが言いたかったのは、次の文章に端的に表されている。

「この過程は、善から始まって悪に趣くのではなくて、比較的に悪い状態からいっそう善い状態に向って次第に発展するのである。そして各人が、おのがじし分に随って力の及ぶ限りこの進歩に寄与することこそ、すなわち自然そのものによって人間に課せられた任務なのである。」

 人類は、アダムとエヴァの失楽園によってこの世界に投げ出されてしまった。

 しかしそれは同時に、人間の「理性」の芽生えと進歩の始まりでもあったのだ。

 わたしたち人類は、この進歩にこれからも寄与しなければならない。

 カントはそう主張する。

 理性とその進歩に大きな希望を託した、「近代」哲学の金字塔と言うべきだろう。


(苫野一徳) 



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