有島武郎『惜しみなく愛は奪う』


はじめに

 有島武郎43歳の時の作品。

 「惜しみなく愛は与える」と言ったパウロに対して、有島は、愛は惜しみなく奪うものであると主張する(もっとも、パウロのそのような言葉は実際のところ聖書には見当たらないらしい)。

 なぜか。

 自己は、絶えず自己増大をめがける自己愛的存在であるからだ。

 そのために、他者への愛がどれほど利他的な行為に見えても、その本質は、相手を自己の内部に取り込むことにこそあるのだ。

 本書の主張は、ほとんど以上のことに尽きる。

 しかしこれは、私には正直あまりにも青年的な主張であるように思われる。

 実際私も、学生時代、本書にはずいぶんと入れ込んだ時期があった。

 しかし今の私には、有島の主張は、自我が肥大化した思春期の悩める若者の自己問答以上のものには思われない。

 自己犠牲的な愛など本当は存在しないのではないか。私の心は、本当はエゴイズムでいっぱいなのではないか……。そのような、悩める若者の心情吐露を聞いているようだ。

 私の考えでは、愛は、それを愛と呼ぶ以上、単なる自我愛に還元されるものではない。哲学者としては、その本質をこそ、洞察しなければならない。

 と、それはともあれ、以下本書のポイントを紹介していこう。


1. 愛は与えるのではなく奪うもの

 有島はまず次のように言う。

人は愛を考察する場合、他の場合と同じく、愛の外面的表現を観察することから出発して、その本質を見窮めようと試みないだろうか。ポーロはその書翰の中に愛は「惜みなく与え」云々といった、それは愛の外面的表現を遺憾なくいい現わした言葉だ。愛する者とは与える者の事である。彼は自己の所有から与え得る限りを与えんとする。

 愛の現象ではなく本質を見よ。有島はそう言うわけだ。

 ではそれはどうすれば可能なのか。

 体験を深く省察することによってである。


本能を把握するためには、本能をその純粋な形に於て理解するためには、本能的生活中に把握される外に道はない。体験のみがそれを可能にする。」

 そうして彼は次のように結論する。

「私の体験は縦しそれが貧弱なものであろうとも――愛の本質を、与える本能として感ずることが出来ない。私の経験が私に告げるところによれば、愛は与える本能である代りに奪う本能であり、放射するエネルギーである代りに吸引するエネルギーである。

 表面的には、愛は惜しみなく与える行為であるように見える。しかしその実、それは相手を私に吸収し奪い取る行為なのだ。

 なぜか。有島は次のように言う。

私は私自身を愛しているか。私は躊躇することなく愛していると答えることが出来る。私は他を愛しているか。これに肯定的な答えを送るためには、私は或る条件と限度とを附することを必要としなければならぬ。他が私と何等かの点で交渉を持つにあらざれば、私は他を愛することが出来ない。切実にいうと、私は己れに対してこの愛を感ずるが故にのみ、己れに交渉を持つ他を愛することが出来るのだ。私が愛すべき己れの存在を見失った時、どうして他との交渉を持ち得よう。そして交渉なき他にどうして私の愛が働き得よう。だから更に切実にいうと、他が何等かの状態に於て私の中に摂取された時にのみ、私は他を愛しているのだ。然し己れの中に摂取された他は、本当をいうともう他ではない。明かに己れの一部分だ。だから私が他を愛している場合も、本質的にいえば他を愛することに於て己れを愛しているのだ。そして己れをのみだ。」

 私に根底的に備わっているのは、自己愛である。そして私は、この「私」を増大させようとして、相手を私の中に取り込もうとするのだ。

「アミイバが触指を出して身外の食餌を抱えこみ、やがてそれを自己の蛋白素中に同化し終るように、私の個性は絶えず外界を愛で同化することによってのみ生長し完成してゆく。」

例えば私が一羽のカナリヤを愛するとしよう。私はその愛の故に、美しい籠と、新鮮な食餌と、やむ時なき愛撫とを与えるだろう。人は、私のこの愛の外面の現象を見て、私の愛の本質は与えることに於ての可成り立つと速断することはないだろうか。然しその推定は根抵的に的をはずれた悲しむべき誤謬なのだ。私がその小鳥を愛すれば愛する程、小鳥はより多く私に摂取されて、私の生活と不可避的に同化してしまうのだ。


2. 無償の愛など詭弁

 以上から有島は、無償の愛などというものは詭弁であると論じる。

或はいうかも知れない。愛するということは人間内部の至上命令だ。愛する時人は水が低きに流れるが如く愛する。そこには何等報酬の予想などはない。その結果がどうであろうとも愛する者は愛するのだ。これを以てかの報酬を目的にして行為を起す功利主義者と同一視するのは、人の心の絶妙の働きを知らぬものだと。私はそれを詭弁だと思う。一度愛した経験を有するものは、愛した結果が何んであるかを知っている、それは不可避的に何等かの意味の獲得だ。一度この経験を有ったものは、再び自分の心の働きを利他主義などとは呼ばない筈だ。他に殉ずる心などとはいわない筈だ。」

 自らの命を投げ出して愛する人を守る行為も、有島に言わせれば、結局のところ相手と自分とを同一視しているからにほかならない。

場合彼が死ぬことは私が死ぬことだ。」


3. 愛と憎しみ

 有島によれば、愛と憎しみは表裏一体のものである。

「憎みとは人間の愛の変じた一つの形式である。愛の反対は憎みではない。愛の反対は愛しないことだ。だから、愛しない場合にのみ、私は何ものをも個性の中に奪い取ることが出来ないのだ。憎む場合にも私は奪い取る。」

「如何なるものも、或る視角から憎むべきものならば、他の視角から必ず愛すべきものであることに私達は気附くだろう。ここに一つの器がある。若しも私がその器を愛さなかったならば、私に取ってそれは無いに等しい。然し私がそれを憎みはじめたならば、もうその器ば私と厳密に交渉をもって来る。愛へはもう一歩に過ぎない。私はその用途を私が考えていたよりは他の方面に用いることによって、その器を私に役立てることが出来るだろう。その時には私の憎みは、もう愛に変ってしまうだろう。」


4. 自由結婚

 最後に有島は、両性の間に愛あるところ、結婚は制度に束縛されず自由におこなわれるべきだと主張する。


「愛のある所には常に家族を成立せしめよ。愛のない所には必ず家族を分散せしめよ。この自由が許されることによってのみ、男女の生活はその忌むべき虚偽から解放され得る。自由恋愛から自由結婚へ。」

(苫野一徳)

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エピクテートス『人生談義』


はじめに

 古代ローマにおける、元奴隷のストア派哲学者エピクテートス

 エピクテートス自身は書物を残さなかったが、弟子アッリアノスによって彼の語録が残されており、それが編まれて本書ができた。

 しかしほとんどメモのような断片も多く、読みにくといったらない。どこからどこまでがエピクテートスの言葉で、どこが弟子や対話相手の話なのか、判別するのに骨が折れる箇所も数多い。

 が、読み慣れるとかなり面白くもある。相当ユニークな人だったことも伝わってくる。

 「意志の力ではどうしようもないことに頓着するな」

 これが本書のメインメッセージだが、確かにこのことを少し意識しておくだけで、私たちはいくらか生きやすくなるかもしれない。


1.頓着するな

 まず、いかにもエピクテートスらしい対話を紹介しよう。

 いらぬことに腹を立てるなとエピクテートスは言う。


「なぜわれわれは立腹するのか。それはわれわれから奪い去れる事物を、われわれが尊重するからである。だから君の着物は尊重せぬがいい、そうすれば君は泥棒に腹を立てないだろう。妻の美しさを尊重せぬがいい、そうすれば姦夫に腹を立てないだろう。

 これに対する弟子の疑問と、エピクテートスの答えが続く。

「しかし暴君は縛るでしょう。」
「なに? 足をだろう。」
「いやちょん切るでしょう。」

「なに? 首をだろう。すると何を彼は縛りもしなければ、ちょん切りもしないだろうか。それは自由意志をだ。

 何事も、頓着しなければ腹が立つことなどないのだ。


2.権外のことには大胆であれ。権内のことには細心であれ

 では、私たちが頓着すべきでないものとは何なのか?

 エピクテートスは言う。

「意志外のもののある処では、君は大胆であれ、だが意志的なもののある処では、細心であれ」

 意志ではどうしようもないことについて、頓着したところで仕方ない。だから常に大胆であれ。

 しかしその逆に、意志によって変えることができるものについては、細心の注意を払うべきである。

 エピクテートスはそう言うわけだ。

 たとえば「死」は、私たちの意志によってどうすることもできないものだ。

 それに対して「死」の恐れについては、私たちの意志で何とでもできる。

けだし死や苦労が怖いのではなくて、苦労や死を怖がることが怖いのだ。

「それでわれわれは死に対しては、大胆を向けるべきであり、死の恐怖に対しては、細心を向けるべきである。」

 こうしたことをよく理解している人を、エピクテートスは「教養ある人」と呼ぶ。そして言う。

「本当に教養ある人々にとって、最も美しく、最もふさわしくあるべきものは、平静であり、無畏であり、自由である。つまりこれらについては、自由人たちのみが、教養を受けることが許される、と主張している大衆を信ずべきではなく、むしろ教養ある人々のみが、自由である、と主張する哲学者たちの方を信ずべきである。」

 この「意志外」「意志内」を、エピクテートスは「権外」「権内」とも呼ぶ。

「不安がっている人を見ると、私はいうのである、この人は一体何を欲しているのだろうか、もし彼が何か自分の権内にないものを欲していたのでないならば、更にどうして不安になってるのだろうかと。だから竪琴を弾いてうたう人も自分独りでうたうならば、なるほど不安ではないけれども、舞台にあがると、たとい彼は非常に声がよく、そして見事にならしても、不安になるのだ。なぜかというに、彼はただ見事にうたいたいばかりでなく、拍子喝釆もされたいからである、だがこれはもはや彼の権内にはないのだ。」


3.哲学者から聴こうとする者は、それに値する者であれ

 ここで少し挿話を。

 ある時、エピクテートスの元に「もっと話を聞かせてください」と言ってきた者がいた。

 それに対してエピクテートスはこう言った。

「哲学者たちから聴こうとする人は、聴き方について、かなりな熟練が必要だ。」

 そして言う。

「私を君は刺戟しないからだ。というのは、素質のいい馬に騎手たちが刺戟されるように、君の何を見た時、刺戟されるだろうか。君の肉体を見た時か。君の肉体は格好が醜い。君の着物を見た時か。それも余り贅沢だ。君の態度や容貌を見た時か。何もこれという格別のものがない。君が哲学者の話を聴きたいのなら、彼に「あなたは何も云ってくれないのですか」などといわぬがいい。むしろ聴くことができる君自身を示し給え、そうすればいかに君はその話す人を動かすかわかるだろう。」


4.権外のものに対して大胆であるための練習

 さて、先述したように、エピクテートスは「権外(意志外)」のものに対しては頓着せず大胆であれと説く。

 しかしそれは、どのように修行すれば可能になることなのだろう?

 これについて、エピクテートスは次のような練習をせよと言う。

誰某の息子が死んだ。」
「それは意志外のものである、従って悪ではないと答えるがいい。」

「誰某がその父から遺産を相続した。君はどう思うか。」
「それは意志外のものである、従って悪ではない。」

「皇帝が彼に有罪を宣告した。」
「それは意志外のものである、従って悪ではない。」

「彼はそれらを苦に病んでいる。」
「それは意志的なものである、従って悪である。」

彼は立派に辛抱した。」
「それは意志的なものである、従って善である」

「息子が死んだ。何が起ったのか。」
「息子が死んだのだ。」
「その外は何でもないか。」
「何でもない。」

「船がなくなった。何が起ったのか。」
「船がなくなったのだ。」

「彼は牢獄に入れられた。何が起ったのか。」
「彼が牢獄に入れられたのだ。だが「不幸だ」ということは各人が自分で附加するのである。」

 あるいは次のようにも言う。

この勉強を朝から晩までやらなくてはならない。最も些細なもの、最もこわれやすいもの、すなわち壺やコップから始めて、次にこのようにして下着、小犬、小馬、それからちょっとした地所へと進むがいい。ここから君自身、肉体、肉体の部分、子供、妻、兄弟へと進むがいい。到る処よく見まわして、君自身から〔それらのものを〕棄て去るがいい。考えを清めて、何か君のものでないものが、君にくっついていないように、君のものと一緒に大きくならないように、またなくなった時に、君に苦痛とならぬようにするがいい。そして君は毎日、ちょうど学校で練習しているように練習していても、僕は哲学しているなどといわぬがいい、(それは僭越な言葉だ、)むしろ奴隷状態から解放してくれる人(哲学の先生)を求めているのだというがいい。というのはこれこそ本当の自由だからである。」


5.哲学するとは、心構えをしておくこと

 以上のように、エピクテートスによれば何事にも動じない心を身につけることこそ「哲学する」ということの意味である。

だが哲学するということはどういうことなのか。出来事に対して心構えをして置くことではないか。そうすると「もし私が出来事を静かに堪える心構えができてるならば、何でも生起するがいい、」と何かこのようなことを君がいってることになるのが、君はわからないか。

「今熱病にかかる時であるならば、立派にかかるがいい。渇くべき時ならば、立派に渇くがいい、飢えるべき時ならば、立派に飢えるがいい。それは君の権内にあることではないか。誰が君を妨げるだろうか。いや、医者は飲むことを禁止する事たろうが、立派に渇くのを禁止することはできない。また食うのを禁止するだろうが、立派に飢えるのを禁止することはできない。」


(苫野一徳)

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真木悠介(見田宗介)『自我の起源ー愛とエゴイズムの動物社会学』


はじめに

 人間的「自我」とは何か。それは、生命体の長い歴史において、いったいどのように誕生したのか?

 真木悠介(=見田宗介)は、この問いにあまりにもスリリングな仕方で挑む。

 まず参照されるのは、『利己的な遺伝子』で知られるリチャード・ドーキンスだ。

 生物は、遺伝子が自らを複製し続けるための乗り物である。

 今では広く受け入れられた説ではあるが、見田はこの説を大筋では受け入れながら、しかし人間は、そのような自然(遺伝子)の摂理からの「二重の超越」を果たしたのだと主張する。

 第1に、わたしたちは、必ずしも遺伝子を残すことにこだわらない、生物学的な意味での「エゴイスティック」な自我であるという点において。

 さらに第2に、わたしたちは、この「エゴイズム」を乗り越え、真に「利他的」に生きることもできる存在であるという点において。

 前者を「エゴイズム」、後者を「愛」と呼ぶとするなら、わたしたちはこの超遺伝子的事実を、いったいいかに説明することができるのか?

 1992年当時の最先端の社会生物学、動物行動学、進化生物学等の研究を自家薬籠中のものとしながら、真木は独自の理論を展開していく。

 それはすべて、仮説の上に仮説を重ねたものである。おそらく十分に検証することも難しい。下手をすれば、いくらかオカルトな印象さえ与えかねない。

 しかし真木は、その博識と独創とをもって、人間存在の深奥をどこまでも真摯に考え抜こうとする。その情熱と気魄は、さすがは現代日本が誇る天才学者の面目躍如と言うべきだ。

 縦横無尽に繰り広げられる真木(=見田)ワールドを、存分に堪能することができる名著である。


1.動物の利他行動

 真木は、まず『利己的な遺伝子』の著者リチャード・ドーキンスらの説を参照しつつ、動物たちの一見「利他的」に見える行動が、遺伝子の自己複製という水準によって統一的に理解されることを述べる。


「たとえばミツバチのワーカーは遺伝子の12しか共有しない自分自身の子を産むよりも,遺伝子の34を共有する妹たちを育てた方が, より多くの自己遺伝子を再生産する. ミツバチがそう「考えて」行動を選ぶのではない。そのような行動性向をプログラムされた個体を形成するような遺伝子の方が, そうでない遺伝子と比して有利に(高い確率で)増殖するので,結果としてこのような「利他性」をもつ個体が増加するという方向に,進化の連鎖が進行するのだ.」

 要するに、動物たちの一見自己犠牲的な「利他的」行為も、遺伝子レベルで見れば、それが最も「利己的」な行為であることが理解できるのだ。


2.ドーキンス批判

 もっとも、真木はここでドーキンスの初歩的な誤りについても指摘している。

第1にドーキンスが遺伝子レベルの「利己性」と,個体レベルの「利己性」を混同していること.
 第2にドーキンスが,上位システムの創発的emergentな自律化と,それによるシステムのテレオノミー的々重層化(後述)を理論化していないことである.

 第2については後述するとして、第1について見てみると、真木によれば、ドーキンスや彼のフォロワーたちは、個体的な利己性と遺伝子レベルの利己性とを混同しているきらいがあるという。

 つまり、生物が「利己的」な行動を取るのは、そもそも遺伝子が利己的であるからだと彼らは考えるのだ。

 しかし、生物はまさに文字通り「利他的」な行為を取ることがある。とりわけ人間は、それが遺伝子の自己複製にまったく資することがなかったとしても、「利他的」な行動を取ることがある。

 わたしたちは、個体レベルの利己性と遺伝子レベルの利己性を混同してはならないのだ。

 そこで人間の利他性について見てみよう。

 真木はこれを「二重の超越」と呼ぶ。

 まず、人間のエゴイズムは、考えてみればきわめて高等な能力である。と言うのも、それは自身の遺伝子的な使命を否定する行為であるからだ。

エゴイズムはむしろ高等な能力である.産卵死する宿命を拒否し,大海にひとり悠然と遊ぶ紅鮭はいるか.」

 さらにその上、人間はこのエゴイズムを超越することもできる生物である。

人間の主体性は,エゴイズムとは反対の方向に,つまり遺伝子が方向づけている限定された利他性ではなく,純粋の他者や他種の個体にさえ向けられた愛という方向に超越することもできる.それは二重の超越である.つまり第1に,その身体を形成している遺伝子たちの決定論からの「個体の自立化であり,第2にこの「個体」水準の自己絶対化からの自己超越である.

 これは、ヘーゲル弁証法言うところの「否定の否定」の論理と同じものと言えるだろう。

 人間は、まず自身の遺伝子的自然を否定して、個体的エゴイズムを獲得した。しかしその上でさらに、このエゴイズムを否定して、真の利他性に達することもまたできるのだ。


3.生成子

 続いて真木は、遺伝子の悠久の旅を追いながら人間的「自我」の起源に迫ろうとする。

 まず彼は、ここで遺伝子のことを「生成子」と呼びなおす。その理由は次のように語られる。

「「遺伝子」とはgene に対して,個体中心主義的なドグマから翻訳された日本語である〔再翻訳すればtransmitter〕.つまり個体の何かの形質を次世代の個体に遺し伝える「ための」メディアという考え方だ.〔中略〕しかし西欧のgeneGen, gène)は幸いに,「生成するもの」という中立的な,(個体に先立つ自立性としても把握されうる)原意を保存している.命名者ヨハンセンは,当時まだ正体不明のこの因子に対して,余計な意味の倍音が生じないように,意図的にこの「裸の接尾語」を選んだと記しているという.現在の視点に立つなら,それは志の語の直訳である「生成子」とでもよぶべきものである.」    

 生成子について考えるに当たって、真木は、すべての竹が地下茎でつながり合っている竹林や、同じく地下茎でつながり合ったクローバー畑などの例を挙げる。

 さらに彼は次のような例も紹介する。

「生物の「個体」というユニットがふつう考えられているほどに自明なものでないことは,今日では生物学者でない人びとにもよく知られている.一方にはアリやミツバチの「社会」を,一個の個体と考えるという着想もある.アリのワーカーや兵隊たちの全き「無私」の行動も,女王を生殖器としワーカーや兵隊をその肢体とする「個体」を考えれば納得しやすい.われわれがとっさの危機に顔面を肘でかばって防ぐとき,肘が目のために「利他行動」をしていると考える人はいないからである.」

カツオノエボシは一匹のクラゲのように浮遊するが,クダクラゲの群体である.

「海綿の集塊は「個体とも群体とも呼ばれ,明らかに組織レベルで中間段階にある.

 生物において、「個体」は必ずしも1つの1つの個体レベルで考えられる実体ではないのだ。


4.個体性の起源

 では、わたしたち人間のような「個体」はいったいどのように誕生したのか?

 ここで真木は、マーグリス『細胞の共生進化』を次のように要約し思考の拠り所とする。

 1.最初の生物は,非生物的につくられた有機物を食物としてエネルギーを得た.

 2しかしこの非生物的な有機物は,やがて食べつくされて不足する.

 3.生物は炭素とエネルギーを自分でつくり出す方法を探る.最初に無機物からエネルギーと必要な有機物をつくったのは,メタン生成微生物だったけれども,やがて太陽光を利用して,大気中の炭酸ガスを有機化合物に変える「光合成」が発明された.

 4.光合成をする細菌は最初,硫化水素を使って硫黄を出したりしていたが,やがて地球上の最大の資源=を利用するタイプが現れる.光と水と炭酸ガスさえあれば繁茂するこの青いバクテリア(シアノバクテリア=「藍藻」)は圧倒的な成功を収め,昔の地球の地表を覆う.

 5.この卓抜な生物の唯一の根本矛盾は,その頃のすべての生物と同様,酸素が多いと生きられないのに,水を使う光合成はこの毒物=酸素を放出することである.青いバクテリアの大繁栄自体によって,大気中の酸素の濃度は,本来の0.0001 %から,21%にもなった!「これは地球に起こった最大規模の汚染である.」20億年前のことである.

 6.全地球的規模のこの公害に多くの生物が死滅した.全生物がこの酸素への抵抗力の獲得を試行錯誤する中で,ついにこの毒を逆利用し,酸素自身からエネルギーをつくり出す「呼吸」機構をもつバクテリアが現れる.「呼吸とは要するに有機物を酸化して炭酸ガスと水に変え,大量のエネルギーをひき出す反応である.」

 7ある微生物はこの魅力的な他者を愛するあまり,体内に取りこんでしまう.この共生関係の調和が. 「2元ゲノム性の」細胞という複合生物をうみ出すにいたる.このように他の生物中に取りこまれた呼吸生物が,ミトコンドリアである.

 8さらにある微生物は,スピロヘータと連合して運動性を獲得する.

 9このような,宿主生物,呼吸生物(ミトコンドリア),スピロヘータ(鞭毛・繊毛等々)という3つの異なるゲノムを含む共生体が1つの生物体として,真核細胞を形成するにいたる. 〔動物は,この共生体がさらに多細胞化したものである.

 10さらにこの共生体に,光合成する生物が取りこまれたものが,光合成真核細胞である.光合成生物はこの共生体の内部で,葉緑体,その他の色素体となる. 〔植物は,この系列の共生体が多細胞化したものである.

 以上をもとに、真木は次のように言う。


「われわれ自身がそれである多細胞「個体」の形成の決定的な歩は,みずから招いた地球環境の危機に対処する原始の微生物たちの共生連合であり,つまりまったく異質の原核生物たちの相乗態としての真核細胞の形成である.この〈真核細胞が,相互の2次的な共生態としての多細胞生物「個体」の,複雑化してゆく組織や器官の進化を可能とする遺伝子情報の集積体となる.個体という共生系の形成ののちも,その進化的時間の中で,それは数知れぬ漂泊民や異個体からの移住民たちを包容しつつ変形し,多様化し豊饒化しつづけてきた. 「私」という現象は,これら切の不可視の生成子たちの相乗しまた相剋する力の複合体である.    

 わたしたちの「個体」は、原始生命の時代から連綿とつづく、あらゆる生成子からなる複合体である!

 これが真木のさしあたっての結論である。わたしたちの内部には、いわばあらゆる生命があらかじめ住み込んでいるのだ。


5.主体性の起源

 これまで見てきたように、生物は本来、利己的な生成子の乗り物であるはずだ。

 ところが人間は、生成子を後世に残さないという選択を主体的に取ることがある。そうして自分1人の生を楽しむことがある。

 それはいわば、産卵のために川を遡上することを拒否した鮭のようなものである。

 このような主体を、真木は「テレオノミー」的な主体と呼ぶ。生成子の複製のためではなく、自分自身の目的を持ち、その目的のために生きる主体のことだ。

 このような主体の誕生には、おそらく次の4つの条件があると真木は見る。

1.哺乳、2.保育期間の延長、3.学習能力とシミュレーション能力、4.群居と社会性、である。

 一般に、哺乳類以外は生殖年齢をすぎるとすぐに死ぬ。これはまさに、個体が遺伝子の乗り物であることを象徴している。

 しかし哺乳類は、哺乳と保育の必要から、子どもを生んだあともしばらく生き続ける。

 真木はここに、テレオノミー的な主体が生じる1つの条件があると言うのだ。

 さらに、学習しなければ生きていけないことや、何より社会に生きる存在であるということが、人間をテレオノミー的な主体へと展開せしめたと真木は言う。


6.エクスタシー

 さて、ところが人間は、このテレオノミー的な、つまりエゴイスティックな「個体」であることを、時に自ら否定することができる存在である。

 それはいったいなぜなのか?

 このことを考えるにあたって、真木はまず次のようなことを述べる。

生成子が他の個体に働きかける最もすぐれた方法は,働きかけられる他個体が歓びをもって,すなわち能動的な「熱意」をもって,利他行為を行ってくれるように形成することであった.〔中略〕かんたんにいえば「愛される」個体をつくりあげる力をもった生成子こそが勝ち残る.」


「小さい子供の「かわいさ」に思わず貴重な食物や時間を割いてしまったからといって, 「操作された」という屈辱や不幸を感じる人はいない.

 生成子は、「愛される」個体を作り上げた時に勝ち残る。

 その1つの現れとして真木が着目するのが、フェロモンアロモンカイロモンである。

 フェロモンは、よく知られているように同種間の関係性物質だ。

 それに対してアロモンやカイロモンは、異種間における関係化学物質である。

「異種間の関係化学物質をブラウンとアイスナーはアロモンと名づけ,のちにこのうち,発信者にとって適応的なものをアロモン,受信者にとって適応的なものをカイロモンとした.」    

 アロモンやカイロモンは、種の異なる生物を何らかの仕方で惹きつけるのだ。

「アロモンやカイロモンは現在のところ,ごく密接に適応し合っているいくつかの種間で確認されているだけだけれども,次第に一般的な現象として認知される可能性は大きいと思う.森林浴の「大気のビタミン」,発散されるテノレペン類等の中には,治癒,強壮,生長,敏活化等々の作用が実験的に検出されている.芳香も放つ.植物が未知の必要のために動物たちを引きよせるカイロモンが存在するかもしれない.」    

 真木は、ここにエクスタシーの秘密があるのではないかと考える。

「われわれの経験することのできる生の歓喜は,性であれ,子供の「かわいさ」であれ,花の彩色,森の喧噪に包囲されてあることであれ,いつも他者から〈作用されてあること〉の歓びである.つまり何ほどかは主体でなくなり,何ほどかは自己でなくなることである.」

Ecstasyは,個の「魂」が,〔あるいは「自己」とよばれる経験の核の部分が,〕このように個の身体の外部にさまよい出るということ,脱・個体化されているということである.」

 人間「個体」は、あらゆる生命の生成子を自らのうちに持った存在であり、そしてそれゆえにこそ、さまざまな「他」なるものと、フェロモンやアロモンやカイロモンを通して通じ合うことができる。

 この脱・個体化こそ、エクスタシーの正体にほかならない。

 真木はそう言うわけだ。


7.まとめ

 最後に本書のまとめを引用しておこう。簡潔に知りたい方は、青字の引用を飛ばして、黒字の要約部分だけをお読みいただければと思う。

第1にわれわれの〈個体〉という存在仕方は,生成子たちの永劫の転生の旅(eternal caravan of reincarnationの一期の宿として,そして幾十万という生成子たちがそこに来会し集住する共生態として派生してきた.個体は共生系である.われわれの身体はこの共生する生成子たちの再生成によりふさわしいような仕方で,幾億年来たゆみなく進化してきた.」

 人間の個体は、あらゆる生成子からなる共生系である。

「第2に,けれどもこの〈個体〉というシステムはそれがいったん形成されるや,進化の派生的自立態として主体化する.〔中略〕とりわけ脳神経系の高度化は,おそらく社会性を前提とする個体の対他的意味の多次元化と共に,個のテレオノミー的な主体化を出現するまでに至る。とはいえ〈個体〉のこの目的論的な自立化の進化の日付は以外に新しく,ヒトという種の出現をまってはじめて確立するもののように思われる.」

 しかし種々の条件から、人間はテレオノミー的な主体を実現した。

「第3に,けれども個体は形成され主体化された後も,この幾重もの「自己化」の装置にもかかわらず,なお幾重にも外部の生成子たちに向かって開かれている.〔中略〕「高度化」した個体は次第に自己の自己性を明確にするが,なおフェロモンやアロモンやカイロモンおよび,それらと等価な視覚的,聴覚的感覚交信を媒介として共生する.他者たちのテレオノミーの回路の内にも自己をおく.あらゆる他者たちや動物たちや植物たちがわれわれの身体にその遠隔の作用をおよぼし,身体がそれらと共に在ることに,時にはそれらの〈ために〉行動することにさえ歓びを感ずるように構成している.」

 しかしなお、この「個体」は他のさまざまな生命とつながり合っている。

「第4に〈個体〉がそれ自体派生的なものの自立化,自己=目的化であるということは,個体というユニットもまたみずからを超えたものに向かって,テレオノミー的に開かれた存在であるということである.

 それゆえ人間「個体」は、常にこのエゴイスティックな自我を超越しうる存在なのである。


「このように〈個体〉のテレオノミーは非一義的であり,重層的に非決定である.〈私は何のために生きるか〉という問いへの答えは,〈個体〉のこのような起原に由来する非決定=脱根拠性,あるいは重層・交錯根拠性のために,やがて人間の〈文化〉をとおしての選択が,ほとんど際限もないまでに多様であるように開かれている.

(苫野一徳)

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