ニーチェ『この人を見よ』


はじめに

 ニーチェ最後の自伝的著作。

 「この人を見よ」(Ecce homo)は、言うまでもなく聖書の言葉。

 ローマ帝国のユダヤ総督ピラトが、逮捕されたイエス・キリストを指して言った言葉だ。

 自身を、キリスト教を打ち倒し、それに代わる価値を打ち立てた哲学者と考えたニーチェらしいタイトルだ。

 各章のタイトルは、「なぜ私はこんなに賢いのか」「なぜ私はこんなに利口なのか」「なぜ私はこんなに良い本を書くのか」「なぜ私は運命であるのか」と続く。

 これだけを読めば正直失笑を禁じ得ないのだが、ニーチェの哲学には、そのような大言壮語が許されてしまう説得力が確かにある。

 ニーチェの哲学は、確かにそれ以降の哲学に根本的な変化をもたらした。

 次のニーチェの傲岸な言葉も、だから素直に受け止めてあげることにしよう。

「私は私の運命を知っている。いつか私の名前には、とてつもない出来事についての記憶が結びつくだろう。」   
 

1.なぜ私はこんなに賢いのか

 本章では、ニーチェの天才の秘密が語られる。

 ニーチェによれば、それは彼が「命の最上段と最下段のパースペクティブを自由に切り替える」ことができることにある。

 36歳の時、深刻な病気に見舞われた彼は、しかし本当の意味で病むことなどなく、むしろより広いパースペクティブを手に入れたと言うのだ。

「病人の光学によって、より健康な概念と価値を調べてみること、そして今度は逆に、豊かな生の充実と自己確信から、デカダンスの本能のひそかな仕事を見下すこと——そういうことを私は、長い時間をかけて練習し、自分自身で経験した。もしも私がなにかの達人になったのなら、それは、ースベクティプを切り替えることにおいてである。いま私はこのことをマスターしており、このことを自在にできるのだ。」    

「典型的に健康な人間にとって、病気であることは、生きようとさせる、もっと生きようとさせるエネルギッシュな興奮剤にすらなることがある。今では実際、私には当時の長い病気の時代がそんなふうに思える。つまり私は、生というものを、私自身をも含めて、いわば新たに発見したのだ。〔中略〕私の生命力が最低だった数年こそが、私がペシミストであることをやめた時期だったのである。自己回復の本能が、私に貧しさと落胆の哲学を禁じたのだ。」    

 病気のおかげで、ニーチェは、ルサンチマン(妬み、嫉み、恨み)についての理解を深めることができるようになったとも言う。

「怨恨感情に縛られていないこと、ルサンチマンのことをよく知っていること——結局このことも、じつはなんと、私が長いあいだ病気だったおかげなのだ!」    

 強者にルサンチマンを抱く弱者は、「強者は悪である」「弱者は善である」という転倒した価値観を作り出す。

 後述するように、ニーチェにとってキリスト教とはそのようなルサンチマンの宗教にほかならないわけだが、そのような洞察もまた、彼は病気のおかげで得ることができたと言うのだ(ニーチェ『道徳の系譜』のページ参照)。

 そのような、ルサンチマンとは正反対の高みにいると自負する「強者」ニーチェは、だからこそ、キリスト教をはじめとする強大な敵たちと戦ってきた。

 ニーチェは言う。自分はだれかれ構わず攻撃してきたのではない。攻撃するに値する、強大なものとだけ戦ってきたのだと。

「敵と対等であること——それが、誠実な決闘の第1の前提である。自分が軽蔑している相手とは、戦うことができない。自分が命令するような相手とは、自分が見下しているようなものとは、戦う必要がない。私が実施する戦いは、4つの要項にまとめることができる。まず第1に、私が攻撃するのは、勝ち組だけだ。——場合によっては、相手が勝ち組になるまで、私は待つ。第2に、私が攻撃するのは、私と同盟を結ぶ者がいないときだけである。つまり、私が孤立無援のときだけだ。——面目をつぶすのが私だけのときである。……私の面目をつぶさないようなときに、私は公に一度も攻撃したことがない。これが、正しい行動についての私の判断規準である。第3に、私はけっして個人を攻撃しない。——強力な拡大鏡として個人が使えるときにしか、攻撃の対象にしない。」    


2.なぜ私はこんなに利口なのか

 続いて、「なぜ私はこんなに利口なのか」の章。

 その理由は、まず、問うに値しないくだらない問いには見向きもしなかったからだとニーチェは言う。

「「神」、「魂の不滅」、「救い」、「彼岸」、これらは、私が注意を払ったこともなければ、時間を割いたこともない概念ばかりだ。」

「それとはまったく別の問題に私は興味がある。どこかの神学者の骨董品のような問題よりは、ずっと「人類の幸せ」にかかわることだ。栄養の問題である。」

 神とか彼岸とかについて考える連中は、内臓を病んだルサンチマンの僧侶たちである。

 そんなものにかかずらっている暇があれば、たっぷりと栄養をとってルサンチマンを克服せよとニーチェは言う。

「すべての偏見は、内臓からやってくる。」    

 多くの学者どもも同じだ。彼らは「本をひっかき回している」だけで、自分の頭でものを考えない。

「要するに本を「ひっかき回している」だけの学者は——並みの文献学者なら1日で約2百冊だが——、結局、自分の頭で考えるという能力をすっかりなくしてしまう。本をひっかき回さないときは、考えないのだ。考えるときは、刺激(——つまり本で読んだ思想)に答えるわけだが、——結局それは、反応しているだけのことである。学者は、すでに誰かが考えたことにイエスやノーと言うこと、つまり批評することに、全力を使ってしまうので、——自分ではもう考えないのである。    

 真に利口であるためには、「運命愛」を抱くことが重要だとニーチェは言う。

 こうじゃなければよかったのに、あんなはずじゃなかったのに、などと、現実を嘆き否定ばかりするのはルサンチマンを抱える弱者である。

 どのような運命に対しても「然り」ということ。そのような人間こそが、利口で幸福な人間なのだ。

「人間の偉大さをあらわす私の公式は、運命愛()である。どんなことも今とは別なふうであることを望まないことだ。未来においても、過去においても、永遠においても、けっして。必然的なことに耐えるだけではなく、必然的なことを隠したりもしない。——どんな理想主義でも、必然的なことの前では偽物になる。——耐えたり隠したりせず、必然的なことを愛するのだ。」    

 
3.なぜ私はこんなに良い本を書くのか

 自分の本は、これまでしばしばひどい誤解にさらされてきたとニーチェは言う。

 というのも、人間は自分の物差しでしか人を測ることができないからだ。

「結局のところ誰も、自分がすでに知っている以上のことを、本も含めて、いろいろなものから聞き出すいことはできない。自分の体験から近づくことができないものについて、われわれは聞く耳をもたない。」

「だから、私とは正反対のニーチェ像が、たとえば「理想主義者」が仕立てられることも、めずらしくない。」

 しかし偉大な思想は、偉大な読み手を必要とする。そして偉大な思想には、それにふさわしい文体がある。

「良い文体であれば、かならず、内的状態を本当に伝えている。〔中略〕良い文体そのもの——などというものが存在すると考えるのは、まったく愚かな話である。「観念論」にすぎない。たとえば「美そのもの」とか、「善そのもの」とか、「物自体」とか。……あいかわらず前提とされているのは、聞いてくれる耳が存在していることだ。——著者と同等のパトスに耐える能力と気品をそなえた人が、存在していること。著者が自分の書いたことを伝えてもよいと思えるような相手が、いること。」    

 以下、ニーチェは自身の著作の数々を自ら解説していくのだが、ここでは割愛することにしたいと思う。


4.なぜ私は運命であるのか
 
 「すべての価値の価値転換」

 これがニーチェの最大の仕事だった。

 それはつまり、ルサンチマンの宗教から超人の哲学への転換だ。

 善とは利他的であることである、と言う者たちが、実はルサンチマン(奴隷道徳)を抱えた弱者であることを暴くこと。

「私がしゃべっているのは真理である。——だが私の真理は恐ろしい——というのもこれまではが真理と呼ばれていたのだから。——すべての価値の価値転換。これが、人類にとって最高の自覚という行為をあらわす、私の公式である。その行為が、私のなかでは肉となり、天才となったのだ。私の運命は欲している。私が最初のまともな人間でなければならない、と。また私が何千年もの偽りと戦っていることを自覚している、と。……私は、はじめて嘘を嘘だと感じた——嗅ぎつけた——ことにより、私がはじめて真理を見したのだ。」    

 キリスト教を、これほど根本から否定・誹謗した者が他にあっただろうかとニーチェは言う。

「これまではキリスト教の道徳を自分の下位にあると感じていた者はいなかった。そう感じるためには、高さが、見通しが、これまで聞いたことのないような心理学的な深さや底知れなさが必要である。キリスト教の道徳は、これまではすべての思想家にとって魔女だった。——すべての思想家は魔女に仕えていたのだ。——私の前に誰が、このような——世界を誹謗する!——理想の毒気が立ちのぼってくる洞穴のなかへ降りていったか? 誰が、それが洞穴であるということを、せめて予想くらいはしようとしただろか?」    

 魂、精神、神、彼岸、隣人愛……これらはすべて、ルサンチマンの持ち主たちによるでっち上げである。

「たとえば、生にとって最優先すべき本能を軽蔑するように教えてきた。からだを侮辱するために、「魂」や「霊」や「精神」をでっち上げた。生の前提、つまり性を不潔なものと感じるように教えた。成長のためにはもっとも深く必要なものである、断固とした自分欲(——この言葉からして中傷的なひびきがある! ——)を悪い原理だと見なそうとしている。そして逆に、下降と反本能の典型的なしるし、つまり無私や、重力の喪失や、「脱人格化」や「隣人愛」(——隣人だ!)には高い価値、それどころか! 価値そのものがあると見ているのだ! ……なんということだ! 人類は自分でデカダンスに陥っているのか? 人類はいつもデカダンスだったのか? ——確かなことは、人類にはデカダンスの価値だけが、至上の価値として教えられてきたということである。」    

 最後にニーチェは言う。

「最後に——これが一番恐ろしいことだが——善人という概念においては、すべての弱者、病人、出来そこない、自分自身に苦しんでいる者が支持されている。滅ぶべき者がすべて支持されているのだ。——自然選択の法則が十字架にかけられている。誇り高く、出来のよい人間、イエスを言う人間、未来を確信し、未来を保証する人間に対する異議から理想がつくられている。——異議を申し立てられた人間のほうが、いまや悪人と呼ばれているのだ。……そしてこれらがすべて道徳だと思われているのである! ——このけがらわしいものを踏みつぶせ!」    


(苫野一徳)

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マルクス・アウレーリウス『自省録』


はじめに

 第16代ローマ皇帝にして、後期ストア派の哲学者でもあったマルクス・アウレリウス(121−180)。

 本書は、古代ローマの「人生訓」とでも言えるだろうか。

 書かれていることは、彼の前時代のストア派の哲学者、エピクテートスの思想とさして変わり映えはしない(エピクテートス『人生談義』のページ参照)。

 しかし、皇帝自らこのような書を著し、またその内容に忠実に生きようとした生き様に、心打たれる思いがする。

 思い通りにならないことにこだわるな。自らの欲望に対して泰然自若とせよ。

 現代なお、学ぶべきものの多い「人生訓」だ。


1.今を生きよ

 まず、マルクス・アウレリウスは本書で「今を生きよ」と何度も強調する。

 過去や未来は、わたしたちにどうこうできるものではない。だから大切にすべきは「今」なのだ、と。

「記憶せよ、各人はただ現在、この一瞬間にすぎない現在のみを生きるのだということを。その他はすでに生きられてしまったか、もしくはまだ未知のものに属する。ゆえに各人の一生は小さく、彼の生きる地上の片隅も小さい。またもっとも長く続く死後の名声といえども小さく、それもすみやかに死に行く小人どもが次々とこれを受けついで行くことによるにすぎない。その小人どもは自己を知らず、まして大昔に死んでしまった人間のことなど知る由もないのである。」    


2.他人を気にするな

 人のことをとやかく言うな、気にするな、というのも、彼が繰り返し説く教えだ。

「特に必要な場合や公共のための場合を除いては、他人が何をいい、何をおこない、何を考えているかについてめったに考えもしないようにする。」 

   
3.何も気にするな

 さらに、他人の悪口や評価だけでなく、何事も気に留めるなとマルクスは言う。

「君が自分の義務を果すにあたって寒かろうと熱かろうと意に介すな。また眠かろうと眠りが足りていようと、人から悪くいわれようと賞められようと、まさに死に瀕していようとほかのことをしていようとかまうな。」    

 人は、悩み事などがあるとすぐ田舎や大自然の中に逃げ込もうとするが、それは愚かなことだともマルクスは言う。

 なぜなら、わたしたちはいつでも自分の内に引きこもることができるから。

「人は田舎や海岸や山にひきこもる場所を求める。君もまたそうした所に熱烈に憧れる習癖がある。しかしこれはみなきわめて凡俗な考え方だ。というのは、君はいつでも好きなときに自分自身の家にこもることができるのである。実際いかなる所といえども、自分自身の魂の中にまさる平和な閑寂な隠家を見出すことはできないであろう。」    

 「損をした」などとも思うなとマルクスは説く。そんなことに精神を病むなど愚かなことだ。

「「自分は損害を受けた」という意見を取り除くがよい。そうすればそういう感じも取り除かれてしまう。「自分は損害を受けた」という感じを取り除くがよい。そうすればその損害も取り除かれてしまう。」    

 もし「損をした」と思ったとしても、相手に同じような損害を与えようなどとは決して思うな。

 次の言葉は含蓄深い。


「もっともよい復讐の方法は自分まで同じような行為をしないことだ。」


4.すべてのものはつながっており、友好的である

 すべてのものは、互いにつながり、支え合い、したがって友好的な関係にある。

 これもまた、マルクスの根本的な思想である。

「宇宙の中のありとあらゆるものの拡がりと相互関係についてしばしば考えてみるがよい。ある意味であらゆるものは互いに組み合わされており、したがってあらゆるものは互いに友好関係を持っている。なぜならこれらのものは、〔膨脹収縮の〕運動や共通の呼吸やすべての物質の単一性のゆえに互いに原因となり結果となるのである。」    

 だから何を悩むことがある、とマルクスは言う。結局のところ、わたしに対して敵対的なものなど何もないのだ。


5.すべては主観

 すべては主観であって、それゆえわたしたちの物の見方は考え方ひとつでなんとでもなる。

 マルクスはそのようにも言う。

「すべては主観であること。犬儒学派のモニモスに帰せられている言葉は明白である。またこの言葉の有益な点を、その真実であるかぎり受け入れるならば、その効用も明白である。」    

「君の想念を抹殺してしまえ、その際絶えず自分につぎのごとくいいきかせるがよい。「いま自分の考え一つでこの魂の中に悪意も色情も、心を乱すものはいっさい存在しないようにすることができるのだ。また万物をあるがままの姿で見きわめ、各々その価値に応じて遇することができるのだ」と。    

「君は多くの無用な悩みの種を切りすてることができる、なぜならばこれはまったく君の主観にのみ存在するからである。」    


6.欲望に対して泰然自若とせよ

 わたしたちを苦しめるのは、わたしたち自身の欲望のせいだ。

 だから、己自身の欲望に対して泰然自若としていよとマルクスは言う。そしてその訓練をせよと。

 次の言葉もまた、なかなかに含蓄のあるものだ。

「ある人はこう祈る。「あの女と一緒に寝ることができますように」と。ところが君はこう祈るのだ、「あの女と一緒に寝る欲望を持たないことができますように」と。他の者は祈る。「あの人間を厄介払いできますように」と。ところが君は「厄介払いする必要を感じないことができますように」と祈るのだ。もう一人の人間は祈る。「どうか私の子供を失うことのないように」と。ところが君は「失うことを恐れずにいることができますように」と祈るのだ。要するに君の祈りにこういう傾向を与えて、どんなことになるか見ているがいい。」    


(苫野一徳)

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ベルクソン『笑い』


はじめに


 物事の本質を洞察する営みとしての哲学の、1つのお手本のような作品だ。

 「笑い」とは何か。それは、本来生気あるべき人間における、ある種の「強張り」に対する可笑しさである。

 ベルクソンはそのように言う。

 このことを、さまざまな実例を通してベルクソンは例証していくのだが、その試みはかなりの程度成功しているように思われる。

 もっとも、このベルクソンの「笑い」の理論は、これまで多くの哲学者によって批判もされてきた。

 たとえばバタイユは、その著『内的体験』において、ベルクソンをひどくこき下ろしている(バタイユ『内的体験』のページ参照)。

 もっとも、バタイユの批判は、ベルクソンに対してややアンフェアであるようにわたしには思われる。

 『内的体験』において、バタイユは自身の笑い(哄笑)に一種の恍惚体験を得て、それを言葉にしようと試みたのだが、本書におけるベルクソンのテーマは「可笑しさ」の本質解明であって、バタイユとはそもそもにおいて関心が異なっているからだ。

 ベルクソンの「笑い」の理論は浅はかであるというバタイユの批判は、だから我田引水にすぎるものであるようにわたしには思われる。

 と、それはともかくとして、しかしベルクソンの理論には、わたし自身もやや不満な点がある。

 「笑い」とは「社会的矯正・懲罰」である、という、彼の有名な主張に対してだ。

 人は、本来あるべき社会的文脈を逸脱した「強張り」の者を笑う。そのことによって、人は彼/彼女への懲罰を果たすのだ。

 ベルクソンはそう言うのだが、これは「そのような場合もある」という「笑い」(可笑しさ)のいわば側面的な話であって、本質とは言い難いもののようにわたしには思われる。

 しかしそれでもなお、本書におけるベルクソンの本質洞察は、底の底まで十分に行き当たっている。

 そして重要なのは、その成果が、読者が自ら確かめることが可能な仕方で叙述されているということだ。

 ベルクソンは、本書の成果をどこまでも読者の検証にゆだねているのだ。

 そしておそらくは、後続ランナーたちに、この洞察をさらに深化させてもらうことを願っているのだ。


1.人間的、無感動な平静、集団的

 まずベルクソンは、笑い(可笑しさ)における3つの基本契機を提示する。

 1つ目は、わたしたちは「人間的」なものにしか可笑しさを感じないということ。

「まず注意を喚起したいのは次の点である。すなわち、可笑しさは、真に人間的なもの以外には存在しないということだ。〔中略〕人が動物を笑うことはあるだろう。しかし、それは動物が持つ人間的態度や人間的表情と不意に出くわしたからだ。」    

 2つ目は、「無感動な平静」。

「これと同程度に注目に値する徴候として、笑いに通常伴う無感動な平静(insensibilité)を指摘したい。可笑しさが揺さぶりの効果を生むのは、まったく冷静で平坦な魂の表面に出くわすという条件においてのみである。無関心が可笑しさ本来の環境なのだ。笑いには感動以上の大敵はいない。」    

 感動的なものにわたしたちは可笑しさを感じることができない。そこにはある種の無感動が必要なのだ。

 それがどのような無感動さかということについては、この後で存分に語られることになる。

 3つ目は、笑いは「集団的・社会的」であるということ。


「われわれの笑いは、つねにひとつの集団の笑いだ。列車内や食堂のテーブルで、旅行者たちが様々な世間話を喋るのをおそらく聞いたことがあるだろう。彼らは心底笑っているのだから、彼らにとってその話は可笑しいに違いない。もし諸君が彼らの社会に属していたならば、諸君は彼らのように笑っただろう。しかし、そうではなかったので、諸君は少しも笑いたいとは思わなかった。」

「幾度となく言われたことだが、劇場では観客の笑いは観客席が埋まれば埋まるほど大きくなる。他方、これまた幾度となく指摘されたことだが、可笑しさの効果の多くはひとつの言語から他の言語へは翻訳不可能であり、それゆえ、ある特定の社会の慣習や観念と相関的である。」

 笑いは、ある社会的文脈を共有することで起こるものなのだ。


2.機械仕掛けのような強張り

 以上のようにまず笑いの基本契機を明らかにしたあと、ベルクソンは、笑いを誘ういくつもの事例を挙げてこれらを確かめていく。


「通りを駆けていたある男がよろめいて転倒する。すると通行人たちが笑う。地面に座るという気まぐれが突然彼に訪れたと想定することができるなら、人は彼を笑わないだろう、と私は思う。彼が心ならずも座'ったことを人は笑うのである。したがって、彼の姿勢の唐突な変化が笑わせたのではなく、この変化のなかに意志せざるもの(involontaire)があったことが笑わせたのだ。」

「次にここに、数学的規則正しきによって細々した仕事に励む人がいたとする。ただし、彼の身の周りの物はいたずら者によってわるさを仕掛けられている。彼がインク壺に浸すと泥が付いてくる。頑丈な椅子に座ったつもりが床にひっくり返る。」

「どちらの場合でも笑えるのは、一人の人間の注意深いしなやかさと生ける柔軟性があってほしいところに存在する、ある種の機械仕掛けのごとき強張りなのだ。」

 機械仕掛けのような強張り。ここに可笑しさの本質があるとベルクソンは言う。

 たとえば、「出自の分かる放心」などもその1つだ。

 ドン・キホーテのような「放心」はその典型である。

「単なる行為として提示された放心〔迂闊な行為〕もすでにわれわれを笑わせる。が、われわれの眼前で生まれて成長し、その出自も分かっており、その歴史を再構成することもできる放心ならば、もっと笑えるだろう。そこで、正確な例を手にするために、ある人物が恋愛物語や騎士物語を平素から愛読していたと想定してみよう。登場人物たちに惹きつけられ魅惑され、彼はみずからの思考と意志を少しずつ彼らの方へ向かわせる。こうして、夢遊病者のようにわれわれのあいだを歩きまわる人間になってしまう。彼の数々の行動はいずれも放心したものだ。」    


3.顔、身振りの可笑しさ

 次に「可笑しな顔」について考えてみよう。

 それは文字どおり「強張りのある顔」にほかならない。

 そこにあるのは、その人の人格性をそこに吸収してしまうような、ある「型にはまった強張り」なのだ。

「それゆえ顔が、人格性を永久に吸収してしまうような何らかの単純で機械的な行為の観念をわれわれに暗示すればするほど、その顔はより一層可笑しいものとなる。絶えず泣くことに没頭したかに見える顔もあれば、笑うことや口笛を吹くことに没頭したかに見える顔もあるし、いつまでも架空のトランペットを吹くことに没頭したかに見える顔もある。これらはすべての顔のうちでも最も可笑しな顔である。〔中略〕これらの特徴をある深い原因へと、人格の根本的放心へと結びつけることができるとき、結果はその強度を増す。」

 「可笑しな身振り」も同様だ。

 真面目な顔で演説する演説家が、無意識にずっと同じリズムで手を振り回し続けていたとしたら、そしてそのリズムにわたしたちが気づいたら、それはきっと笑いを誘うことだろう。

「もし私がこの動きに気づき、それが私の関心を奪うに足るもので、私が途中でそれを待ち受けるようになり、私の予想通りにそれが起こるなら、私は笑うだろう。なぜだろうか。なぜなら、今私の眼前には自動的に働く機械仕掛けがあるからだ。それはもはや生命ではなく、生命のなかに居座り、生命を模倣する自動性である。これが可笑しさなのだ。」    


4.衣服、儀礼

 「可笑しな衣服」はどうか?

「どんな流行も何らかの点で笑われるものだと言ってもほぼ差支えないだろう。」    

 実際、もしも現代社会にチョンマゲに羽織袴姿の会社員がいたとしたら、わたしたちは笑わずにはいられないだろう。

 儀礼も同様だ。

「一切の儀礼的なものの杓子定規な形式はすでにしてこの種のイメージを示唆している。祭典や儀礼の厳粛な目的をわれわれが忘れてしまうや否や、参加者たちはそこで操り人形のように動いているとの効果をわれわれに与える。彼らの動きはある公式の不変性に則っている。それは自動性である。」    

 要するに、多くの場合笑いはきわめて社会的なものなのだ。

 社会には、適切な振る舞いや文脈というものがある。これを逸脱した「強張り」に、わたしたちは可笑しさを感じてしまうのだ。


5.魂を追い越す身体

 ベルクソンは次のようにも言う。


「ある人格についてその精神性が問われているというのに、その肉体性にわれわれの注意を向けさせる偶発事はすべて可笑しい。」

「演説の最も感動的な瞬間にくしゃみをする演説者をなぜ人は笑うのか。ドイツのある哲学者によって引用された、「故人は徳高く、かつまるまる太っておられました」という弔辞の言葉の可笑しさはどこから来るのか。われわれの注意が突如として魂から身体へと連れ戻されたことからだ。」    

 高貴な精神に似つかわしくない身体的強張り。この「強張り」に、わたしたちはやはり可笑しさを感じるのだ。


6.状況、言葉

 「可笑しな状況」はどうか?

 人間が、「びっくり箱」や「操り人形」や「雪だるま」のような状況に追いやられた時、わたしたちは可笑しさを感じる。
 
 たとえば喜劇における次のようなシーン。

「警視が舞台上で何か危険を冒そうとすると、すぐさまお決まりのように棍棒の一撃をくらって打ちのめされる。身を起こそうとすると二度目の一撃で倒される。」(びっくり箱式)

「ある人物が自由に喋ったり、振る舞ったりしていると思い込んでいて、それゆえ生命の本質を維持しているはずなのに、別の側面から見るとそれを面白がる他人の手に握られた単なる玩具のように見える喜劇の場面は無数ある。」(操り人形式)    

「あわてて客間に入る訪問客が一人の貴婦人を押しやり、貴婦人は持っていたティーカップを老紳士へとひっくり返し、老紳士は足をすべらせ窓ガラスにぶつかり、窓ガラスは路上の警官の頭上へと落下し、警官は警察総出動の手配をする、等々 」(雪だるま式)  

 ここにあるのも、やはり自然なものがある「強張り」の中に押し込められたことによる可笑しさである。

 「可笑しな言葉」はどうか?

 2つの類型が考えられる。

 1つ目は、「言うつもりのなかったことを言う」可笑しさ。

 2つ目は、「比喩を文字どおりに受け取る」可笑しさ。

 これらも、やはり言葉の「強張り」と言える。


7.性格

 「可笑しな性格」はどうか?

「可笑しいのは、他者たちと接触することを気にかけずに我が道を自動的に進む登場人物である。」   

 これもまた、ある種の「強張り」の中にある性格が可笑しさの本質である。

 「非社交性」は特に笑いの対象となる。

「要するに、性格の良し悪しは重要でないことが分かる。それが非社交的であれば、可笑しくなるのだ。 」   


8.芸術と喜劇

 ここでベルクソンは、喜劇と芸術との違いについて興味深いことを述べる。

 ベルクソンによれば、喜劇は芸術と呼べるようなものではない。

 芸術とは何か? それは、わたしたちが日頃まみれている「有用性」や「一般性」の世界からわたしたちを離脱させるものである。そうベルクソンは言う。

「われわれは一般性と象徴とのなかで生きており、それはまるで決闘場のなかでも有用性に即してわれわれが他の者たちと技量を競うようなものだ。〔中略〕しかし、時折、放心によって自然は生活から離脱した魂を出現させる。〔中略〕この離脱が完璧なものであるなら、どんな知覚を介しても魂がもはや行動に密着しないなら、それはまだ誰もまったく見たことのない一人の芸術家の魂となるだろう。」    
 
「こうして絵画にせよ彫刻や詩や音楽にせよ、実践的に有用な象徴、習慣的かつ社会的に受容された一般性、結局は現実を覆い隠すあらゆるものを遠ざけ、それによってわれわれを現実そのものと対面(face á face)させようとすること以外に、芸術の目的はない。」    

 それに対して、喜劇とはむしろこの「一般性」をこそ強調するものである。


「喜劇では一般性は作品そのもののなかにある。喜劇はわれわれがかつて出会った性格を、これから行く先々で出会うことになる性格を描く。」

「偉大な喜劇の題名そのものがすでに意味深い。「人間嫌い」「守銭奴」「賭博者」「粗忽な男」などは部類の名前である。

 これはなかなか優れた洞察だ。

 芸術的作品が、たとえば「マクベス」とか「オセロウ」とかいった個人名を冠しうるものであるのに対して、喜劇は、「守銭奴」「人間嫌い」といった「一般性格」に人格を押し込めることで可笑しさの効果を狙うものなのだ。


9.職業的可笑しさ

 この「一般性格」の1つの典型が、「職業的可笑しさ」であるとベルクソンは言う。

 これには3つの類型がある。1.職業的虚栄心、2.職業的鈍感さ、3.職業的論理。

 その職業に変にプライドを持った人たち、専門職であるがゆえに大事なことに気づかない人たち、そして、その職業の間でしか通用しない理屈をふりかざす人たち。わたしたちはそうした人たちを笑うのだ。


3.社会的矯正・懲罰

 さて、以上のようなさまざまな可笑しさの類型を考察した上で、ベルクソンは「笑い」の社会的機能について次のように言う。

 彼によれば、「笑い」とは社会的な矯正・懲罰行為である。

 笑いの対象は、人間的、あるいは社会的な「こうあるべき」を逸脱して「強張った」ものであり、したがって社会は、彼/彼女のその逸脱を、「笑い」という行為によって矯正しようと欲するのだ。

「性格の、精神の、更には身体のどんな強張りも社会から不審視されるだろう。なぜなら、強張りは活動性が眠ってしまったかもしれないことを告げる徴しである。そのとき活動性は孤立し、社会もまたその回りを公転するところの共通の中心から離脱する。つまり軌道逸脱の徴しなのだ。それでも、社会は物質的に傷つけられたわけではないので、社会はここで物質的鎮圧による介入はできない。社会は自身を脅かすものに直面しているが、それは単なる徴候として存在しており——ほとんど脅威とはいえず、せいぜいひとつの身振りといったところである。したがって、ひとつの身振りを用い社会もそれに応える。笑いはこの類のもので、社会的身振りの一種なのだ。」


「強張りが可笑しさであり、そして笑いとはそれに対する懲罰なのだ。」

 それは「社会的いじめ」であるとさえベルクソンは言う。


「笑いの機能はこのようなものであるに相違ない。対象となった者にはつねにいくらか屈辱的なものとして、笑いはまさしく一種の社会的新人いじめなのだ。」

「こには、口には出さないが辱めてやろうという意図、それによって少なくとも外面的には矯正してやろうという意図が確かに入り込んでいる。」

 もちろん、誰かを笑っている時、わたしたちは彼/彼女にいくらか共感するものだ。

 しかしベルクソンは言う。


「だが、われわれが休息するのは一瞬だけである。可笑しさの印象内に入り込みうる共感はすぐさま消え去る共感である。」

 ベルクソンは繰り返し言う。笑いとは侮辱であり矯正である懲罰なのだ、と。

「笑いはなによりもまず矯正である。笑いは侮辱するためにできていて、対象である人格に苦痛な印象を与えなければならない。社会は、人が社会に向かって行使する自由に対して、笑いによって仕返しする。もし笑いに共感と思いやりが刻印されていれば、笑いはその目的を達成しないだろう。」

 これが本当に本質的な洞察と言えるかどうか、わたしたちは自らに問うという仕方で確かめてみる必要があるだろう。



(苫野一徳)

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