ブルクハルト『イタリア・ルネサンスの文化』(2)



4.世界と人間の発見

(1)学問の発展

 ルネサンス期のイタリアは、当時学問が最も発展した場所だった。

「十五世紀の末にはイタリアは、パーオロ・トスカネリ、ルーカ・パッチョーリおよびリオナルド・ダ・ヴインチを擁して、数学と自然科学においてはまったく並ぶもののない、ヨーロッパ第一の国民になっていた。そしてレギオモンタヌスやコペルニクスをも含めて、あらゆる国々の学者は、イタリア人の門下たることを承認した。」


(2)動物園と人間の動物園

 彼らの世界への興味は、飽くことを知らない。

 15世紀の末には、あちらこちらの王侯の中庭に、本物の動物園があったという。

「諸方の都市や王侯は、なかんずく生きたライオンを、ライオンがフィレンツェにおけるように紋章の動物になっていない場合でも、好んで飼った。」

 それだけではない。なんと「人間の動物園」を持っていた君侯までいた。

「有名な枢機卿イッポリト・メディチは、自分のふしぎな宮廷に、二十以上のちがった国語を話す野蛮人、しかもそれぞれその種族の中で抜群の者である野蛮人の一群をかかえていた。そこには高貴な北アフリカのムーア人の血を汲む並ぶ者のない曲芸師、タタルの射手、黒人の力士、インドの潜夫、主として狩のとき枢機卿のおともをつとめたトルコ人などがいた。
 

(3)風景美の発見

 ブルクハルトによれば、風景美を最初に発見したのはイタリア人たちだった。

 それは特に、ダンテの作品に見られるという。


大きな風景の眺めが心情に及ぼす深い作用のたしかな証明は、ダンテとともに始まる。ダンテは、静かに動く大海の遠くにふるえる光をあびた朝のそよ風や、森の中の嵐などを、わずか数行の中に力づよく描写する。のみならず、遠い眺めを楽しむことができさえすれば、という気持だけで高い山に登る。おそらく古代以来こんなことをした、最初の人間の一人であろう。」


 ペトラルカボッカッチョなど、前ページで名前をあげた文人たちも、同じように自然美を発見した。


(4)内面および外面の表現

 偉大な個人の登場は、伝記文学にも新しい一歩を刻む。


中世の終わりにいたるまで、伝記として存在する多くのものは、実はその時代の歴史にすぎず、讃えられるべき人間の個性にたいする感覚もなしに、書かれたものである。
 ところがイタリア人にあっては、重要な人間の性格的な特徴をさがしだすことが、いまや支配的な傾向となる。」

 個人の描写は、内面だけでなく外面の美しさにもおよぶ。

 それは単なる主観的な感嘆ではなく、客観的なものとして描かれる。

「身体の美しさと醜さについて、客観的な、普遍妥当な判断をイタリアにおいて可能にした芸術的な目が、どのようにして一般的に形成されたかということについては、ここで問題にされなければならない。」

 人間の発見は、美術よりも文芸が先んじたとブルクハルトはいう。たとえば彼は次のようにいっている。

ボッカッチョはその『アメート』の中で、ほぼ百年後の画家が描きそうな筆致で、金髪美人と栗色の毛髪の美人を描写している。――じじつこの点でも教養が芸術にはるかに先行するのである。

 あるいは、ルネサンス人たちは農民生活における偉大なものも発見したが、これもまた、最初は文学において表現されたものだった。

ここでもまた、どんなに教養が美術に先行するかが、指摘されなければならない。けっきょく、『ネンチャ』(ロレンツォ・マニーフィコの詩)からジャーコポ・バッサーノおよびその派の田園風俗画までは、たっぷり八十年の間隔がある。」


5.社交と祝祭

(1)身分の平等化

 ルネサンスにおいては、身分の平等が人びとの実感となる。

 なぜか。


このことにとって第一に重要なのは、すくなくとも十二世紀以来、諸都市に貴族と市民が雑居したことである。それによって運命や娯楽が共通となり、山上の城から世間を見おろす見方が、最初から成立を妨げられていた。

そしてダンテ以来の新しい詩歌文芸が万人のものとなり、さらに古代の意味の教養と人間そのものにたいする関心がこれに加わり、一方では傭兵隊長が王侯となり、名門の出たることはおろか、摘出たることさえ王位に登る必要条件でなくなるに及んで、人々は平等の時代が始まり、貴族の観念が完全に消えうせたと信じることができた。」


 都市での雑居、そして古代の教養が、人びとの平等をもたらしたのだ。


(2)生活の外面的洗練

 この時代の女性は、それまでの時代では考えられないほどの化粧をした。

「あらゆる種類の化粧料を用いて、外見を本質的に変えようとする女たちの努力は、とくに注目に値する。ローマ帝国没落以来ヨーロッパのどの国でも、当時のイタリアにおけるほど、姿や肌の色や髪の生え方をあらゆる面から痛めつけたことは、おそらくないであろう。」

 太陽は髪をブロンドにすると信じられ、一日中太陽の下にいつづける女性たち。顔中にさまざまなクリームやおしろいを塗りたくる女性たち。そして、ラバにまで香水をふりかける女性たち。そんな女性たちが、この時代大勢現れた。


(3)男女平等

 そんな婦人たちは、男と平等の地位が認められていた。


ルネサンスの高級な社交を理解するには、最後に、婦人が男子と対等にみなされたことを、知ることが重要である。

なかんずく、最高の階級における女子の教養は、本質的に、男子におけると同様である。〔中略〕人々は、この新古代的文化を人生最高の財産と見たので、女子にも喜んでこれを恵んだのである。」

 
6.風俗と宗教

(1)道徳性

 この時代の道徳性は、まず第一に「名誉心」だった。

 ブルクハルトはいう。

「それは良心と利己心のふしぎな混合物である。

 個人というものが発展した時代において、それは当然の道徳観だったといっていいだろう。


(2)想像力

 「想像力」もまた、当時の人びとを理解するために重要なキーワードだ。

 はるか古代の芸術や文学は、人びとの想像力を当然かき立てたのだ。

 この想像力のゆえに、当時のイタリアでは、「復讐」もまた数世代にわたる激しいものになったとブルクハルトはいう。

「他の国民は、より容易に許すわけではないにしても、より容易に忘れることができるのに、イタリア人の想像力は、不正の映像をいつまでも恐ろしい新鮮さに保っておく。」

 たとえばこんなエピソードを、ブルクハルトは伝えている。


 アックアベンデンテの地方で、一二人の牧童が家畜の番をしていた。

 そのうち一人が、人の首をくくるのはどうするものか、やって見ようではないか、と言った。

 一人がもう一人の肩に乗り、第三の子供が縄を二人目の子供の首にかけてから、樫の木に結いつけた。

 その時狼が来たので、ぶらさがった子供をそのままにして、二人は逃げた。

 後でもどってみるとその子は死んでいたので、二人はそれを葬った。

 日曜に、死んだ子供の父親が、パンをもってやってきた。

 二人のうちの一人が事のしだいをうちあけて、墓を示した。ところが老人は、うちあけた子供を短刀で殺し、そのからだを切り開いて肝を取り、持ち帰って、その子の父親にそれをふるまった。

 そのあとで、今食った肝はだれの肝だったかを、言ってやった。

 そこで両家のあいだに、交互の殺し合いが始まり、一ヵ月のあいだに、三十六人の男女が殺された。


(3)無信仰

 古代の息吹をいっぱいに吸ったルネサンス人たちは、当然のことながら、この異教の文化に慣れ親しみ、キリスト教に対する信仰心を少しずつ失っていくことになる。

「さらに、ビザンティン人やイスラム教徒とのたびたびの密接な接触は、早くから中立的な寛容の精神を支えていた。」

 寛容と救済欲求の減退。この時代の精神を、ブルクハルトは次のようにまとめている。

「これらすべてが万能の想像力によって調停され、一部は紛糾させられていると想像するならば、あの時代の、すくなくとも近代的異教精神をたんに漠然と訴えることよりは真実に近い一つの精神像ができあがる。そして、なお詳細に探求すると、この状態の外皮の下に真の宗教性の強い衝動がいぜんとして生きていたことを、だれでもようやく認めるにちがいない。


(4)占星術

 そのある意味では1つのあらわれが、占星術だった。

 このいかにも非キリスト教的な占星術は、王侯たちだけでなく、あろうことか教皇たちによっても公然と信奉されていたという。

「王侯だけではなく個々の市自治体も、正規の占星術師を雇っておくし、諸大学には、十四世紀から十六世紀まで、この妄想科学の専門の教授が、しかも本来の天文学者とならんで任命される。歴代の教皇は大部分、公然と星占いを信奉する。」

 このことを、ブルクハルトは「悲しむべき」ことという。

占星術は当時のイタリア人の生活の、悲しむべき要素である。あの天分に恵まれた、多面的な、我意の強い人間たちすべてが、未来を知り未来を意のままにしようとする盲目的な欲望のために、かれらの力づよい個性的な意欲と決定を突然放棄することを強いられる時、何という印象を人々に与えることだろうか!

 星占いに右往左往する人たちは、偉大な個人が発展したルネサンス人に似つかわしいものではない。そうブルクハルトはいうのだ。


(5)霊魂不滅に対する不信

 ともあれ以上のようにして、キリスト教信仰には徐々に疑念が沸き上がってくるようになる。

熱心に人々は、たましいの真の性質に関するアリストテレスその他の著作者たちの意見について、またたましいの起原、その先在、すべての人間におけるその単一性、その絶対的永遠性、のみならずその輪廻について、論争した。

 さらには、霊魂不滅の哲学的な証明は不可能だということを述べたポンポナッツォの本が出た。」

 ところがこうした議論は、やがて反宗教改革の運動の高まりを通して、抑えつけられていくことになる。




(苫野一徳)

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ブルクハルト『イタリア・ルネサンスの文化』(1)


はじめに

 イタリア・ルネサンスの文化を網羅的に描き出した、ブルクハルトの代表作の1つ。

 14〜16世紀におけるイタリア人たちの生活が、多方面から生き生きと描かれている。


 本書は、ルネサンスがなぜイタリアに起こり、どのような経過をたどり、そして終焉を迎えたのか、その要因を解明するような類いの歴史書ではない。

 当時の人びとの生活や文化が、さまざまな観点から淡々と語られているだけだ。

 その意味では、のちの、たとえば「全体史」を志したブローデルや、「近代世界システム」の全容を明らかにしようとしたウォーラーステインといった歴史家の著書に比べれば、“ダイナミックさ”にはやや欠けるかもしれない(ブローデル『地中海』ウォーラーステイン『近代世界システム』のページ等参照)。

 しかし本書の魅力は、そうしたダイナミックさとはまた別のところにある。

 微に入り細を穿って描き出される、当時の人びとの生活様式。そのありありと目に浮かぶような叙述に、読者は思わず引きこまれる。

 そしてまた、当時のイタリアの人びと(の精神)に対するブルクハルトの深い敬愛の念が、私たちのルネサンスへの興味をさらにかき立ててくれる。

 じっくり味わいながら読みたい名著だと思う。


0.前史

 13世紀、神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世は、イタリア統一を志し、徹底した中央集権化をはかった。

 しかしそれは、教皇庁との争いや、北イタリアの都市国家の抵抗などよって妨げられる。

 他のヨーロッパ諸国とは違って、イタリアは統一されることがなかったのだ。

「歴代の教皇とホーエンシュタウフェン家との戦いは、ついにイタリアを、他の西欧諸国とはもっとも重要な諸点において異なるような、一つの政治状態の中に取り残した。フランス、スペイン、イギリスにおいては、封建制度は、その寿命が切れたのち、必然的に君主制の統一国の中に倒れるような性質のものであり、ドイツにおいては、それはすくなくとも帝国の統一を外面的に保持する助けになったが、イタリアはその制度からほとんど完全にぬけだしていた。」

 この時代、フリードリヒ二世と並んで、おそろしい簒奪者が現れている。

 フリードリヒの女婿、エッツェリーノだ。

「エッツェリノにいたってはじめて、王位の創設が大量殺戮と無際限の凶行によって、すなわち目的だけを考えて手段を選ばずにこころみられる。後代の何びとも、その犯罪の規模の大きさにおいて、エッツェリノにはどう見ても及ばなかった。あのチェザレ・ボルジャすらも。

フリドリヒとエッツェリーノはイタリアにとって、いぜんとして、十三世紀最大の政治的事象であった。

 フリードリヒとエッツェリーノの失脚と同時に、主として教皇党皇帝党との党派争いの中から、個々の専制君主が数多く浮かびあがってくる。

 こうして14世紀、大が小を併呑していく、専制君主の時代が始まるのだ。


1.芸術作品としての国家

(1)15世紀の専制君主たち

 その最も典型的な例が、ミラノヴィスコンティ家だ。特に、強大な権力を有したジャンガレアッツォは、さまざまな凶行を通して王国をまとめた。

 15世紀、ジャンガレアッツォの死後王国はバラバラとなり、やがてミラノ公の称号は、その傭兵隊長だったフランチェスコ・スフォルツァが、いくつかの裏切りの末受け継ぐことになる。

 しかしスフォルツァの名声は、当時きわめて高いものだった。

「敵でも、フランチェスコ・スフォルツァの姿を見ると、だれからも共通に「軍人精神の父」と考えられている人なので、武器を置き冠り物を取って、うやうやしくあいさつすることがあった。

 やがて、スフォルツァの四男ロドヴィーコ・イル・モーが、ミラノの権力を簒奪する。

 ブルクハルトはこの男について次のようにいっている。

の人は自分の政治的手腕にたいするイタリア人の半神話的尊敬を、当然の貢ぎとして受けとった。一四九六年になってもまだ、教皇アレクサンデルを自分のお抱え牧師、皇帝マックスを自分の傭兵隊長、ヴェネツィアを自分の会計係、フランスの王を自分が思うままに行き来させている飛脚だと、自慢していた。

 所変わって、15世紀当時のナポリを支配していたのは、大アルフォンソとその後継者フェランテだ。

 このフェランテは、当時の君侯たちの中でも最も恐ろしい人間だったとブルクハルトはいう。

フェランテは、狩猟には目がなかったが、そのほか二種の楽しみに身をゆだねた。自分の敵を、よく手入れのしてある牢獄に生かしておくか、死体に香油をぬり、それに生前着ていた着物を着せるかして、手もとにおくのである。腹心の者と、そうした捕われ人のことを話す時には、くすくす笑った。

 しかしこうした専制君主たちは、つねに命の危険にもさらされていた。荘厳なミサの時などに、暗殺者たちは彼らを襲い、そして殺した。

支配者たち自身が、その国家理念ならびに態度において、明確に古代ロマ帝国を手本にして範を示した。そこで同じくかれらの敵も、理論的な思慮をもって仕事にかかるとなると、古代の僭主殺害者に従った。


(2)ヴェネツィア

 共和国ヴェネツィアは、ブルクハルトによれば近代的統計発祥の地だ。

 他の中世封建国家が、固定的な生産物をただ管理していただけであったのに対し、ヴェネツィアの使命は、もっとも利益の多い産業を集めて、つねに新たな販路をきりひらくこと」にあった。

 しかしこの商売根性が、かえって文学的才能を生み出さない理由となったとブルクハルトはいう。

ヴェネツィアは、このような計算とその実際的な応用によって、近代をもっとも早く完全に明示したが、そのかわり、当時イタリアにていたような文化の点では、いくらか立ちおくれていた。ここでは一般的に、文学的傾向が、とくに古代の古典時代を尊重するあの熱中が欠けている。


(3)フィレンツェ

 それに比べてフィレンツェは、まさにルネサンスを代表する精神の国だったとブルクハルトはいう。

「あの驚くべきフィレンツェ精神、するどい理性と同時に芸術的創造力をもった精神は、政治的および社会的状態をたえず変形し、そして同じく、たえずそれを記述し調整する。」


(4)教皇権

 このような生き馬の目を抜くようなイタリア社会においては、教皇もまた、専制君主たちの生き方を取り入れざるを得なかった。

 この課題に挑んだのが、恐るべき教皇シクストゥス四世だった。

 彼は聖職売買を通して、大量に金をかき集めた。

 その後を継いだインノケンティウス八世とその息子は、さらに「世俗的な恩恵の一種の銀行を創設した。そこは高い料金を払いこめば、殺人もゆるしてもらえるところである。〔中略〕とくにこの教皇の最後のころは、ローマは後楯のある殺人者、あるいはない殺人者でうようよしていた。」

 きわめつけは、アレクサンデル六世とその息子、チェーザレ・ボルジアである。

 アレクサンデルも権勢をほしいままにしたが、チェーザレはそれに輪をかけて凶悪だった。

「兄弟でも義兄弟でも、その他の親類でも廷臣でも、教皇の寵愛を受けるとか、その他の地位のため、自分にとって不都合になると、さっそくこれを殺してしまった。」

 もしも彼が長生きしたならば、この人こそが教会の世俗化をなしとげていただろうとブルクハルトは述べている。

「もしだれかが教会国家を世俗化するとすれば、この人こそそれをしたであろうし、またそこで支配をつづけるためには、それをせざるをえなかったであろう。もしわれわれの思いちがいでないならば、これこそ、マキアヴェリがこの大悪人を、ひそかな共感をもってあつかっている本質的な理由である。「刃を傷口から引き抜くこと」、すなわちあらゆる干渉とあらゆるイタリアの分裂の根源を絶滅することを、マキアヴェリが期待しうる者は、チェーザレのほかにはだれもいなかった。」

 その後ユリウス二世が聖職売買を禁止するが、つづくレオ十世(ジョヴァンニ・メディチ)になって、教皇権にはふたたび危機が訪れる。

 自分の身内の者たちに、レオはイタリア各地を分け与えようと企んだのだ。

 結局その身内の死によって、幸運にもそれは果たされなかった。

 ローマ劫掠(1527年)が起こったのは、クレメンス七世の時代である。

 当時、ヴァロワ家のフランスと神聖ローマ帝国との間で、イタリアを巡る戦争(イタリア戦争)が行われていた。

 クレメンスはフランスについた。そしてそのことが、神聖ローマ皇帝カール五世の軍による、ローマ侵略のきっかけになったのだ。

 クレメンス七世はサンタンジェロ城に逃げ込み、教皇軍は敗北した。

 同じカトリック国による、カトリック教会の頂点に位置するローマの劫掠!

 もっとも、神聖ローマ帝国軍には、カトリックを憎むプロテスタントの兵士たちが大勢いた。

 それゆえブルクハルトはいう。

「宗教改革だけが、かのローマへの出征〔一五二七年〕を可能にし、かつ成功させもしたが、これはまた教皇権をして、いやおうなしに、ふたたび精神的世界権力の表現たらしめた。」

 つまり、宗教改革がもたらしたローマ劫掠こそが、かえって教皇に現実を知らしめ、反宗教改革のうねりを起こしていくきっかけになったのだ。

 それゆえブルクハルトは次のようにいう。

「もし宗教改革がなかったならば――その仮定がおよそ許されるものとして――、全教会国家はとうの昔に、世俗の手中に移っていたことであろう。

 それほどに、教会国家の腐敗は進んでいたのだ。


2.個人の発展

(1)万能の天才

 中世において、人間は自分のことを、国家や種族、家族などの、何らかの団体に所属するものと見ていた。

「イタリアではじめて、このヴェールが風の中に吹き払われる。」


十三世紀の末になると、イタリアには個性的人物がうようよしはじめる。個人主義の上に置かれていた呪縛が、ここでは完全に断ち切られた。

十四世紀のイタリアは、〔中世〕人目にたつこと、他人と違っていること、そして違って見えることを、恐れる人間は一人もいない。

 15世紀のはじめに登場したレオン・バッティスタ・アルベルティは、その典型的な人物の一人だ。

 アルベルティは数々の伝説を残している。

 たとえば、両足をしばったままで人の肩を跳び越えたとか、大聖堂で貨幣を、はるか高い円天井にあたって響くのが聞こえるほど高くほうりあげたとか、どんな荒馬でもこの人が乗るとおののきふるえたとか。

「音楽は先生なしに学んだ。それでいてその作曲は、専門の人々から感嘆された。」

「それに、芸術そのものに関する文筆上の活動が加わる。」

 さらに、物理学と数学にも長け、あらゆる職人の腕を自分のものとした。アルベルティは、レオナルド・ダ・ヴィンチに先駆ける、万能の天才だったのだ。


(2)嘲笑と機知

 個人が大いに発展した時代は、嘲笑と機知にあふれた時代でもあった。各国には、人をバカにする文筆家や道化師たちがたくさん現れる。

 中でも名高いのは、近代最大の毒舌家、アレティーノである。ブルクハルトは、この男をジャーナリズムの元祖の一人と呼んでいる。

 彼は、神聖ローマ皇帝カール五世とフランスのフランソワ一世が、同時に年金を与えるほどの男だった。

 どちらも相手の悪口を書いてほしかったのだ。

 その嘲笑のやり口は、たとえば次のようなものだった。


劫略されたロマの悲嘆の叫びが、教皇クレメンス七世が捕えられていた聖アンジェロ城まで聞こえてきた時、アレティーノが教皇に、嘆きをやめて敵をゆるせと勧告するやり口は、まったく悪魔か猿の嘲笑である。

一五四五年十一月にミケランジェロにあてた書簡のごときは、おそらくこの世に二度と存在しないものである。〔『最後の審判』について〕いろいろ感嘆の辞を述べるそのあいだに、ミケランジェロを不信仰、猥褻、窃盗〔ユリウス二世の遺産について〕をもって恐喝する。」


3.古代の復活

 ルネサンスといえば、いうまでもなく古典古代の復興運動である。

 その最初の功労者として、ブルクハルトはダンテペトラルカボッカッチョをあげる。

 こうして人文主義が花開くことになるが、15世紀には、メディチ家のコージモロレンツォなど、これを促進する有力者たちが現れる。

 ナポリ王、アラゴン家の大アルフォンソもそうだ。また、このアルフォンソよりも比較にならないほど学識があったのは、ウルビーノのフェデリーゴである。

 これら諸侯やまた教皇は、次の2つの目的のために、人文主義者たちを重宝した。

「書簡の作成と、公開の儀式ばった演説のためである。」
 
 当時、人文主義者たちはキケロなどの書簡を徹底的に研究した。

ペトラルカ以来、まず書簡文学がほとんどもっぱらキケロを手本として形成され、物語類をのぞいた他のジャンルも、これに従った。

 ところがこれら人文主義者たちは、16世紀になると没落していくことになる。

 なぜか。

そもそもその非難を言い出したのは、人文主義者自身である。かつて一つの階級を形づくった人々の中で、かれらほど団結心の少なかった者はない。それがせっかくもりあがろうとしても、かれらほどそれを尊重しなかった者はない。そしてかれらは、たがいにぬきんでようとするとなると、手段を選ばなかった。電光石火、かれらは学問上の根拠を捨てて、人身攻撃や極端な誹謗中傷に飛び移る。かれらは敵を反駁するのではなくて、あらゆる点で抹殺しようとするのである。

 出世を競う人文主義者たちは、お互いを蹴落とし合ったのだ。






(苫野一徳)

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