トッド『帝国以後―アメリカ・システムの崩壊』

はじめに
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 1976年、弱冠25歳にして、旧ソ連の崩壊を断言・予言したことでも知られるエマニュエル・トッド。

 9.11から1年後の2002年に出版された本書は、今度はアメリカの衰退を断言・予言するものだ。

 アメリカの問題、それは、その強さにではなく弱さにある。

 若干「反アメリカ」の色が強すぎるようにも感じられるところのある著作ではあるが、それはイデオロギーによるものでは決してなく、どこまでも、彼の専門である人口学と家族人類学のデータをもとに、事実ベースで論じられている。その意味で、かなりの説得力もある(実際トッドは、この本は好き嫌いの感情で書いたものではないと様々なところで繰り返し述べている)。
 
 アメリカ・システムは、なぜ崩壊していくのだろうか。


1.本書の問い

 世界唯一の超大国、と言われるアメリカ。

 しかしトッドは、アメリカの問題は、実はその強さにではなく弱さにあると言う。

 アメリカは今や、かつてのような寛大さを失い、何かに追われるように、世界中を混乱に陥れている。それは一体、なぜなのか。

 これが本書の問いである。

「『孤高の超大国』はなぜ、第二次世界大戦直後に確立した伝統に従って、基本的に寛大で穏当な態度を保持することをやめたのか?なぜかくも動き回り、安定を揺るがすようなことをするのだろうか?全能だからか?それとも逆に、今まさに生まれつつある世界が自分の手をのがれようとしているのを感じるからか?」


2.失われつつあるアメリカの存在理由

 その1つ目の理由を、トッドは、民主主義の擁護者としてのアメリカのパラドックスにみる。

 フランシス・フクヤマが言うように、もしも民主主義が今後世界に広く普及するのだとするならば、そしてまた、マイケル・ドイルが言うように、民主主義国家同士の戦争があり得ないのだとするならば、アメリカはもはや、民主主義の普及者としての存在理由も、また戦争を抑止する軍事的超大国としての存在理由も、失ってしまうことになるのだ。

「もし民主主義が至る所で勝利するのなら、軍事大国としてのアメリカ合衆国は世界にとって無用のものとなり、他の民主主義国と同じ一つの民主主義国にすぎないという事態に甘んじなければならなくなるという最終的パラドックスに、われわれはたどり着くのである。」



3.世界経済への依存

 アメリカが世界を混乱させている理由、ひいては、今後のアメリカが衰退していくであろう2つ目の理由として、トッドは、アメリカ経済の世界経済への深刻な依存を挙げる。

「1990年から2000年までの間に、アメリカの貿易赤字は、1000億ドルから4500億ドルに増加した。その対外収支の均衡をとるために、アメリカはそれと同額の外国資本のフローを必要とする。この第三千年紀開幕にあたって、アメリカ合衆国は自分の生産だけでは生きて行けなくなっていたのである。教育的・人口学的・民主主義的安定化の進行によって、世界がアメリカなしで生きられることを発見しつつあるその時に、アメリカは世界なしでは生きられないことに気付きつつある。」



 アメリカは、今やほとんど自ら生産せず、世界中の富を消費する主体となっている。

 これは一見、アメリカの優れた経済力の現れであるかのように思われる。

停滞し落ち込んだ世界経済の中にあっては、生産する以上に消費するアメリカの性向は、終いには世界から良いことだとみなされるようになる。景気後退がある度に、アメリカの消費の衰えを見せない活力は讃嘆の的となり、やがてはこれがアメリカ経済の基本的なプラス面となって行く。」

 しかしそれは虚像である。そうトッドは言う。アメリカの世帯の貯蓄率はゼロに近」く、「貿易収支の赤字は増大」し続けているのだ。

 ここからトッドは、2007年の世界金融危機を予言するかのような次の言葉を述べる。

「どのようにして、どの程度の速さで、ヨーロッパ、日本、その他の国の投資家たちが身ぐるみ剥がれるかは、まだ分からないが、早晩身ぐるみ剥がれることは間違いない。最も考えられるのは、前代未聞の規模の証券パニックに続いてドルの崩壊が起るという連鎖反応で、その結果はアメリカ合衆国の「帝国」としての経済的地位に終止符を打つことになろう。


 存在理由の消滅世界経済への依存。この2つの危機感が、アメリカをして、自ら民主主義国家であることを放棄しようとさせている。トッドはそう主張する。アメリカは、今や寡頭制になってしまったのだ、と。そしてそれは、世界を普遍主義的・平等主義的にまとめ上げていこうとしてきた、かつてのアメリカの衰退を意味しているのだと。


4.攻撃的なアメリカ

 寡頭制になったアメリカ、という仮説は、近年のアメリカの攻撃性をよく説明してくれる。そうトッドは言う。

 アメリカは今や、自らが「全能」であることを「演出」しなくてはならなくなった。

 そのためには、まず世界大の問題を、「決して最終的には解決しないこと」が重要だ。

 「小国への攻撃」もまた、きわめて効果的である。

 実はアメリカの軍事力は、弱者を相手にする以外にはあまりに弱いものである。トッドはそのように指摘する。

 それゆえアメリカは、「取るに足らない敵をゆっくりと粉砕することによって、世界の中でのアメリカの必要性を証明するという、演劇的小規模軍事行動主義』も名付けることのできる技法」によってしか、自らの軍事的プレゼンスを示すことができなくなっている。

 こうしてアメリカは、(小国に対して)きわめて攻撃的な国家へと、自らを育て上げてしまったのである。


5.全世界的テロリズムという神話

 自らの攻撃性を正当化するために、アメリカは、全世界的テロリズムという神話を作り上げた。そうトッドは言う。

 実はイスラム圏国家は、今や次第に民主化への道をたどりつつある。トッドは、識字化民主化の相関関係をていねいに論じながら、イスラム圏における識字率の上昇に注目してそのように言う。

 確かに、サウジアラビアとパキスタンは、まだその途上についたばかりではある。しかし、今後徐々に民主化への道がたどられることは間違いないだろう。そうトッドは主張する。

「アメリカの勢力圏に直接組み込まれたこの両国のイスラム住民がアメリカに対して敵意を抱いているからといって、そこから全世界的テロリズムの存在を演繹することは全く不可能である。イスラム圏のかなりの部分はすでに沈静化の途上にあるのだ。


6.教育と経済

 以上のように、トッドは、かつての寛大さ(それは「力」の現れである)を失い寡頭制化したアメリカは、今後世界において衰退する運命にあるだろうと予測する。そして言う。

次のことだけは絶対に避けなければならない。すなわち、かつてそうであったように今日も、真の力とは人口学的・教育的な分野に属するものであり、真の権力とは経済的分野に属するものである。正道を踏み外して、アメリカ合衆国との軍事力の競争という唇気楼の中に迷い込むことは、何の役にも立たないだろう。

 世界を動かす真の「力」は、教育(による民主主義の深化)と、経済力(生産力)である。

 私たちが重視すべきはこの2つであって、決して軍事競争への道ではない。

 トッドのこの言葉には、私も強く同意する。


(苫野一徳)

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大乗仏典『金剛般若経』

はじめに

 大小さまざまな経典群からなる『般若経』は、すべての大乗経典の基礎をなす経典だ。

 「般若」は「知恵」の意味。『般若経』は、知恵によって彼岸に到達することを説いたものである。

 その根本思想は、「空」。有名な「色即是空」「空即是色」である。

 形あるものもまた、実は「空」(=非存在)である。したがって、我執などせんないものなのである。

 『般若経』では、こうして、我執を捨て去ることの重要性が繰り返し説かれる。

 大乗仏教以前の、仏教の各学派、あるいはインド哲学の思想は、すべて「有」の思想だった。何がしかの、真実在の思想がそこにはあった。

 しかし『般若経』は、そうした一切の「有」を否定する。この世は「有」ではない、「空」なのである。

 このことを悟ることなくして、我執を捨て去ることはできない。

 『般若経』における「空」へのこだわりは、その表現の隅々にまで行き渡り、実に徹底している。

 しかし、なぜ一切は「空」であるのか、といった問いについて、『般若経』は論理的に説くことをしない。ただただ、一切が「空」であることが説かれるのみである。(その理由が論理的・哲学的に考察されるのは、「第二の仏陀」とも呼ばれる大乗仏教の体系者、ナーガールジュナ(龍樹)『中論』以降においてである。)

 今回ご紹介する『金剛般若経』は、『般若経』の中でも比較的短い経典だ。なぜか「空」という言葉は一度も出てこないが、その思想の真髄が表現された、大乗仏典古典中の古典である。


1.我執なき菩薩

 『金剛般若経』は、仏陀と、仏陀の弟子の長老スブーティとの対話から成っている。

 まずスブーティが問う。

「世尊よ、良家の男子にせよ、女子にせよ、すでに菩薩の道(菩薩乗)にはいった者は、どのように生活し、どのように実践し、どのように心を保つべきでしょうか」

 これに対して仏陀は言う。

「菩薩に衆生という観念(想)があるなら、彼は菩薩とよばれることがありえない」
わたくしという観念が生じるなら、あるいは衆生という観念、命あるものという観念、個我という観念が生じるなら、彼は菩薩とよばれることがありえない」

 仏教の修行者は、我執なきものでなければならないし、また、そうあるからこそ菩薩と呼ばれうる。そう仏陀は言うわけだ。


2.知恵の完成

 そのような我執なき菩薩(修行者)の道は、「知恵の完成」と呼ばれる。そう仏陀は言う。

 そしてここでも、仏陀の語りには「空」の思想が通底している。

「スブーティよ、この法門の名は『知恵の完成』(般若波羅密多)である。そのように、これを受持するがよい。それはなぜか。スブーティよ、如来によって説かれた『知恵の完成』は、すなわち完成ではないと、如来は説かれるからである。だから、『知恵の完成』と言われる」


3.大乗仏教の「論理」について

 このように、完成ではないからこそ完成である、とか、菩薩は菩薩でないから菩薩である、とかいった論理が、大乗仏典には頻繁に出てくる。

 一切が「空」である以上、「◯◯は〜〜である」という命題の立て方が躊躇われるからだろう。

 否定に否定を重ね続けることで命題を表現しようとするその論理は、この後モークシャーカラ・グプタの大乗論『認識と論理』で徹底的に洗練されることになる。

 しかしそれは、グプタ自身言うように、結局のところたいていは帰謬論に陥ることになる。それで構わない、むしろそれこそが真の論理である、というのが大乗仏教の基本的な構えのように思われるが、私はこの点については批判的だ(詳細は『認識と論理』のページ参照)

 「空」の思想を徹底するなら、言葉の用い方もまた、常に「非」といい続けることになるだろう。それはそれで、我執からの解脱を説く宗教思想としては妥当だろうし、また実際、この思想によって多くの人が救われ続けてきたことも事実だろう。そして個人的にも、この思想にはかなりの親和感がある。

 しかし哲学的には、こうした帰謬法の論理は、カントフッサールを通して批判的に乗り越えられたものだと私は考えている。

 一切に「非」を言い続けるためには、ある意味では強靭な精神力と思考力が必要だ。

 しかし、「非」の論理を超えて、積極的に共通了解可能な論理を紡ごうとするそのような哲学的思考は、さらになお強靭であると私は思う。とりわけフッサール現象学には、帰謬論を原理的に封じ込めた、極めて徹底的に考え抜かれた思考法がある。(詳細はフッサールのページを参照)

 私は仏教思想が好きで、『般若経』に代表される「経」には特に心打たれるが、これが「論」となり哲学となった時には、哲学徒として、どこまでその論が鍛え抜かれているかに関心を持つ。

 仏教学者の方からすれば、私が浅薄な知識で仏教を論ずるなど片腹痛いことだろうと思う。その点実際汗顔の至りだ。

 しかしそれが哲学的議論としての「論」となれば、その理路のエッセンスなら掴めるし、それを私の知る限りの哲学的思考と比較することもできる。

 そしてその観点から言えば、大乗仏教の「論理」は、哲学的に、いま一歩原理性に欠けているように私には思われる。

 その詳細については、先述したように、大乗論『認識と論理』のページを参照していただきたい。

 


(苫野一徳)




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