ヘーゲル『哲学史講義』(12)


1.バークリー


 カントが登場する前に、哲学は最悪の「堕落」を見せるとヘーゲルは言う。

 名指しで批判されるのは、バークリーヒュームだ。

 まず、バークリーについて(バークリー『人知原理論』のページ参照)。

「かれ独自の中心思想は、「物と呼ばれるすべてについて、それがあるということはそれが知覚されているということである」と定式化されます。わたしたちが知るのは、わたしたちの観念である。」    

 正統的な観念論であるように見える。

 しかしヘーゲルは次のように続ける。

「バークリーの観念論は、意識が観念を生みだすといった主観的観念論ではなく、精神はたがいに観念を伝えあう(他者も観念をもつ)だけで、観念を生みだすのは神だ(261)けだと考える。〔中略〕この体系にふくまれる不合理は、またしても、神がみずから下水溝となってそれを引きうけねばならず、頼み綱は神です。」    

 ライプニッツやヴォルフにおいても見られた、一切の矛盾を解決するものとして安易に頼られる、「下水溝」「排水溝」としての「神」。

 バークリーの思想も、結局その程度の観念論だとヘーゲルは言うのだ。


2.ヒューム

 ヒュームはどうか。

 彼は、ロックの思想を完成させて、「一般観念」や「必然性」の観念などは経験の中には存在しないと主張する(ヒューム『人性論』のページ参照)。


「必然的だと見なされるような一般法則とは、じつは習慣であって、同じ結果を何度も見たために、そこに必然のつながりを見るような習慣が身についた。つまり、必然性とは、偶然の観念連合が習慣化したものだというのです。」

「一般概念についても同じ主張がなされる。われわれが知覚するのは個々の現象であり、個々の感覚であって、いまはこう、つぎはこう、というのが知覚です。同じ内容をさまざまな形で何度も知覚するということもあるが、それはおよそ一般的な経験などといえるものではなく、一般概念が経験によってあたえられることはない、というわけです。」

 こうして、何もかもが「習慣」に還元されることになる。

 当然、法や道徳も、単なる習慣の形成物にすぎない。

 しかしこんな思想は、底の浅い、あらゆるものに一般的な不信を表明するにすぎないものであるとヘーゲルは言う。

「ヒュームがそこから引きだす結論は、人間の認識のありかたにたいする疑念、一般的な不信の念、懐疑的な不決断、といったものにならざるをえず、むろん、そんなものにあまり意味はありません。」    


3.ルソー

 認識論がメインテーマに据えられているからか、ヘーゲルの『哲学史講義』では、彼自身大きな影響を受けたはずのルソーについての記述はきわめて少ない。

 しかしその記述は、簡にして要を得たものである。

 ルソーの「一般意志」について、ヘーゲルは次のように言う(ルソー『社会契約論』のページ参照)。

「一般意志を、個々人の明確な意志の寄せあつめと考えてはならない。それでは、個々人の意志があくまで絶対的だということになってしまう。〔中略〕一般意志とは、個人が意識するしないにかかわらず、理性的な意志でなければなりません。〔中略〕自由とはまさしく思考そのものであって、思考を拒否しながら自由についてあれこれいう人は、自分のいっていることがわかっていない。思考の自己統一が自由であり、自由意志であって、思考が主観的な衝動を破棄し、自分の生活や行動との関係を放棄して、自分の存在を自分の思考に一致させるようにして意志するとき、そこにはじめて自由がなりたちます。」    

 一般意志とは、社会の全成員の理性的な意志である。全ての人のそのような意志が反映されたものでない限り、社会は正当とは認められない。

 そのような社会において初めて、われわれは「自由」を現実のものとして獲得することができるのだ。


4.ヤコービ

 カントまでの迂回は続く。

 ヤコービは「神の直接知」を訴えた。

「ヤコービは直接知を信仰と名づけます。かれは自己意識のなかに帰っていって、主観性の濃い思考を展開してみせます。絶対的で無条件な存在である神は、証明の対象にはならない。」    

 この「直接知」は、当時大流行することになる。

 理性の限りを尽くすことなく、ただ直接知さえあればいいというヤコービの思想は、安易な思考の持ち主たちに大いに受けたのだ。

「どこもかしこもヤコービ思想で埋まり、哲学的な認識や理性を圧して直接知がもてはやされる。人びとは理性や哲学について語るが、それはまるで盲人が色について語るようなものです。靴の場合なら、ものさしと足と手があっても、靴屋でなければ靴はつくれない、と認めるくせに、哲学となると、直接知さえあればどんな人でも哲学者になれ、思ったことがいえ、哲学に精通したことになる、というのです。」    

 しかし、直接知など極めて浅いものだとヘーゲルは言う。


「直接性と間接性(媒介性) の対立についてつけ加えれば、すべての知は直接知といえるが、すべての直接知は媒介性をふくんでいます。それは、自分の意識を反省してみればわかることで、どこにでも見られるような現象です。たとえば、わたしはアメリカについて直接の知をもつが、この知は多くの媒介を経ています。アメリカのなかに立って、その地を目のあたりにするには、まずそこに旅しなければならず、まずコロンブスがアメリカを発見していなければならず、船が建造されていなければならず、等々、こうしたすべての発明が、直接知の前提となる。」

「同様に、神についていわれる直接知もまた媒介知であって、そのことを理解するのは、むずかしくはありません。直接の人間とは、欲望のままに自然にふるまう自然人のことで、かれらは普遍的なものなどは知らない。子どもやエスキモーなどは、神についてはなにも知らないので、そうした自然人はいわば未完の人間です。普遍的なもの、高度なものを意識し知るには、媒介を経て自然を超える必要がある。そのとき、普遍的なものは直接に知られはするが、その知は、媒介を経てはじめて到達できるものです。」

 あらゆる直接知は、それ自体において必ず媒介性を含んでいるのだ。


5.カント

 いよいよ、カント

 カントを最大のライバルと見ていたヘーゲルは、本書でカントを執拗に批判する。

「カントの哲学は、客観的独断主義という分析的思考の形而上学に終止符を打つものではあるが、実のところ、この形而上学を主観的独断主義へと、つまり、同じ有限な分析的観念が意識のうちにあるとする独断主義へと移しかえたもので、完全無欠な真理への問いは放棄されています。」    

 ロックやヒュームに対する批判と同じく、神の真理ありきのやや不当な批判と言えなくもない。

 カントの「感性」「知性(悟性)」「理性」の区分も、「経験的」(図式的)すぎるもので「概念」から捉えられたものではない(内省的に得られた本質ではない)とヘーゲルは言う(カント『純粋理性批判』のページ参照)。

 さらに、その道徳哲学に至っては、形式的で無内容であるとしてヘーゲルはバッサリと切り捨てる(ヘーゲル『精神現象学(3)』のページも参照)。


「いったい道徳法則の内容はなんなのか。そう問うとき、ここでもただちに内容のなさが目につきます。道徳法則といわれるものは、自己同一、自己一致といった一般的なものにすぎないからです。立法の形式的原理は、自己のうちに引きこもって、いかなる内容の展開も示さない。この原理のもつ唯一の形式は、自己同一の形式ですが、一般的に矛盾がないというだけでは内容空虚であって、理性は、実践面でも、理論面と同様、現実に到達できません。一般的な道徳法則はこう定式化されます〔中略〕「なんじの主義主張(個人の特殊な法則)が普遍的な法則たりうるように行動せよ。」この公式も抽象的な自己同一性を出るものではありません。」

「したがって、(自由意志にとってなにが義務となるかが抽象的に問われたとき)カントが義務の内容として提示するものも、抽象的な分析的思考の形式たる同一性の形式ないし無矛盾の形式にすぎません。祖国を守ることや他人の幸福を望むことが義務とされるのは、その内容ゆえではなく、それが義務だからです。」

 カント道徳哲学の金字塔たる、定言命法。すなわち、

「君の意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ。」

 これは、単なる抽象的で形式的で無内容なお説教にすぎないとヘーゲルは言うのだ(カント『実践理性批判』『道徳形而上学原論』のページ参照)。

 さらに、カントの「神の要請」については、ヘーゲルは「矛盾の巣」であるとまで言って批判する。

 カントは、人間は自らの意志で道徳的であるべしという要請の思想を打ち立てた。

 しかし、道徳的であることが必ずしも幸福であるとは限らない。

 にもかかわらず、私たちはなぜ道徳的に生きようと欲することができるのだろう?

 この「福徳不一致」のアポリアを解くために、カントは「神」を持ち出す。認識論的には神の存在は証明できないが、神は存在することが要請される、とカントは言うのだ。

 なんと言うご都合主義! ヘーゲルはそう言ってカントを批判する。


「カントは俗っぽいいい草を借りて、悪は克服されるべきだが、克服されるという保証はない、といいます。こうして、神は要請されるにとどまり、信じられ、あると見なされるような主観的なものにすぎず、絶対的な真理ではないとされる。この結論もきわめて通俗的なものです。」

「ところで、これまでに見てきた要請というものは、矛盾だらけのさまざまな要素を、考えもなしに綜合したものにすぎず、いわば矛盾の「巣」です。」


6.フィヒテ

 カントの後を、フィヒテシェリングが受け継ぎ、ヘーゲルが完成させる。

 これがヘーゲルの「哲学史講義」のストーリーである。

 フィヒテがまず打ち立てるのは「自我」の哲学だ。

 論理展開は次のようになる。

 まず第1段階として、自我は自我である(自我=自我)という命題が置かれる。

 が、第2段階において、自我には非我が対峙する。私たちは、世界に非我なるものを必ず見出している。

 第3段階において、自我と非我との分裂および綜合が行われる。

 これには2つの仕方があって、1つは、自我が非我を、自我とは完全なる別物であると認識すること。カントの言う「物自体」の認識不可能性がこれに相当する。

 もう1つは、逆に自我を非我の決定者と認識すること。ここに意志の命題が置かれる。

 さて、こうなると、いかに自我と非我とが綜合されうるかが期待されるのだが、ヘーゲルは、フィヒテにおいてそれは期待外れに終わったと述べる。


「こうなると、いやが上にも高まるのは、他なる存在が絶対の自己意識へと帰っていくさまを示してほしい、というフィヒテへの期待です。しかし、他なる存在がそれ自体で無条件に存在するとされている以上、自己意識への帰還は生じようがない。」

「最終的には、統一は「あるべきもの」、努力目標、あこがれの対象にすぎなくなっています。」

 フィヒテは結局、物自体の認識を諦め、それに憧れるのにとどまってしまったとヘーゲルは言うのだ。

「結局、フィヒテの哲学はカントの哲学と同じ立場を取るので、最後に来るのはいつも主観性であり、主観性こそが完全無欠な存在です。あこがれは神聖な行為であり、わたしはあこがれのなかでわれを忘れるのではなく、きわめて快適な状態にある。」    


7.シェリング

 そんなフィヒテを、シェリングが乗り越えたとヘーゲルは言う。

 主観と客観とを、シェリングは統合する。

 が、そのやり方は、結局のところヤコービ流の「知的直観」である。


「フィヒテの哲学から出発したシェリングが、他方では、ヤコービに似て直接知を原理とし、人間は、とりわけ哲学者は、知的直観をもたねばならない、というのです。この知的直観の内容、つまり、知的直観の対象とされるものはといえば、絶対的で完全無欠な神がそうですが、内部に媒介をもつ具体的なものとして考えると、それは、主観と客観の絶対的統一、あるいは、主観と客観の絶対的無差別などと表現されます。」

「認識の根拠を知的直観に置くこと——直観的な思いつきに置くこと——は、安易きわまるやりかたです。」

 「知的直観」などということを言い出したら、哲学の存在意義は消えてなくなるとヘーゲルは言う。

 哲学は万人に開かれた思考の学である。一部の啓示的人間のための営みではないのだ。

「個人が主観と客観の同一性を直観することが哲学の前提条件だとすれば、個人から見て、哲学は天才的な技倆を必要とするものとなり、幸運児にしかゆるされないものになってしまう。が、哲学は、その本性からして、だれにでも近づけるものです。哲学の土台は思考にあり、まさしく思考によって、人間は人間たりうるからです。つまり、哲学の原理は掛値なしに万人のものです。」    

 こうしてヘーゲルは次のように言う。

「シェリングの哲学の欠点は、主観と客観の無差別という要所が、あらかじめ前提とされ、絶対的だと強調されるだけで、それが真理であることが証明されないところにあります。」   

「同一性が真理であることを正しく証明するには、主観と客観のそれぞれを、論理的な内容に即して本質的に研究し、主観が客観へと転化するものであり、客観も客観にとどまりえず、主観となっていくものであることを示す以外にはない。」   

 主観と客観は同一であると素朴に言うのではなく、客観(神)が主観(人間)に宿り、その自己意識の展開を通して神(客観)へと再び還っていく様を示さねばならない。

 そうヘーゲルは言うのだが、繰り返し述べてきたように、これはやはり、ヘーゲル独自の「フィクション」と言うほかない考えだろう。


8.旅の終わりに

 こうしてヘーゲルは、自己意識が「歴史」を通して絶対精神を実現していくという自分の哲学において、哲学史はついに完成したと言う。

 長い哲学史の旅の果てに、ヘーゲルは次のように言葉を結ぶ。


「概念的な思考において、精神的宇宙と自然的宇宙が、たがいに浸透しあって一つの調和的な宇宙となり、この宇宙が自分の内部に流れこんで、精神と自然の二側面において絶対的なものを全面的に展開し、まさにその過程で思考による全体の統一を意識する。世界精神はこういうところまでやってきたのです。最後の哲学は、それ以前のすべての哲学の総決算です。失われたものはなにもなく、すべての原理が保存されている。最後にくる具体的な理念は、(紀元前六四〇年生まれのタレスから数えて)およそ二五〇〇年にわたる精神の労苦の結晶であり、自己を客観化し、自己を認識しようとする精神の真剣この上ない労働の結晶です。

 精神がおのれを認識することは、かくも大いなる労役なりき。


 わたしたちの時代の哲学が生みだされるには、そんなにも長い時間が必要だったので、目標にむかって歩みをすすめる精神の労働は、まことに緩慢で遅々たるものです。」

 絶対精神は歴史を通して己を実現する。

 この思想は、何度も言ってきたようにフィクションだ。今日の私たちがまともに受け取るわけにはいかない。

 その意味で、この観点からのヘーゲルの近代哲学解釈には、異論の余地がありすぎるほどある。

 が、古代から哲学史を通して見てみると、確かに、人間精神は着実に「進歩」してきたと言える。

 単純な外界認識や、浅薄な相対主義・懐疑主義を乗り越え、疑い得ない自己意識の認識へ。その概念的把握へ。

 この到達点は、おそらく今後も揺らぐことはない。

 現代哲学は、「絶対精神」なるものを掲げたヘーゲルを最大の敵として、彼が描き上げたこの到達点への道もまた見失ってしまった。

 その結果、ある意味ではまた振り出しから、この道を辿り直しているようにさえ見える。

 しかし現代哲学も、やがて、自分たちがヘーゲル哲学の枠内でしか思考できていなかったことに気がつくはずだ。

 そして、どれほど異質に見えようとも、ヘーゲルに続いては、ニーチェフッサールが、「自己意識」の哲学の正当な系譜として、改めて脚光を浴びることになるだろう(ニーチェ『権力への意志』、フッサール『イデーン』のページ等参照)。



 最後に、ヘーゲルの他の著作の解説ページでも繰り返し強調してきたが、ヘーゲル哲学の「フィクション」の部分さえ切り捨てれば、彼の哲学には、今なお他の追随を許さない優れた洞察が数限りなくきらめいている(ヘーゲル『精神現象学』『法の哲学』のページ等参照)。

 ヘーゲルは、まさに近代哲学最大の巨峰というにふさわしい大哲学者である。

 現代思想の最大の敵と見なされるヘーゲルは、今もなお、時にほとんど読まれることさえなく批判され続けている。

 しかしそう遠くない将来、彼の哲学は、必ずや再び大きな脚光を浴びるはずである。







(苫野一徳)

Copyright(C) 2013 TOMANO Ittoku  All rights reserved.







ヘーゲル『哲学史講義』(11)


1.ロック

 前ページで見たように、スピノザの哲学には「自己意識」の契機が欠けていた。

 このテーマに、全く別の仕方で焦点を合わせたのがジョン・ロックライプニッツだ。

 まず、ロックから。

 ロックは、経験こそが真理の本質であると主張した。

 これについて、ヘーゲルは早速次のような批判を浴びせる。

「ロックに見られるように、真理が経験や感覚的存在や知覚から得られ、そこから引きだされねばならない、と考えるなら、それは、もっとも瑣末な、もっとも拙劣な思想です。経験が、真理の一要素ではなく、真理の本質とされているのですから。」    

 前ページにおけるヘーゲルのベーコン批判でも見たように、「経験」は、すでにそれ自体において人間の「観念」を媒介している。それゆえ素朴な経験主義は、哲学として不適当である。

 そうヘーゲルは言うのだが、そのヘーゲル自身は、この人間の「観念」(精神)と神の精神とが本来合一しており、それゆえそこから内的に真理に到達できるという、今から見ればかなり無茶な「フィクション」を主張する。

 そのため、彼のロック批判もまた、神の「真理」ありきのやや不当なもののように思われる。

 とまれ、ヘーゲルのロック批判は続く。

「ロックの場合、絶対的な真理はまったく度外視されます。絶対的に真なるものがなにかを認識することは問題ではなく、どのようにして真理が認識されるか、われわれがどのようにして概念に——とくに一般概念ないし(ロック流にいえば)一般観念に——到達するか、といった主観的な問題に関心が寄せられる。かれは、われわれの到達した観念がそのまま真理だと決めてかかっていて、実在とはわれわれの外にあるものだと誤解しています。」    

 絶対の真理を度外視することは、のちの現象学などの観点からすれば十分に妥当性のある考えだと思われるのだが、真理ありきのヘーゲル哲学からすれば、ロックはその真理を顧みないものとしてこのように批判されることになるわけだ。

 さて、ロックの有名な「精神白紙説」(タブラ・ラサ)について(ロック『人間知性論』のページ参照)。

 精神には元々何の観念もない。そうロックは主張する。


「生得観念にたいするロックの反論は、経験にもとづくものです。かれの論拠はこうです。「人びとは、道徳感情や論理的命題にかんし、それが万人の一致して認めるところだという事実をとらえて、そういうことがなりたつには、その道徳感情や論理的命題が生まれつき心に植えつけられていなければならないという。しかし万人の一致などどこにも存在しない。〔後略〕」」

「生得観念が存在しないことを示す論拠は、ほかにもたくさん提示されますが、実践的な論拠としては、道徳の教えが国や時代によってちがうこと、良心のかけらもない冷酷無比な悪人のいることがあげられます。」

 しかしヘーゲルは、これもまたあまりに「経験的」で表面的にすぎる考えであると言う。

 人間精神は、もっと深遠な思考によって捉えられなければならないのだと。


2.ホッブズ

 次に、トマス・ホッブズについて。

 ホッブズは、それまでの「神」中心の政治思想を、「人間」の本性から考え直した哲学者だ。

「さまざまな規定は、明確な神の命令によるものとして、その権威は彼岸に求められていた。これにたいして、人間自身のありかたから法を根拠づける考えかたがあらわれ、それは健全な理性と名づけられた。」    

 ホッブズは、人間は統治のない自然状態においては「万人の万人に対する戦い」を続けるほかないことを指摘した(ホッブズ『リヴァイアサン』のページ参照)。

 では、どうすればこの戦いを終結させることができるのか。

「ホッブスは、平和を維持する理性の法則を考察します。この法則とは、私的意志を共同意志に服従させることにあって、自然で特殊な意志は、理性にもとづく共同意志に従うべきだとされる。」

「ところが、この共同意志は万人の意志ではなく、君主の意志であって、個人の意志にたいして責任を取るというより、私的意志をおさえつけるような意志です。そんな意志に万人が従うべきだというのです。」   
 
 理性的な共同意志に基づいた国家を作る。これ自体はすぐれた考えだったが、しかしこの共同意志を、万人の意志ではなく君主の意志とした点に、ホッブズの大きな問題がある。ヘーゲルはそう言うわけだ。


3.ライプニッツ

 ロックと同様、しかしロックとは正反対の仕方で、スピノザに欠けていた「自己意識」について探究を深めたのがライプニッツだ。

 その根本概念は、「モナド(単子)」(ライプニッツ『モナドロジー』のページ参照)。

 それは、外部からの影響を全く被ることのない、完全に自立し、自らのうちに内容を持つ存在のことである。

「各個体は自分のもとに具体的内容をもち、自分のもとで他から区別される、という意味です。」    

「わたしは多くのイメージをもち、また、たくさんの思想がわたしのうちにあるが、その多様性にもかかわらず、わたしは一なる存在です。〔中略〕ライプニッツの哲学の魅力はこの点にあります。」    

 「わたし」という絶対的な自立的存在。これがライプニッツのいう「モナド」なのだ。

 ライプニッツによれば、このモナドにおいて全世界が展開されている。

 が、となると、一つのモナドは他のモナドとどう関係するのか? それらが互いに別個の存在であるとするなら、一つのモナドにおいて全世界が展開されると言うのは矛盾ではないのか?
 
「各単子はそれ自体が全体であり、それ自体が全世界です。〔中略〕一つの砂粒を完全に認識すれば、そこから全宇宙の全面的な展開をとらえることができるというわけです。すばらしいものの考えかたに思えますが、それほど内実のある考えではない。外部の宇宙は、わたしたちの認識する砂粒とはちがうもの、砂粒以上のものだからです。」    

 こうしてライプニッツは、有名な「予定調和」の思想をひねり出す。

「人間の意志決定と、人間がそれによって引きおこそうともくろむ変化を、結合し統一するのは、人間以外のものの力によります。それは、外界の力ではなく、神の力であって、神は調和をあらかじめつくりだしている。それが、よく知られた予定調和です。一つの単子が変化すると、それに対応した変化がほかの単子にも生じる。この対応が調和で、それは神が設定したとされる。つまり、絶対的な統一は神のうちに置かれ、神は単子のなかの単子となります。神の前では、単子は自立性を失い、神のうちに観念的に吸収されてしまう。以前にはばらばらに放置されていたものを、いまや神のうちで統一しようという要求が生まれ、概念的にとらえられないものを引きうけるという特権が、神だけにあたえられます。こうして、神ということばは、名ばかりの統一をもたらす一時的手段となる。」    

 各モナドは絶対的自立存在なのだが、それらは神において調和している。ライプニッツはそう言うのだ。

 しかしこれは、矛盾の真の解決にはなっていないとヘーゲルは言う。

「神はいわば、すべての矛盾が流れこむ排水溝にされている。」   

 これは、ただ神を持ち出すだけで矛盾を解決しようとする安易な考えなのだ。


4.ヴォルフ

 ライプニッツを継承したヴォルフにおいても、この安易な解決策は色濃く残っているとヘーゲルは言う。

「現代の形而上学にあっては、対立が絶対的矛盾にまで発展し、それにたいする解決策として神の名があげられるけれども、この解決はあくまで抽象的で、彼岸にとどまります。此岸には、すべての矛盾が、その内容からして未解決のまま、横たわっている。」    

 主観と客観の統一を、安易に「神」に求めてはならない。

 こうした安易な思考は、この後カントによって鍛え直されていくことになる。



(苫野一徳)

Copyright(C) 2018 TOMANO Ittoku  All rights reserved.



ヘーゲル『哲学史講義』(10)


1.実在論と観念論

 前ページで見たように、ルターにおいて、ついに近代哲学の主要テーマである「主体性」の原理が確立された。

 以降、近代の哲学は、この「主観」(主体)と「客観」とを、いかに統一していくかに関心を向けていくことになる。

 同時に、哲学は哲学それ自体として、すなわち神学から独立する形で進展していくようになる。

 ところで、「主体性」の原理は、近代においてはまず「実在論」(経験論)と「観念論」という形をとることになる。

「時代の思考の方向は二つにわかれ、一つが経験を土台とする方向、もう一つが内面的な思考から出発する哲学の方向です。だから、対立の解決という点からして、哲学は二つの主要な形式に——実在論的な哲学の形式と観念論的な哲学の形式に——わかれる。いいかえれば、思考の客観的な内容を知覚から引きだしてくる哲学と、思考の自立性から出発して真理へとむかう哲学とにわかれます。」    
 
 主観の経験内容を客観として捉えていく哲学と、主観の観念から客観を見出していく哲学の登場である。


2.フランシス・ベーコン

 実在論(経験論)の祖と言うべき哲学者が、フランシス・ベーコンだ。

「かれは自然の観察と研究こそが基礎になるべきだとし、自然のうちにある対象の研究こそが人間社会に役立つ点でとくに重要だと考える。そこから帰納法と類推法による推論が推奨されます。」    

 ベーコンは、経験を頼りに「実在」に迫ろうと考えたのだ(ベーコン『学問の進歩』『ノヴム・オルガヌム』のページ参照)。

 しかしヘーゲルは、ベーコンのような素朴な「経験主義者」を次のように批判する。

「すべての経験主義者に共通するもう一つの欠点は、自分が経験のみにかかわっていると信じながら、その実、知覚を受けとる際に無意識のうちに形而上学的思考を働かせていることです。〔中略〕思考形式のもっとも有名な例は「力」です。電力、磁力、重力、などの力がありますが、力は知覚できるものではなく、一般的なものです。経験主義者はまったく無批判・無意識に「力」などということばを使っている。帰納法とは、観察をおこない、探究を重ね、経験に目をむけ、そこから一般概念を引きだしてくることです。」    

 これは非常に鋭い指摘だ。

 経験主義者は、経験において観察されたものだけを確かなものとして思考の土台にしようとするが、この経験には、実はすでに人間の「観念」が織り込まれているのだ。

 たとえば、電力、磁力、重力などの現象を、私たちは「力」の概念の元に捉えているが、この「力」という概念それ自体が、そもそも私たちの観念の産物なのである。

 電気現象(電気の経験)を、私たちは私たちの観念において認識している

 このことを、近代の科学者たちも決して見失ってはならないとヘーゲルは主張する。


3.ヤコブ・ベーメ

 ベーコンの対極をなすのがヤコブ・ベーメだ。

 ベーメは、ベーコンのように一切を経験から考えるのではなく、神において考える。

「かれの根本理念は、一切を絶対的な統一のうちに維持することに——神の絶対的な統一とすべての対象の神のなかでの合一に——あります。」

「ベーメの中心思想は、宇宙が全一の神の生命であり、万物が神の啓示である、ということです。」   

 ここで言われる神は、空虚な統一体ではなく、「自分を分割していく対立物の統一体」であるとされる。

 これはヘーゲルの考える神(絶対精神)にもきわめて親和性が高いもので、それゆえヘーゲルはベーメの思想を非常に高く評価する。

「この人のうちにどれほどに深い哲学的思索の欲求があったか、それを見そこなう人はいないでしょう。」    

 もっとも、ベーメの表現形式は感覚的なイメージによるものばかりで、哲学としては全く不十分であるともヘーゲルは言う。

「かれの記述の方法は野蛮なものと呼ばなければなりません。ベーメは、絶対的存在の生命や運動を心情のうちに感じるとともに、すべての概念を現実のうちに直観する。」    


4.デカルト

 こうしていよいよ、デカルトが登場する。近代哲学は、デカルトとともに真に開始する。

「我思う、ゆえに我あり」は、主観の思考に一切の根拠を見出す、近代哲学の出発点であるとヘーゲルは言う。


「わたしたちがあれこれの対象を思考する時、あれこれの対象は捨象できるが、自我を捨象することはできない。」

「思考の内容が何であれ、「ある」といえるのは純粋な思考だけなのです。」

 しかし、デカルトによる「神の存在証明」はきわめて精彩を欠くものだし、神が我々の認識を保証してくれているなどと言うにいたっては、それは哲学の俗なるものへの堕落であるとヘーゲルは批判する(デカルト『方法序説』『省察』のページ参照)。


「神の啓示するところは、たとえ理解できなくとも、信じなければならない。われわれが有限な存在である以上、神の本性のうちに、われわれの理解を超えた無限なものがあったとしても、ふしぎではないのである。」ここでは議論が常識論に堕している。」

「形式的で深みのないいいかたで、まさにそうなのだ、といわれているにすぎない。神が嘘をつかないというのが(神の誠実さが)、明晰に認識されたものと外的現実との絶対的な絆です。」

 デカルトは、疑い得ない思考と疑いうる延長(物質)とを区別したが、そうすると、延長は思考と切り離された不確かなものにすぎないことになる。

 とすると、両者を何らかの形で統一しようとする思索が当然ながら生まれるが、デカルトは素朴にも、それは「神の誠実さ」によって保証されると考えたのだ。


5.スピノザ

 スピノザは、そうしたデカルトの不十分さを補い、デカルト哲学を完成させた。そうヘーゲルは言う。

「スピノザにとっては、魂と肉体、思考と存在は、もはや、それぞれがべつものとして独立に存在するようなものではない。ユダヤ人たるベネデイクト・スピノザは、デカルトの体系に見られる二元論を完全に破棄しました。」    

「絶対的同一性という東洋の世界観が、ヨーロッパの思考法、いや、ヨーロッパのデカルト哲学のすぐ近くに引きよせられ、そのなかに取りいれられます。」    

 デカルトは、思考と延長の統一は神の誠実さが保証してくれると考えたが、スピノザは、その神が一体どのような存在であるかを明らかにしようとしたのだ。

 スピノザの神、それは一言で言うなら、思考と延長を属性とする、それらの絶対的統一体である(スピノザ『エチカ』のページ参照)。

「スピノザの観念論を単純にいいあらわすと、真なるものは端的に一つの実体であり、この実体は思考と延長を属性とする。それらの絶対的統一体が現実であり、それが神にほかならない、と定式化できます。」

 そもそも神において、思考と延長とが絶対的に統一されている。

 これは一見、デカルトの素朴な神をうまく深めたもののように見える。

 しかしここには重大な欠点があるとヘーゲルは言う。

 この神は、いわばあまりにも静態的すぎるのだ。

「スピノザの理念が真なるもの、根拠のあるものであるのは、認めるべきです。絶対的な実体は真なるものです。が、それは、真理の全体を覆うものではない。それは、内部に活動と生命をもつような精神としても定義されねばなりません。」   

 端的に言えば、ここには「人間」が、そして人間と神との関係が欠けているのだ。

「思考は普遍を意味するだけで、自己意識を意味することがなかった。」    

 人間の自己意識(思考)は、神とどのような関係にあるのか。

 この問いは、その後ライプニッツにおいて探究されることになる。




(苫野一徳)

Copyright(C) 2018 TOMANO Ittoku  All rights reserved.