ウェーバー『支配の社会学』


はじめに


 ウェーバーの生涯をかけた研究テーマ、それは、近代資本主義(そして近代合理主義)は、なぜ、そしていかにして、ヨーロッパにおいてのみ成立したのか、という問題だ。

 この問いに、ウェーバーは2つのアプローチからせまる。

 1つは、宗教意識の問題。もう1つが、支配構造の問題。ウェーバーは前者を宗教社会学として(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』『宗教社会学論選』のページ参照)、後者を支配の社会学として展開した。

 本書は後者を明らかにするものだ。これまでの歴史において、いかなる社会支配のあり方が成立してきたのか。そして、近代資本主義を生み出したヨーロッパに特徴的な、独自の支配のあり方はいったいどのようなものだったのか。

 合法的支配伝統的支配カリスマ的支配という、3つの支配類型を提示した本としても有名だ。

 よく知られているように、ウェーバーは、近代資本主義成立の最も重要なファクターを宗教的エートスに見いだしている。すなわち、プロテスタンティズムの禁欲主義が、こつこつとお金を貯めることにつながり、そしてそれが「資本」になった。そうウェーバーは主張する。

 本書では、なぜそのような禁欲主義がヨーロッパにおいて生まれたのかが、ヨーロッパの支配構造から明らかにされている。

 ウェーバーの説は、今日ではさまざまな批判を浴びている。私も、近代資本主義成立に、プロテスタンティズムの禁欲主義はある程度影響を及ぼしたかもしれないが、ウェーバーのようにこれを決定的な要因とみるのは行きすぎのように考えている。(ただしウェーバーは、このテーマに限らず彼の一切の理論を、あくまでも1つの仮説、考え方、ものの見方、として提示している。)

 しかしそれでもなお、ウェーバーの類まれな探究欲とそれに支えられた膨大な勉強量、そしてそこから生み出された圧巻の「仕事」は、同じ学徒として心から敬服してやまない。

 天才社会学者の執念が感じられる、すばらしい名著だと思う。


1.合法的支配、伝統的支配、カリスマ的支配

 まず、有名な合法的支配伝統的支配カリスマ的支配から始めよう。


 「合法的支配」とは、とりわけ官僚制にみられるような、手続きを通して法を創造・変更できることを基礎とした支配のあり方のことである。

「制定規則による合法的支配。最も純粋な型は、官僚制的支配である。根本観念は、形式的に正しい手続で定められた制定規則によって、任意の法を創造し・変更しうる、というにある。」

 そこにおいて人々は誰か特定の「人」に服従するのではなく、「ルール」に従う。

「個人が、彼のもつ固有の権利のゆえに、服従されるのではなく、制定された規則に対して服従がおこなわれ、この規則が、誰に対して、またいかなる範囲まで服従されるべきかを決定するのである。命令者自身も、命令を出す場合、一つの規則に、すなわち「法律」または「行政規則」に、形式的に抽象的な規範に、服従しているのである。」


 次に「伝統的支配」とは、昔から存在する秩序と支配権力との神聖性に基づいた社会支配のあり方だ。

「伝統的支配は、昔から存在する秩序と支配権力との神聖性、を信ずる信念にもとづいている。最も純粋な型は家父長制的な支配である。支配団体は共同社会関係であり、命令者の型は「主人」であり、服従者は「臣民」であり、行政幹部は「しもべ」である。」


 最後に「カリスマ的支配」は、あるカリスマへの情緒的帰依に基づいた社会支配のあり方である。

「カリスマ的支配は、支配者の人と、この人のもつ天与の資質(カリスマ)、とりわけ呪術的能力・啓示や英雄性・精神や弁舌の力、とに対する情緒的帰依によって成立する。」

 これらの理念型を手がかりに、以下でウェーバーは、歴史上起こったとりわけ次の3つの支配形態の本質を描き出す。すなわち、官僚制的支配家父長制的支配家産制的支配の本質である。


2.官僚制的支配

 まずウェーバーは官僚性的支配について論じるが、これは「合法的支配」の典型である。

 官僚制的支配の本質、それは、その「没主観性」「合理性」にある。

「この「自由な」創造力をもつ行政(ときとしては裁判も)は、前官僚制的諸形態の考察に当って見るであろうような、自由な〔勝手気ままな〕恣意や恩寵・個人的動機による恩恵や評価・の王国を形成するものではないはずであり、むしろ、「没主観的」目的の支配とこの目的に対する合理的な考量と献身とが、常に行動の規範として存在している、ということである。」

 歴史上、支配のあり方は、以下みるように家父長制的支配、家産制的支配と経て、その過程で官僚制は発展してきた。それは、家父長的王の「恣意」的な支配を抜け出し(没主観化)、合理化していく過程だった。

 それゆえウェーバーは次のように言う。

ここで決定的なことは、専ら、官僚制的に組織された支配集団に対する被支配集団の水準化ということのみである。」

 それが専制国家における官僚制だろうが、民主制国家における官僚制だろうが、官僚制の本質は、被支配者が水準化(平等化)されるという点にある。そうウェーバーは言う。

 もっともウェーバーは、こうした官僚制を必ずしもよいことと見なしているわけではない。というのも、たとえば官僚たちは、常に自らの専門知識を活かして自分たちの利権を守ろうとするからだ。

「官僚制的行政は、その傾向からいえば、常に、公開性を排斥する行政である。官僚は、できさえすれば、彼らの知識や行動を、批判の眼から隠蔽しようとする。

 官僚制の特徴としてもう1つ重要なことは、それが合理的・専門的試験を制度化するという点にある。

「近代的な完全官僚制化が始めて、合理的・専門的な試験制度の不断の発展をもたらしたのである。」

 官僚制においては、試験こそが、支配階級としての地位を築くものである。


3.家父長制的支配と家産制的支配

 次に、いわば原始社会的な支配のあり方として、ウェーバーは家父長制的支配について論じる。

 家父長制的支配の本質は、「伝統」にある。

「家父長制的支配にあっては、規制は「伝統」に、すなわち、古来常にそうであったことは侵してはならないという信仰に、もとづいている。」

 家産制的支配は、この家父長制が拡大したものである。家父長制と家産制の支配のあり方は、まさに「伝統的支配」なのだ。

 しかしこの家産制的支配は、やがて官僚制的支配にならざるを得ない。ヘル(王、支配者)は、いつまでも伝統に頼ってばかりというわけにはいかないからだ。社会秩序を守るため、社会はやがて官僚制化していくことになる。

 西洋に資本主義が生まれ、東洋にはついに生まれなかったのは、まさにこの過程に秘密がある。

 たとえば中国の場合、ヘルはかなり自らの権力を維持し続けることができた。

 たとえば中国では科挙制度が取られたが、この試験制度は、近代官僚制への発展をかえって妨げた。

「試験は一種の教養試験であり、受験者が紳士であるかどうかを判定したのであって、彼が専門知識を備えているかどうかを判定したのではない。貴人は器ならず、という孔子の根本原理、すなわち普遍的・個人的自己完成の倫理的理想は、西洋の没主観的な職業の思想とは根本的に対立するものであり、これが専門的訓練や専門的権限の成立を妨げ、その実現をたえずくり返し阻止したのである。」

 近代官僚制へ発展するためには、没人格性合理的精神が必要だ。しかし中国の試験制度は、没人格性ではなく人格性を重視し、合理的精神ではなく儒教的倫理思想を重んじたのだ。

 ウェーバーは、こうした科挙制度をはじめとする東洋的支配の盤石さのゆえに、東洋では近代官僚制や近代合理主義、そして近代資本主義が生まれなかったのだとみる。

 他方、ヨーロッパにはそうした中央集権的な家産制的支配は成立しなかった。

「中世の西洋諸国には、確固たる伝統にしたがって訓練された官僚制と常備軍とを支柱とするところの・古代の君主制が存在しなかった」

 それゆえ、ヘルは地方の荘園領主たちとの間に、常に妥協関係を取り結ばなければならなかった。

「西洋諸国においては、近世初頭の君主制もなお、自己の軍隊と自己の官僚制とを作り出し、自己の資金でこの両者に給料を払い・軍隊を装備しえたのでない限り、荘園領主と妥協をとり結ぶ以外には、全く手の打ちようがなかったのである。」

 こうした事情が、ヨーロッパにおける近代資本主義誕生の礎石となった。


4.封建制(身分制的家産制)

 西洋において発展した封建制は、この近代資本主義誕生の温床である。

 中国のような家長制的家産制においては、資本主義の精神は生まれにくい。

「ここには、国家的秩序の機能作用が計算可能性をもつという、資本主義の発展にとって不可欠の要素が欠けているからである。」
家産制においては〕、計算可能性の代わりに、計算不能性・廷臣や地方官吏の不安定な恣意・ヘルおよびそのしもべの恩寵や不寵が存在している。ここでは、個々の私人が、諸々の事情や人的関係を巧妙に利用することによって、ほとんど無際限の営利チャンスを与えてくれるような特権的地位を、こっそり手に入れるということが、十分に可能である。しかし、このような事情の下では、経済の資本主義的体制を作り上げるということは、明らかに著しく困難である。

 それに対して、封建制は資本主義のエートスを生む。

 封建制における給与体系は封(レーエン)だが、ここにはとりわけ自由契約的な要素がある。

「レーエン保有者の地位が〔封主=封臣間の〕双務契約によって全般的に保障されているという精神〔中略〕によって貫かれていたということが、しかし、正に、発展史的にみてきわめて重要な意味をもっていたのである。けだし、このことは、二つの領域――一方で伝統と専有された権利とによる被拘束性、他方で自由な恣意と恩寵という二つの領域――の併存に立脚する純粋な家産制的支配に対して、封建的構造を少なくとも相対的に「法治国的」構成体に近づけるからである。」

 そしてこの封臣は、封主に対してかなりの権限を主張することができた。

「軍役義務〔中略〕に対する代償として、特殊騎士的なレーエンは租税を免除されるというのが、近世に入ってまでも通常の状態をなすに至ったのである。」

 さらに封臣たちは、やがては複数のヘルに仕えるようにもなる。

「のちに支配的になった思想によれば、封臣は、自由人たる家臣として、複数のヘルからレーエンを受けることができたのであるが、こうなると、ヘルたち相互間に紛争が生じた揚合、彼らのおのおのにとって、果してその封臣の支援をうけうるか否か、おぼつかなくなってくる。」

 こうしてヨーロッパでは、中国のように中央集権的な家産制は発展せず、むしろ「身分制的家産制」、すなわち封建制が発展したのだ。

「封建制は、「家父長制的」家産制とは逆の・「身分制的」家産制への方向における極限的ケスをなすものである。

 こうした分権的支配構造が、やがて人々の自由な商業を生み、それがさらにはピューリタニズムの禁欲主義と結びついて、近代資本主義はついにヨーロッパに誕生することになった。そうウェーバーは言うのだが、もちろんことはそう単純に進んだわけではない。

 封建制は、たとえば次のようにして資本主義を阻んだからである。

資本主義の近代的形式は、工業生産物に対する大衆購買力の発展に依存している。しかし、荘園領主や封建的裁判領主に対する農民の貢租や給付は、しばしばきわめて重いものであり、それが、かかる負担がなければ工業市場の形成を助けたであろう農民の購買力から、大きな部分を取り上げてしまったのである。しかも、これによって他方に生じてくる荘園領主の購買力は、近代的工業資本主義が主としてそれに依拠して活動しているところの大量生産品の購買には向けられず、奢侈的需要の充足や、とりわけ、純消費的に利用される個人的僕婢団を維持するためにふり向けられる。さらに、荘園領主的工業経営は、強制労働に依拠している。そして、この強制労働や、また、一般に、荘園領主の家計や工業経営――これらは常に不払労働力を用いて、したがって人間の浪費を伴ないつつ、営まれるものである――における強制奉仕が、自由市場から労働力を奪い去り、これらの労働力の著しい部分を、資本形成的でない形で、場合によっては正に資本消尽的な形で、利用するのである。

 しかしとにもかくにも、ヨーロッパの封建制は、その分権的性格のゆえに、人々を自由な商業活動へと向かわせる素地を作ったのである。

 その典型が、イギリスにおける治安判事の誕生だ。

 国王は、自らの権力を維持するために、地方における荘園領主や封建貴族たちに対抗する必要があった。そこで王は、地方名望家たちを組織して、治安維持官の職を作り出したのだ。

「国王は、各州ごとに、〔中略〕主として、当該地区の土地所有者層〔中略〕の中から、任意の数の地方的名望家を選び出し、彼らを治安維持官 conservator pacis に任命して、一群の警察的・刑事裁判官的権限を附与したのである。」

 彼らはやがて強大な権力を手にするようになった。そしてここに、やがてピューリタン的禁欲主義のエートスが結びつくことになる。

 近代資本主義の幕開けである。


5.カリスマ的支配

 歴史をさかのぼればさかのぼるほど、支配の構造はカリスマ的支配に近づく。そうウェーバーは言う。

 このカリスマ的支配は、経済合理性に敵対する。

カリスマ的な政治的英雄は、分捕品――その中でもとりわけ貨幣――を求める。しかしながら、カリスマは、――この点が決定的に重要な点なのであるが――、常に、計画的・合理的な貨幣利潤、およそ一切の合理的経済なるもの一般を、品位なきものとして拒否するのである。」

 しかしカリスマ的支配は不安定である。人々はそのカリスマ的力に帰依して従うのだが、力が発揮されなくなるや否や、カリスマの座から引き降ろされてしまうからだ。

 こうしてやがて、カリスマ的支配は経済合理性へと引き渡されていく。カリスマは、個人的なカリスマから官職カリスマへと変貌する。

 その典型は、西洋における王権と教権の結びつきにある。

「カーロリンガ王朝の支配が教皇によって保証されたという上述のケースは、支配者が、みずから神でないか、あるいは少なくとも彼の「正当性」を、自分自身の・征服によるまたはその他の諸規則による一義的に明確な・カリスマによって、十分に基礎づけえず、他の権威――これは祭司的権威の形をとるのが自然である――からの正当化を必要とするごとき多数の諸ケースについて、その典型をなすものである。」

 王が自らのカリスマによって支配を維持できなくなった時、彼は司祭的権威という官職カリスマの力に頼ることになる。


6.教権制的支配と修道士

 こうして司祭的権威が官職化していくと、従来のカトリックにおける修道士たちと対立することになる。

 「禁欲」を旨とする修道生活が、官職カリスマによって組織的な「経営」対象にされていくからだ。

 しかしこの「禁欲」的修道生活は、最終的には組織的「経営」に利用されていくことになる。というのも、「禁欲」生活それ自体が、合理的な営みであるからだ。

「修道士は、模範的な宗教的人間として、――少なくとも合理化された禁欲をもつ修道会、なかんずくイェズス会においては――、同時に、すぐれて「方法的」な生活態度をもった・最初の「職業人」でもあった。すなわち、彼らは、「時間を区分」し、不断の自己制御のもとに、一切の無邪気な「享楽」をしりぞけ、その使命〔職業〕の目的に役立たないような――「人間的」諸義務による――わずらいをすべて拒否して、生活したのである。」

 こうして以上述べてきた封建制と修道生活という条件が、資本主義の礎石となった。

要するに、西洋の文化の発展の特殊な萌芽を蔵していたのは、一方では、官職カリスマと修道生活との間における、他方では、政治権力の封建制的および身分制的契約国家的性格と、この政治権力とは独立し政治権力と交錯し合っているところの・合理的かつ官僚制的な形をもった・教権制、との間における緊張と一種独特の調整となのである。少なくとも社会学的考察にとっては、教権制が勝利を占めて以後のエジプトやティベットやユダヤの文化、儒教の決定的勝利以後の中国の文化、仏教の問題を度外視すれば封建制が勝利して以後の日本の文化、皇帝教皇主義および国家的官僚制が勝利を占めて以後のロシアの文化、カリフ制が確立され・支配がプレペンデ家産制的ステロ化をとげて以後のイスラム文化、最後に、古代におけるギリシアおよびロマの文化――もちろんこの両文化については、いろいろの点で他の文化とはちがった意味においてであるが――は、すべて、――相互にその度合いは異なっているが、しかしいずれも高度に――「統一文化」であったのに反して、西洋の中世は、統一文化たる度合いがはるかに小さかったのである。


7.カルヴィニズム

 そしてついに、ここにピューリタニズム(カルヴィニズム)の精神が加わることになる。

「カルヴィニズムにおいては、〔中略〕信徒たちの義務は、一方では現世の諸秩序の内部において、他方では「職業」の内部において、神の栄光のために働くということにつくされるのである。」

 この禁欲・勤勉の精神が、資本蓄積の大きなドライバとなり、西洋に近代資本主義をもたらしたのだ。ウェーバーはそのように主張する。


(苫野一徳)



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