エリアーデ『世界宗教史』(7)


はじめに


 邦訳第7巻の副題は、「諸世界の邂逅から現代まで(上)」


 前巻の「はじめに」に書いたように、エリアーデ急逝のため、この邦訳第7および第8巻は、エリアーデの計画を引き継いだ何人もの専門家たちの手によって完成された。


 天才宗教学者エリアーデの、数万年におよぶ人類の宗教精神とのダイナミックな格闘は、この巻以降読むことができなくなってしまう。


 しかし、本巻における各専門家たちの記述もまた、それはそれでとてもおもしろい。


 以下、これまでの巻では取り上げられなかった地域の宗教についてが述べられる。



1.メソアメリカの諸宗教(ダビッド・カラスコ著)


 メソアメリカとは、メキシコ本土の南部3分の2、グアテマラ、ベリーズ、エルサルバドル、およびホンジュラス、ニカラグア、コスタリカの一部を含む地理的、文化的な領域である。

 都市社会が最初に発達したのは、地球上の7つの地域に限られている。


 メソアメリカはその1つだ。


 その文明は、紀元前2000年紀における効率的な食料生産の出現とともに始まり、16世紀のスペイン人による征服とともに終焉を迎えた。



(1)オルメカ文明


 前1800年頃、メキシコ湾近くのベラ・クルス州南部とタバスコ州西部において、オルメカ文明が興隆する。


 この文明を特徴づけるのは、石に刻まれたジャガー巨人だ。


オルメカ人が聖なるジャガーに感じていた強烈な神秘的一体感」が、メソアメリカのその後の数多くの宗教的伝統を際立たせる永続的な特色になったことは意義深い。〔中略〕オルメカ期のジャガは森林、大地、水と結びつけられた繁殖力の主要な象徴だったようである。


 また、オルメカ人は供犠食人の習俗を持っていたらしいことが分かっている。



(2)マヤ文明



 メソアメリカの歴史上、もっとも注目すべき発展が生じたのは、紀元後300〜900年の「古典期」と呼ばれる時期である。

 この時期、儀式センターと都市が点在する低地マヤ文化と、中央高地のテオティワカンとにおいて、知的・芸術的ないちじるしい発展があった。

 球技の祭儀が発達したのは、マヤにおいてだ。

「そこには球技のあとに行なわれる供犠の儀式のようすが窺えるが、その儀式には敗れた戦士、あるいは勝利を収めた戦士の斬首が含まれている。」

 マヤにおいては、あらゆるものの源泉は神々だった。中でも最大の勢力を誇っていたのは、イツァムナ、アハウ・キン、イシュ・チェル、チャク、ククルカンなどの神々である。


「地上の神としてもっとも勢力を誇ったのが、雨、雷鳴、光、豊饒をもたらすチャクである。社会的に大きな影響力をもったまた別の神が羽毛のある蛇、ククルカンであり、エリート層の一守護神だったようである。」



(3)テオティワカン


 「神々の住まい」を意味するテオティワカンは、紀元前2世紀に、メキシコ盆地北東部の乾燥した地域に興隆し始めた。



「驚くべきことに、テオティワカンの始まりはある洞窟にあった。

 芸術的に作り変えられたこの洞窟は、地上にピラミッドが建造されてから3世紀後の、紀元後450年頃まで使用されていた。

洞窟は地下界との交流の場であり、人間が超自然的存在と出会うために霊的領域へと旅立つ場なのである。


(4)アステカ


 アステカの宗教は、14世紀から16世紀の間に、メキシコ中央盆地にあった首都テノチティトランにおいて形成された。


 アステカには、あまり組織されているようには見えない無数の神々がいた。


「アステカの神々は、擬人的な存在として描き出されていた。犬神ショロトルのように神が動物の姿をとる場合や、ナイフの神イツトリのように祭器の形をとる場合でさえ、その神は腕、胴、脚、顔などのような人間の体の一部を用いて偽装している。アステカの神々は天上の一三層のさまざまな層か、あるいは九層の地下界に住んでいた。」


 アステカの有名な祭儀は、人身供犠である。


「そのなかには、斬首(通常は女性に対して)、槍や矢による射殺、溺死、火炙り、高い所からの投下、絞殺、生埋めによる餓死や剣闘士として戦わせる方法があった。」


 神殿に着くと、生け贄は階段の上の供犠の石(テチカトル)まで導かれ、押し倒された。そして神殿の神官が、ナイフで生け贄の胸壁を切開する。


「神宮はまだ鼓動のある心臓をつかんで「高貴な鷲のサボテンの実」と叫び、ついで心臓を胸からもぎとり、太陽の活性化、活力の補給を祈ってそれを太陽に捧げたあと、「クァウシカリ」、鷲の器とよばれる円形に刻まれた容器の中に入れた。」


 死体は、神殿の階段を下までばたばたと転がされ、そこでばらばらにされた。その折り、食人の儀式もあったらしいことが分かっている。



2.オセアニアの宗教(ヴァルデマール・シュテーア)


 続いてオセアニアの宗教について。


 狭義には、オセアニアとはポリネシアメラネシアミクロネシアのことを指す。


 ポリネシアの境界は、太平洋中央に想像上の三角形を描いている。


「この三角形はハワイを北の頂点とし、イースター島を南東の頂点とし、ニュージーランドを南西の頂点とするものである。無数の島々がアフリカ大陸の全体よりもひろい荒涼たる大海原に散らばっている。この区域の住民は淡い色の皮膚をしている。」


 いわゆる「南洋の魅力」について、人が思い描くのがこのポリネシアの海や人びとだ。


 メラネシアには、大きなニューギニア島があり、オセアニアの南西部分を占めている。


「そのうっそうと繁った植物の深い緑は、遠くから見るとほとんど黒く見え、また、そこの人々の皮膚の色も暗褐色ないし黒である。」


 最後に、無数の「小さな島々」がある「ミクロネシア」は、オセアニアの北西に位置する。


「この島々は、少数の例外を除いて、生活条件のきびしい珊瑚島である。」



(1)メラネシア


 まずメラネシアの宗教から。


 ヨーロッパ人は、メラネシアの人たちの瘢痕文身や身体彩色、そしてその攻撃的な性格から、彼らを野蛮人の典型と見なした。


 ここには1000をこえる種類の言語が確認されている。


「妻となる女性はほかの氏族から来るが、彼女たちは依然として本来の氏族に属しつづける。このことから、女性の低い地位が部分的に説明できる。女性は、彼女の夫の氏族では、一生涯、不信感をもって見られるよそ者でしかないのである。」


 マリンド・アニム族の神話によると、始源の時代、デマという神的存在たちがいた。


「神話の中のデマは、人間の姿や動物の姿など、さまざまな姿に身を変え現われる。彼らは波乱に富んだ運命を担っており、苦しんだり、苦しみをひき起こしたり、また、性的な暴行を受けたり、みずから凌辱したりする。」


 彼らはまた、死者をミイラ化する文化も持っていた。メラネシアの人びとにとって、祖先儀礼はきわめて重要なものだったのだ。


 ソロモン諸島は、カツオを崇める文化が特徴的である。カツオの大群は、彼らには神的な現象だったのだ。


 イニシエーション的儀礼においても、カツオは重要な存在だった。


「幸運にも自分にとって最初のカツオを手に入れた少年は、このカツオを自分の体に押しつけて帰り、船小屋に着くと、カツオから出たどす黒い血で自分をぬらし、さらにこれを飲んだのである。このような儀式はカツオとの神秘的な一体性の確認に役立っている。



(2)ポリネシア


 ポリネシア人について、著者はまず次のように言う。


「彼らはあきらかに美しい人間であり、一八世紀にヨーロッパ人が彼らに熱狂的な感激を示したのは当然のことと思われる。タヒチ島に住むポリネシア人は「気高い未開人」、すなわち、ルソーの言うような特徴を備えた、文句のない自然人であった。」



 紀元前1400年頃のトンガ群島と、紀元前1100年頃のサモア群島への定住が、ポリネシア移住の最初のものだった。これは「ラピタ文化」と呼ばれ、ポリネシア人の直接の祖先である。

 ポリネシアの社会に特徴的なのは、明確な身分的区分である。

「貴族のみが出自をもっており、貴族のみが神話的な始源の時代にまで遡る系譜をもっていた。」

 ポリネシア人の生活にとってきわめて重要だったのが、マナタブーの概念である。


ポリネシア語のマナをわれわれの西洋の言葉に翻訳することはまず不可能である。「法外に効力の大きなもの」という表現が、ほんのいくらかこの語に近いものと言える。」


 まず、神々と超越的な現象の全体がマナをもっている。


 貴族もまたマナをもっており、さらに、祭司、無敵の戦士、熟練した船乗り、腕のいい漁師、船大工、芸術家などもマナをもっている。


 祭具や権力の標章、危険をもたらす恐ろしい自然現象もマナをもっている。


 さらには、マッコウクジラ、サメ、グンカン鳥のような大きな動物、信頼できる武器や道具といったものもマナをもっている。


 一方のタブーは、禁じられていて危険であること、聖別されていて、資格のない者が触れてはならないことを意味する。


 タブーは権力と結びついていた。



「とくに、タヒチ諸島およびハワイ諸島では、タブーを課す権利を通じて王侯や貴族にほとんど無際限の権力が委ねられていた。」

 ポリネシア人にとって、タブーはあまりに過酷なものだった。それゆえ著者は次のように言う。


タブー体系の全体が重い負担として受けとめられていたことに疑問の余地はない。そうでなければ、十九世紀の初頭にポリネシアの多くの地域で、キリスト教への改宗が急激かつ広範に何の支障もなく行なわれたことが説明できないであろう。



(3)ミクロネシア


 ミクロネシア人は、その東方と西方に隣接するポリネシア人、インドネシア人と同様、人種的に「南モンゴロイド」種族に属している。


 しかし、黒っぽい色の肌および縮れた髪をもったメラネシア原住民の血が、紛れもなく多くの島に入りこんでいる。


 ミクロネシアの宗教については、あまり多くのことが分かっていない。


 その理由は、キリスト教の宣教や伝染病、そして多くの紛争にある。


 しかしそもそも、ミクロネシアでは、メラネシアやポリネシアほど重要な儀礼は行われていなかったようである。


 いくつか知られているものとしては、パラオ諸島の「始原の母」をイメージする像がある。


「島の住民は、その起源をそれぞれの「母なる始祖」にもっている母系の氏族に組織されていたのである。」


 また、ヤップ島の石のお金は有名だ。


「フェとよばれるこのお金は、丸く、真ん中に穴があいた板状の石で、大きさは、スイス製のチーズぐらいのものから二メートルを越える石臼のようなものまで、さまざまであった。フェは、あられ石でできており、この珍しい鉱石は、約四八〇キロメートル離れたパラオ諸島で切り出さねばならなかった。」

 フェは正規の通貨だったが、殺人罪の科料の支払いや、祭りのための大量の食糧の購入など、大切な目的にのみ使用された。


 と言っても、支払いの際も、フェはその場に置かれたままである。


 それが誰のものかが知られているだけで、人びとには十分だったのだ。


「ヤップ島では、お金やお金に関する事情が宗教生活の一部となっていた。というのも、フェを所有することで、たんに地位や威信が得られたのみではなく、来世の運命が決定されたからである。」



3.オーストラリアの宗教(ヴァルデマール・シュテーア)


(1)ホルド、部族、氏族


 最後にオーストラリアの宗教について。



 オーストラリア原住民の重要な社会集団は、「ホルド「部族だ。

 ホルドは3〜4世代の数家族から構成されている。

「一つのホルドの人数は、男女、子供を併せて三〇人程度が平均であったと推定される。ホルドの人々は、宿営地でともに生活し、日々、ともに食物の調達をしていた。」

 それぞれのホルドは、父系・外婚である。

 つまり、男たちだけが血縁でつながり、女たちは他のグループから来ることになる。

 一方の部族は、内婚の単位を意味する集団だ。つまり結婚はこの部族内でのみ行われるのだ。

 もう1つ、「氏族」という社会集団がある。


 これは、何を自分たちのトーテム(神秘的なつながりを持つ動物や植物など)とするかに基づく集団だ。


「氏族は個々の部族の枠をはるかに越えたものであり、したがって原住民は、一度も聞いたことのない言葉を話す見知らぬ部族の中にも、身ぶりの言語を使って自分の氏族の成員を見つけだすことができたし、また、彼を兄弟として扱わねばならなかったのである。」


 氏族に関しても、厳しい外婚が守られていた。つまり、結婚の相手は他の氏族の出自の者でなければならなかった。


「同じ氏族に属する者同士の性交渉ましてや結婚は、近親相姦と見なされ、死罪に値する犯罪であった。」



(2)夢の時


 オーストラリアの神話には、「夢の時」というものがある。


 始原の時を意味すると同時に、神々がこの世に現れることも意味する言葉だ。


 アランダ族の神話は、「夢の時」を次のように語っている。


 原初において、大地は平らだった。そこには、胎児のような人間の原形が群れをなして横たわっていた。


 この原形は、それぞれ手足でつながって、一種の網の形になっていた


 大地の下では、幾千の超自然的な存在が深い眠りについており、また、太陽、月、宵の明星も、同じく地下に隠れていた。これらは「トーテムの祖先」と呼ばれている。


 夢の時が始まると、これら「トーテムの祖先」は、目覚めて大地を突き破る。


 天体は上昇し、太陽は大地を暖める。


 「トーテムの祖先」が生まれでた場所は、「誕生の地」として祭儀の場所となる。



 「トーテムの祖先」は、胎児のような人間の原形に生命を与え、網状につながった彼らをそこから引き離す。

 「トーテムの祖先」が放浪を終え、その役目を果たすと、彼らを激しい疲労が襲う。彼らは再び地下へ帰り、その場所のそれぞれは「誕生の地」と同様に祭儀の場となる。

 かつて「トーテムの祖先」が歩き回った場所には、生命力が満ちあふれている。

 それは身ごもった女性の体内に入り込み、胎児に生まれ変わることができる。


この「霊的子供」の理念は、オーストラリアの諸部族のほとんどすべてに見られるものである。

(3)チュリンガ


Two North Australian Aboriginal Tjuringa or Sacred Boards , Wardaman Tribe . Wood and earth pigments  (australia) オーストラリアの原住民は、祭儀において使用されるチュリンガ(右写真)と呼ばれる道具を持っていた。

「チュリンガは、祭儀において神話が朗詠されるとき、はじめてその効力を現わした。古いものは貴重なものとして取り扱われたが、また、売り払うことも許されていた。」



(4)イニシエーション


 オーストラリアの原住民にとって、イニシエーションはきわめて重要なものだった。


 それは、集団への個人の順応を意味する儀式である。


 イニシエーションには、割礼など何らかの「切断」が伴うものが多かった。


 割礼には、「環状割礼」「尿道割礼」の2種類がある。


「「環状割礼」の場合は、包皮全体が、鋭く尖った石や、後にはガラスの破片で切りとられた。もう一つの割礼法は「尿道切開」であり、この場合には、陰茎の下側に沿って、尿道の全体、あるいは一部分が切開されたのである。」



(5)女性の隷従


 オーストラリアの原住民に特徴的なのは、きわめて暴力的な女性の隷従だ。


「男たちによって行われる祭儀は絶対的な秘密であるもし女性が、偶然にせよ故意にせよ、チュリンガや秘密の祭具を目にした場合、その女性は殺される危険に陥った。〔中略〕時として少女たちは、妻としての、そして母としての役割に備えるために、数日の間、隔離された。いたるところで、彼女達は初潮の後に儀礼的なみそぎを受けた。ほとんどの場合、最後には作為的な破瓜が行われ、また、しばしば何人もの男たちとの強制的な性交渉が行われた。あらゆる処置は、基本的に女たちを隷従させ、従順にすることを目的としていた。






(苫野一徳)

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エリアーデ『世界宗教史』(6)


はじめに

 邦訳第6巻の副題は、「ムハンマドから宗教改革の時代まで(下)」。

 1986年のエリアーデの死去のため、彼自身の手による『世界宗教史』(直訳は「世界の信仰と宗教思想の歴史」)の執筆は、ここで断絶してしまった。

 当初の計画では、このあと近現代が論じられる予定だったらしい。

 しかし、エリアーデが亡くなり、さらに続きの巻の編集を任されていた弟子のイアン・クリアーノも急逝したため、残りの巻は、多くの専門家の手で、当初の予定とは大幅に違う形で出版されることになった。

 したがって本巻は、偉大な宗教学者エリアーデ絶筆の書ということになる。


1.ヨーロッパの宗教運動――中世後期から宗教改革前夜まで

(1)ボゴミール派

 10世紀後半、ブルガリアで、ボゴミール派というキリスト教の分派が登場した。

「創始者は村の司祭であったボゴミール(「神に愛されし人」の意)だが、彼については、名前のほか何ひとつ知られていない。」

 ボゴミールは、この世は「悪しき神」によって創造されたと考えた。それゆえ、罪を悔い改め、清貧を徹底せよと説く。

 ボゴミール派の人々は、肉を食べず、酒を飲まず、結婚も歓迎されなかった。彼らは、富を批判し、貴族身分を非難した。

 ボゴミール派の成功の背景には、当時のブルガリアの人びとの、ビザンチン帝国に対する憎しみがあったとエリアーデは言う。

「この運動が成功した理由には、奢侈な教会や無能な司祭たちに失望した民衆の信仰熱と並んで、ブルガリアの農民たち――貧しい奴隷状態におとされていた――の、地主層、とりわけビザンチン帝国の代官たちへの憎しみがあった。」


(2)カタリ派

 ボゴミール派は西欧にも飛び火し、フランスではカタリ派(アルビジョワ派)となる。

 ここでもまた彼らは成功を収めるが、その背景には、やはり当時のローマ教会の腐敗があった。

 しかし1207年、イノケンティウス3世アルビジョワ十字軍を召集、それから100年余りで、カタリ派は殲滅されることになる。

「アルビジョワ派を磯滅したやり方は、ローマ教会の歴史にもっとも暗い一頁を記すもののひとつである。 」   

  ここでエリアーデは、次のような興味深いことを言う。

 カタリ派の成功は、東方の宗教思想が西欧で成功した最初の事例となった。

 その後、同じような現象が20世紀にも起こる。

 マルクス・レーニン主義の浸透である。

「カタリ派宣教団のこの比類のない成功は、東方の宗教思想が農村地域ばかりでなく、職人階層や聖職者や貴族のあいだにまで大量に浸透していった最初の事例である。これと類似の現象が再び現われるのは、二〇世紀を待たねばならない。二〇世紀には、東方起源のある千年王国思想が、東ヨーロッパのほぼ全域で熱狂的に受容されることになる。マルクス—レーニン主義である。」    


(3)フランシスコ会

 12〜13世紀、ヨーロッパには、ボゴミール派のように清貧を説く宗教思想が流行していた。

 そこで13世紀初頭、時の教皇は、同じく清貧を説くドミニコ会フランシスコ会を公認する。

 そのことで、清貧思想を説く人びとのはけ口を作ろうとしたのだ。

 ローマ教会の試みは、見事に成功することになる。

 たとえば、アッシジのフランチェスコによって設立されたフランシスコ会は、当初徹底した清貧を説くフランチェスコによって営まれていたが、やがてローマ教会によってその思想も緩和されていくことになる。


(4)トマス・アクィナスとスコラ学

 11世紀以降、「スコラ学」が隆盛をきわめる。

「一般に「スコラ学」という言葉は、啓示と理性、信仰と知解との調和を目ざす、さまざまな神学体系を指して用いられる。カンタベリーのアンセルムス(1033〜1109年)は、聖アウグスティヌスの定式「知らんがために我信ず」を再びとり上げた。これは言いかえれば、理性が信仰箇条をその歩みの出発点とする、との意味である。」

 その代表的神学者トマス・アクィナス12241274)は、たとえば次のようにして、理性によって神の存在を証明してみせた。

「この世界は、どのようなしかたであれ、ともかく動いている。さて、あらゆる運動は原因をもたねばならないが、その原因自体がまた他の原因による結果である。しかるに、この連鎖は際限のないものではありえないから、なんらかの第一起動者の介入を認めなければならず、それは神以外ではありえない。」


(5)スコトゥスとオッカム

 このような理性と信仰を調和させようとする試みには、しかし激しい批判もまた寄せられることになる。

 その代表的人物が、スコトゥスオッカムである。


「精妙博士と称されるドゥンス・スコトゥスは、トマスの体系の基盤そのものを攻撃することで、つまり理性に与えられていた重要性を否定することによって、これを批判した。ドゥンス・スコトゥスにとっては、論理的推論によって認められる神と第一原理との同一性を除いては、すべての宗教的認識は信仰によって与えられるものであった。」

「超精妙博士と称されるオッカムは、理性主義的神学への批判をはるかに押しすすめた。観察される個別事実、論理法則、神の啓示による律法、これらのほかには人間は何も認識しえないのであるから、いっさいの形而上学は不可能である。〔中略〕神は直観によっては知られえず、理性もその存在を証明しえないのだから、人間は信仰と啓示が教えていることで満足しなければならない。」


(6)エックハルト

 西欧の最も重要な神秘主義の神学者とされるのが、マイスター・エックハルト(1260〜1328)だ。 

 彼は神性とを峻別し、神を超えた神性(神の始原)への還帰を訴えた。

 この独創的な思想は、しかし1321年、ローマ教会から異端を宣告されることになる。


「この異端宣告の結果は重大であった。〔中略〕マイスター・エックハルトの著作は何世紀ものあいだ、一般の目に触れることがなくなってしまったのである。」


(7)鞭打苦行者たち

 14世紀、中世ヨーロッパは様々な災厄に見舞われた。

 中でもひどかったのは、1347年に始まる黒死病(ペスト)だ。

 こうした災厄をきっかけに、様々な民衆運動(異端信仰)が巻き起こることになる。

 その1つが、自らをむち打つ鞭打苦行者たちの出現だった。

「鞭打苦行者たちの行列が続発したのも、こうした神の怒りを宥めるためにほかならない。これは、信仰運動から異端信仰へという典型的軌跡をたどった一種の民衆運動である。」    


(8)クザーヌス

 中世の黄昏を代表する神学者が、ニクラウス・クザーヌスである。

 彼は、宗教を含むあらゆる対立するものを調和させる、コンコルダンチアの思想を唱えた。

「このコンコルダンチアとは、教皇と公会議、西方教会と東方教会のあいだばかりにとどまらず、キリスト教と他の歴史的諸宗教のあいだにも同様に打ちたてられうるものであった。」    

 まず彼は言う。認識は真理を捉えることができない、つまり、真理は理性を超えているのだと。

 そして言う。

「神はいっさいの事象を包越しており(包括態)、同時に神はいっさいの事象の内に現存している(展開態)。」

 この一切を包括する神という思想をもって、クザーヌスはさまざまな宗教対立を克服できると考えた。

「ニコラウス・クザーヌスは、反対の一致を可能にしている否定の途が、キリスト教哲学と神学にまったく新たな地平を拓くものであることを確信していた。他の諸宗教との一貫した実り多い対話に着手することが、これによって可能になるからである。」

 しかし残念ながら、クザーヌスの理解者は現れなかった。


(9)魔女狩り

 魔女狩りが行われたのは、14世紀と17世紀。カトリックの異端審問所ばかりでなく、プロテスタント諸教会によっても行われた。

「最近の研究によれば、悪魔との内密な〔性的〕関係、オージー、嬰児殺し、人肉食、さまざまな悪しき魔法の実践といったおもな告発事項は、まったく根拠のないものであることがあきらかになっている。拷問によって、きわめて数多くの邪術師や魔女〔中略〕がこの種の忌むべき行いや犯罪を自白させられ、火炙りの刑に処せられていったのである。」    


2.宗教改革

(1)ルター

 1517年、ヴィッテンベルク城の教会の扉に、マルティン・ルター「95か条のテーゼ」を貼り付けた。

 言うまでもなく、これが宗教改革の始まりとなる。

 ルターについて、エリアーデは次のように言う。

「彼の宗教的天才は、この世紀の時代精神によって説明しつくされるものではない。むしろ反対に、マルティン・ルターの個人的体験こそが、時代の霊的、精神的動向を根本的に変えてゆく大きな力となったのである。」  

 ルター神学の根本は、「信仰によってのみ義とされる」という教義にある(ルター『キリスト者の自由』のページ参照)。

「神の義とは、神が人間を義となす行為なのである。言いかえれば、信ずる者が、その信仰のゆえに、キリストの犠牲によって成しとげられた義を受け入れる行為なのである。聖パウロの言葉――「義人は信仰によりて生きる」(「ローマの信徒への手紙」1・12)――に対するこの解釈は、マルティン・ルターの神学の根本をなしている。」    


(2)エラスムス

 当時のヨーロッパで最も尊敬されていた学者、エラスムス(1466〜1536)は、このルターと論争を繰り広げた。

 もっとも、当初エラスムスは、ルターのある意味では理解者の1人だった。

 彼自身、ずっと以前から、教会の悪弊や腐敗を攻撃しており、緊急な改革の必然性を強調していたのだ。

 ルターが異端宣告を受けた時も、エラスムスは彼をかばった。

 しかし彼は、キリスト教共同体の分裂に手を貸すことを拒否した。

 エラスムスは対話の必要を説いた。しかしこの寛容と相互理解を求める態度のゆえに、彼はカトリックからもルターからも、かえって激しく批判されることになったのだった。

 何度もためらった末に、エラスムスは、ローマ教会からの圧力に屈してルターを批判することにする。

 人間の救いは、どれだけ善行を重ねようとも関係がなく、ただ神のみによって決定される。そう主張するルターに対して、エラスムスは次のように言う。


「エラスムスにとって、善や悪を選択する自由は、人間の責任ということが成り立つための不可欠の条件であった。〔中略〕人間はみずからの救いに協力するものではない。ただし、小さな子供が父親に助けられて歩みを学ぶのとちょうど同じように、信徒は〔父なる神に助けられて〕善を選び、悪を避けることを学ぶのである。」

 ルターは『奴隷意志論』(1525年)をもってこれに応えた。

 神の絶対の啓示を受けたと信じていたルターは、敵対する者に対して徹底的に不寛容だった。

「その冒頭から彼は、エラスムスの小著によって引き起こされた「嫌悪、激怒、侮蔑の情」を隠さない。」

 2人の論争はしばらく続いたが、結局、時代はルターの精神とともに動いていくことになる。

 しかしエリアーデは、エラスムスの思想や態度は、20世紀において、ある意味復活することになったと言う。

「エラスムスの理想――相互理解と〔諸宗派に〕共通の恩寵の源泉の発見をめざした、対話と相互寛容――は、この二〇世紀最後の四半世紀におけるエキュメニズム運動のなかに、ほとんど感動的なまでの現代性を再獲得しているのである。」

 
(3)ツヴィングリ

 スイスにも、宗教改革者ツヴィングリ(1484〜1531)が登場する。

のスイスの宗教改革者の独創性がとくに示されているのは、聖餐についての解釈である。ルターの改革運動との合同が成らなかったのも、まさにこの解釈のゆえであった。ツヴィングリは、秘蹟を受ける信徒の心にキリストが霊的・精神的に現存することを強調した。」    


(4)カルヴァン

 フランスにはカルヴァン(1509〜1564)が現れる。

 彼は、思想面ではそれほど独創性はないとされているが、政治活動や組織化においてその力を発揮した。

一般にカルヴァンは、宗教改革の大神学者たちのなかではもっとも独創性に乏しいとみなされている。というのも、すでに後期のルターが教義的に硬直化して以来、宗教改革派諸教会にあっては、神学上の創造性は第一義のものではなくなっていたのである。重要なのは、個人の自由を組織化することと社会制度を改革すること、そのためにまず公共教育を行うことであった。」    


(5)イグナティウス・ロヨラ

 宗教改革に対して、カトリック側も手をこまねいているわけではなかった。いわゆる対抗宗教改革を通して、カトリックもまた自らの改革に着手する。

 イグナティウス・デ・ロヨラ(1491〜1556)は、その代表的人物だ。

「イグナティウス・デ・ロヨラの教説の核心は、次のようにまとめられよう。まず神への絶対的服従、したがってその地上の代理者であるローマ教皇、およびイエズス会総長への絶対的服従。祈り、黙想、またそこから生まれてくる霊動弁別の能力が、人間の条件〔自然的あり方〕を変えることができるとの確信。人々を改宗させようとする努力、したがって自分自身をも同様に向上させようとする努力を、神は励まして下さるという信頼。善き業――とりわけ、苦しんでいる人を助けようとする活動――を神は嘉みしたまうとの確信。」    

 
3.ルネサンス

(1)ヘルメス主義

 ルネサンス期、フィレンツェのコジモ・デ・メディチは、偉大な人文主義者マルシリオ・フィチ(1433〜1499)に、『ヘルメス文書集成』のギリシャ語からのラテン語訳を要請した。

「これによってフィレンツェでは新プラトン主義が隆盛をきわめ、またほぼヨーロッパの全域でヘルメス主義への熱烈な関心が湧き起こった。」

 ヘルメス主義の根幹には、人間の「神格性」という考え、すなわち、人間は全創造物の総合たる小宇宙(ミクロコスム)であるという考えがある。

 つまり、大宇宙と小宇宙は照応(コレスポンダンス)しているのだ。

 この思想は、人々に、普遍的な平和と、諸宗教、諸宗派の協調を回復することができるかもしれないという希望をもたらした。


(2)錬金術

 コレスポンダンスの思想は、中国でも古代インドでもギリシアでも知られていた。

 しかし、それが新たな生命力をとり戻したのは、もっぱら錬金術師パラケルススとその弟子たちにおいてだった。

 この頃、錬金術は、キリスト教的な解釈を受けたヘルメス主義の影響とともに、独自の意味を帯びるようになっていた。

「錬金術は自然の業を促進することができるとの確信が、キリスト論的な意義をもつようになったのである。錬金術師はいまやこう主張していた。キリストがその死と復活によって人類を贖ったのとまさに同じく、錬金の業は自然の救済〔贖い〕を保証できるのだ、と。」

「天と地の秘密を解きあかしうる鍵は、天文学ではなく化学であった。なぜなら、天地の創造は化学的過程として説明され、天空と地上の諸現象は化学の用語で解釈することができるのだから。」


(3)ニュートン

 ニュートン(1642〜1727)もまた、よく知られているように錬金術の影響のもとにあった人物だ。

「錬金術の助けによってニュートンが目ざしていたのは、小宇宙の構造を発見して、それを彼の宇宙論体系と相同化する〔対応させる〕ことであった。惑星を軌道に結びつけている力としての重力の発見も、彼を完全に満足させるものではなかったのである。しかし、一六六九年から一六九六年にわたって飽くことなく実験をくり返したにもかかわらず、彼はついに微粒子を支配している諸力を同定することには成功しなかった。しかしそれでも、一六七九—一六八〇年に天体運動の力学の研究に着手したときには、彼は引力〔引きつける力〕という「化学的」概念を宇宙に対して適用したのだった。」

 エリアーデは、「近代科学」は、その発展の過程で、そもそもの大きな影響もとであったヘルメス主義を捨ててきたと主張する。

「言いかえれば、ニュートン力学の勝利は、彼の学問的理想そのものを消滅させる結果となってしまった。」

 しかしそのニュートンたちが目指していたのは、今日のような「近代科学」とは違って、錬金術的な希望、すなわち「自然の救済(回復)」にあったのだ。

「パラケルスス、ジョン・ディ、コメニウス、JVアンドレーエ、ブラッド、ニュートンといった人々は、互いにまった異なった精神の持ち主でありながら、ひとしく錬金術のうちに、自然の救済に劣らぬ大胆な試みの手本を、すなわち新しい知の方法による人間の完成を見ていた。彼らの見通しからすれば、この方法はヘルメス主義の伝統と自然諸科学、すなわち医学、天文学、力学を、非宗派的キリスト教の内へと統合するはずのものであった。」


4.チベットの諸宗教

(1)伝統的宗教

 続いて、エリアーデはチベットの宗教を取り上げる。

 チベットの伝統的宗教は、歴史家たちから「人間の宗教」と呼ばれている。一方、その後チベットで広まるポン教チベット仏教は、「神々の宗教」と呼ばれている。

 チベットの伝統的宗教は、次のような創造神話を持っていた。 

「この世界は、天の山々として想像された天空の神々、フィヴァによって創造された。続いてこの山岳神の幾柱かが、動物、植物、またおそらく最初の人間たちを伴って地上に下って来た。この楽園的時代、人間が神々のすぐそばで暮らしていた時代は、一万年間は続くはずであった。ところが、地下の第九層に封じ込められていたひとりの悪魔が脱出に成功し、地上に悪をはびこらせてしまった。そこで神々は天空に還り、世界は何十万年にもわたって堕落し続けた。しかしながら、人間たちの一部は今日でも、チュを実践しながら「無信仰者どもの時代」の到来を待っている。この時代のあとにようやく新しい世界が出現し、神々は地上に戻り、死者たちが甦る時が訪れるのである。」

 この伝統的宗教では、王が根本的な役割を担っている。
 
  王は、本来の意味で死ぬことはなく、ただ時が来るとム(muまたはdmu)という魔法の索を伝って天上に昇り、二度と戻らなかったとされている。

 エリアーデは言う。

「ム=索は一種の宇宙論的な機能をはたしている。つまり、これは世界軸として天と地を結んでいる。つぎに、それは宇宙—住居—人体の相同化体系において中心的な役割を演じている。」

 前巻で古代ユーラシア大陸の宗教を取り上げた時にも見たように、世界軸や「宇宙—住居—人体」の相同といった宇宙観は、かなり普遍的に見られるものである。


(2)ポン教

 ポン教の開祖は、シェンラブミボであるとされている。    

「ひとたび地上に生まれるや、シェンラブは悪魔の王と対決し、これを追撃して、呪術の力によって、出会う悪魔どもをみな征服してしまう。悪魔たちは恭順の意を示すために、自分たちの魔力の精髄が含まれた事物や呪文を献上し、こうして悪魔たちはポン教の教えや技法の守護者となった。これはすなわち、シェンラブがポン教徒たちに、神々への祈りの文句や悪魔どもを祓う呪法を啓示したということにほかならない。」    

 このポン教は、すぐれて習合的性格、つまり様々な宗教を取り込む性格を持つものだった。

 これは、チベットの宗教精神の特徴とも言えるものである。

「歴史時代以降は、宗教習合こそがチベット的精神のもつ宗教的創造性を特徴づけているように思われる。」    


(3)チベット仏教

①インド派の勝利


 チベットでは、チソン・デツェン王(755〜797)時代に、仏教が国教とされた。

 この王の庇護を得ようとして、当時2つの仏教流派が争っていた。

 「インド派」と「中国派」である。

 インド派は、解脱への漸進的な途を説くものだった。

 対して中国派は、瞬時の照明(頓悟)を目ざした技法(禅)を提示した。

 王が選んだのは、インド派の方だった。


②新派と古派

 やがて、チベット仏教は「新派(ゲルク派)」「古派(ニンマ派)」へと分かれていく。

 新派の最高存在が、ダライ・ラマである。

「第五代、ダライ・ラマ(1617〜1682)のもとでゲルク派は決定的な勝利を収めるにいたった。とのときから今日まで、ダライ・ラマはチベットの唯一の宗教的および政治的首長と認められてきた。」

 とはいえ、「古派」と「新派」のあいだには、その哲学や儀礼上の違いはあるものの、真の意味での断絶が存在することはなかった。

 両者の違いは、「新派(ゲルク派)」がナーガールジュナの教えに従い、空を実現するため、つまりは救いを得るために論理学や弁証法を用いる一方、「古派」の人々は、ヨーガ的な瞑想技法を重視するという点にある(『世界宗教史(4)』のページ参照)。

「ただし正確には、こう区別したからといって「古派」では弁証法が軽視されているとか、「改革派」の教えにはヨーガが登場しないということではない。」

 ちなみに、19世紀には折衷主義的な運動が顕著になり、すべての伝統的仏教諸「宗派」の統合が目ざされている。


③グル

 チベット仏教においては、導師(グル)の存在がきわめて重要だ。

「チベットの仏教は、グルの地位をほとんど神的なものにまで高めている。弟子にイニシエーションを許し、経典の秘教的意味を明かし、万能で秘密のマントラ〔真言〕を伝授するのは、すべてグルである。」

 修行僧にとって、最も重要なのは瞑想である。

ある種の瞑想は、ハタヨガの技法の習得を必要とする。たとえば熱の創出(トゥムモー)で、これによって苦行者は、真冬の雪のただなかで、厖大な数の濡れたシ一夜の内に自分の裸の身体の上で乾かすことができる。修行僧が行う別の瞑想では、ヒンドゥ教行者型のヨガ能力の獲得が目ざされる。たとえば、自分霊」を死者の身体に移し入れる能力、言いかえれば屍体の賦活力である。もっとも恐ろしい瞑想はチユ(「切断」)とよばれるもので、これは、自分自身の身体の肉を悪魔どもに貪食わせるというものである。    
 
 チベット仏教では、光がきわめて重視されている。

 これは、インドとイランからもたらされたものと考えられる。ここでもまた、チベットの宗教の習合的性格がうかがえる。

「だれもが、死の瞬間には解脱に到達する可能性をもっている。死の瞬間に体験する明るい光のうちに、自己を認めさえすればよいのである。『死者の書』の大声での朗唱は、このことへの最後のよびかけである。」





(苫野一徳)

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