キルケゴール『愛のわざ』


はじめに

 実存主義の祖とされる、19世紀デンマークの哲学者キルケゴール。

 彼の人生に大きな影響を与えた出来事に、レギーネ・オルセンとの激しい恋がある。

 レギーネが17歳の時、キルケゴールは焦がれに焦がれ続けた彼女との婚約にようやくこぎつけた。

 しかしその後、彼は一方的にその婚約を破棄することになる。

 理由は今もはっきりとは分かっていない。

 ただ彼は、その後、そのよく分からない理由を、ひたすら著作にしたため続けた。

 本書においても、キルケゴールは次のような文章を書いている。

かくして二人のあいだには決裂がやって来た。それは誤解であった。だが人は関係を絶ち切ったのである。しかし愛する者は「わたしはいつまでも変わらない」と語り、したがって決裂は生じない。    

 おそらく、レギーネとの関係を思い起こしながら書いたものだろう。

 別れてもなお、キルケゴールはレギーネを愛し続けたと言われている。


 さて、本書はキルケゴールがキリスト教の「愛」について論じた中期の作品だ。

 第1部では愛の本質が、第2部では、その具体的なあり方が描かれている。

 愛は神に由来するもので、絶対永遠のものである。そんなことを、キルケゴールは視点を変えながら延々書き続ける。

 その名文は確かに読ませるものではあるが、同じことが何度も何度も言葉を換えて繰り返されるので、現代の読者はきっと辟易するにちがいない。

 本書の主張をあえてひと言でまとめるなら、おそらく次のようになる。

 愛のわざ、それは自己否定を通した無私の行為のことである。

 なぜそう言うことができるのか?

 それは、神の前にあってわたしたち人間は否定されるべき存在であり、また同時に、神が愛された人間を、わたしたちは義務として愛さなければならないからである。

 キリスト教徒でなければ納得し得ない愛の思想だが、キルケゴールの言葉には、文字通り自らの「実存」をかけた決意がみなぎっているようだ。


1.愛の源泉は神である

 キルケゴールはまず次のように言う。

静かな湖が、底深く人間の眼には隠された泉にその基底をもっているように、人間の愛も、それよりもなおいっそう深い神の愛にその基底をもっているのである。」    

 愛の源泉は神なのだ。


2.自分を愛するように隣人を愛せよ

 聖書には、「自分を愛するように隣人を愛せよ」とある。

 しかし、「自分を愛する以上に隣人を愛せよ」という考えの方が、より高貴な思想とはいえないか?

「断じてそうではない!」とキルケゴールは言う。

「自分を愛する以上に」という表現には、多分に「自己陶酔」の色が見られるからだ。

キリスト教は、人が自分を愛する以上に他人を愛していると主張することのうちに、単なる自己愛の陶酔にしかすぎないものを認めるのである。

 では「自分を愛するように」とはどういう意味か?

 それは「自分を正しく愛せ」という意味であるとキルケゴールは言う。

「自分を正しく愛する」とはどういうことか?

 それはとりもなおさず、神を愛することである。

「人の神に対する愛は無条件的な服従であり崇拝であらねばならぬ。


3.義務としての愛

 キリスト教における「愛」は、「義務としての愛」である。

 なぜ愛は義務なのか?

 義務としての愛だけが、永遠を保証するからだ。

愛が義務であるときにのみ、ただそのときにのみ、愛は永遠に保証されている。」    

というのは、単に存在するというだけの愛は、変化をこうむり得るものだからである。    

 恋人への愛に顕著に見られる「自然的な愛」は、いとも簡単に崩れ去るものだ。

 それに対して「義務としての愛」は、それが義務である以上、永遠に続くべきものである。キルケゴールはそう主張する。

 したがって、この愛だけが「絶望」をまぬがれている。

ただ愛するということが義務であるときにのみ、ただそのときにのみ、愛は幸いにも永遠に絶望から守られているのである。直接的な愛は不幸になることもあるし、絶望するにいたることもある。    


4.隣人とは誰か?

 では、義務として愛すべき「隣人」とは誰か? キルケゴールは言う。

この隣人というものがただ一人の人間となることは不可能である。いな、絶対にそのようなことはあり得ない。なぜなら、隣人とはあらゆる人間を意味するからである。もし愛する者や友人が(詩人にとってこれを聞くことは大きな喜びであるが)世界じゅうでただこのただ一人の人だけしか愛することができないのであれば、この途方もない献身のなかには途方もない我意が存在し、また愛する者はこの猪突猛進とこの無限の献身とにおいて、木来ただ自己愛によってのみ自分自身と関係していることになる。」   

 隣人とは全人類のことである。ここにおいて、一切の差別・区別は廃棄されなければならない。

隣人を愛し得るためには、およそ差別というものをつくりだす偏愛そのものを放棄しなさい。    

 もし誰かを排他的に愛するとするならば、それは隣人愛ではなく自己愛であると言わなければならない。そうキルケゴールは言う。

恋人とか友人とかにおいては、隣人が愛されているのでなくて、別の我が愛されているか、あるいはまた、第一の我がもう一度、さらにより強く愛されているからである。    

 では、わたしたちはなぜ隣人を愛するべきなのか?

 キルケゴールは言う。

君を隣人と結びつけるものは、ただ神の前でのあらゆる人間の平等のみである。

その人は、神の前において君と等しいからこそ、君の隣人なのである。
 
 わたしたちは、まず第一に神を愛さなければならない。そしてそれゆえに、神が愛された全人類を愛さなければならない。

 これがキリスト教における「隣人愛」の本質である。

 それゆえわたしたちは、相手が愛するに値する価値があるから愛するのではない。神が平等に愛された存在であるがゆえに隣人を愛するのだ。

「愛されている対象が卓越せるものであり、擢んでたものであり、無比のものであるということが、愛の完全性なのだろうか?わたしは、それは対象のもつ完全性にすぎず、しかも対象の完全性というものはむしろ愛の完全性に対する陰険な疑念のようなものでさえあると信じている。〔中略〕もし愛が特別なものを愛するというところにその愛の卓越さがあるとするならば、ほかならぬ神がいわば困惑し給うであろう。というのは、神にとっては特別なものというものは、何ひとつ存在していないからである。    

 しかし、この世には不平等がずっと続いてきたではないか。

 人びとはそう訴える。

 しかしそれは、わたしたちの愛を試す試練なのである。キルケゴールはそう主張する。

不平等というものは、時間性のある限り存続せねばならぬのであり、またこの世に入りきたるすべての人間を試みるために存続せねばならぬのである。なぜなら、人はキリスト者となることによって差別というものから自由になるのではなくて、むしろこのような差別がもたらす誘惑とによって、キリスト者となるからである。    


5.自己否定

 先に、人は正しく自分を愛さなければならないということを見た。

 しかし同時に、キリスト教は「自己否定」をもまた求めるものである。

 ここで言う「自己否定」とは、どこまでもただ神のみを崇拝せよということだ。

「キリスト教的自己否定は、神にまで達し、神を唯一の支えとするのである。    

 したがって、キリスト教における「正しい自己愛」と「自己否定」とは同じことの裏表だと言っていい。

 神を愛することが自己を愛することであり、神にすべてを委ねるがゆえに自己は否定されるのだ。


6.愛はすべてを信じ、しかも欺かれない

 愛はすべてを信じ、しかも欺かれることがないとキルケゴール(聖書)は言う。

 なぜか?

「なぜなら、真に愛する者は一片の愛の返しを要求することも絶対にしないし、ことこれに関してはゆるがぬ態度を保持しているからである。    

 絶対的な愛は、相手を絶対的に信ずるがゆえに、欺かれることなどあり得ないのだ。


7.愛はすべてを望み、しかも決して滅びない

「愛はすべてを望む」とは、愛する者の救いの可能性を常に望むという意味だ。

「愛する者は愛のうちに、いかなる瞬間にもなお可能性が、つまり他人に対する善の可能性が存在するということを希望、したがって他人が完全性から完全性へと歩み、ぶっ倒れてふたたび立ち上がり、堕落してもそこから救い出されるということを希望するのである。    


8.愛は自分の利益を望まない

 愛は自分の利益を望まない。なぜなら、愛においては「自分のもの」と「他人のもの」という区別が消失しているからだ。

愛は自分の利益を求めない。なぜなら、いかなるわたしのものも、お前のものも存在しないからである。しかし、もしわたしのものとお前のものとが存在しなければ人が自分のものを求めるということも不可能となるのである。


9.自己否定と無私

 最後に、キルケゴールは再び自己否定を説く。

「自己否定によって得られるものは、人間が内に向かって自己自身を神の前に無とすることによっ道具となり得るということである。」

このようにして、愛をたたえることができるということは、内面的には自己否定を、外面的には犠牲的な無私を必要とする。
   
 自己否定を通した無私の行為。これこそ「愛のわざ」なのだ。

(苫野一徳)

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