ニーチェ『権力への意志』(2)



はじめに

 前巻で、従来の宗教、道徳、哲学を批判したニーチェは、本書において、いよいよ彼独自の理論、すなわち「権力への意志」論を展開する。

「真理」など存在しない。わたしたちは、世界の一切を「権力への意志」によって解釈しているのだ。

 ニーチェはそのように主張する。

 真理ではなく解釈。この考えは、その後の現代哲学に絶大な影響を与えた。

 ニーチェによれば、わたしたちの世界解釈の根本原理は「権力への意志」である。わたしたちは、より強大な者になりたいという欲望・意志にもとづいて、世界を解釈しているのだ。

 はたしてそう断言していいのかどうか、やや仮説性の高い理論のようにも思われる。

 しかし、この「権力への意志」がゆがんだ時、ルサンチマンが生じるというニーチェの洞察はきわめて鋭い。

 人間的価値の発生を論じるにあたって、「権力への意志」は非常に有用な理論と言うべきだろう。

 ルサンチマンは、世界を、人を、そして自分を否定する。

 そしてその反動から、「真の世界」などというものを捏造する。

 科学も、「真の世界」を追うかぎり、ルサンチマンから抜け切れていない畜群の学問である。ニーチェはそう主張する。

 それに対して、ニーチェは、現実の生をどこまでも肯定する「超人」の哲学を主張する。

 と、ここまではいいのだが、ニーチェはここから民主主義を否定し、崇高な者たちによる貴族主義を説く。

 この点については、現代民主主義の観点から言って承服できないだけでなく、ニーチェ理論それ自体においても、必ずしも理屈の通った思想とは言えないようにわたしには思われる。

 だれもが「権力への意志」を持っているという説が正しいとしても、そこから、最も強大な者が社会を支配すべきであるという考えには直結しないはずだからだ。

 むしろ、せめぎあう「権力への意志」が、これまで終わることのない命の奪い合いを生み出してきたのなら、わたしたちは、この「権力への意志」を上手に調整しあう必要がある。

 そのような理屈もまた、当然成り立つはずなのだ。

 たとえば、「相互承認」を説いたヘーゲルなどは、このような仕方で理論を展開した哲学者だ。(ヘーゲル『精神現象学』『法の哲学』のページ参照)

 ニーチェが本書で罵倒している、J.S.ミルなども同様だ。(ミル『自由論』『功利主義論』のページ参照)

 しかしそれはともあれ、本書には、ニーチェ思想のエッセンスがぎゅっとつまっている。

 ぜひ、実際に手に取って味わってみていただきたい。


1.認識としての権力への意志

 まず、ニーチェは次の有名な言葉を述べる。その後の哲学に、絶大な影響を与えた言葉だ。

現象に立ちどまってあるのはただ事実のみ」と張する実証主義に反対して、私はであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。私たちはいかなる事実「自体」をも確かめることはできない。」

 絶対の「事実」(真理)などというものはない。それはつねに、わたしたち人間によって「解釈」されたものである。

 ニーチェはそのように言う。

 これをニーチェは「遠近法主義」と言う。

 わたしたちは、どのような事物も、あるいは意味や価値も、わたしたち自身の種々の立ち位置(遠近法)によって認識している。したがって、「事実それ自体」を、わたしたちは認識することなどできない。

 では、わたしたちは世界をどのように「解釈」しているのだろうか?

 最も根底においては、それはわたしたちの「権力への意志」によってである。

 ニーチェはそのように言う。

「真理」とは、現存する或るもの、見出され、発見さるべき或るものではなく、――つくりださるべき或るもの、過程に代わる、それのみならず、それ自体では終わることのない征服の意志に代わる名称の役目をつとめる或るもののことである。すなわち、〔中略〕それは「権力への意志」の代名詞である。」

 いったいどういうことか?

 従来、哲学は、どうすれば「真理」を認識できるのかを問うてきた。

 これをまずくつがえしたのは、18世紀のカントだった(カント『純粋理性批判』のページ参照)。

 カントは、わたしたちが「物自体」(真理)を認識することなどできないと主張した。

 ありていに言うならば、わたしたちの見ている世界と、犬やネコやカラスが見ている世界とは、おそらく異なっている。それゆえ、わたしたち人間が見ている世界もまた、その見えているがままに存在しているかどうかは決して分からない。

 それゆえ、わたしたちは「物自体」(真理)を認識することはできない。

 しかし、わたしたちがいったいどのような法則にしたがって世界を認識しているのかについては、知ることができるはずだ。

 カントはそう考えて、独自の認識論を展開した。

 さて、しかしニーチェに言わせれば、カントは「物自体」の存在それ自体は想定していた。それは人間には認識できないが、あることはある。カントはそう考えていた。

 それに対して、ニーチェは「物自体」の想定をもくつがえす。

ひとは、物自体がどのような性質のものであるかを知りたがるが、ところが、物自体なるものはなんらない!

 物自体などはなく、あるのはただ混沌(カオス)のみである。人間は、このカオスを、自分たちの「権力への意志」にしたがって「図式化」し、自らの意志に沿うよう解釈しているのだ。

認識する」のではなく、図式化するのである、――私たちの実践的欲求を満たすにたるだけの規整や規格を混沌に課するのである。    

 「権力への意志」とは、より強大な者になろうとするわたしたちの意志のこと。わたしたちは、世界をこの意志にもとづいて解釈している。

 たとえば、肉を見て貴重な食べ物と認識(解釈)するのは、肉それ自体の客観的な価値のゆえではなく、この肉によって自分の力が増大するとわたしたちが考えるからだ。

 わたしの持ち物を奪おうとする者が「敵」として認識されるのは、その人が客観的な悪だからではなく、わたしの「権力への意志」を毀損する者であるからだ。

 こうして、わたしたちは、世界の一切を「権力への意志」にしたがって解釈している。

 ニーチェはそのように主張する。


2.「真の世界」を棄却せよ!

 しかしそのために、人間はかえって「真理」や「神」などというものを捏造してしまった。

 ニーチェはそう言う。

 どういうことか?

 わたしたちは、「権力への意志」が満たされない時、その反動から「真の世界」を作り出すのだ。

形而上学の心理学によせて。――この世は仮象である。したがって或る真の世界がある、――この世は制約されている、たがって或る無制約的な世界がある、――この世は矛盾みちている、したがって或る矛盾のない世界がある、――この世は生成しつつあるしたがって或る存在する世界がある、――これらの推論はまったくの偽りである〔中略〕。こうした推論をなすよう霊感をあたえるのは苦悩である。〔中略〕すなわち、現実的なものに対する形而上学者たちのルサンチマンがここでは創造的となっているのである。

「権力への意志」が満たされない時、わたしたちはルサンチマンを抱き、この世界を否定する。そして、現実とはちがう理想の世界を思い描く。

 真理、それはルサンチマンによって捏造された仮構なのである。

 それゆえニーチェは次のように言う。

の世界を除去することが、決定的に要である。真の世界があればこそ、私たち自身がそれである世界が大いに疑問視され、その価値を滅ぜられる。すなわち、真の世界はこれまで私たちにとって生の最も危険な謀殺であったのである。

「真の世界」などという捏造があるかぎり、わたしたちはこの現実、この生をいつまでたっても肯定することができない。

 だから、「真の世界」を徹底的に棄却せよ!

 ニーチェはそう言うわけだ。


3.科学批判

 つづいてニーチェは、現代科学を「真の世界」を追うものだと批判する。

 ニーチェに言わせれば、科学の言う「真理」などというものもない。

 科学者は、世界は算定可能だと言う。しかしそれもまた、人間的な算定によって解釈された世界にすぎない。

「物理学的アトムに反対して。世界をとらえるためには、私たちは世界を算定しなければならない。世界を算定しうるためには、私たちは恒常な原因をもっていなければならない。ところが、私たちは現実のうちにはそうした恒常な原因を見出せないので、そうしたものを――アトムを、仮構する。これがアトム論の起源である。」

「私たちは、計算しうるためには単位を必要とする。それだから、そうした単位があると想定してはならない。私たちは単位という概念を私たちの「自我」概念、――私たちの最古の信仰箇条から借用してきた。」    

 科学もまた、世界を人間的なツール(記号・単位)によって解釈した人間的な世界像にすぎないのだ。

 そしてやはり、その根底には「権力への意志」がある。より強大な者たろうとする意志が、わたしたちに世界を(科学的に)解釈させるのだ。

 さらにニーチェは、下等生物でさえ、その生の原理は「権力への意志」にあると言う。


原始的な栄養作用という最も単純な場合をとりあげてみよう。原形質は、おのれに抵抗する何ものかを探しもとめるためにおのれの偽足をのばすが、――それは飢餓からではなく、権力への意志からである。これに引きつづいて原形質は、この抵抗物を克服し、わがものとし、同化しようとこころみる。――すなわち、栄養と名づけられているものは、より強くなろうとするあの根源的意志から結果する一現象、この意志の有効な一応要にすぎないのである。」

 ニーチェによれば、人間(生物)が求めるのは「快」であるとか「幸福」であるとかいうのは、不徹底な言い方である。

 人間が求めるのは「権力への意志」であり、それが満たされた時に、わたしたちは「快」や「幸福」を感じるのだ。

「「あらゆる生物は、権力をもとめて、権力の増大をもとめて努力する」。――快とは、達成された権力の感情の症候、差異性の意識性にすぎない――(――あらゆる生物は快をもとめて努力するのではない、そうではなくて、もとめんと努力されているものが達成されるとき、快が生ずるのである。快は随伴するのであって、快が動機であるのではない――)。」    


4.民主主義批判

 次にニーチェは、「権力への意志」理論にもとづいた社会批判を繰り広げる。

 矛先が向けられるのは、「平等」を唱える民主主義や社会主義だ。

 ニーチェは言う。

「「権力への意志」は民主主義時代においては、その時代の全心理学がこの意志の罵倒や誹謗をめざしているかにみえるほど、憎悪されている。」    

相互扶助、報いかえされたいとの底意は、人間の価値を低劣ならしめる最もいまわしい形式の一つである。    

 不平等を断罪する者は、ルサンチマンにまみれた者である。だから彼らは、不平等の責任者を見つけ出し罪をつぐなわせようとする。

 低劣な畜群どもめ!と、ニーチェは語気を荒げる。

「出来そこないの者どもは、あらゆる種類のデカダンどもは、わが身に関して反乱をおこしており、われとわが身で彼らの絶滅欲を満足させないためには、犠牲を必要とする〔中略」言いかえれば、彼らの生存の、彼らがかくかくであるということの事実を、なんらかの贖罪山羊に転嫁することができるようにさせてくれる理論を必要とする。

 平等思想は、畜群が作り出した「根本的過誤」にほかならない。

根本的過誤。すなわち、目標を畜群のうちへと置き入れて、個々の個人のうちへと置き入れないとは!畜群は手段であって、それ以上のものではない!しかるに現今では、畜群個人として解し、それに個々人よりもより高い位階をあたえようとこころみられている――最も深い誤解!!」


5.芸術としての権力への意志

 次にニーチェは、「権力への意志」理論にもとづいた秀逸な芸術論を展開する。

 ニーチェにとって、芸術はわたしたちの「権力への意志」を満たし、力の充溢を感じさせてくれるものである。

すべての芸術は強壮にする作用をもち、力を増させ、快感(いかえれば、力の感情)に点火し、陶酔のあらゆるより繊細な回想をよびおこす」

醜、言いかえれば芸術との矛盾、芸術からは排除されるもの、芸術の否定、〔中略〕醜は抑鬱的に作用する、醜は抑鬱の表現なのである。それは、力を奮い、貧困ならしめ、圧迫する・・・醜は醜を暗示する。」

 それゆえ、芸術は「真理」を表現するものであるといった芸術論は、愚かな誤りだと言わなければならない。

 有名な言葉を引用しよう。

「善と美とは一つである」と主張するのは、哲学者の品位にふさわしからざることである。さらにそのうえ「真もまた」とつけくわえるなら、その哲学者を殴りとばすべきである。真理は醜
 私たちが芸術をもっているのは、私たちが真理で台なしにならないためである。

 芸術こそが、わたしたちに、「真理」などなく、世界は「権力への意志」による解釈なのだということを知らしめてくれるのだ。

 芸術家とは、この世界を強靭な創造力によって独自に解釈し、わたしたちの前に示す存在にほかんらない。


6.すべての価値の価値転換

 本書のサブタイトルは、「すべての価値の価値転換」。

 これはどういう意味なのか?

 ニーチェは最後に言う。

「すべての価値の価値転換。快感をおぼえるのは、もはや確実にではなくて、不確実性。もはや「原因と結果」ではなく可、不断に創造的なもの。もはや保存の意志ではなくて、権力。もはや「すべてのものは主観的であるにすぎない」と謙虚に言うのではなくて、「これもまた私たちの作品!――私たちはこのことを誇ろう!」と言うこと。

 これまでの歴史を通して、人びとは、満たされない「権力への意志」からルサンチマンを抱き、それゆえに「真の世界」を捏造してきた。

 もはやそんな時代は終わりにしよう。

「こうでなければよかったのに」「ああであればよかったのに」という畜群根性を捨て去って、むしろ、「これこそわたしが望んだことだ!」と言え!

 ニーチェはそのように主張する(この点については、ニーチェ『ツァラトゥストラ』のページも参照されたい)。

 デビュー作『悲劇の誕生』から、壮大な思想書『ツァラトゥストラ』にまでいたる、ニーチェ思想のエッセンスが本書にはつまっている。


(苫野一徳)

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ニーチェ『権力への意志』(1)


はじめに

 ニーチェの死後、妹のエリーザベトによって編まれた著作。

 「権力への意志」。この言葉は、ニーチェの「超人」思想などとともに、後にナチスによって利用されることになる。

 しかしニーチェ自身は、国家主義も、人種差別主義も、実はとことん毛嫌いした哲学者だった。

 ニーチェをナチスと結びつけたのは、妹エリーザベトだった。

 反ユダヤ主義の夫を持ち、自身も人種差別主義者だったエリーザベトは、兄の思想を改ざんし、そうしてナチスに取り入ったのだった。

 しかし、このページではひとまずそのことはおいておいて、本書を一応はニーチェ自身の言葉が編まれたものとして紹介していくことにしたいと思う。


1.ニヒリズム

 まずニーチェは、本書は来るべきニヒリズムを予告する書であると言う。


「私の物語るのは、次の二世紀の歴史である。私は、来たるべきものを、もはや別様にはたりえないものを、すなわちニヒリズムの到来きしるす。」

 ニヒリズムとは何か?ニーチェは言う。

ニヒリズムとは何を意味するのか?――至高の諸価値がその価値を剥奪されるというこ。目標が欠けている。何のために?」への答えが欠けている。

 何のために生きているのか?わたしたちのこの苦しみの意味は何か?

 かつて、こうした問いに答えを与えてくれていたのは宗教(ヨーロッパではキリスト教)だった。

 しかし今や、宗教はその権威を失った。

 そこで登場したのが、ニヒリズムである。

 ニヒリズムは言う。世界や人生に、意味などないのだと。

 しかしニヒリズムはわたしたちを苦しめる。「無意味」に耐え続けることなど、人間にはとうていできることではない。

 しかしニーチェは言う。

 だからと言って、中途半端に「意味」を求めるな。それは結局、「神」とか「真理」とかいうまやかしに、わたしたちを再び舞い戻らせるだけである、と。

 わたしたちは、今や「神」も「真理」もないことを知っている。だから生半可にこれを求めても、余計に苦しむだけなのだ。

 ではどうすればいいのか?

 ニーチェは言う。

 まずはニヒリズムを徹底せよ。「神」や「真理」を求めるな。むしろ、これらの価値をまずはとことん転換せよ。

「これまでの価値を価値転換することなしに、ニヒリズムからのがれ去ろうとする試みこそ、その反対のことをうみだし問題を尖鋭化する。

 その具体的な価値転換のあり方については、本書後半で語られることになる(『権力への意志』(2)のページへ)。


2.キリスト教批判

 続いてニーチェは、「これまでの最高価値の批判」と称して、キリスト教、道徳、そして哲学を批判する。

 宗教について、ニーチェはまず次のように言う。

「宗教の起源は、外からのものとて人間を襲うところの、権力の極端な感情のうちにある。そして、四肢をあまりにも重たるく奇妙に感ずる病人が、他人が自分のうえに乗っているのだと結論するのと同じく、幼稚な宗教的人間はおのれを多数の人格のうちへと分裂させる。」    

人間のすべての偉大さや強さが、超人間的なものとして、外からのものとしてとらえられていたかぎり、人間はおのれを卑小ならしめた

 要するに、自らの苦しみに耐えられない弱い人間が、その反動から偉大な絶対者(神)などというものを捏造したと言うのだ。

 その時、人間は神の前で不完全な者となる。自己の矮小化、卑小化。これこそが宗教(キリスト教)の本質である。ニーチェはそのように言う。

 人間や生を肯定するのではなく、否定すること。

 そのようなねじ曲がった宗教が許されるだろうか?

 ニーチェはそのように問う。

 さらに、キリスト教は自らをシステムとして作り上げた。

 「僧侶」たちの登場だ。

 ニーチェは彼らをとことん罵倒する。

物的な権力を手中にしていないとき(軍隊をもたず、総じて武器をもたないとき・・・)何が権威をあたえるのか?」

「それは、彼らが、より高いより強い威力を手中にしているという信仰をよびさますことによってのみである、――、神を手中にしているとの信仰を――。」

 ニーチェに言わせれば、僧侶は卑屈な人間の典型である。

 すべての人間と同じように、彼らもまた「権力への意志」を持っている。そしてそれを満たすため、絶対の神を捏造し利用した。

 僧侶はこう言うのだ。

 神は絶対であり、自分はこれに仕えるものである。それゆえ、人間の中で最も偉いのは自分たちである、と。

 ニーチェは言う。

物の尺度としての卑小な者どもの道徳性、これこそ、文化がこれまで示した最も胸のむかつく変質である。」

(ニーチェのキリスト教批判については、『道徳の系譜』のページも参照されたい。)


3.道徳の批判

 続いてニーチェは、キリスト教的な「利他主義」道徳を批判する。

 ニーチェに言わせれば、これは「畜群」の道徳である。

ヨーロッパの全道徳は畜群の利益を基礎としている。

 どういうことか?

 ニーチェの考えでは、「よい」というのは、本来、強い者が自分の思うがままに生きられることを意味していた。

 しかし、ほとんどの人間はそのように生きることができない。

 そこで人びとは考えた。「よい」とは、利己的であることとは逆のこと、すなわち利他的であることなのだ、と。

 こうして、弱き畜群どもは「強さ」を否定した。

 そして、道徳的であるとは、「利他的」で弱者にやさしいことであるという「型」を作り出したのだ。

 これこそまさに畜群の理想。

 彼らは、個性を持たず、型にはまることで安心し、そして型にはまらない者たちを断罪することで、見苦しい優越感を得ようとする卑小な者たちなのだ。

 ニーチェはそのように言う。

有徳的人間は、いかなる人格」でもなく定不変の人間範型にかなっていることによってその価値を保っているというすでにこのことからても低劣な者どもである。有徳な人間は、おのれの価値を独自にもっているのではなく、したがって同等されうるし、おのれと等しき者をもっており、個別的であってはならないのである。

「道徳の歴史のうちにはつの権力への意志があらわれているのであるが、これによって、ときには奴隷や圧迫された者どもが、ときには不出来な者や自己に苦しむ者どもが、ときには凡庸な者どもが、おのれたちに最も好都合な価値判断を貫徹しようとこころみている。

 それにしても、なぜそのようなバカげた道徳がこれまでまかり通ってきたのだろうか?

 ニーチェは言う。

私たちは、何がこれまで至上の価値を決定してきたのか、なぜそれが敵対する価値評価を支配してきたのかを理解した――。それは数的により強力であったからである。

 あまりにも多くのルサンチマン人間たち。彼らは、その数によって、畜群的な道徳を世に広めることができたのだ。

 彼らに対して、強者、貴族、高級な者たちはあまりに少ない。

 ニーチェはそのように主張する。


4.哲学の批判

 続いて、ニーチェはこれまでの哲学もまた批判する。

 カント哲学にもヘーゲル哲学にも、「絶対的権威」の残りカスがある。

 彼らも、結局は「神」を前提とした哲学を展開した哲学者だったのだ(たとえば、カント『実践理性批判』ヘーゲル『精神現象学』などのページ参照)。

 しかし、実を言うとその根は、すでに古代ギリシアのソクラテスプラトンにある。

 ニーチェは言う。

「プラトンにあっては、私たちは、かつて善の可想界に住んでいた者として、いまでもその当時の遺物を所有している、すなわち、神的な弁証法が、善から由来するものとして、すべての善へと導くのである」    

 「真理主義」を殲滅せよ。

 ニーチェはそのように主張する。







(苫野一徳)

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