バタイユ『ニーチェについて―幸運への意志』


はじめに

 『内的体験』『有罪者』とともに、いわゆる「無神学大全」3部作の1つ。

 「神は死んだ」と宣言したのは、19世紀最大の哲学者ニーチェだった。

 もはやこの世界に、絶対的真理などありはしない。

 バタイユもまた、ニーチェのこの思想を引き継いでいる。

 しかしバタイユに言わせれば、ニーチェが神の代わりに提示した「力への意志」の思想は、ニーチェ哲学における深刻な退行である。

 人間は、より以上の力を求める存在であるとする「力への意志」の教説は、結局のところ、神に代わって「力」という新たな絶対的価値を置いただけなのだ。
 
 神を否定するのであれば、私たちは、そうしたきわめて「理性的」な教説のすべてを否定しなければならないはずだ。

 では、「神」や「力」に代わるべきものはいったい何か?

 それは「幸運」である。

 すべてをただ幸運に委ねること。その偶然、その賭けにすべてを委ねること。

 そのように主張するバタイユは、本書を、できるだけ「理性的」な言葉や文法によらない、きわめて詩的かつ晦渋な文体で書き綴る。

 論理をもって読者に彼の思想を分からせようとするよりは、「分かる人には分かる」といった態度が貫かれているのが、「無神学大全」3部作に共通して見られる特徴だ。

 実際、バタイユは本書で次のように言っている。

「私は、悪意のある人たちにはほとんど語りかけておらず、そうではない人たちに私のことを見抜いてくれるように求めているのである。友愛の目さえ持っていれば、かなり遠くまで見ることができる。」   


 『内的体験』のページにも書いたように、私自身は、戦後に書かれた『呪われた部分』『エロティシズム』が第一級の作品であるのに比べると、この「無神学大全」諸著作は、あまり評価できるものではないと考えている。

 反知性主義、反理性主義、反哲学の態度を標榜し、理性では捉えられない世界を描き出そうとするバタイユの姿勢は、共感する部分も少なくないが、結局のところ「反(アンチ)」にとどまっている感を拭えない(このことについての詳細は、『内的体験』のページを参照)。


 明晰な論理で語ることを拒否した彼は、本書においても、「分かってくれ」「見抜いてくれ」ということを強調する。

 しかしこれは、あまりに子どもじみた物言いではないだろうか? 自分の思想の「普遍性」を確信しながらも、その普遍性を、読者に意を尽くして理解してもらおうとしないのは、欺瞞であるようにさえ感じてしまう。

 バタイユは戦後になって、こうした「内的体験」をただ叙述するだけのスタイルを改め、自らの思想をより普遍的なものへと鍛え上げるべく、きわめて論理的かつ説得的に論を展開していくようになる。

 そこで繰り広げられる様々なテーマについての本質洞察は、まさに超一級のものであると言っていい。

 その観点から見ても、本書を含む「無神学大全」3部作は、後期バタイユ思想が結実するまでの、過渡的な内省録と捉えるべきではないかと私は思う。


1.幸運=賭け

 先述したように、バタイユは、ニーチェの本来の思想は、「力」よりも「幸運」の概念によってより徹底されると主張する。

「明らかになったのは、幸運が“力”よりも正確にニーチェの意向にそうているということだった。唯一《賭け》だけが、可能なるものの奥深くへ分け入ってゆく特質を有していた。それも結果を予め憶測せずに分け入っていったのだ。つまり人は通常、先入観に、過去の一形態でしかない先入観に信頼を寄せるが、《賭け》は、未来のみに、その自由な到来に信頼を寄せて、可能なるものの奥深くへ分け入ってゆくことができたということである。」

 幸運とは「賭け」である。ニーチェは本来、この未来への「賭け」にこそ、人間存在の可能性を見出そうとしたのではなかったか。

「私に言わせれば、「力への意志」は、最終目標として捉えた場合、後戻りを意味している。もしも私が、「力への意志」に従ったとすると、私は、存在を隷属的な部分に変える、あの断片化へと戻ってゆくことになるだろう。私は再び義務を背負うことになり、私の意欲する“力”、この善が私を支配することになるだろう。」


2.幸運=頂点

 では「幸運」とは何か?

 バタイユは言う。それは一つの「頂点」である、と。

 「頂点」とは何か?

 それは(生の)「過剰」である。そしてこの頂点の反対の極にあるのが、「憔悴」である。

 バタイユにとって、生の頂点は、理性的にふるまい、世俗道徳に合致することではあり得ない。それは単に「憔悴」をもたらすだけの生き方だ。

 そうではなくて、自らのエネルギーを、ただ爆発させるためだけに爆発させること。この過剰な「蕩尽」にこそ、生の頂点、すなわち幸運がある。バタイユはそのように主張する。そしてそれは、偶然の、文字通り幸運として訪れるほかないものである。

 その1つの例を、私たちは究極のエロティシズムに焼かれている時に見ることができる。(この点については、『エロティシズム』『エロティシズムの歴史』『エロスの涙』などに詳しい。)

「性生活は、その目的〔子供の生産〕と比較して眺めてみると、ほぼそのすべてにおいて過剰――到達困難な頂点への粗野な突入――である。性生活は、未来時への配慮と本質的に対立する豊饒さなのである。」


3.神

 賭けにすべてをゆだねる、「幸運」の思想。

 過剰・蕩尽へと向かう思想。

 この観点から見れば、「神」などいよいよもって唾棄すべき存在である。

 なぜならそれは、一切の幸運的なもの、偶然的なものを拒絶する、「全知全能」を主張する観念であるからだ。

「絶対者、この下劣で非人間的な言葉を語るということ。これは人間のくずの渇望だ。

「好運が何であるか理解している者には、神という概念は何と味けなく、うさんくさく、翼をもぎとるものに見えることか!」

「私は好運だけしか欲しない……。好運は私の目的、唯一の目的であり、また私の唯一の手段である。」


4.ニーチェ擁護

 本書の「補遺」には、次のようなニーチェ擁護が展開されている。

 周知のように、ニーチェの「力への意志」の思想は、ナチスによって利用された。力あるもの、権力ある者が世界を支配する。ナチスはニーチェの思想を、そのようなものとして受け取った。

 これに対して、バタイユは言う。

「ファシズムの反動家にせよ他の反動家にせよ、反動家の思想とニーチェの思想との間には、相違以上のものがある。根本的な不一致といったものがあるのである。〔中略〕ニーチェは、この至高の人間に対して、すべてを耐える精神力を要求していた。と同時に規範を侵犯する権利を認めていた。しかし原則として、この至高の人間を権力の座についている者とは区別していた。」

 ニーチェの言う「超人」は、権力の座についている者とは別ものである。そうバタイユは言うわけだが、このあたり、本当にそう言いきれるかどうかちょっと怪しいように私は思う。

 ただ、バタイユが言うように、ユダヤ人をめぐってニーチェがナチスとは相反する思想を持っていたことは、今日十分に立証されている。

「反ユダヤ主義者に対する憎悪くらいニーチェが完全に明言したものはない。」    

 ニーチェをナチスや反ユダヤ主義と結びつけた責任は、あの悪名高き妹、エリザベートにある。

 バタイユは言う。

「エリザベート・フェルスター夫人(旧姓ニーチェ)は、一八八五年反ユダヤ主義者ベルンハルト・フェルスターと結婚したため生じた兄との悶着を、一九三三年十一月二日においても忘れていなかった。〔中略〕ユダのごときエリザベート・フェルスター夫人は、ニーチェの没したワイマールの家に、ドイツ第三帝国総統アドルフ・ヒトラーを迎え入れたのだった。」

「一九三三年十一月四日付けの英紙『タイムズ』はこう伝えている。
「ヒトラー総統は、エッセンに向けワイマールを発つ前に、エリザベート・フェルスター=ニーチェ夫人(あの高名な哲学者の妹)の家を訪問した。老夫人は、かつて兄の所有していた仕込み杖を総統に贈呈した。次いで総統をニーチェ史料室へ案内した。

 ヒトラー氏は、そこで、反ユダヤ主義の一扇動家フェルスター博士が、一八七九年、ビスマルクに提出した意見書、ユダヤ精神がドイツに侵入するのに抗議する文面の意見書が朗読されるのを聞いた。ヒトラー氏は、手にニーチェの杖を持って、拍手喝采する人々の間を縫って史料室をあとにした。」」


5.内的体験と禅宗

 「補遺」において、バタイユは日本の禅についても、鈴木大拙を引きながら次のようなことを述べている。

「禅の信仰の基本は瞑想体験であるが、この体験は悟りと称される閃きの瞬間だけを目的にしている。理解なる方法によっても悟りに到達することはできない。悟りは、何らかの予期しえぬ異常が惹き起こす突然の混乱、急激な開けなのである。」

 バタイユは、たぶんに反理性主義、反西洋主義の思想家だ。

 しかしだからこそ、と言っていいと思うが、彼の思想は、私たち日本人には、かなりなじみやすく、ある種の既視感さえ与えるものになっている。

 その意味では、「無神学大全」3部作は、西洋思想の観点からすればいくらか破壊的な意義を持ったものとは言えるかもしれないが、私たちからすれば、「何を今さら」といった感を与えないでもない。

 ともあれいずれにせよ、「はじめに」でも言ったように、私の考えでは、バタイユ思想の本領は、本書の後に書かれることになる、『エロティシズム』や『呪われた部分』などにある。

 だから「無神学大全」3部作は、そこへいたるまでの、過渡的な内省録と捉えるべきだと私は思う。

(苫野一徳)


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