カール・ポラニー『大転換』


はじめに

へのへのもへじ 完全に自己調整的な市場など存在しない!

 1944年、第2次世界大戦の最中に書かれた本書において、ポラニーは、豊富な経済史の知識を駆使してこのことを強調した。

 市場にすべてを任せることが、最善の経済政策である……。そのような市場原理主義のドグマを、ポラニーは歴史的な観点から打ち砕くことを試みたのだ。

 彼の研究は、今日、まさに「自己調整的市場」というドグマを掲げる新自由主義が席巻する中、改めて大きな注目を集めている。

 新自由主義は、政府の介入を抑えた自己調整的市場においては、貧困者もふくめてすべての労働者が経済成長の恩恵にあずかれるという「トリクル・ダウン」理論を掲げている。

 しかしポラニーによれば、歴史的にいってそのようなことは決して起こり得ない。むしろこのドグマこそが、世界を破滅に陥れる危険をはらんでいるのだ。


 「大転換」――それは、世界史における2つの転換を意味している。

 1つは、19世紀に世界中を覆いつくした、「自己調整的市場」を信条とする市場自由主義の台頭。そしてもう1つは、その反動として起こったファシズムの台頭である。

 ファシズムは、市場自由経済の矛盾が最高潮に達した時に起こった、社会の防衛反応だったのだ!

 新自由主義が席巻する現代社会において、改めて多くの人に読み直されるべき名著だろう。


1.自己調整的市場という19世紀のドグマ

 19世紀文明の特徴は、次の4つにある。

1.バランス・オブ・パワー・システム
2.国際金本位制
3.自己調整的市場
4.自由主義的国家

 この中で最も本質的なのは、「自己調整的市場」というドグマだ。このドグマを基底にして、残り3つのシステムが成立していたからだ。


 「市場」は自己調整的であり、そうであるのが最も望ましい。だからこそ、各国は自由主義的国家であるべきであり、国際貿易を円滑に進めるために金本位制が必要であり、そしてそのことで、各国の間には力の均衡が成立しうる。19世紀はそのような思想のもとで、平和と経済発展を享受しようとしたのだった。


 しかしポラニーは言う。


「自己調整的市場という考えはまったくのユートピアであったということ、これがわれわれの主張する命題である。このような制度は、社会の人間的実在と自然的実在を壊滅させることなしには、一瞬たりとも存在しえないであろう。」


 以下、ポラニーは、これら19世紀文明の崩壊について論じていく。


2.バランス・オブ・パワーの崩壊

 1815年から1914年まで、ヨーロッパは空前の平和を謳歌していた。

 しかしそれは、実はきわめてもろいバランス・オブ・パワーのもとに成り立っていたものだった。

 ビスマルク時代(1861〜90年)に、ヨーロッパ協調は最高潮に達した。しかしすでに1870年代末には、自由貿易の時代は終わりを迎えつつあった。そして1900年代に入ると、各国は自由貿易ではなく、植民地戦争による富の獲得へと舵を切ることになる。

 植民地主義とは、自己調整的市場がうまくいかなかったことによる反動だったのだ。


3.金本位制の崩壊


 1930年代には、金本位制が崩壊する。ポラニーは言う。


「変化は一九三〇年代初頭に突然始まった。その画期をなしたのは、イギリスによる金本位制の放棄、ロシアにおける五カ年計画、「ニュー・ディール」の開始、ドイツにおけるナチス党の革命、および自給自足的諸帝国の出現をもたらした国際連盟の崩壊であった。」


「危機の根本的な原因は、国際経済システムの崩壊がもたらした脅威であったというのがわれわれの主張である。」

 金本位制の崩壊、それは、「自己調整的市場」が結局成り立たないことの証拠だった。

 金本位制には、「自己調整的市場」というドグマのもと3つのルールがあった(以下は、フレッド・ブロックによる本書の「紹介」を参照)。


 1つは、各国は金の一定量に対して自国の通貨の価値を定め、その通貨価値で金の売買を行うよう約束すること。

 2つは、各国は自国の国内通貨の供給を準備金として保有する金の量に基づいて行うこと

 3つは、各国は自国の住民に国際的な経済取引に従事する最大限の自由を認めるよう努めること。

 理論的には、この制度によって、グローバル市場は自発的に統合されるはずだった。

 しかし現実は違った。すなわち、一国の国内価格が国際的な物価水準から乖離すると、当該国の金準備の対外流出を調整する唯一の正当な手段はデフレーションである。これは次のことを意味する。つまり、賃金の下落によって消費が減少して対外収支が均衡するようになるまで、当該国の経済を縮小させることである。これは賃金および農業所得の大幅な下落、ならびに企業と銀行の破綻の急激な増大を引き起こすことになる。

 こうして、各国は金本位制から離脱していったのだった。

 その結果、何が起こったか。全体主義の台頭だ。経済的な自由主義がうまくいかなくなったからこそ、これを統制する全体主義が登場したのだ。

「自由主義国家は、多くの国において全体主義的な独裁体制にとって代わられ、一九世紀の中心的制度であった自由市場を基礎とする生産は、新しい形の経済に代替された。」


4.市場経済の勃興と崩壊――擬制商品

 ここで改めて、市場経済の勃興と崩壊の歴史を見てみよう。

 ポラニーが重視するのは、精巧で高価な機械の登場だ。


「精巧な機械は高価であるから、大量の商品が生産されなければ生産は引き合わない。」 

 そのためには何が必要か。安価な大量の労働力である。

 ここに、労働力を商品として取り扱いたいとする、新たな動機が生まれることになる。

 また、工場を作るためには新たな土地も必要だ。そのためには、地主の既得権益を破壊しなければならない。

 さらに、商品を広く行き渡らせるためには、すべてを貨幣交換のネットワークに吸収してしまう必要がある。

 こうして、従来は「商品」になり得なかったはずの新しい「商品」市場が登場することになる。すなわち、労働市場土地貨幣市場である。

 これら3つを、ポラニーは擬制商品と呼ぶ。自己調整的メカニズムの思想は、本来商品ではあり得ないはずのものを、すべて市場という「悪魔のひき臼」の中に取り込んだのだ。


労働、土地、貨幣は、明らかに商品ではない。売買されるものはいかなるものであろうと、販売のために生産されたものでなければならないという公準は、労働、土地、貨幣についてはまったく当てはまらない。換言すれば、商品の経験的な定義からするとこれらは商品ではないのである。

「それにもかかわらず、労働、土地、貨幣に関する市場が実際に形成されるのは、この擬制の助けによるものである。これらの三つは、現実に市場で売買されているし、これらに対する需要と供給は現実的な大きさをもっている。そしてこれらの市場の形成を妨げるようないかなる措置や政策も、それだけでシステムが行う自己調整を窮地に追い込むことになるだろう。つまり商品擬制(commodity fiction)は、社会全体に関する決定的に重要な組織原理を提供しつつ、ほとんどすべての社会制度に多種多様なやり方で影響を与えている。」

 これら3つが市場に取り込まれたことが、自己調整的市場の崩壊の序曲であった。

 労働も土地も貨幣(購買力)も、人が人として生きていくために必須の基礎条件だ。したがって、これを不安定な市場にゆだねた時、人間の生活と社会は崩壊してしまわざるを得ないのだ。

「労働、土地、貨幣の市場が市場経済にとって必須のものであることに疑問の余地はない。しかしいかなる社会も、その中における人間と自然という実在あるいはその企業組織が、市場システムという悪魔のひき臼の破壊から守られていなければ、むき出しの擬制によって成立するこのシステムの影響に一瞬たりとも耐えることができないだろう。」


5.スピーナムランド法とその廃止

 ここでポラニーは、このあらゆるものの市場化に先鞭をつけたものとして、イギリスにおける1834年のスピーナムランド法の廃止について詳論する。

 スピーナムランド法、それは、1795年から1834年まで続けられた貧民救済の法である。ポラニーは言う。

れは実際のところ、「生存権」の導入に等しい社会的・経済的革新の導入であり、一八三四年に廃止されるまで、競争的労働市場の確立を妨げるのに効果があった。」

 ところがこの法律には明白な矛盾があった。

「すなわち、雇用主がどんなに僅かな賃金しか払わなかったとしても、救貧税からの補助金が労働者の所得を規定の額にまで引き上げてくれたのちに、労働の生産性は、貧民労働の水準にまで低下しはじめ、かくして、規定された額を超えて賃金を上げないさらなる口実を雇用主に与えた。」

 働かなくても生きていける。この事実は、雇用主たちに対して、さらなる賃金低下の動機を与えることになってしまったのだ。

 こうして1834年、スピーナムランド法は廃止されることになる。しかしそれは、労働者の「生存権」を奪い去ることにほかならなかった。ポラニーは言う。

「おそらくあらゆる近代史の中で、これ以上無慈悲な社会改革が実行されたことはなかった。」

 生存権を奪われた労働者は、否応なく労働市場へと投げ込まれることになった。それは、超低賃金の、きわめて過酷な生活を余儀なくされることだった。

 しかし1870年代になって、その反動がやってくる。すなわち、工場法の制定、社会立法、そして工業労働者階級の政治的運動が起こるようになったのだ。


「一八三四年になって初めて、イギリスに競争的労働市場が確立した。それゆえに社会システムとしての産業資本主義は、それ以前に存在したとはいえないのである。だが労働市場の確立に間髪を入れず、社会の自己防衛が開始された。すなわち、工場法や社会立法さらに工業労働者階級の政治的運動が出現したのである。」

 要するにポラニーは、これらの例を通して、自己調整的市場など歴史的にいってうまくいった試しがなく、それが実行されれば、即座にその反動運動が起こってきたと主張するのだ。


6.自己調整的メカニズムというドグマの成立

 ポラニーの見るところによれば、自己調整的メカニズムというドグマを完成させたのは、アダム・スミスではなくその後のリカードマルサスらである。

 実は彼らには先駆者がいる。

 スミスの『国富論』(1776年)から10年後、タウンゼンド『救貧法論』(1786年)が出る。

 ここでタウンゼンドは、次のようなエピソードを紹介した。

「舞台は、チリ沖の太平洋上にあるロビンソン・クルーソーの島である。フアン・フェルナンデスは、この島に、将来立ち寄る場合に備えて、食肉用に数匹の山羊を陸揚げした。山羊は途方もない勢いで繁殖し、スペインの貿易を悩ましていた大半がイギリス船であった私掠船にとって、絶好の食料供給源となった。スペイン当局は、この山羊を滅ぼすために一つがいの犬を陸揚げし、犬もまた時を経るにつれて非常に繁殖し、餌にしていた山羊の数を減少させた。そこでタウンゼンドは、次のように書いたのである。「このようにして、新たな均衡が取り戻された。双方の種のうちで弱い方がまず自然淘汰され、活動的で精力的な方が生き残った」。これに続けて、彼は次のようにつけ加えた。「人類の数を調整するのは、食料の多寡である」と。」

 自然(自己調整的メカニズム)に任せていれば、人間の均衡が可能になる。このタウンゼンドの主張が、リカードやマルサスにインスピレーションを与えたのだ。

 ポラニーによれば、同時代の知識人たちは皆似たような思想を持っていた。思想的には対立関係にあるはずの、伝統主義者バークと、合理主義者ベンサムも、この点については合意していた。

 しかしただ1人、自己調整的メカニズムの経済の問題を深く洞察していた思想家がいた。

 自らも大工場経営者であった、ロバート・オーウェンだ(オウエン『社会にかんする新見解』のページ参照)。

 自身のニュー・ラナーク工場で、オーウェンは、労働者たちに教育や福祉を与えた。その試みは、欧米から多くの訪問者を得るほどに有名になった。

 しかしそれでも、圧倒的な資本主義の力の前に、オーウェン主義は頓挫せざるを得なくなる。


7.反自由主義の陰謀という仮説

 自己調整的メカニズムは成り立たない。そのことは明らかなはずなのに、経済的自由主義者たちはこれをなかなか認めようとしない。そしてその代わりに、自己調整的メカニズムがうまくいかないのは、これを妨げようとする者たちによる陰謀があるからだと主張する。

 しかしこの陰謀説がどれほど根拠のないものであるか、ポラニーは本書で詳しく分析している。

 実は歴史的に見て、市場経済に対抗する「集産主義」は、ほかならぬ自由主義者たちによって行われてきたのだ。

もしも自己調整的市場の要求が自由放任の要求と両立しないことが判明した場合には、経済的自由主義者は自由放任に背を向け、反自由主義者なら必ずそうするように、規制と制限といういわゆる集産主義的方法を選択したのである。労働組合法も反トラスト法も、このような考え方から生み出された。経済的自由主義者自身でさえも、産業組織の決定的に重要な分野において決まってこのような方法を利用したという事実ほど、近代産業社会の諸条件のもとにおいて反自由主義産主義的」方法が不可避であるということを明確に示す証拠はあるまい。

 経済的な反自由主義は、陰謀でも何でもなく、社会の自然な防衛反応なのだ。

 その最も顕著な例を、わたしたちは「ニュー・ディール政策」に見ることができる。

「一九二年代という繁栄の一年ののちに、ようやく不況がやってきた。その不況はあまりに厳しかったので、労働と土地のまわりにヨーロッパのいかなる国にも見られないほどの幅広い堀をめぐらそうと、自然の成り行きとして「ニュ・ディール」が開始されたのだった。かくしてアメリカは、自己調整的と思われる市場には社会防衛がつきものであるというわれわれの命題についての決定的な証拠を、意味でも提供してくれたのである。


8.ファシズムの台頭

 ファシズムの台頭は、こうした自己調整的市場の失敗によってもたらされたものである。

自由主義的資本主義が逢着するにいたった行き詰まりに対するファシストの解決策は、生産領域と政治領域の双方におけるあらゆる民主的制度の破壊という代価を支払うことによって達成される市場経済の改革と表現することができるだろう。

 実はこのような動きは、それが最終的に成功したかどうかは別として、世界中で見られたものだった。

「ファシズムは常に与えられていた政治的可能性であり、一九三年代以降はどの産業社会においても出現する可能性のある、ほとんど瞬間的な情緒的反応であった。」

 自己調整的市場というドグマにもとづく限り、社会は常にこのようなファシズム的危機に直面せざるを得ない。ポラニーはそのように主張する。

「自由主義哲学のような立場をとれば、次の二つの選択肢しかなくなる。すなわち、幻想にすぎない自由の観念を固守して社会の現実を否定するか、あるいは社会の現実を受け入れて自由の観念を拒絶するかである前者は自由主義者の結論であり、後者はファシストの結論であったこれ以外の選択肢はないように見える。

 自己調整的市場というユートピアを捨てよ。これが本書におけるポラニーの結論だ。

「市場ユートピアを放棄することによって、われわれは社会の現実とまともに向き合うことになる。

 それは具体的には、労働、自然(土地)、貨幣を、市場の中に取り込むのをやめることだ。

「単なる権利の宣言では不十分であり、権利を実効あらしめる諸制度が必要とされる。」

 ではそれは、いったいどのような制度でありうるだろうか。

 新自由主義やグローバル資本主義が台頭する今日、改めて考えなければならない大きな課題だ。



(苫野一徳)

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ウェーバー『職業としての学問』


はじめに

 第1次世界大戦後の1919年に、ミュンヘンで行われた有名な講演。

 本書の主なテーマは次の3つだ。

 1つは、「職業としての学問」を行う者、つまり大学教員の実態

 2つは、その職業としての学者の資質

 そして3つは、学問はどうあるべきか(いわゆる「価値自由」について)。

「教授になれるかどうかは運である。自分も運で教授になれた。」

 社会学の巨人ウェーバーをして、そう言わしめる大学の世界。

 勇気づけられるような、絶望させられるような、ちょっと複雑な気分にさせられる……。

 ともあれ、「職業としての学問」をめざすすべての人にとって、本書は今もなお必読の書だ。


1.教授になれるかどうかは運である

 本書のはじめに、ウェーバーはまず、ドイツとアメリカにおける大学教員の実態を描き出す。

 ドイツでは、大学でのポストはまず「私講師」からはじまる。学生からの聴講料だけで生計を立てなければならない、きわめて不安定なポストだ。

 一方のアメリカは、有給の「研究助手」から始まる。ただし給料をもらっている分、日々雑務に追われ、また激しい競争にもさらされている。

 このような大学の現状、そして、近年ドイツがアメリカ化しているという話をした上で、ウェーバーは、若い研究者がいずれ大学教授になれるかどうかは、まったくもって運によるほかないと言う。

「私講師や研究所助手が他日正教授や研究所幹部となるためには、ただ僥倖を待つほかはない。」

「それがまったくの偶然の支配下にあるということは、実際想像のほかである。おそらく、これほど偶然によって左右される職歴はほかにないであろう。わたくしがあえてこの点を強調するのは、わたくしのようなものでも、こうしたまったくの偶然のおかげで、ほかにわたくしと同年輩で疑いもなくわたくし以上に適任の人がいたにもかかわらず、まだかなり若いころに一学科の正教授に任ぜられたからである。また、こうした経験があるからこそ、わたくしは多くの人々の不運なめぐりあわせを余計はっきりと察することができると自負しているのである。」


 今も昔も、そう変わらない大学の実態だ。


2.学者の資質

 続いて、ウェーバーは学者の資質について話を進める。 

「こんにちなにか実際に学向上の仕事を完成したという誇りは、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ得られるのである。」

 専門に閉じこもれない人間は、学者には向かない。そうウェーバーは言う。


「いわばみずからめかくしを着けることのできない人や、また自己の全心を打ち込んで、たとえばある写本のある箇所の正しい解釈を得ることに夢中になるといったようなことのできない人は、まず学問には縁遠い人々である。」


 もっともこれは、タコツボや象牙の塔の中で生活する、単なる専門バカ(専門以外のことを何も知らない人)を称揚した主張ではないようにわたしには思われる。

 ウェーバー自身、きわめて広範な問題意識を持ち、膨大な知識を駆使して自らの問題を探究した人だった。

 だからウェーバーがここで言いたいのは、むしろ、己の学問的問題意識を、どこまでも真摯に探究せよということなのだろう。

 だから彼は、続けて次のように言う。

「学問の領域で「個性」をもつのは、その個性ではなくて、その仕事に仕える人のみである。」

 有名な一文だ。

 学問における「個性」は、自らの問題意識に徹底的に向き合うことによってのみ育まれる。自分の優秀さをひけらかしたいというような自意識の持ち主は、この世界では決して「個性的」な人にはなれない。そうウェーバーは言うのだ。

「どうだ俺はただの「専門家」じゃないだろうとか、どうだ俺のいったようなことはまだだれもいわないだろうとか、そういうことばかり考えている人、こうした人々は、学問の世界では間違いなくなんら「個性」のある人ではない。」


3.価値自由

 最後に、ウェーバーは学問のあるべき姿を論じる。

 まず彼は言う。

「学問上の「達成」はつねに新しい「問題提出」を意味する。それは他の仕事によって「打ち破られ」、時代遅れとなることをみずから欲するのである。」

 続いて述べられるのが、有名な学問における「価値自由」についてだ。

 学問は「べき論」であってはならない。これがウェーバーの言う「価値自由」だ。学問の本分は、事象の事実関係を明らかにすることのみである。したがって、そこから「べき論」を導くのは越権である。

 いわゆる「存在(事実)」から「当為(べき)」を導くことの禁止を、ウェーバーはこうして本書でも強く訴える(この点についてのより詳細な論述は、彼のいわゆる「客観性論文」のページを参照)。

「われわれはいったいなにをなすべきか、またいかにわれわれは生きるべきか」という問い――あるいは今夜ここで使われたことばでいうならば「あい争っている神々のいずれにわれわれは仕えるべきか、またもしそれがこれらの神とはまったく巡ったものであるとすれば、いったいそれはなにものであるか」という問い――に答えるものはだれかとたずねたならば、そのとき諸君は答えるべきである、それはただ予言者か救世主だけである、と。」

 では学問はいったい何をするべきなのか?ウェーバーは言う。

「さて、最後に諸君は問うであろう、では学問はいったい個々人の実際生活にたいしてどのような積極的寄与をもたらすであろうか、と。かくて、われわれはふたたび学問の「職分」に関する問題に立ち帰るのである。この点でまず当然考えられてよいのは、技術、つまり実際生活においてどうすれば外界の事物や他人の行為を予測によって支配できるか、についての知識である。」

 学問にできること、それは予測を通した制御である。

 今日なお、あらゆる実証学問に言えることだろう。

 ただし「べき論」については、わたしたちは実証科学とはまた別の学問を持っている。

 「哲学」がそれだ。

 哲学の一つの本質的な仕事は、多くの人の間に共通了解可能な「価値」を、検証可能な仕方で論じることにある。

 それはいったい、どうすれば可能なのか?

 この点については、拙著『「自由」はいかに可能か—社会構想のための哲学』(NHKブックス)などで論じたことがある。興味のある方にお読みいただければ幸いだ。





(苫野一徳)

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