ラッセル『幸福論』


はじめに

 数学者にして哲学者。ノーベル文学賞を受賞し、平和運動にも取り組んだ、20世紀の知の巨人ラッセル。

 本書は、そんなラッセルの、バランスのとれたすぐれた考察が光る名著だ。

 本書冒頭で、ラッセルは、自身の幼少期を振り返りつつ、それが決して幸福なものではなかったことを述べている。

 何度も自殺を考えたが、数学への情熱がそれを阻んだ。そしてその情熱が、自分に幸福をもたらした。そうラッセルは言う。

 また、さまざまなことを「捨ててしまった」ことが、今の自分の幸福をもたらしたとも言う。

 「自我」にこだわりすぎず、世界に対して友好的で多様な興味を抱け。それが幸福の秘訣である。

 ラッセルは本書でそのように説く。


1.強すぎる自我

 私たちを不幸にするもの。それは「強すぎる自我」である。これがわたしたちに、ねたみ誇大妄想といった不幸をもたらす。

あまりにも強い自我は一つの牢獄であって、もしも、人生を目いっぱいエンジョイしたいのであれば、人はそこから逃げ出さなければならない。」

 こうした自我にこだわる限り、わたしたちは、たとえ強大な権力を手に入れたとしても、幸福になることなど決してできない。

アレクサンダー大王は、〔中略〕、自分が世に知られた最も偉大な征服者であることが明らかになったとき、自分は神であると思い決めた。彼は、幸福な人間であっただろうか。彼の大酒癖、猛烈なかんしゃく、女性への無関心、神性の主張は、幸福でなかったことを暗示している。

 強すぎる自我は、また、わたしたちをたえず「競争」へと駆り立てる。そしてそのことで、幸福のために大切なものからわたしたちの目をそむけさせてしまう。

 ラッセルは言う。

人生の主要目的として競争をかかげるのは、あまりにも冷酷であまりにも肩ひじはった、ひたむきな意志を要する生きざまなので、〔中略〕それは神経衰弱や、種々の逃避現象を生み出し、快楽の追求を仕事と同じくらい緊張した困難なものにするにちがいない」


2.退屈の重要さ

 続いてラッセルは、現代人が過度の興奮を求めすぎることに注意を呼びかける。


あまりにも興奮にみちた生活は、心身を消耗させる生活である。そこでは、快楽の必須の部分と考えられるようになったスリルを得るために、絶えずより強い刺激が必要になる。

一定の量の興奮は健康によい。しかし、他のほとんどすべてのものと同じように、問題は分量である。」

 偉大な本や人間は、おしなべて退屈な部分を多く持つものだ、とラッセルは言う。おもしろい箇所なので、少し長いが引用しておきたい。

「偉大な本は、おしなべて退固な部分を含んでいるし、古来、偉大な生涯は、おしなべて退屈な期間を含んでいた。現代のアメリカの出版業者が、初めて持ちこまれた原稿として旧約聖書を目のあたりにした場合を想像してみるがいい。たとえば、家系について彼がどんなコメントをするかを想像するのはむずかしくない。「ねえあなた」と彼は言うだろう。「この章はぴりっとしていませんな。ほとんど説明もなしに、ただ固有名詞をずらずら並べたって読者の興味を引きつけることはできませんよ。確かに、ストーリーの冒頭は、スタイルもなかなか見事です。それで、私も初めはすこぶる好ましい印象を与えられたのでした。でも総じて、何もかも洗いざらい語りたいという気持ちが強すぎます。さわりの部分を選び出し、余計な箇所を省いてください。そして、適当な長さに縮まったら、もう一度原稿をお持ちください。」こんなふうに現代の出版業者は言うだろう。」

「偉人の生涯にしても、二、三の偉大な瞬間を除けば、興奮にみちたものではなかった。ソクラテスも、おりふしは晩餐会を楽しんだし、また、あおいだ毒ニンジンが回りはじめたときも、自分の会話に深い満足をおぼえたにちがいない。しかし、生涯の大部分は、妻のクサンチッペとともに静かに暮らしたのだ。そして、午後には健康のために散歩をし、もしかすると、途中で二、三の友人と会ったことだろう。カントは、一生涯、ケーニヒスベルクの町から十マイル以上離れたことは一度もなかった、と言われている。ダーウインは、世界一周をしたあと、その後の生涯をずっとわが家で過ごした。マルクスは、いくつかの革命を起こしたあと、残りの日々を大英博物館で過ごすことに決めた。」

 単調さ、退屈さは、偉大なことを成し遂げるための条件でさえある。たえず刺激や興奮にさらされていては、自らの問題にじっくり向き合うことはできないだろうからだ。

 それゆえラッセルは次のように言う。

多少とも単調な生活に耐える能力は、幼年時代に獲得されるべきものである。この点で、現代の親たちは大いに責任がある。彼らは子供たちに、ショーだの、おいしい食物だのといった消極的な娯楽をたくさん与えすぎている。そして、毎日毎日同じような日を持つことが子供にとってどんなに大切であるかを、真に理解していない。」

「何か真剣な建設的な目的を持っている青少年は、その途上で必要だとわかれば、進んで多量の退屈に耐えるだろう。しかし、ある少年が娯楽と浪費の生活を送っている場合は、建設的な目的が彼の精神の中で芽ばえるのは容易ではない。」


3.ねたみ

 ねたみは、わたしたちに不幸をもたらす最大のものの1つだ。

 それは自分で自分の首をしめることである。

ねたみ深い人は、他人に災いを与えたいと思い、罰を受けずにそうできるときには必ずそうするだけでなく、ねたみによって、われとわが身をも不幸にしている。自分の持っているものから喜びを引き出すかわりに、他人が持っているものから苦しみを引き出している。

 どうすればこのねたみをなくせるか。ラッセルは言う。

けれども、さいわいさにも、人間性にはこれを埋め合わせる情念がある。すなわち、賛美の念だ。人間の幸福を増やしたいと思う人はだれでも、賛美の念を増やし、ねたみを減らしたいと願わなければならない。

 ねたむ代わりに賛美せよ。むずかしいことだが、ラッセルはそのように主張する。


4.科学者の幸福

 ラッセルによれば、現代において最も幸福なのは科学者である。

 なぜか。それは、彼らが社会的な承認を得ていると同時に、知性のすべてを仕事に傾けるため、日常生活のささいなものからさえ幸福を感じることができるからだ。

社会の高等教育を受けた成員中で、今日、最も幸福なのは科学者である。彼らのうちの最も高名な人たちは、大部分、情緒的には単純で、仕事に深い満足をおぼえているので、食べることはもちろん、結婚生活からさえ快楽を得ることができる。」

 この点、科学者は芸術家よりも幸福だとラッセルは言う。なぜなら芸術家は、科学者より尊敬されることが少ないばかりでなく、どれだけ才能があっても、それが理解されなかった時は、軽蔑されることさえあるからだ。

「科学者は、芸術家よりも幸福である。一般大衆は、絵とか詩とかがわかときには、下手な絵であり、下手な詩であると結論する。一方、相対性理論がわからないときには、(正当にも)自分の受けた教育が不十分なものであったと結論する。その結果、アインシュタインは尊敬され、一方、最もすぐれた画家たちは屋根裏部屋で飢えるままにしておかれる。」


5.友好的で多様な関心

 どうすればわたしたちは幸福になれるのか。ラッセルの最終的な答えは次のようである。

幸福の秘訣は、こういうことだ。あなたの興味をできるかぎり幅広くせよ。そして、あなたの興味を惹く人や物に対する反応を敵意あるものではなく、できるかぎり友好的なものにせよ。

 友好的で、多様な関心を持とう。そうラッセルは言う。たくさんのものに「私心のない興味」があれば、わたしたちはそれだけ、わたしたちを喜ばせてくれるものに出会いやすいのだ。

 逆に、いつも自分にこだわり、自分のことばかり考えていたら、わたしたちは、うじうじくよくよと、いつまで経っても幸福になることができない。

私たちはみんな、内向的な人間の病気にかかりゃすい。内向的な人間は、世界の多彩なスペクタクルが目前に繰り広げられているのに、目をそらして、心中の虚無のみを見つめるのである。


(苫野一徳)

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アラン『幸福論』


はじめに

 「プロポ」(哲学断章)と呼ばれる、短い断章から織りなされる本書。幸福についての、珠玉の名作として知られている。

 たしかに、本書は折りにふれて読み返したい名言にあふれている。「ん〜うまいこと言うな〜」と、しみじみうなってしまう言葉が満載だ。

 ただ、アランの言っていることは意外にワンパターンだったりもして、個人的には、哲学の巨人、ルソーヘーゲルの幸福論と比べれば、どこか物足りなさを感じないこともない。

 アラン幸福論のポイント、それはありていに言ってしまえば、「要は気持ちの持ちようですよ」ということに尽きる。「つらい、つらい」と言っているからつらくなる。だからあんまり考えすぎるなとアランは言う。

 これだけ聞けば、大した洞察でも何でもないように思えてしまうのだけれど、それを味わい深い言葉で描き出すところに、アランの名人芸がある。

 それにまた、「じゃあその気持ちの持ちようをどうやって変えたらいいんですか?」という疑問にもまた、アランはちゃんと答えてくれている。

 だから本書は、何だかんだで、やっぱりすぐれた幸福論だ。少なくとも、折りにふれて読み返したいと思わせる、魅力的でステキな本だ。


1.ピンを探せ

 本書の書き出しは、アレクサンドロス大王の名馬ブケファラスについて。

 他の人たちは、「なんて気性の激しい馬だ。これは生まれつきにちがいない」と、この荒馬に見向きもしなかった。

 しかしアレクサンドロスは、彼を見事に手なずけた。手なずけるポイント(ピン)を、探り当てたのだ。

 ここからアランは次のように言う。

人がいらだったり不機嫌だったりするのは、よく長時間立たされていたせいによることがある。そんな不機嫌にはつきあわないで、椅子を出してやりたまえ。


2.考えすぎず、体の調子を整えよ

 アラン幸福論のポイントは、あれこれ余計なことを考えすぎるなという点にある。

 じゃあどうすればいいのか?答えはあっけないほどに簡単だ。

 体の調子を整えよ。

「ビクともしない人間のからだが、毎日、躁状態から鬱状態へと、また鬱から躁へと変わっている。多くの場合、食事の仕方によって、また歩き方や注意力、本の読み方、天候によって。そこで君の機嫌がよくなったり悪くなったりする。まるで波のうえの小舟のように。ふつうの場合、そのニュアンスに多少の差があるだけだ。何かに専念している限り気にもとめないが、暇になると、ああでもないこうでもないとやり始める。ささいな理由がどっと出てきて、これが原因でこれが結果であると考え出す。

 憂鬱な人は、あれこれいらぬことを考えて、自分で自分の首をしめているだけである。

憂鬱症といわれている人たちのことを考えてみる。あの人たちはどんな考えに対しても悲しい理由をちゃんと見つけてしまうだろう。何を言われでも傷ついてしまう。彼らを憐れめば、侮辱されたと思い、救われがたい不幸のように思ってしまう。何も文句を言われないと、今度は自分にはもう友だちなどいないのだ、この世でひとりぼっちなのだと思いこむ。

 余計なことを考えず、「遠くを見よ」。そうアランは言う。

憂鬱な人に言いたいことはただ一つ。「遠くをごらんなさい」。憂鬱な人はほとんどみんな、読みすぎなのだ。人間の眼はこんな近距離を長く見られるようには出来ていないのだ。広々とした空間に目を向けてこそ人間の眼はやすらぐのである。


3.幸福とはやりたいことができること

 人は強制を好まない。だから、自分のやりたいことをやれることが幸福だ。

「人間は自分からやりたいのだ、外からの力でされるのは欲しない。あんなに刻苦する人たちも、強いられた仕事はおそらく好まない。だれだって強いられた仕事は好きではない。」

 でもまた同時に、嫌なことがあったとしても、とりあえずやってみたまえ。そうアランは言う。そして毎日を、規則正しく生きてみたまえ。

「始めは無理にやらねばならないこともある。乗り越えねばならないものはいつもある。仕事を規則正しくすること、そして困難を、さらなる困難をも乗り越えること、これがおそらく幸福に至る正道である。」

 
4.自分で自分の首をしめるな

 いつも不平不満をもらしてばかりの人たちがいる。

 でも彼らは、自分で自分の首をしめているだけだ。

 汽車旅が退屈だと言って不満をたれるのではなく、景色を眺めてその汽車旅を楽しめばいい。雨が降ってきたと言って不満をたれるのではなく、その雨音に耳を傾けてみればいい。


「今これを書いている時、雨が降っている。瓦に雨の音がして、無数の雨樋が切れ目なく歌っている。空気が洗われて、まるで濾過されたみたいだ。雲は切れ切れになった華麗な衣装のようだ。こういう美しさがわかるようにならねばならない。〔中略〕君が不平不満を言ったところで何ひとつなくなりはしないのだ。」
「だから、天気の悪い時にはいい顔を。」



(苫野一徳)

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