ブルクハルト『世界史的考察』


はじめに

ファイル:Jacburc2.gif 19世紀スイスの歴史学者、ヤーコプ・ブルクハルト。

 当時隆盛をきわめていたヘーゲル的歴史観(目的論的歴史観)を批判し、徹底した実証主義の精神によって歴史を見つめた。

 しかし同時に、彼は本書で次のようにもいっている。

総じて歴史はなんといつでもあらゆる学問のうちでも最も非科学的な学問である、ただ、歴史が多くの知る価値のあるものを伝えるという点では別である。

 どれだけ科学的・実証的たらんとしても、歴史学はどうしても、非科学的・非実証的な部分を多く持つ。しかしそれでも、歴史学は、私たちに何が知るに値するものかを教えることはできるのだ。

 ブルクハルトの歴史にかける深い情熱が伝わってくる。

 本書は、1868〜73年の間にバーゼル大学で行われた、3回の講義の講義録。ブルクハルト自身の手によるものではなく、甥のエーリが編纂したものだ。

 第3回目の講義には、同じく当時バーゼル大学に勤めていたニーチェも聴講していたらしい。

 ニーチェがブルクハルトから多大な影響を受けたことはよく知られているが、しかしニーチェ自身は、歴史は生に奉仕すべきなのだと主張し、歴史をそれ自体として大切に考えたブルクハルトとはずいぶん異なっていた。

 本書で打ち出されている「進歩」への不信の表明などは、今となっては広く共有された歴史観ではあるが、19世紀当時においては、ほとんどブルクハルトの他に主張する者はなかった。

 個人的には全面賛同とはいかない部分も多くあるが、それでもやはり、今なお多くの示唆に富んだ歴史学の名著だと思う。


1.ヘーゲル批判

 ブルクハルトの前世代の哲学者ヘーゲルは、歴史を「絶対精神」が己を具現化していくプロセスと見た。つまり歴史には目的があるのだと(ヘーゲル『歴史哲学講義』のページ参照)。

 本書でブルクハルトは、こうしたヘーゲルの目的論的歴史観を批判する。

「われわれは、永遠の知恵が目指している目的については明かされていないので、それが何であるかを知らない。世界計画のこの大胆きわまる予見は、間違った前提から出発しているので、誤謬に帰着することになる。」

 現代においてはほとんど当たり前になった歴史観ではあるが、歴史の「進歩」が当然のように語られていた当時において、そして、その後ヘーゲル的歴史観を受け継いだマルクス(主義)的歴史観が世界を席巻したことを思い起こせば、ブルクハルトのこの主張は、かなり先駆的なものだったといえるだろう。

 そこでブルクハルトは次のように言う。

「われわれは一切の体系的なものを断念する。われわれは「世界史的理念」を求めるのではなく、知覚されたもので足れりとするのであり、また、歴史を横切る横断面を示すが、それもできるだけ沢山の方角からそれを示そうとする。」

 徹底した実証主義の精神を、ここから読み取ることができるだろう。

 ただし余談だが、私自身は、ヘーゲルのいう「絶対精神」の具現化という目的論的世界観はフィクションとしてしりぞけられるべきではあるが、しかし歴史を人間的「自由」の進展の過程として捉えた彼の洞察は、今なお有効だと考えている(詳しくはヘーゲルのページを参照)。


2.国家、宗教、文化

 本書でブルクハルトは、歴史を分析する際の分析視点として、「国家」「宗教」「文化」の3つを挙げる。


①国家

 国家については、たとえば、「どのように民族が国民となり国家を形成するのか」といった問いが立てられる。

 そしてまた、「国家の暴力がいかに権力となるか」といった問いが立てられる。

 その際ブルクハルトは、「権力はそれ自体で悪である」という権力観を何度も主張する。

 個人には認めない利己主義の権利が国家には認められる」のであり、より弱体の隣国は征服され、併合され、もしくはその他なんらかの方法で従属させられる」からだ。

 ただ私の考えでは、これはかなりナイーヴな権力観だ。

 権力論には、ホッブズロックルソーヘーゲルらの伝統があるが、そこで問われてきたのは、私たちが何らかの「統治権力」を必要とする以上、どのような「権力」であれば「正当」といいうるか、という問いだった。

 単に権力は「悪」であると決めつけるのではなく、いかにその「正当性」を担保しうるかと問うてきたのだ(ホッブズ『リヴァイアサン』ロック『統治論』ルソー『社会契約論』、ヘーゲル『法の哲学』のページ参照)。

 その集大成は、ルソーの「一般意志」やヘーゲルの「相互承認」の概念にみられる。要するに、すべての市民の「合意」においてのみ、「権力」はその「正当性」を持ちうるのだという考えだ。

 そうした哲学的伝統からみれば、ブルクハルトの権力観は、その暴力性を根拠に「悪」と決めつける、かなりナイーヴなものだと私は思う。


②宗教

 宗教について、ブルクハルトはまず次のように言う。 

宗教が徐々に発生していったということはおそらくありえないと思われる。〔中略〕歴史上われわれの知っている宗教は、その創設者もしくは再興者(すなわち重大な危機における指導者)の名を挙げている。」
 
 ここで問われるのは、たとえば、多神教、一神教などの宗教の形態と、それぞれの歴史的プロセスだ。「世界宗教」「来世宗教」は、敵対者を撲滅しようとしてきたことなどが語られる。そしてまた、これら宗教がいかに国家と結びついてきたかなどが考察される。


③文化

 文化は、ここでは特に「言語」「芸術」「哲学」を指す。

 これら文化の発展は、アテナイフィレンツェなどに見られるように、「高次の社交」によってもたらされるものだ。そうブルクハルトは指摘する。

「あのような場所がもたらすのは、尋常ならざるものによる最高の力の覚醒である。「才能が目覚まされた」のではなく、天才が天才を呼び寄せたのである。


 以上、国家、宗教、文化を歴史の分析視点として示したブルクハルトは、続いてこれらの相互関係を見る。

 たとえば、キリスト教がいかにローマ帝国と結びつくことで強大化し得たかとか、中世における王権と教皇権の拮抗とか、文化がキリスト教に奉仕した時代のことなどが考察されるが、ここで展開されているのは、現代においてはかなり「常識」的な知見と言っていいだろう。


3.歴史における危機

 本書の白眉は、「歴史における危機」についての考察だ。

 歴史はその流れの中で、要所要所において大きな「危機」、すなわち転換期を経験する。ローマ帝国の滅亡宗教改革フランス革命といった転換期がそれにあたる。

 そこでブルクハルトは問う。「危機の連鎖は断ち切ることができるのかどうか、また、どのような危機ならそれができるのか、また、なぜそれができないのか」と。

 ローマの場合、その危機を防ぐことはできなかったとブルクハルトは言う。

ローマ帝国の危機は断ち切ることができなかった。それはこの危機が、人口の少なくなった南方の国々を占有したいという、繁殖力旺盛な若い諸国民にきざした衝動から起こっていたからである。これは一種の生理学上の均衡化であり、この均衡化は部分的には見境なく行なわれたのであった。

 ゲルマン民族の大移動は、避けることができなかったというわけだ。

 しかし宗教改革の場合、それは防げたはずだとブルクハルトは主張する。

「宗教改革の場合には、これを阻むために、聖職者階級の改革と、教会財産の適度の削減、それもあくまでも完全に支配階級の意のままにできた程度の削減で十分であったであろう。


 またフランス革命も、ある程度緩和はできたはずだと主張する。そして言う。結局のところ、人間の内部には大きな周期的変化を求める抑えがたい衝動がひそんでいる」のだと。

 だから変化のないことを「幸」だと思うべきではない。そうブルクハルトは言う。人類は、変化を求める衝動をもともと持ってしまっているのだ。

 この衝動は、「交通手段」の発達と共に高まっていく。

危機を起こさせる外見上本質的に見える前提条件は、きわめて発達した交通機関の存在と、異なった事柄を誰もがほとんど同じように思考するということが広範囲にわたって拡まっていることである。」

「時が到り、かつ危機を起こさせる真の材料が出そろうと、そのことは伝染病さながらに、電流の伝わる速度で何百マイルもの距離を越えて伝わり、通常はたがいにほとんど識ることのないじつにさまざまな住民にまで及んでゆく。この報らせは宙を伝わってゆき、そして、重要な一点において住民たちはすべて、たとえ漠然とではあったとしても、突然たがいに了解しあう、「変わらねばならないのだ」と。」



 こうした「変化」に、既成権力は必ず対抗しようとする。

権力はかえってこのような時代にこそ中断ということをいちばん我慢しない。ある一人の人もしくはある党派が疲れてくずおれるか、もしくは破滅すると、ただちに別な人が立ち現れる。

 これがまさに、「歴史における危機」を生む。それはつまり、既成権力とこれに抵抗する変化を求める力との、激しい対立のことなのだ。

 この他にも、ブルクハルトは本書において、歴史における「偉大さ」とは何か、とか、「幸と不幸」とは何か、といったテーマを考察している。

 そうした視点は、歴史を見る際、今なお私たちに大きな示唆を与えてくれる。


 (苫野一徳)



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スタンダール『恋愛論』


はじめに

 恋愛論といえば、常に必ずその筆頭に挙げられるのが、本書スタンダールによる『恋愛論』。

 言うまでもなく、『赤と黒』『パルムの僧院』などを書いた、19世紀フランスを代表する文豪だ。

 しかしこの本、10年間でなんと17部しか売れなかったらしい。

 確かに、思いついては書き足し続けたようなまとまらない記述は、特に後半へ行くにしたがって、読者を飽きさせずにはいない。

 しかしそれでもなお、特に本書前半で繰り広げられる恋愛の「本質」についての洞察は、今もなお、本書をプラトンの『パイドロス』および『饗宴』に次ぐ、恋愛論の傑作の1つたらしめていると私は思う。


 本書が執筆される動機となったのは、スタンダールがイタリア滞在中に出会った、地元の将軍の妻メチルダへの恋である。

 2人の子どもを持ち、夫とは別居中だった彼女に、スタンダールは激しく恋をした。しかしどうも、メチルダ自身はそれほど入れあげることはなかったらしい。

 定職に就かず小説などを書き、気ままにイタリアで暮らしていたスタンダールは、やがてイタリア当局からフランスの密偵ではないかと怪しまれるようになる。

 身の危険を感じ、そしてまたメチルダとの恋にも絶望したスタンダールは、こうしてイタリアを去ることになる。

 それでも彼は、メチルダのことを一生忘れることがなかったという。


1.情熱恋愛、趣味恋愛、肉体的恋愛、虚栄恋愛

 本書をスタンダールは、まず恋愛の4種類から説き起こす。

 情熱恋愛趣味恋愛肉体的恋愛虚栄恋愛だ。

 読んで字のごとくなので、あまり説明する必要はないだろう。

 そしてスタンダールは、この中で「情熱恋愛」にこそ恋愛の本質を見る。

 というのも、この情熱恋愛にこそ、恋愛に欠かせない「結晶作用」があるからだ。


2.恋愛の始まりから結晶作用へ

 結晶作用とは何か。

 スタンダールはまず、恋の始まりから論じ始める。

 恋の始まりは、まず「感嘆」にある。「ああこの人素敵だな」というやつだ。

 そして続いて、「『あの人に接吻し、接吻されたらどんなにいいだろう』などと自問する。」

 要するに夢想が始まるのだ。「恋」はこうして生まれる。

 そしてその後、第一の「結晶作用」が起こる。そうスタンダールは言う。


ザルツブルクの塩坑では、冬、葉を落した木の枝を廃坑の奥深く投げこむ。二、三カ月して取りだして見ると、それは輝かしい結晶でおおわれている。

私が結晶作用と呼ぶのは、我々の出会うあらゆることを機縁に、愛する対象が新しい美点を持っていることを発見する精神の作用である。

 結晶作用は、相手の美点や美質を、こちらから相手に結晶化させることである。いわば本人を、本人以上のものに彩るのだ。

 しかしスタンダールは言う。

 その後、私たちには多くの場合「疑惑」が訪れるのだ、と。

 ここでいう「疑惑」とは、本当にこの人でいいんだろうか、思った通りの人なんだろうか、といった疑惑のことだ。何しろ「結晶作用」は、こちらが勝手に相手に結晶化したものだから、そもそも私は、相手をそのありのままに受け止めてなどいないのだ。

 この段階を越えた時、第二の「結晶作用」が起こるとスタンダールは言う。


「彼女が私に与える快楽は、彼女のほか誰も与えてくれはしない。〔中略〕この真理の疑う余地のないこと、片手は完全な幸福に触れながらたどるこの恐ろしい絶壁の路、これこそ第二の結晶作用を第一の結晶作用よりはるかに重大なものとするゆえんである。」



3.その他名言

 以下、本書から印象的な名言をいくつか紹介しておくことにしたい。

「恋が生れるには、ほんの少しの希望さえあればよい。」

「この世で音楽ほど人の心を恋愛に誘うものはない〔中略〕音楽を聞き、または聞きながら夢みるという習慣は、恋の下地をつくる。」


少しでも気どりを持つ男こそ禍なるかな!ほんとうに恋しているときでも、そのすべての才知を傾けても、彼はその幸福の四分の三を失う。一瞬でも気どりに任せると、一分の後には味気ないときが来る。〔中略〕気どらないこと、これが我々のなしうるすべてである。」


「ラ・ロシユフコーはいった。『人は嫉妬を告白するのを恥じる。しかし前に嫉妬したことがあったこと、これからもできることは自慢する』。」


自尊心の恋は、一瞬にして過ぎ去る。情熱恋愛は逆である。


(苫野一徳)


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トッド『文明の接近』


はじめに

ファイル:Emmanuel Todd img 2278.jpg 原著では『文明のランデブー』と題される本書。ハンチントンの『文明の衝突』に対する、揶揄と批判の意味が込められている。

 今日、欧米諸国ではイスラーム恐怖症が巻き起こり、西洋との「文明の衝突」が恐れられている。

 しかしそれはまったくの妄想である。トッド(と共著者のクルバージュ)はそう主張する。

 イスラームは、西洋とは全く価値観が異なり、したがって近代化も民主化もしない。

 一般にはそう考えられているが、歴史学および人類学の知見を動員すれば、それがまったく根拠を持たない妄想であることが明らかになる。

 イスラームもまた、実は近代化のテイクオフを迎えている。あるいはすでに終えている国もある。

 イスラーム原理主義はその最後の反動であって、伝統的宗教的信仰は、イスラームの先進国では、かつてのキリスト教国でそうであったように、実はもはや相当に失墜してしまっているのだ。

 その後の「アラブ革命」を「予言」したことでも知られる本書。(トッド『アラブ革命はなぜ起きたか』のページ参照)

 あいかわらず、トッドの類まれなる洞察力が光っている。


1.識字率の上昇と出生率の低下――普遍的歴史の妥当性

 コンドルセヘーゲルなど、近代の思想家たちは、「歴史は進歩する」と考えた。

 しかしその後、2つの大戦や冷戦、そしてテロの時代などを経た現代の人びとは、歴史の普遍的進歩などということを、もはや信じることができなくなった。

 現代では、歴史の進歩とか法則とかいったものは、たいていは一笑に付されてしまう。

 しかしトッドは言う。人類学の知見を動員すれば、普遍的歴史とか歴史の進歩とかいったものには、今日なお一定の妥当性があるのだと。

 それは、最も端的には「識字率の上昇」という現象だ。

「識字化は、普遍的歴史についての古典的な考え方、例えばコンドルセが『人間精神進歩の歴史的概観』で、あるいはヘーゲルが『歴史哲学講義』で示しているような、啓蒙あるいは一九世紀の考え方に、われわれを連れ戻すのである。その流行は終ったかもしれないが、その妥当性は過去のものとなっていない。」

 ヨーロッパを皮切りに、世界の人びとは一斉に識字化を始めた。これまでの上昇率を考えると、2030年頃には、アフリカを含めた全世界が識字化するだろうとトッドは主張する。

 これこそ、まさに「普遍的歴史」、歴史の進歩だというわけだ。 

 普遍的歴史の説明変数はもう1つある。

 「出生率の低下」がそれだ。

 識字化によって、人びとはものを考え、みずからの人生をみずから切り開くことを考えるようになる。子どもの数を減らして、自分なりの人生を歩もうと考えるようになる。

 こうして、識字化とそれに伴う出生率の低下の2つが、全世界において普遍的に見られる現象となる。

 そしてトッドによれば、男性の識字率が50%を超え、出生率が低下し始めるころ、歴史的に大きな社会変革が起こることになる。

「識字化と出生調節の時代は、大抵の場合、革命の時代でもある、ということになる。この過程の典型的な例を、イングランド革命、フランス革命、ロシア革命、中国革命は供給している。

 文字を知ることで、みずからの生き方をみずから考えるようになった人びとは、既存の社会体制を大きく転換しようと考えるようになるのだ。


2.出生率低下に先立つ信仰の崩壊

 さて、この出生率の低下には、ある注目すべき現象が必ず先行しているとトッドは指摘する。

 「宗教的信仰の崩壊」がそれだ。

 文字を知る(みずから考える)→既存の信仰への疑念→出生調整(信仰にとらわれずみずからの生き方を考える)

 といった一連の流れが、歴史の一定普遍的な法則として読み取れるのだ。

 これは、ヨーロッパ諸国同様、日本においても見られる現象だ。

「日本の男性が識字化のハードル(50%――引用者)を越えたのは、一八五〇年頃に位置づけられる。女性の場合は、一九〇〇年頃である。出生率は一九二〇年頃に下がる。一八六八年に始まる明治期の日本が経験した近代化の危機に、宗教的要素、いやむしろ反宗教的要素があることに留意しないとしたら、誤りを犯すことになろう。改革運動は暴力的な反仏教危機を伴っていた。」

 明治維新にともなう廃仏運動は、まぎれもない人びとの宗教的信仰の崩壊を意味していた。そしてこれに引き続いて、出生率は低下していくことになるのである。


3.イスラーム圏を歴史の中に位置づける

 と、以上の知見をもとにしてみれば、現代のイスラーム圏で起こっていることを十全に理解することができるようになる。

 トッドは言う。

日目に見える外見の向こうで、出生率が低下しているイスラム諸国は、やはり伝統的信仰の大規模な動揺を経験しているのだ、と認めることである。」

 今日、イスラーム諸国では出生率低下が急激かつ大幅に低下している。(1975年に女性一人当り子供平均6・8人であったのが、2005年には3・7人にまで落ちた。)

 それは、上に述べた理論からすると、伝統的信仰の崩壊を意味する現象だといえる。

 しかし今日、イスラーム原理主義やテロが台頭しているではないかと言われるかもしれない。

 だが原理主義は、まさに信仰が崩壊しつつあるがゆえにこそ起こっている、イスラームの最後の反動なのだ。

原理主義は、宗教的信仰の動揺の過渡的な様相に過ぎない。近年の現象である信仰の弱さの帰結として、再確認の行動が生まれるのである。宗教の退潮と原理主義の伸張が時間的に合致するというのは、古典的な現象である。」

 伝統的信仰の崩壊にともなってかえって原理主義が勃興してくるという現象は、歴史的には普遍的にみられるものだ。宗教改革以後の、カトリックとプロテスタントの激しい殺し合いはまさにその典型だ。

 識字化が進み出生率低下が始まると、既存の体制と新しい世代による、大きな衝突が生まれるのだ。

 トッドはこれを、「移行期危機」と呼ぶ。


4.移行期危機

 「移行期危機」について、トッドは次のように言う。

文化的進歩は、住民を不安定化する。識字率が五% を越えた社会とはどんな社会か、具体的に思い描いてみる必要がある。それは、息子たちは読み書きができるが、父親はできない、そうした世界なのだ。全般化された教育は、やがて家族内での権威関係を不安定化することになる。教育水準の上昇に続いて起こる出生調節の普及の方は、これはこれで、男女問の伝統的関係、夫の妻に対する権威を揺るがすことになる。この二つの権威失墜は、二つ組合わさるか否かにかかわらず、社会の全般的な当惑を引き起こし、大抵の場合、政治的権威の過渡的崩壊を引き起こす。そしてそれは多くの人間の死をもたらすことにもなり得るのである。」

 識字化によって人びとがものを考えるようになると、それまでの伝統的な権威関係にゆらぎが生じ、そしてついには正面衝突となる。

 これがトッドのいう「移行期危機」だ。

 先述したように、その典型的な例を、わたしたちはイングランド革フランス革命ロシア革命中国革命に見ることができる。

 しかしこれら「革命」のあり方は、それぞれの国によって大きく異なっている。

 たとえば1640年のイングランド革命は、君主制は打倒したが王は残った。

 フランス革命は自由主義的、ロシア革命は全体主義的、そしてイラン革命は宗教的だった。

 ドイツや日本のファシズムやルワンダの紛争は、自民族中心主義的で不平等主義的だった。

 なぜ、移行期危機のあり方は、それぞれの国や地域によってこれほどにも異なっているのだろうか。

 トッドは言う。

こうした差異がどこから発生するのか、その起源を理解しようとするなら、さらに深く、各国社会の心性的構造の中にまで潜り込まなければならない。危機を理解するために、もはや文化的な動きの分析だけでは十分ではない。家族構造にまで探究の手を伸ばさなければならない。」

 移行期危機がどのような形態をとるか、その国や地域がどのようなイデオロギーに染まるかは、その国や地域に長い間根ざしてきた、家族のあり方に規定されている。

 トッド人類学の理論的大著『世界の多様性』で分析された、各国・各地域の「家族構造」モデルが、ここでまた大きな役割を果たすのだ。


5.移行期危機の多様性

 「家族構造」についての詳細は、『世界の多様性』のページを参照していただきたいが、ここで簡単に説明しておくと、世界にはきわめて多様な、さまざまな家族のあり方がある。

 そしてトッド理論の最大の特徴は、「移行期危機を先導するイデオロギーは、家族構造に規定されている」と主張する点にある。

 たとえばパリ盆地の家族は、自由主義的・平等主義的核家族。親の権威がそれほど強くなく、遺産相続は子どもたちに平等になされるモデルだ。

 こうした価値観が刻み込まれている地域では、移行期危機としての「革命」は、やはり自由主義的・平等主義的なものになる。つまりフランス革命になる。

 他方ロシアや中国は、権威主義的・平等主義的共同体家族。父親の権威がきわめて強く、遺産相続は平等になされるモデルだ(ただし男子のみ)。このモデルはまた、父方の家族に男の子夫婦が同居する、「共同体」型の家族でもある。

 こうした価値観が刻み込まれている地域では、「革命」も権威主義的・平等主義的になる。ロシア革命や中国革命、つまり共産主義革命がそれにあたる。

 ちなみにトッドは、『世界の多様性』などの著作において、共産主義は、こうした権威主義的・平等主義的共同体家族の伝統をもつ国や地域にしか広まらなかったことを指摘している。

 つづいて、ドイツ・日本・ルワンダなどは、権威主義的・不平等主義的直系家族である。父親の権威が強く、遺産は長子相続のため、兄弟間の関係も不平等な家族モデルだ。

 こうした国では、移行期危機もまた権威主義的・不平等主義的なものとなる。


「兄弟が不平等なら、人間も諸国民もやはり不平等なのである。そこで危機は場所によって、ユダヤ人を人間以下の存在とする定義や、日本はそれ自体で優越性を有するとの断定や、ツチ族の虐殺――しかしツチ族自身は自分たちを人種的貴族階級と定義していた――を招来することになる。」


 イングランドは、自由主義的・やや不平等主義的核家族だ。核家族なので、親の権威はそれほどではない。遺産相続は、適当に行われたり親の遺言で決められたりしたので、パリのように平等主義的ではないが、かといって完全に不平等というわけでもない。

 そしてこうした国では、移行期危機もまた自由主義的・やや不平等主義的なものとなる。先述したように、イングランドでは個々人の自由を求めながらも、王の存在は否定されず、人びとが絶対に平等であるとも考えられなかった。

「兄弟は互いに異なるのだから、人間も諸国民もやはり互いに異なるのである。しかしながら、厳密な不平等主義が不在であることから、イングランド、ならびにアングロ・サクソン圏一般においては、移行期に暴力的で絶対的な不平等主義的教義の出現は不可能であった。」

 さまざまな著作でトッドが述べていることだが、このある種の「普遍的原理」を、トッドはこれまで徹底的に実証し、そしてまた検証してきた。

 「イデオロギーは家族構造に規定されている」

 このテーゼに当てはまらない例が1つでもあれば、トッド理論は説明力を失うことになる。

 しかしこれまでのところ、これを反証する有力なデータは出ていないとのことだ。(ただし、これまでの歴史についてはかなり普遍的原理になってはいるものの、今後も当てはまりつづけるかどうかは微妙だと、『デモクラシー以後』などの著作でトッドは言っている。)


6.イスラーム圏の家族構造の崩壊

 さて、ではイスラーム圏の家族構造はどうか。

「アラブ、イラン、パキスタンの伝統的家族は、父系、夫方居住、内婚である。それは個人にとってこの上なく統合的なシステムであり、おそらく全地球上で観察し得るもっとも強力な家族である。」

 父親の権威が強く、妻が夫方の家族と同居するという点ではロシア・中国と同じだが、「内婚制」であるという点が決定的に違っている。

 内婚制とは、つまり「いとこ婚」が主流であるということだ。

 ロシアや中国では、妻は別の家族から夫の家族にやってくる。それはつまり、嫁とは姑に迫害され、舅に強姦される(ロシア)、余所者の女だということだ。

 しかし「いとこ婚」の場合はどうか。迎え入れる嫁は、もともと「親族」である。嫁にとっては、そこは自分を受け入れてくれる温かい場所である。

「したがって内婚制は、人が想像しがちなところとは逆に、女性にとって保護者的な役割を果たす。」

 さて、しかし近代化は、このイスラーム圏の家族構造を崩壊させつつある。おそらくやがて、完全に崩壊することになるだろう。

 しかしこの崩壊を、人びとは必ずしも喜んでいるわけではない。

というのもこの地の住民は、自分たちの家族システムを愛しており、保護者的で自然なものとしてそれを経験していたからである。

 それゆえ、イスラーム原理主義もまた、独特の力を持つことになる。

近代化によって産み出された宗教的なものへの回帰は、家践に対する、父親に対する、それゆえ神に対する肯定的な関係の帰結なのである。

 以下、トッドらはイスラーム諸国の識字率、出生率低下、そして家族構造の変化がどうなっているかを逐一分析していくが、ここでは詳細は割愛することにしたい。

 トッドらがこの分析を通して明らかにしたこと、それは、イスラーム諸国においても、そのほとんどにおいて、すでに近代化のテイクオフが始まっている、あるいはほぼ完了しているということだ。

 つまり、識字率が十分に上昇し、出生率の低下が著しく観察されるのだ。(ちなみにこの分析過程で、トッドは後のいわゆる「アラブ革命」を「予言」している。)


7.結論

 したがって本書の結論はこうだ。


イスラム教徒の一体性、永遠不変のイスラーム教、イスラムの本質、といったものは、空理空論に過ぎない。」


 イスラームは、西洋とはまったく違ったものである、だから彼らが何をしでかすか分からない、などと、西洋諸国では言われ続けてきた。

 しかし人類学的知見が明らかにするのは、イスラームもまた、人類史の基本的プロセスに沿って進展し続けているということだ。
 
 つまり、識字率が上昇し、宗教的信仰が崩壊し、そして出生率が低下するという普遍的現象に沿って。

「イスラム圏は現在、近代性への移行の最中にある。出生率の水準ですでにヨーロッパに追いついた国もある。変遷を始めたか始めないかの国もある。しかしプロセスが始動したのはかくも明白なのであるから、われわれとしては、再び統一された世界の出現を期待するべきであろう。

 根拠のないイスラーム恐怖症に陥って、かえってイスラーム原理主義を刺激などしないほうがいい。トッドはそう主張する。

 今日の欧米においては、ある意味で危険は全面的に過大評価されているのであり、世界の現実は、911なのではない」のである。


(苫野一徳)

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