デューイ『自由と文化』




はじめに

John Dewey 1939年の著作。

 邦訳は残念ながら現在絶版中だが、ここではひとまず研究社の『アメリカ古典文庫13 ジョン・デューイ』(明石紀雄訳)から引用することにした。(現在新しい翻訳プロジェクトが進行中。)


 近代以降、人間は政治的には「自由」になった。


 しかし人間的「自由」は、単なる政治的自由だけでは十分実質化され得ないものである。


 自由を可能にするためには、自由な社会文化を作り上げなければならないのだ。

 デューイはそう主張する。


 デューイ理論の中核には、常に主体と環境の相互作用論がある。

 人間の本性がすべてを決定するわけではないし、環境がすべてを決定するわけでもない。


 これらの複雑な相互作用を通して、私たちの社会は成り立っている。


 だからこそ、より自由で民主主義的な社会を成り立たせるために、主体と環境のよりよい相互作用を作り上げていく必要がある。


 ではそのような相互作用とは、いったいどのようなものだろう。

 以下、デューイの思想を追ってみることにしたい。



1.自由の条件


 近代以降、人間は政治的には「自由」となった。


 しかしデューイは言う。


必要条件〔政治的自由〕が与えられるならば、ほかのすべてのことがらが当然達成されるという安易な期待は許されない。」


 真に「自由」を獲得するためには、政治的自由だけでは不十分である。


「人間が自由であるためには、そのための条件がなくてはならない。」


 そしてその条件は、私たちの社会文化によって作られていくものである。デューイはそう主張する。


「問題は、政治的自由を宿し生みだすようなそれ自体自由な文化は存在するであろうか、ということである。



2.アメリカの現状


 そこでデューイは、まず(当時の)アメリカの現状を分析する。


 アメリカ建国の父たちは、政府の権力の濫用を抑えることができれば、自由な共和主義社会を築けるものと考えていた。


「政府の権限の濫用を防止できる保証さえ見出せるならば、共和制政治は確立されるという考え方があった。


 しかし彼は言う。


「経済の発展は実質的な民主主義を破壊した。」


 言うまでもなく、資本主義の進展に伴って、資本家による労働者の支配という、新たな支配体制が生まれたのである。


 ここに、不満を抱えた多くの大衆が生まれることになる。


 デューイは言う。ここに、ファシズムが生まれる危険性があるのだと。


「経済的に上位にあるものは独裁制を支持するという前提は、必ずしも正しくない。まず大衆の支持、すなわち経済的に不利な立場にあるものの支持がなければならないのである。


「ヒューイ・ロングの言葉として伝えられていることであるが、ファシズムがアメリカに起こるとしたならば、それは民主主義をその敵から守るということを旗印にかかげるであろうと。」



3.マルクス主義批判


 こうしてデューイは、虐げられた大衆がファシズムを支持していく危険性を警告したが、その際彼の念頭にあったのは、言うまでもなくマルクス主義である。


 『人間性と行為』においてもつとに指摘されていたように、デューイは、社会的な出来事を、人間性(人間的な本性や習慣など)と環境との相互作用として捉えることを訴えてきた。


 そんな彼からみれば、経済決定論をとるマルクス主義は、複雑な相互作用から成り立つ社会を1つの決定要因に押しこめる、きわめて乱暴なものである。(ただしマルクス自身は、それほど単純な経済決定論者ではなかったとデューイは言っている。)


 さらにデューイは、そうした経済決定論を「科学的」と標榜するマルクス主義に辛辣な批判を投げかける。


「科学的であることが特色であると主張するマルクス主義の言い分自体が、「時代遅れ」なのである。1840年代の知的状況においては、「必然性」とか「単一の」すべてを包括する法則を見出そうとする関心が特徴的であった。しかし今日では、「蓋然性」や「多元論」が科学の特徴である。」


 唯一絶対の理論を科学的などという考えは、きわめて時代遅れなものである。そうデューイは主張する。科学とはどこまでも、複雑な現象を説明するための、あくまでも仮説的な1つの見方なのである。


 そして言う。こうした唯一絶対を標榜する理論こそが、独裁の温床となるのだと。



4.生き方としての民主主義


 そこでデューイが提唱するのが、有名な「生き方としての民主主義」である。


 それは、絶対的真理があるなどとは考えず、相互の自由なコミュニケーションによって、相互了解を見出していこうとする「生き方」のことである。


 民主主義は、政治制度によってのみでは達成されないものである。

 だから私たちは、民主主義を生み出せるような文化を築く必要がある。そのような、「生のあり方」を築く必要がある。

 
 そうデューイは主張するわけだ。

われわれは、民主主義は一つの生活様式であるといえる点にまで到達している。しかしそれは個々人にとって一つの生のあり方であって、行動の道徳的規範となることを理解するのはこれからである。



5.科学と自由な文化


 ではそれは、具体的にはどのような文化、どのような生き方なのだろう。


「公正さつまり知的誠実さが存在すること、個人的選択より実証された事実を尊重し、利己的目的のために諸発見の成果を用いようとはせず、むしろ他者と共有しようとする意志が存在する程度は、いぜんとしてかぎられたものではあるが、きわめて重大な挑戦である。もっと多くの人びとがこのような態度をとるべきである。」


 それはつまり、科学的な態度ということだ。


民主主義の将来は、科学的態度が一般に定着するか否かにかかっているのである。


 もちろんここで言う「科学的態度」とは、マルクス主義的な絶対主義を意味しない。


 むしろそれは、絶対的真理を標榜せず、自らの探究が常に他者の吟味に開かれたものであることを自覚した態度のことだ。


 何度も実験を繰り返し吟味を繰り返し、その結果ようやく誰もが納得可能な結論を出せてはじめて、それは「科学」と呼ばれるに値する。


 それゆえ科学的態度とは、自分の単なる思い込みや思い入れに固執するのではなく、それが他者にも承認されてはじめて真実の名に値するということを、十分に自覚した態度のことなのだ。


 こうしてデューイは、本書を次のように締めくくる。


われわれがまずなさなければならないことは、民主主義はその目標にかなった方法を、徐々にではあるが確実に日常生活のなかに取りいれることによってのみ実現されうること、一元的包括的絶対主義的方法に依存することは、たとえいかなる口実においてなされようとも、人間の自由を裏切るものであることを理解することである。アメリカ民主主義が世界の模範となるとすれば、それはますます増大する解放された人間性の力を確保し維持していくにあたり、また協同的な自由、自発的な協同を促進するにあたり、自らの場において多元的・部分的・〔不完全な〕実験的方法が、いかに有効であるかを示すことができるか否かにかかっているのである。



(苫野一徳)

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