ベルクソン『物質と記憶』

はじめに


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 イマージュ純粋知覚純粋想起純粋持続といった独特の概念を駆使して、唯物論観念論の対立あるいは齟齬を解きほぐそうと試みた本書。

 唯物論とは、一切を物質世界の運動としてみる考え方だ。われわれには心があり精神があるが、それもまた、もとを正せば何らかの物質によって作られているとみる。

 対する観念論は、一切を精神の運動とみる。純粋な客観的物質があるわけではなく、その底には精神(心)があるのだと説く。

 唯物論と観念論の対立は、位相を変えれば心身問題(心脳問題)となる。

 この世界を統べているのは、精神なのか肉体なのか、心なのか物質としての脳なのか、という問題だ。

 ベルクソンは、「イマージュ」という概念や「持続」という概念を提示することで、いわば両者を調停し、相互の関係性を明らかにすることを試みた。

 ただし、ベルクソン自身慎重に「仮説」という言葉を繰り返し使っているように、その試みは、おそらく1つの仮説的考え方として捉えた方がいい。

 私は個人的には、心身問題はフッサール現象学によって解明されたと考えている。その解き方は、私の考えでは、ベルクソンより原理的でシンプルだ。(フッサールのページ参照)

 しかし、卓越した想像力と、当時の最新科学の知見をふんだんに取り込んで縦横無尽に展開されたベルクソンの思考は、今もなお新たな刺激に満ちている。

 以下、超難解で知られる本書を、できるだけポイントを絞って紹介することにしたい。


1.イマージュとは何か

 本書のキーワードである、イマージュ。ベルクソンはこれを次のように言う。

「ここでイマージュというのは、私が感覚を開けば知覚され、閉じれば知覚されなくなるような、最も漠然とした意味でのイマージュのことである。」

 イマージュとは、客観的実在物のことではない。かといって、主観によって勝手に思い浮かべられた表象でもない。それは、いわば両者の中間にあるものとしての概念だ。

 ただ物質だけがあるのでも、ただ精神だけがあるのでもない。私たちは、私たちの精神(心)とかかわりあったものとしての知覚物(イマージュ)と、日々接触しているのだ。

 その意味で、ベルクソンは、まず唯物論と観念論の双方を極論として退け、いわば私たちの生活感覚に近い形でイマージュという概念を提示したわけだ。


2.身体というイマージュ

 さて、このイマージュの中で、他のイマージュとは全く異なった独特の様態をもったものがある。

 身体である。

 身体もまた、私たちによって知覚されるイマージュである。しかし同時に、私たちはこの身体を通して他のイマージュを知覚する。

 ということは、私たちは、常にこの身体に相関的に、あるいは身体の能力の制限の内に、諸イマージュを知覚しているということになる。

 それは、視覚や聴覚など、私たちの神経的な身体能力の制限内における知覚というだけではない。身体を通して、どのように活動するか、どのように活動しうるかという、そうした傾向性に応じて、私たちは一切を知覚しているのだ。

「知覚の細部は、感覚伝達的と称される諸神経の細部にぴったり合わせて作られているが、その全体においては、知覚は真の存在理由を、活動せんとする身体の傾向のうちに有している」    

 ここにおいて、身体と精神とが交流することになる。

私の身体とは、これらの知覚の中心に描かれるところのものだ。私の人格とは、これらの行動が関連づけられねばならない存在である。

 身体をどのように行動へと関連づけていくか。ここに、精神的なるものの領域がある。


3.純粋知覚

 さて、この精神的なるものが、感情であり記憶であるのだが、ベルクソンによれば、知覚を純粋な形で取り出すためには、まずこの感情や記憶を知覚から抜き取ってみなければならない。

 もっとも、私たちの知覚には常に私たちの主観的・精神的なものが結びついているわけだから、そこから主観的・精神的なものを抜き取ることは事実上できることではない。したがってベルクソンは、純粋知覚とは、事実上というよりもむしろ権利上存在する知覚」のことであると言う。

 そして彼は、純粋知覚を次のように言う。

「純粋知覚に関するわれわれの諸結論は、物質のなかには、現在与えられているより以上のものがあるが、それと異なるものがあるのではないとの言葉で、それを要約することができるだろう。」

 知覚から主観的・精神的な部分を抜き去ってみると、いわば純粋な神経系による純粋知覚が露となる。

 この純粋知覚は、物質を、自らの身体的能力(神経系の能力)の範囲内において捉える。要するに、私たちはまずもって、私たちの視力や聴力などの限界内でしか物質を知覚することができない。

 ということは、私たちの純粋知覚は、物質のすべてを捉えられているというわけではない。しかしだからといって、それと異なったものを知覚しているわけでもない。そうベルクソンは言うわけだ。


4.純粋想起

 そこで続いて、先ほど純粋知覚から切り離された、知覚における主観的・精神的な側面、すなわち「想起」についてベルクソンは考える。

 私たちの知覚には、何らかの形で私たちの主観的・精神的な記憶(想起)が結びついている。何かを見た時、私たちは常に、それを過去に見た何かと関連づけたり比較したりしながら知覚している。

 コーヒーカップを手に取った時、私たちは、「あ、いつもより薄いな」とか、「あれ、紅茶と間違えたかな」などと思いながら、コーヒーを知覚しているわけだ。

 この知覚は、単なる身体的な刺激−反応とは異なったものである。いわば私たちは、自らの能動的な精神(=想起)を通して、対象に主観的な意味を付与し読み取っているからだ。

 この想起を、純粋なもの、すなわち純粋想起として取り出してみよう。

 私たちはそれを、現在の感覚とは完全に峻別されたものとして考えることができる。

「(純粋想起は、)どうやっても感覚の性質を帯びることはない。」

 現在の何らかの感覚に反応して想起が喚起されるのではなく、いわば想起の可能性として、ずっと持続しているもの。純粋想起はそのようなものと考えればいいだろう。

 そしてこれもまた、純粋知覚と同様に、事実上というよりは権利上の概念として考えた方がいいものだろう。


5.イマージュ想起

 こうして、権利上の概念として純粋知覚と純粋想起の概念を提示したベルクソンは、続いてイマージュ想起という概念も提示する。

 これは、私の知覚−行動にかかわってくる、イマージュ化された想起、すなわち具体的に思い描かれた想起のことである。

私の過去のうち、イマジュとなり、ひいては、少なくとも生まれつつある感覚となるのは、この行動に協力することができ、この態度のなかに組み込まれることができるもの、ひとことで言うと、役に立ちうるものだけである。」


 それゆえこれは、純粋想起とは根底的に異なっている。純粋想起は、概念上、現在とのつながりをもたない記憶であるからだ。

「イマージュへと現実化された想起は、それゆえ、この純粋想起とは根底的に異なっている。イマジュとは一つの現在の状態であり、その出所たる想起によってしか、過去の性質を帯びることはできない。逆に想起は、それが役に立たないままであり、感覚との一切の混合がまったくないままであり、現在との繋がりを持たず、したがって非伸張的なものである限り、無力なのである。



5.心身問題(心脳問題)のために

 以上の考察を経て、ベルクソンは、身体の本質を次のように提示する。

「身体は、諸表象との関連では選択の道具であり、選択のためだけの道具である。」

「身体の役割は数々の想起を蓄えることではなく、有用な想起――最終的な行動のために現在の状況を補完し明確化する想起――を選択することだけであり、かくして有用な想起は、身体がそれに与える現実的有効性によって判明な意識へともたらされることになる。

 純粋知覚は、いわば物質の領域に属するものである。他方の純粋想起は、物質による刺激を経ないのだから、精神の領域に属するものだ。

 そして身体は、いわば両者の中間にある。私たちは、身体を通して、想起を核とする精神的なるもの(欲求や意志)を、物質とかかわりあう行動(とその選択)へと向かわしめるのだ。

 このことが、心身(脳)問題を解く鍵となる。そうベルクソンは言う。

 つまり身体は、純粋想起を現在にとって役立つイマージュへと化し、純粋知覚に働きかけ、現実的行動へと自らを差し向ける「道具」なのである。

 物質と精神、どちらが世界を統べる原理であるかと考えるのではなく、私たちは身体を通して、精神にとって有用であるものとしての物質界とかかわっている。


6.純粋持続

 つまり私たちは、物質の原理にのみ従うのでも、精神の原理にのみ従うのでもなく、いわば両者を身体を通して浸透させあう、「持続」としかいいようのない原理において生きているのだ。最後にベルクソンはこのように言う。

われわれの意識によって生きられた持続は、決まったリズムを持った持続であり、物理学者が語る時間、ある決まった間隔のなかに好きなだけ多くの現象を蓄えることのできる時間とは非常に異なっている。

 私たちは、純粋に客観的な物理法則に従って生きているのではない。独特の生の持続の相において生きているのだ。

 こうしてベルクソンは、やや唐突にも思えるが次のように言う。

「このように、生まの物質と、最も省察に適した精神とのあいだには、記憶の可能的な強度のすべて、あるいは同じことだが、自由の段階のすべてが存している。

 単なる物質世界の原理にも精神世界の原理にも従属するのではない、両者を相互浸透させながら持続を生きるところにこそ、私たちの「自由」の領域がある。ベルクソンはそう言うわけだ。


(苫野一徳)


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ベンヤミン『暴力批判論』



はじめに

 鋭い社会批評を、エスプリの効いた独特の文章をもって表現し続けた、ユダヤ人思想家ベンヤミン。思考が幾重にも重なり合うように紡がれる彼の思想表現は、今なお多くの人を引きつけて放さない。

 ナチスの追っ手から逃亡する途中、ピレネー山中にて服毒自殺を遂げたとされている。

 本書は、「暴力批判論」とその他10篇が収められた論文集。

 以下では、その中から主要なものとして、「暴力批判論」と「認識批判序説」について紹介したい。そしてまた、彼の思想を批判的に考察することにしたいと思う。


1.「暴力批判論」について

①目的のために暴力は正当化されうるか?

 本論文の目的は、たとえ正しい目的のための手段にもせよ、一般に暴力が原理として倫理的であるかどうか」という問いに答えることにある。

 あらかじめ言っておくと、ベンヤミンの答えは「ノー」だ。

 まず彼は次のように言う。

「自然法は、正しい目的のために暴力的手段を用いることを、自明のことと見なす」

 たとえば、いつ果てるとも知れない、ホッブズ言うところの「万人の万人に対する戦い」を調停するような暴力がそうだろう。その場合、暴力という「手段」は「正しい目的」のために正当化される。

 しかしベンヤミンは言う。

「それ(暴力―引用者)は法関係を確定したり修正したりすることができる」

 正しい目的(法)のためなら、暴力という手段は正当化される。そう一般には考えられている。しかし実のところ、暴力はこの目的(法)それ自体を作ったり変えたりしてしまう力を持っているのだ。

手段としての暴力はすべて、法を措定するか、あるいは法を維持する。


②目的の正しさを決めるのは神

 そこでベンヤミンは、次のように言う。

手段の適法性と目的の正しさについて決定をくだすものは、けっして理性ではないのだ。前者については運命的な暴力であり、後者については――しかし――神である。

 暴力は、手段としての自らの正当性を主張することができない。暴力を行使するに値するとされる目的もまた、結局はその暴力が自ら作り出すものであるからだ。

 では何が目的の正しさを決めるのか。

 それはである。

 きわめて飛躍的に思えるが、ベンヤミンはこうして、最後に神の正しさを主張する。

 人間が行使する暴力は、自らを正しい手段であると強弁する神話的暴力である。この神話的暴力を廃棄せよ。そして神の正しさに還れ。ベンヤミンはそう主張するわけだ。

非難されるべきものは、いっさいの神話的暴力、法措定の――支配の、といってもよい――暴力である。


③「暴力批判論」の問題

 さて、私の考えでは、以上見てきたベンヤミンの思想は、やはり飛躍であり、また思想的退行である。

 近代哲学は、何が「神の正しさ」であるかは分からない、ということを、一つの到達点、あるいは思考の出発点とした。

 キリスト教とイスラム教の戦いや、カトリックとプロテスタントの戦いなど、何十年何百年にわたる凄惨な命の奪い合いの歴史を通して、デカルトに始まる近代哲学者たちは、絶対的な神の正しさが不可知であることを明らかにし、これをめぐる殺し合いに終止符を打つことを訴えてきた。(デカルト、ロック、ヒューム、バークリーなどのページ参照)

 重要なことは、何が絶対的に正しい真理であるかをめぐって争い合うことではなく、どうすれば互いに平和に共存することができるか、そのルールを設定し共有することである。これが、カントからヘーゲルに至る近代哲学者たちの1つの到達点だった。(カントとヘーゲルのページ参照)

 それゆえ私たちは、ベンヤミンのように、手段としての暴力はそれ自体が目的を作り出すがゆえに正当化され得ないなどと言うのではなく、設定された目的の正当性と、その実質化のプロセスや程度の正当性を、常に問い続けるべきなのだ。

 手段としての暴力が目的それ自体を作り出す、というのはベンヤミンの洞察だが、しかしだからこそ、私たちは、そうならないよういかに暴力を正当性のもとに制御しうるかと問わなければならないはずなのだ。


2.「認識批判序説」について

 続いて、1928年に発表された「認識批判序説」について。

①哲学は散文的であれ

哲学の構想においては方法は、その教授法に解消されるようなものとは違う。ということは、哲学の構想には一種の秘教性がつきまとう、ということにほかならない。」

 ベンヤミンによれば、哲学とは確固たる方法を持つものではないがゆえに、秘教性を免れ得ない。いやむしろ、秘教性を持つべきものである。

 ベンヤミンによれば、ヘーゲルなど19世紀の哲学は、真理蜘蛛の巣状に張り渡された認識の網のなかに捉えようとする」試みである。

 要するに、大文字の真理を自らのうちに取り込み叙述してやろうなどという、出過ぎたまねをしているというわけだ。

 しかし真理なるものは、そのような不遜な態度で叙述できるようなものではない。それゆえ哲学は、命令的な教説としてではなく、散文的に叙述されるべきものなのだ。

「対象が大きければ大きいほど、この観察はそれだけ多く中断する。その散文的な冷静さは、命令的な説の言葉よりも身近であり、そしてそのような冷静な書きかただけが、哲学的な探究にはふさわしいのだ。


②真理は認識されるものではない

 そこでベンヤミンは次のように言う。

真理は意図とは無縁に、諸理念から構成された存在である。だから、真理にふさわしい態度は、認識における志向性ではなくて、真理へはいりこんで消滅することだ。

 真理は、認識対象などという枠を遥かに超え出たものである。人間の認識はあまりに限定的なものだから。

 それゆえ、私たちは真理を認識対象として捉えることはできない。とすればわれわれに可能なことは、そこへ入り込んで消滅することのみである。

 そうベンヤミンは主張する。


③「認識批判序説」批判

 さて、以上がベンヤミンの「認識論」あるいは「認識論批判」の要諦だが、私の考えでは、これは残念ながら「認識論」としては原理性を欠いている。

 ベンヤミンにおける「真理」あるいは「根源」は、認識されるものではなくわれわれにその存在をいわば刻印するようなものだ。

経験によって規定されうるような志向としてではなく、この経験をまず刻印する力として、真理は存立している。

 「真理」なるものが認識され得ないものであることは、ある意味ではもはや哲学的常識だ。そこで哲学は、ここから2つの道へと分かれることになる。

 1つは、「真理」なるものへの問いを打ち切り、一切をわれわれに立ち現われた「現象」として捉える方向。もう1つは、この「真理」なるものを、認識不可能でありつつもわれわれの存在根拠として措定する方向。

 前者はフッサール現象学が徹底した方向性だ。対して後者は、たとえばフッサールの弟子にしてベンヤミンの同時代人、ハイデガーが熱心に叙述した。

 そして私の考えでは、両者の「真理」論を比べれば、圧倒的にフッサールに軍配が上がる。

 その理由については、このブログでもさんざん論じてきたので、ここではポイントを1つだけ言っておくことにしたいと思う。(詳細はフッサールやハイデガーのページ参照)

 重要なことは、私たちの存在根拠としての真理というベンヤミン的な真理についての考えは、決して検証し得ないということだ。

 検証しうる(確かめ可能である)のは、私たちには何らかの現象が立ち現われているというそのことまでであって、この現象の立ち現われを可能にしている何ものかは、「想定されるもの」という域を出ない。

 したがって私の考えでは、私たちが入り込んで消滅する真理とか、経験を刻印する力としての真理とかいったものは、検証不可能な物語以外の何ものでもない。

 そしてもしもこの物語を受け入れるとするならば、私たちは、ではその真理とは一体何かという、決して答えの出ない、そして時に激しく対立し合う論争を繰り広げることになる。そして実際、哲学は、そうした決着のつかない(あえて言うなら不毛な)論争の歴史でもあったのだ。

 フッサール現象学の功績は、こうした形而上学的物語を封じ込めることにあった。

 認識対象としての真理への問いは言うまでもなく、われわれの存在根拠としての真理への問いをもやめよ。

 私たちはそのように言うべきである。(このことについての詳細な論証は、フッサールのページを参照されたい)


(苫野一徳)


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