竹田青嗣『近代哲学再考』

はじめに

 ポストモダン思想の出現によって、近代哲学はもう終わった、いや、そもそも哲学自体がもう過去のものだ、といった風潮が、長い間続いている。

 そんな中、竹田はずっと、現代思想はただ「相対化」をするとどまり、問題を先へ進めることができず結局デッドロックにぶち当たっているのだ、と論じてきた。そしてむしろ彼らが批判する近代哲学にこそ、問題の本質とこれをうまく解消しうる「原理」がある、といってきた。

 本書では、まずそもそも哲学とは何か、という問題に、明快な見解が与えられる。

 続いて、『人間的自由の条件』において竹田が到達した最強度の社会原理論が、ホッブズ、ルソー、カント、ヘーゲルらの思想を手がかりに、わかりやすく説明される。


1.序

人間は「自由」になったのに、現在、われわれはむしろいたるところで「自由」に苦しんでいる。この感覚は、次のような二つの「自由」に対する疑念を生んでいる。

「自由な社会」の実現は、実は本質的な意味での人間的自由を実現していないのではないか。
(「自由」が解放されたゆえの)資本主義の拡大が、植民地支配と世界戦争を引き起こしたのだ。

 このような考えが「反近代」の思潮を生んでいるが、しかしこの思潮は、実は「疚しい良心」の顕れなのではないか。

 つまり、ヨーロッパ近代が生み出した大きな過ちの“罪を贖いたい”という無意識裡の欲求が、ポストモダン思想という過剰な自己否定性として顕れてしまっているのではないか。

 しかし、実はポストモダン思想より近代哲学のほうが、はるかに深く近代社会の原理を捉えているのである。その原理とは、「自由の相互承認」である。



第1章 「存在の謎」と「言語の謎」——哲学とは何か

1.哲学とは何か

 「哲学には科学と違って答えがなく、むしろ確定的な答えの出ないものを求め続けることに哲学の意味がある」といったヤスパースの言うような哲学観は、決して哲学の核心ではない。

 むしろ哲学の方法は、科学の方法の基礎であり起源である。それは自然科学のようにつねに明確で客観的な答えが出てくるわけではないが、しかし、そこで見出される「原理」は不可逆的なものとして進展してゆき、決して後戻りしないという本性を持つ。

 さらに、そこには自然科学の方法では捉え得ない固有の領域、人間および人間の諸関係の原理を捉える方法が存在するのである。



2.哲学の「謎」——アポリアとパラドクス

 哲学におけるアポリア(難問)やパラドクスの源泉には、大きく二つある。

「存在の謎」(世界はどうやって生じたのか、人間はなぜ生きているのか等)

 この問いは、伝統的に宗教が答えてきた。しかしそれは「物語」であるため、共有されえない場合がある。そこで誰もが分かる「概念」を使って、哲学はそれを説明しようとする。しかしここに、二つ目のアポリアが生まれる。

「言語の謎」

 概念を論理的に使用するという哲学の思考のなかで、論理や言語のもつ固有の性質から、アポリアやパラドクスが多く現れてしまう。



3.哲学の本質——「普遍洞察性」について

 哲学の方法原理は以下の三つである。

「物語」を使わず抽象概念を使用する。

「神が世界を創った」「イブが蛇に誘惑されて木の実を食べてしまったことから、人間の苦悩が始まった」といった「物語」を使わない。

「原理」を提示する。

 ある多様な現象をどのような「キーワード」(=原理)で呼べば、またそれをどう構成すれば、より普遍的な(広い共通了解を生むような)説明方式になるかを考え提示する。
つねに「一から」(根底から)再始発する。

 先人の説を絶対だと聖化せず、たえずそれを鍛え直していく態度。

 以上のような方法は自然科学の方法の本質と同じであり、それは世界説明をより“普遍化”していくことであって、絶対的真理へ届くための絶対的方法ではない。これを「普遍洞察性」と呼ぶことができる。

 「普遍洞察性」は、もし間違った考え方、ものの見方が対立した場合でも、必ず違った考え方を調整し、新しい「共通了解」を取り出すことができる、という可能性の原理。


4.「存在の謎」と「言語の謎」

 「言語の謎」には、たとえばアキレスと亀のパラドクス(「アキレスが前を行く亀を追い越すためには、有限の時間のうちに、無限の点を通過しなければならない、しかしそれは不可能だ」というもの)がある。

 しかしこれは、現象学の「本質観取」の方法を使えば解明することができる。つまりこれは、「有限」や「無限」という概念を実体化し、そのかぎりで「無限>有限」という不等式を動かしがたいものと考えてしまっているのである。「有限」も「無限」も、実はある観点からみられた事態の側面の抽出なのである。

 もう一つの謎、つまり「存在の謎」は、すなわち「形而上学的問い」であって、実は本来「答え」の出ない問いである、と、カントによって“証明”されている。人間の「理性」(推論の能力)は、どこまでも究極原因を探ろうとしてしまう。そこに、この「存在の謎」が現れる理由がある。

 以上のように、優れた哲学的思索は、哲学をその固有の「謎とアポリア」の迷路から救い出す。もう一つ、哲学には、その思考原理によって、時代の人間的、社会的困難に立ち向かい、これを克服していく展望の「原理」を提示するという役割がある。


第2章 認識問題と観念論——近代哲学の根本問題

1.反=近代哲学

 「はじめに」で述べられたような、反=近代哲学の思潮が現在流行している。しかし今、次のことを確かめなければならない。

 近代哲学の作り出した「近代社会」の原理が、現在、正しく受け取られているかどうか。


 「近代社会」の原理と現代社会の矛盾とのつながりの因果関係が正確に把握されているかどうか。またその上で矛盾の克服の原理が適切に考えられているかどうか。


 実は近代思想は、以下の課題を果たしたのである。


 従来の教義的政治権力(唯一神の教義を絶対権威とする政治権力)と身分制度の考え方を完全に打ち倒した。


 身分制に隷属していた大多数の人民を、文字通り「自由な個人」として解放するという社会的課題が結びついていた。


 この社会的課題は、さまざまな困難を伴いながらも、徐々に現実化されていった。


2.近代哲学と「観念論」

 近代哲学の根本問題は、「認識問題」、すなわち、「主観−客観は一致するか」である。さまざまな世界観が対立したこの時代、それぞれの「信念対立」を克服しなければならなかったからである。

 そこで近代哲学は、それぞれがなぜこのような「信念」(確信、世界観)を持ったのか、と問うた。そして「観念論」は、「観念」こそがその「確信根拠」であると考えたのである。

 カントを本格的な始発点とするこの「観念論」は、二筋の重要な展開の道を持つ。

 一つはヘーゲルへ受け継がれ、「社会」を実在的な構成体としてではなくあくまで個々人にとっての関係的本質として捉えようとする、独自の社会認識の原理である。

 もう一つは、フッサールへと受け継がれ、「信念対立」の問題を徹底的に克服するような考え方の原理である。



3.近代社会の原理——ホッブズとルソー

 ホッブズは、近代哲学においてはじめて社会についての原理的思考を展開した。

 彼は、どんな人間も“自然状態”では自分が生き延びるために可能なあらゆる手段を用いるという赤裸々な事実があり、そのような状態では「万人のたたかい」に歯止めをかけるものは何も存在しない、と考えた。

 このような状態から脱するために、人はルールを設定した。そしてこの実効は、ただ実力と威力(つまり権力)によってしか保証されない。「法」や「権利」の根拠は神や聖なる権威にはなく、ただ人びとが「平和を獲得しようとする望み」からのみ設定されるのである。

 ルソーはこれをさらに推し進め、「社会契約」と「一般意志」という二つの原理を据えた。これによって、すべての社会的権威の根拠は、ただ「合意」ということのみにある、という原理が提示された。つまり、社会の全成員の自由な「意志」が作り出す「合意」だけが、政治的権限の唯一の根拠である。



第3章 「絶対的なほんとう」をめぐって——近代精神の探求

1.カント——自由と道徳

 カントには二つの偉大な業績がある。

 一つは純粋理性の「アンチノミー」という問題設定によって、伝統的な「形而上学」を“かたづけた”こと、もうひとつは、そのことによって「道徳哲学」という新しい哲学的探求の領域を創出したことである。

 第一の問題は、「正しい認識は可能か」という認識問題であり、第二の問題は、「善悪」「美醜」といった人間的価値の原理とは何か、という問題。

 第一の問題に対して、カントは、「世界には始まりがあるかないか」「神は存在するか」といった「形而上学」的問いを、論理的には「世界には始まりがある」とも「ない」とも証明できる、「神は存在する」とも「しない」とも証明できる、というアンチノミーを提示することで、こうした問いの無効性を宣言した。

 第二の問題に対して、カントは、理想状態を思い描いてそこへ向かおうとする能力が人間の本質的な能力であり、その状態へ向かって意志することが人間の「自由」の本質であるとした。人間の「自由」は神から与えられたものではなく、むしろ人間の存在本性それ自身が「自由」である。ここから「道徳」の根拠が導かれる。つまり、ある行為が万人の「自由」の確保を阻害したり脅かしたりする場合は、「正しくない」ということになる。

 しかしこの点に関しては、ホッブズルソーが「権利」を「合意」の結果として取り出したのに対して、「人間は自由たるべし」という「正しさ」の絶対的規範を置いてしまった。これは思想的な後退だった。



2.反=ヘーゲル——コジェーヴと「歴史の終焉」

 ヘーゲルは現代哲学、現代思想のシーンにおいて最大の「敵役」とされている。その理由は次の通りである。

1.「絶対知」という、世界の究極原理をとらえうるとする形而上学的思考がある。

2.立憲君主制国家を擁護する近代国家の代表的なイデオローグである。

 しかし、実は「絶対知」は世界の一切についての完全かつ絶対的な「知」を意味しない。また、立憲君主制国家「批判」は20世紀の社会思想の基本類型であって、19世紀までの哲学者をその観点から批判するのは事後的な批判である。


3.ヘーゲルと近代精神

 ヘーゲルは『精神現象学』において、人間精神が自らの本質を展開してゆくその根本動機として、精神の「絶対本質」への欲求、という「原理」を提出している。つまり、精神は、もし条件があればより「ほんとう」のものを求めようとする本性を持っている。この「絶対本質」の概念は、近代社会では「自由」への希求というかたちをとる。

 人間が「自由」な存在でありうるためには、三つの現実的な条件が必要となる。ひとつは経済的条件(経済的自立)、二つ目は政治的保証という条件(身分制度の解体)、三つ目は思想的条件(社会改変を許容する世界観)。

 こうして、近代人の求める「絶対本質」は、「わたしの意志は万人の意志であり、万人の意志がわたしの意志である」という「絶対自由」の理念へと結実していく。しかしこれは結局、万人の「絶対的自由」がせめぎ合う事態を生み出し、革命後のテロリズムへと行き着いてしまう。



4.「道徳的意識」とカント

 万人の「絶対的自由」実現の挫折から、カントのような道徳的意識が現れる。つまり、理想的に設定された「善きこと」へ向かおうとする、「理想理念」という形をとる。

 しかしこの「理想理念」は各自で異なるため、結局は信念対立をもたらしてしまう。

 それゆえカントは、もしわれわれが全員一致して、唯一にして最高の「善」を想定すれば、各自の「理想理念」の対立から生じた信念対立は克服されうる、と考えた。これが「神の要請」となる。

 しかしこれは信念対立克服の現実的な条件を提示しえていない、とヘーゲルは批判する。


5.「良心」とヘーゲル

 ヘーゲルの「良心」は、「道徳的意識」のこの弱点を克服する。

 「道徳」は、自分の理想を現実化してゆく条件をつかもうとするのではなく、「理想理念」と現実の間の大きな距離を、「当為」(かくあるべき)で埋めようとする(絶対平和であるべき、絶対平等であるべき、など)。

 しかしこの「当為」は各自で対立する。「良心」は、この「当為」が対立を生むということを自覚し、そして自分の「信念」が本当に正しいかどうかは、「普遍性の承認」を求める必要があるということを自覚したものである。つまり、自己の「理想」を絶対的に確保しようとするのではなく、むしろその「正当性」「普遍性」を絶えず確証しようとする努力にこそ「ほんとう」がある、と、良心は考えるのである。


6.「ほんとう」とは何か——ヘーゲル対ハイデガー

 ハイデガーは、人間は実存の「自由」の底に必ず「死の不安」をもち、このことが「良心」、つまり人間の「ほんとう」の感覚の重要な底板になっているという。

 しかし彼は、この「ほんとう」への欲望を促す呼び声「良心」は、これを追い詰めると人間の本質的な「責めあり」を喚起するものだという。

 つまりハイデガーの「良心」は、ニーチェのいう「疚しい良心」に近くなってしまう(「結局自分は無価値だ」「いやそうじゃない」というせめぎあい)。

 一方のヘーゲルの「良心」は、人間の「よくありたい」「ほんとうをめがけたい」という存在配慮の本質を深く言い当てている。それは、万人が「良心」を自覚し自己の「自由」の本質的了解にいたるべきである、という考えではない。「自我」の欲求が「関係」の欲求へと開かれる条件を備えるならば、人間は「良心」という場面へと進み出る可能性をもつのである。


(苫野一徳)



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