ボードリヤール『消費社会の神話と構造』

はじめに

 ポストモダン思想の代表的存在、ボードリヤール。本書は、その後の社会学や哲学のみならず、現実の経済社会にも大きな影響を与えた。

 消費社会においては、モノはモノそれ自体の有用性としてではなく、イメージとして消費される。たとえば(当時)洗濯機は洗濯という機能だけでなく、それを所有しているというステイタスのゆえに消費された。

 われわれは自分の欲求にしたがって消費をしていると思っているが、実はこの消費社会においては、社会システムそれ自体によって、われわれの欲求が産み出されているのだ。

 それがボードリヤールの思想モチーフだ。

 今や「常識」となったこの社会観を、70年代にいち早く打ち出したボードリヤールの慧眼には感心させられる。

 しかし、彼の思想には社会告発の構えがあまりに強すぎると私は思う。われわれは実はシステムに閉じ込められていて、自由ではないのだ。そんなイメージを、彼はこの後も次々と打ち出していく。

 しかし思想の最も力強い営みは、われわれは実は自由ではないのだなどということを、告発し続けることなんかにはない。

 どのような条件を整えれば、われわれは自由の感度を得られるのか。


 力強い哲学は、いつもそのように考える。私はそう思う。


1.記号としてのモノ

「どんな場合でも、消費者に手本を示して購買衝動をモノの網へとむかわせ、この衝動を誘惑し、自己の論理に従って最大限の投資と経済的潜在力の限界にまでたどりつかせるためにモノは並べられている。」

 モノはその有用性によってのみ消費されるのではない。それは社会システムにおける記号の役割を果たす。

 それはつまり、こういうことだ。

 ブランド物は、有用性だけを考えたなら法外なほど高価だ。ブランド物を買う人は、それを所有(消費)することで、あるステイタスを得るわけだ。つまりバッグや財布は、ステイタスの記号なのだ。

 ということはつまり、社会システムそれ自体が、ブランド物=ステイタスという「構造」を作り上げているわけで、消費者はこのシステムの理論に、踊らされているだけなのだ。

 これがボードリヤールの基本モチーフだ。


2.システムの自己増殖

「システムは自分が生き残るための条件しか認識しようとせず、社会と個人の内容については何も知らないのだ。このことに気づいていれば、(典型的な社会改良主義的)幻想をもたずにすむのである。それは、システムの内容を変えればシステムそのものを変革できるとする幻想である(軍事予算の教育への振替えなど)。」

 われわれは自由に振舞っているように見えるけれど、実は社会システムの内部に取り込まれているのであって、自由なんかではない。

 このシステムは、自己増殖する。われわれはこのシステムを変革することなど、もはやできないのだ。

 ボードリヤールの思想は、次第にこのようなペシミスティックなものになっていく。

 なぜなら、まず、

「消費者は自分で自由に望みかつ選んだつもりで他人と異なる行動をするが、この行動が差異化の強制やある種のコードへの服従だとは思ってもいない。」

 からだ。

 そもそもわれわれの行動はすべてシステムのコードに従ったものなのだ。

 また、

「労働力の剥奪による搾取は、社会的労働という集団的セクターにかかわっているので、ある一定の段階からは人びとを連帯させる。〔中略〕(しかし)消費者たるかぎりでは、ひとは再び孤立し、バラバラに細胞化し、せいぜいお互いに無関心な群集となるだけである」

 からだ。

 かつての目に見えた搾取関係に対しては、労働者が団結して抵抗しようという動機も生まれた。

 しかしこの消費社会においては、ひとりひとりは団結しようがない。もはやわれわれは、システムに対してどのように抵抗することもできないのだ。

 こうして、システムは個々人をコード化し続ける。われわれには、もはやほんとうの意味での個性も自由もない。


3.ボードリヤールの思想の問題

 以上のようなボードリヤールの思想には、かなりのリアリティがある。

 われわれは、いろんなものを自分が選んでいると思っているが、実はそれは社会システムによって欲望するよう強いられている。

 私が大学に入りたいと思うのも、金を持ちたいと思うのも、いい服がほしいと思うのも、全部社会システムによって産み出された欲望だ。

 この考え自体は、とても妥当なものだと私は思う。

 しかし問題は、その後の彼の思想の進み方にある。

 結局われわれは、この社会システムに囚われているのであって自由ではない。もうこれに抵抗する術もない。

 しかしこれは、行き過ぎたイメージだと私は思う。

 われわれの欲望は、確かに社会によって作られる。それはむしろ当然のことであって、「よい社会」を考える際の前提だ。

 だから、われわれは自由ではない、と告発するだけで何の解決策も出さないボードリヤールの思想には、何の可能性もない。問題は、その欲望がどのような形で叶えられればわれわれは「自由」といえるのか、と問うことにある。

 たとえば、欲望体系=コードを、まずはできるだけ多様にするというアイデアがある。

 ブランド物に価値を置く人もいれば、自然のなかでのんびり暮らすことに価値を置く人もいる。どちらが「よい」価値かではなく、ある価値=欲望にこだわるのがつらければ、別の価値=欲望へと移っていければいいのだ。

 それは、勉強ができなくて学校に居場所がない子どもが、得意な体育の授業では生き生きできる、というのに似ている。

 どんな欲望も、社会にコード化されている。それは当然のことだ。

 問題は、この欲望とうまくつきあっていく社会を、われわれはどのように構想できるかなのだ。そして現代社会は、そのような社会を構想できる希望をもっている。

 「エコ」と銘打つだけで、さまざまな商品が売れる。「エコ」が立派な消費対象になっているからだ。多くの論者がいうように、これは消費社会のある種の希望でもあるだろう。

 問題の所在が、実は解決策の所在でもある。私たちはイメージに生きる存在だ。だからこのイメージを、よりよい方向へと導いていくこともまたできるはずである。

(苫野一徳)

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ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』

はじめに

 「欲望機械」「器官なき身体」など、独自の術語を駆使し、現代資本主義の閉塞状況を巧みに捉えた本書。

 読者の理解をあえて拒んでいるのではないかとさえ思えるような、超難解で絢爛な文体、そしてその豊かなイメージに溢れた思想に、特に70、80年代、多くの知識人が心を奪われた。

 しかしドゥルーズとガタリは、次々と展開される自らの独自の術語について、その著作においてそれほどはっきりと定義づけ説明することはなかった。むしろ彼らは、ある「イメージ」を、まさにイメージとして強烈に表現し、人々の心に直接的に訴えかける思想言語を打ち立てたのだと言っていい。

 そうした、それまでの厳密な言語表現を志向してきた哲学とは一線を画した思想のあり方は、人々に大きな驚きと新鮮さを与え、ドゥルーズとガタリは、現代思想の頂点へと登り詰めることになった。

Foto -Pierre-Félix Guattari しかし私は、彼らの思想は確かに極めてすぐれた「イメージ」喚起力を持ってはいるものの、まさにそれが「イメージ」にとどまるがゆえに、現代社会や資本主義の本質的な批判になっているとは思えない。

 確かに彼らが打ち出した現代社会の「イメージ」は、当時強烈なリアリティを持っていたし、今なお持ち続けているだろう。その「イメージ」とは、ひと言でいうならば、現代資本主義社会においてはわれわれの「欲望」はすでに社会によって規定されているがゆえに、人間はこの現実社会の問題や矛盾を主体的に解決していくことはできない、とするイメージだ。われわれは、社会という「機械」に組み込まれた「機械」なのである。

 こうした社会において、ドゥルーズ=ガタリが打ち出した対抗策は、社会がわれわれの欲望を一元的にコード化しようとしてくる力学に対して、これを徹底して分散させよというものだ。パラノイア(偏執病)に対するスキゾフレニア(分裂症)の対置である。

 こうしたイメージもまた、なかなかに魅力的なものであるようにみえる。しかし私には、このような提言は、同時にまたずいぶんと「浮いている」ようにも思える。

 ひと言でいうと、それは、ドゥルーズ=ガタリの思想には、そもそもどのような社会であれば「よい」といいうるかという、社会構想の指針となりうる徹底した思索が、そもそも問題圏として成立していない、あるいはあえて成立させていないように思えるからだ。

 もちろんそこには、社会のあるべき確固たる姿を打ち出した、マルクス(主義)に対する抵抗もあったのだろう。しかし私たち(あるいは哲学)は、それでもなお、私たちが社会をつくり営んでいかなければならない以上、どのような社会を構想していくことを「よい」といえるのかという問いを、手放すことはできないはずである。

 この指針原理を問題圏として成立させないまま、パラノイアではなくスキゾフレニアを、ツリーではなくリゾームを、というイメージだけを(より正確には、パラノイアだけでなくスキゾフレニアに、ツリーだけでなくリゾームに着目せよ、となるかもしれない)出されても、何かそれには漠然と魅了されるものがある、というだけで、なぜそれが「よい」イメージであるのかが結局のところ浮いてしまう。

 もっともこうした批判は、私自身の哲学的問題関心に引きつけすぎた、やや無い物ねだりの批判であるかもしれない。しかしそれでもなお私は、最も本質的な現代社会(資本主義)批判は、それをイメージによって粉砕しようとするのではなく、そもそもどのような社会を構想することを「よい」といえるのかという、社会の正当性原理の解明という課題に応えて初めて、可能になるものだと考えている。

 私の考えでは、ドゥルーズ=ガタリの思想は、むしろ前衛芸術と呼ばれるにふさわしい。それは、それまで人々に見えていたのとはまた別の社会の見方を、しかし人々がすでにいくらか直観していたものを、強烈な文体と独自の術語によって、イメージとして表現した芸術なのだ。

 その意味では、彼らの作品は、芸術としては一級の表現力に満ちたものであったといっていいだろう。


1.欲望機械

 「欲望」は、一般には、「私の欲望」とか「あなたの欲望」とかいうように、何らかの主体的なものであるように考えられている。
 しかしよく考えてみれば、私は他者がそれを欲望するから同じく欲望するのであり、社会がそれを欲望するよう仕向けるからそのように欲望するのである。
 したがって、私に絶対的に固有の欲望などは本来ない。そうドゥルーズ=ガタリは主張する。

 むしろ欲望とは、主体に付属するようなものではなくて、社会全体に編み込まれた機械なのである。

 ドゥルーズ=ガタリは、これを「欲望機械」と呼ぶ。さしあたり、私たち人間を含み込む、社会のあり方のことと考えておいていいだろう。そしてこの欲望機械は、たえずその欲望を、多様な形で生産し続ける。

「たえず生産の働きを生産し、この生産の働きを生産物に接木してゆくという規則こそが、欲望機械、あるいは根源的な生産の特性なのである。」



2.器官なき身体

 このような欲望機械の中にあって、人間は「器官なき身体」であるほかない。
 「器官なき身体」とは、詩人・俳優のアルトーの言葉からとったもので、さしあたりは分裂症的な生のあり方のことと考えておいてよいだろう。

 主体的な存在ではなく、ただ四方に飛び散る欲望の力学。これが「器官なき身体」のあり方である。

 しかしここに、欲望機械はなんらかの欲望のコードを埋め込もうとする。ドゥルーズ=ガタリは、この後みるように、その典型として現代人の心の問題の一切を家族関係(エディプス・コンプレックス)に還元してしまう精神分析について取り上げこれを批判しているが、このように、本来四方に飛び散るはずの欲望がある一元的なコードに押し込まれてしまった時、われわれはパラノイア機械に陥ってしまうことになる。

「パラノイア機械はまさにこのことを意味している。それは器官なき身体の上に欲望機械が侵入してゆく作用であり、欲望機械を全体として迫害装置と感ずる器官なき身体の反発的反作用なのである。」

「パラノイア機械は、欲望機械と器官なき身体との間の関係から生じてくるもので、この場合、器官なき身体はもはや欲望機械に耐えられないのである。」



3.独身機械

 こうした欲望機械と器官なき身体との対立を和解させることは、どのように可能だろうか。ドゥルーズ=ガタリは言う。

「この間にほんとうの和解が実現されうるのは、『抑圧されたものの回帰』として機能する新しい機械の次元においてでしかないように思われる。」

 この新しい機械を、ドゥルーズ=ガタリは「独身機械」と呼ぶ。そして言う。

「独身機械は何を生産するのか。独身機械を通じで何が生産されるのか。その答えは、強度〔内包〕量ということであるように思える。ほとんど耐えがたいほどの、純粋状態における強度量の分裂症的経験が存在するのである。」

「ここには、強度の諸地帯、もろもろの潜勢力、もろもろの閾と勾配以外に何も存在しない。」

 独身機械は、何か一元的なコードに従うものではなく、ただ散逸する強度としてのみある。それはドゥルーズにとって、根源的な差異とでもいうべきものを意味している。強度は、決して何かに同一化されることはない。ただ強度(閾と勾配)としか呼べないような、根源的な差異のみによって成立するのだ。



4.原始土地機械――世界史の第1段階

 ここでドゥルーズ=ガタリは、現代にいたるまでの歴史段階を3つに分け、「欲望機械」の観点から分析しモデル化する。

 まず、いわゆる未開社会を2人は原始土地機械と呼び、この欲望機械の特徴を、欲望を「コード化」する作用として描き出す。

 ドゥルーズ=ガタリによると、原始社会の根本は、レヴィ=ストロースがいうような「交換」の体系ではなく、むしろ誰が何を借りたか、誰が何をなしたか、ということを、刻印する点にある。「本質的なことは、交換することではなくて、登記すること、刻印することであるということ」なのである。

 この点において、ドゥルーズ=ガタリはニーチェを高く評価する。

「登記、コード、刻印といった原始社会体の基本的問題を、これほど鋭い仕方で提起したひとは、これまでに存在しない。」
「債権者−債務者の関係は、債権債務のいずれの側においても、記憶に属する事柄である(未来にまで引きのばされる記憶である)。負債は、交換が装う見かけであるどころではなく、大地的そして身体的登記からじかに生ずる効果であり、この登記が用いる直接の手段である。負債は、まったく直接的に登記から生ずるのである。」

 原始社会における根本形態は、大地の富をめぐる負債関係の刻印という、コード化にあったのである。



5.専制君主機械――世界史の第2段階

 続いて登場するのが、専制君主機械である。原始社会は、やがて専制君主をいただく帝国へと展開していくことになるのである。

 ドゥルーズ=ガタリは次のように言う。

「専制君主はパラノイア人である〔中略〕。そして、倒錯者の新しいグループが、この専制君主の発明を普及してゆくことになる〔中略〕。自分らが創設し、あるいは征服する町々に、専制君主の栄光を拡大し、彼の権力を押しつけながら。専制君主とその軍隊が通過してゆくところではいたるところで、医者、僧侶、書記、官吏たちが行列している。以前の相互補完的状態が地滑りして、新しい社会体を形成したといってもいい。」

 この専制君主機械の特徴は、「超コード化」である。

 原始社会では、それぞれの場所でゆるやかに負債関係がコード化されていたのに対して、専制君主社会においては、すべてが専制君主のルール(コード)のもとに統合されることになる。

「超コード化、これこそが国家の本質をなす操作であり、国家が古い組織体と連続すると同時に断絶する事態を評価する操作なのである。」



6.文明資本機械――世界史の第3段階

 最後にドゥルーズ=ガタリは、現代社会を文明資本機械として描き出す。

 これは、専制君主がほろび、ただ資本だけが力を持つようになった時代、「金銭が金銭を生み、価値が剰余価値を発生させる」時代である。

 これはひと言でいって、「脱コード化」の時代である。資本はたえず循環し、それまでのコードであったものをことごとく無意味なものにしていく。今や超越的絶対的なコードは存在しない。現代社会において、欲望は四方に飛び散っているのだ。

 しかしドゥルーズ=ガタリは言う。資本主義は、この四方に飛び散ったはずの欲望を、再び自らのうちに取り込み内部化しようとする。このような資本主義のあり方を、2人は「公理系」と呼ぶ。

 要するに、どれだけ欲望が自由に飛び散るといったところで、資本主義経済においては、それは常にこの経済の中に組み込まれてしまうということだ。資本主義を動かしているのは欲望だが、この欲望が、結局は資本主義の内部に取り込まれてしまうのである。

「真の公理系とは、社会的機械そのものの公理系であり、この公理系は古いコード化に代って、科学的技術的コードの流れを含むあらゆる脱コード化した流れを組織し、資本主義システムを支持し、このシステムの目的に流れを奉仕させる。」

「分裂症は資本主義そのものの外的極限、つまり資本主義の最も根本的な傾向の終着点であるが、資本主義は、この傾向を抑止し、この極限を拒絶し置き換えて、これを自分自身の内在的な相対的極限に代えなければ機能しえない。資本主義は拡大する規模において、この相対的極限をたえず再生産するのだ。資本主義は、一方の手で脱コード化するものを、他方の手で公理系化する。」



7.アンチ・オイディプス(精神分析批判)

 先述したように、ドゥルーズ=ガタリは、こうした公理系化の力学の最たるものとして、精神分析を取り上げ痛烈に批判する。

「専制君主の記号はパパによって受けつがれ、残滓的大地性はママによって引き受けられ、〈私〉は分割され、切断され、去勢される。」

 周知のように、フロイトによって提唱されたエディプス・コンプレックスとは、母と結ばれたいという少年の欲求が、しかしそこに立ちふさがる父親の存在にはばまれ、加えて母への欲求を持ち続けていたら去勢されるのではないかという不安を抱き、やがてこの欲望を抑圧していくというストーリーである。

 フロイト理論では、この原体験を通して、われわれの自我は形成されていくことになる。(フロイト『性理論三篇』『自我とエス』のページを参照)

 しかしドゥルーズ=ガタリによれば、この理論は、まさに脱コード化の時代である、文明資本機械においてこそ登場したものである。つまりそれは、脱コード化を再コード化しようとする、内部化の力学なのだ。

「オイディプスのこのような生成やこのような成立は、資本主義以前の社会組織体の中では、想像される形において実現されていない。なぜなら、想像上のオイディプスの概念はこうした生成の結果であって、その道ではないからである。オイディプスは、糞の流れ、または近親相姦の波によって到来するのではなく、資本−貨幣の脱コード化した流れによって到来する。」

「脱コード化した大きな流れの代りに、ママのベッドの中で再コード化される小さな小川。外部との新しい関係の代りに、内面性。精神分析のいたるところで、いつも良心の呵責と罪責感の言説がかかげられ、糧を見いだす(それが治癒と呼ばれる)。」

 脱コード化された時代において、再び何らかの超コード化を遂げ、ばらばらになった欲望を再びシステム内部へと取り込むこと。精神分析は、まさにそのような力学を擁しているとドゥルーズ=ガタリは言うのである。



8.逃走せよ

 このように、脱コード化された社会において再びコード化(再土地化)されてしまったあり方を、ドゥルーズ=ガタリはモル的集合と呼ぶ。それに対して、欲望機械(人間を含む社会)の本来のあり方は、分子的多様性でなければならない。欲望機械は、欲望の散逸たる分子的連鎖をこそ目指さなければならないのだと。

 言葉を換えると、次のようになる。

 現代社会は、脱コード化本来のあり方である分裂症(スキゾフレニア)と、精神分析を典型とするパラノイアの、双方を持ち合わせた社会である。そこでドゥルーズ=ガタリの提言は、このパラノイア=再土地化=再コード化の力学から、「逃走」し続けよというものとなる。

「連鎖の機能とは、もはや大地や専制君主や資本の充実身体の上で流れをコード化することではなく、逆に器官なき充実身体の上で流れを脱コード化することである。それは逃走の連鎖であって、コードの連鎖ではない。」

「分裂症的な逃走そのものは、単に社会的なものから離れて周縁に生きることによってのみ成立するのではない。すなわち、この分裂症的な逃走は、社会的なものを蝕み貫く多数の穴を通して、社会的なものを逃走させる。この逃走は、たえず社会的なものを直接に把握して、いたるところに分子的負荷を配置し、爆破すべきものを爆破し、没落すべきものを没落させ、逃走すべきものを逃走させ、こうしてそれぞれの地点において、プロセスとしての分裂症を現実の革命的な力に確実に転換するのだ。」

(苫野一徳)


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