モース『贈与論』



はじめに

mauss レヴィ=ストロース構造主義をはじめ、現代思想に絶大な影響を与えた本書。アルカイックな社会についてのモースのあざやかな分析と、そこから彼が得た深い人間洞察は、今なお私たちの心を強く打つ。

 社会を営まずにはいられない人間たち。そこにあるのは、全面的な戦争全面的な信頼か、である。

 もし人々が安定的な暮らしを求めるのであれば、われわれは槍を手放さなければならない。

 生き残ることのできたいわゆる未開社会の人々が見出した道、それは、全面的な信頼を前提とした贈与交換システムだった。

 未開社会におけるこの贈与交換システム(全体的給付体系)を分析し、その現代社会における示唆を提示する。モースのすぐれた知性と情熱が光る、名著だと思う。


1.本書の目的

「未開あるいはアルカイックといわれる社会において、受け取った贈り物に対して、その返礼を義務づける法的経済的規則は何であるか。贈られた物に潜むどんな力が、受け取った人にその返礼をさせるのか」

 なぜ、そしてどのように人々は贈与し合うのか。 本書の目的は、未開社会において顕著にみられる贈与の体系の内実を解明することにある。

 さらに続けてモースは言う。

「われわれは、このような道徳と経済が今もなお、いわば隠れた形でわれわれの社会の中で機能していることを示すつもりである。また、われわれの社会がその上に築かれている人類の岩盤の一つがそこに発見されたように思われる。それらによって、現代の法と経済の危機が生む問題に関するいくつかの道徳上の結論を引き出すことが出来るだろう。」

 さすがはデュルケームの甥、と言うべきだろうか。『自殺論』において、現代社会における自殺のメカニズムを解明した後、どのようにすれば自殺を軽減することができるかを提言したデュルケームのように、モースもまた、未開社会の研究を通して、現代社会の抱える問題に一定の示唆を与えようとする(デュルケーム『自殺論』のページ参照)。素晴らしいスピリットだと思う。


2.全体的給付体系

「現代に先行する時代の経済や法において、取引による財、富、生産物のいわば単純な交換が、個人相互の間で行われたことは一度もない。」

 モースは言う。現代は、諸個人間における契約や取引によって財が交換される。しかし、人類は長い間そのような交換の仕方を知らなかった。というより、富の交換は、もっと広範囲な交換の一部に過ぎなかったのだ、と。

「それは何よりもまず礼儀、饗宴、儀礼、軍事活動、婦人、子供、舞踊、祭礼、市であり、経済的取引は一つの項目に過ぎない。」

 未開社会においては、あらゆるものが贈与交換し合われる。これをモースは「全体的給付体系」と呼ぶ。

 たとえば、アメリカ北西部のトリンギト族とハイダ族において象徴的にみられる徹底的な相互贈与の習慣であるポトラッチは、闘争型の全体的給付体系である。全財産をつぎ込むほどの贈与を受けた側は、さらにその財以上のお返しをしなければならない。それはほとんど、贈与という名の闘争である。

 未開社会、あるいは古代の人々は、血で血を洗う戦争の代わりに、贈与交換を通した競争という関係性を見出したのだ。


3.ポリネシアとメラネシア

 こうしてモースは、まず、この全体的給付体系が特に顕著にみられるポリネシアを中心に、未開社会における贈与交換体系の研究を開始する。

 まず彼は次のように言う。

「全体的給付は、受け取った贈り物にお返しをする義務を含んでいるだけでなく、一方で贈り物を与える義務と他方で贈り物を受け取る義務という二つの重要な義務を想定している」

 ここからモースは、古代における次のような道徳観を明らかにする。

「気前よく人に与えることは義務なのである。〔中略〕それは古代の贈与の道徳が正義の原則になるということである。」

 それは強さの象徴である。弱き者は、贈与することも返礼することもできないからである。古代において、道徳とは贈与できること、そしてまた、返礼できることだった。

 ニーチェ『道徳の系譜』で描き出した、古代における貴族道徳の、ある意味における実証だといってもいいだろう。実際モースは、ニーチェの影響をかなり強く受けていたらしい。

 ポリネシア(やメラネシア)における贈与体系を考察した後、モースは次のように言う。

「彼らは売買の体系に代わるものとして、贈与と返礼を盛んに行っているのである。」
「これらの人々は売るという観念も借りるという観念も持たないが、それにもかかわらず、同様な機能を果す法的、経済的活動を実施している。」

 全体的給付体系は、現代の経済体系とはまた別種の、そして人間にとってはより根源的な、社会のあり方なのである。


4.アメリカ北西部

 続いてモースは、アメリカ北西部の未開社会を研究する。

 まず彼は次のように言う。

「アメリカ北西部インディアンでは二つの観念が、メラネシアのポトラッチよりも鮮明に見られ、より発展し、細分化したポリネシアのポトラッチよりもはるかに明白に現れている。一つは信用と期限の観念であり、もう一つは名誉の観念である。」

 信用と期限、そして名誉の観念。これがアメリカ北西部における重要な道徳観である。

 再び、すでにニーチェが『道徳の系譜』で指摘していたことと、同型の指摘だと言っていい。

 贈与交換とは信用の上に成り立つシステムであり、与えられた側は、暗黙のうちに、期限内に返礼しなければならない。そしてこのシステムは、どれだけ多くのものを与えることができるかという、名誉をめぐる戦いでもある。

「ポトラッチの中には、所有する物のすべてを消費し、何も残してはならないというものもある。誰が一番裕福で、最も激しく消費するかを競うのである。」


5.古代の法(贈与における精神的絆とその危険性)

 続いてモースは、古代のさまざまな法について考察を続ける。

 まず、最古のローマ法について論じながら彼は次のように言う。

「契約と義務に関するほとんどすべての用語や、契約のいくつかの形態は、譲渡という行為によって生まれる人々の精神的絆の体系に結びついているように思われる。」

 契約による交換とは、単なる物の移動を意味するのではない。それは、与えた者と受け取った者の間に、何らかの精神的なつながりを形成するのだ。

「物を受け取るということだけで、受領者(accipiens)は、譲渡者(tradens)に対して、義務づけられた者(damnatus)、拘束された者(nexus)、銅塊に縛られた者ære obæratus」となり、精神的劣位、精神的不平等(主人[magister]に対する従者[minister])という罪責感に似た不安定な状態におかれる。」

 そこで、古代ヒンドゥー法について考察しながらモースは次のように言う。

「こうして古来あらゆる種類の用心がなされている。法典や叙事詩は、ヒンドゥーの学者が詳述したように、贈与、贈与者、与えられる物は、正確に慎重にそれぞれを関連させながら、与え方や受け取り方に絶対に間違いがないように扱うべきものであると伝えている。すべて礼儀作法の問題なのである。」

 ゲルマン法についての考察から、モースは次のようにも言っている。

「与えられ、あるいは譲渡された物の持つ危険が、極めて古代のゲルマン民族の最古の法や言語におけるよりも明確に示される例は他にない。それはこうした言語のまとまりにおいて、giftという語が「贈与」と「毒」の二義を併せ持つことを説明している。」

 ゲルマン民族の伝承には、贈り物が毒に変わるというものがたくさんあるという。それは、この贈与交換システムが、一歩間違えればきわめて危険なシステムであることを物語っている。

 余談だが、日本にも浦島太郎の玉手箱の物語がある。古代日本人もまた、贈与交換システムの危険性を、常に肌で感じ取っていたのに違いない。


6.現代社会への示唆

 以上のように、いわゆる未開社会と呼ばれる社会における贈与交換システムについて考察したモースは、これら研究成果から現代社会への示唆を導きだす。

 モースはまず次のように言う。

「われわれの道徳や生活の大部分は、いつでも義務と自由とが入り交じった贈与の雰囲気そのものの中に留まっている。」

 現代どれほど経済が発達し、独立した諸個人間における契約的交換がなされようとも、われわれの道徳には、贈与されれば返さなければならないという義務感情が根底にある。

「返礼なき贈与はそれを受け取った者を貶める。お返しするつもりがないのに受け取った場合はなおのことである。」

 そこでモースは言う。まずわれわれの社会は、気前のよい贈与という人間的営みの本質を思い出す必要がある。それゆえ、「金持ちは自らを同胞の財務担当係と考える状態に戻る必要がある。」

「つい最近、われわれの西洋社会は人間を『経済動物』にしてしまった」とモースは言う。ただただ金儲けのことだけを考える、利己的人間が増殖している。

 しかし、とモースは言う。

「個人がその目的を粗野に追求することは、全体の諸目的や和合にとっても、個人の労働とその喜びにとっても有害である。結局、個人そのものにとっても有害なのである。」

 モースの主張、それは、人間はただただ利己的目的の追求だけでは生きていけないということである。アルカイックな社会の分析から分かるのは、人間はその互恵性においてのみ、人間社会を築いていくことができるからである。

 そこでこの考えを現代的にアレンジするなら、次のようになるだろう。

「人を労働に向かわせる一番の方法は、自分たちのためと同時に他人のために誠実に果した労働によって生涯、公正に賃金が支払われると確信させることだと人々は気づいている。」

 人間は、結局相互に助け合わずに社会生活を営むことはできないのだ。未開社会の研究を通して、モースは次のことを知るにおよんだ。社会生活を営む人間同士、そこにおいては、

「全面的に信頼するか、とにかく疑ってかかるかのどちらかである。武器を置き呪術をやめるか、束の間の歓待から娘や財に至るまでのすべてを与えるかのどちらかなのである。」

 争いを回避したいのであれば、与え合うほかにない。

「交際するためには、まず槍から手を離さなければならない。そうして初めて、クランとクランのあいだだけでなく、部族と部族、民族と民族、そしてとりわけ個人と個人のあいだにおいてでも、財と人との交換に成功したのである。」

 本書は次の言葉で締めくくられる。

「これらの意識的な舵取りは最高度の技法、つまり、ソクラテス的な意味での『政治(la Politique)』なのである。」

 与え合う関係を、いかにして再び取り戻すことができるだろうか。

 モースの提言は、今なお、私たちの社会における最大の問題提起の1つであると言っていい。

(苫野一徳)

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アーレント『革命について』

はじめに

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 アーレントという独特の思想家に、私は強く惹かれると同時に、また強く抵抗したい気持ちにもかられてしまう。

 幅広く深い教養と、それに支えられた洞察力。抑制されながらもにじみ出る、人間への愛情、そして、独特の思想言語。

 何をとっても超一流の思想家だが、だからこそ、こちらの実存を奇妙にゆさぶってくるところがある。

 その理由は何だろう、と長い間思っていたが、かつて本書を読んで、なるほど、アーレントは見事すぎる「批評家」なのだ、と思って妙に納得したことがある。

 その幅広い教養を縦横無尽に駆使して、歴史的あるいは現代的事象を鋭く捉える。しかしその手腕があまりに見事すぎて、私も含めてあらゆる事象が、彼女の思考の枠内にすっぽり収められてしまうような、そんな居心地の悪さがある。

 もちろんそれは、力強い哲学的思考の条件ではある。

 しかし私は、そのスタイルに、敬服すると同時にかすかな違和感を抱いていた。

 まったく個人的な趣味の問題だが、私はアーレントのように、「世の中はこうなっているんだ、どうだ、そうだろう」という「批評」スタイルに、若干の居心地の悪さを感じる。

 むしろ私は、「こんな風に考えてみればこんなにも豊かな社会を構想できる、さあどうですか」という、そのようなスタイルを磨きたいと考えている。

 完全に個人的な趣味の問題だけれど、アーレントという独特の思想家は、こんな風に、「思想する」ことの意味を根底から考えさせてくれるようなところがある。

 ともあれ、本書について。

 アメリカ革命フランス革命を比較しつつ、なぜ前者はある程度「成功」し、なぜ後者は「失敗」に終わったのか、鋭い分析を試みている。

 革命とは何か、その意義は何か、そしてどうすれば、われわれは豊かな社会を創設できるのか。アーレントの思考は、相変わらず冴え渡っている。


1.革命の意味

 アーレントによると、革命の目的とは「自由の創設」である。

 それは、単なる古い権力からの解放を意味しない。アーレントは言う。

「解放(liberation)と自由(freedom)とが同じでないことはわかりきったことであろう。解放は自由の条件ではあるが、けっして自動的に自由をもたらすものではないからである。そして解放のなかに含まれているという観念は、どう考えてもネガティヴの域をでない。したがって解放への意図ですらへの欲求とは同じものではない。」
 
 libertyとfreedomを区別せよ

 革命とは、単なる古い権力からの解放ではなく、自由の構成をめざした「新しいはじまり」を意味している。そしてまた、そのようなものでなければならないのだ。アーレントはそのように言う。

「革命という現象が変化だけでは説明できないのと同様に、暴力だけでも説明不十分である。すなわち、ある新しいはじまりという意味で変化が起り、暴力がまったく異なった統治形態を打ち立て、新しい政治体を形成するために用いられ、抑圧からの解放が少なくとも自由の構成をめざしているばあいにのみ、われわれは革命について語ることができるのである。」



2.アメリカ革命とフランス革命

 さて、では現実に起こった革命は、果たして本当に、自由の構成をめざした「新しいはじまり」であっただろうか。

 アーレントの評価では、アメリカ革命はそうだった。しかしフランス革命は、自由の構成に失敗した革命だったといわざるを得ない。

 なぜか。フランス革命においては、自由の構成という革命の目的が、いつのまにか「貧困」の絶滅という「社会問題」に転換されてしまったからだ。

 このことが、ロベスピエールによる恐怖政治を生む直接的原因となった。そうアーレントは指摘する。

「テロを解き放ち、革命を滅亡にまで追いこんだのは必然性〔貧窮〕であり、人びとの緊迫した欠乏であった。」
「この間に革命はその方向を変え、もはや自由が革命の目的ではなくなっていた。」

 貧困の絶滅という社会問題解決の欲求の底には、貧者に対する同情がある。これは、ルソーが社会思想に持ち込み、ロベスピエールが実践し、そうしてテロルを巻き起こした動力だ。そうアーレントはみる。

「徳の源泉と考えられた哀れみは、残酷さそのものよりも残酷になる能力を持っていることを証明している。『哀れみのため、人間にたいする愛のため、非人間的になれ!』――パリのコミューンのあるセクションが国民公会にあてた請願書のなかからほとんど任意に抜きだしたこれらの言葉は、偶然的なものでもなくまた極端なものでもない。これは哀れみの真実の言葉である。」

 ちなみに、私の考えでは、アーレントのルソー批判はやや不当なものだ。

 『社会契約論』のページにも書いたが、ルソーほど、尊敬され、また同時に嫌われている思想家はほかにいない。そして彼が恐ろしく嫌われている理由の1つは、ロベスピエールが、ルソーの理論の忠実な体現者を自ら任じていたところにある。

 恐怖政治の根源にはルソーがいる。これは長らく通説でもあった。

 しかし私の考えでは、このような批判はほとんど不当なものだ。

 たとえばアーレントは「一般意志」を「完全一致」を要請する暴力的概念として捉えているが、これはまったく的を外した批判だ。「一般意志」は、社会権力は市民全員の「意志」を代表しうるときにのみ「正当」と言いうる、という権力の「正当性」の原理であって、皆の利害を完全に一致させなければならないなどという要請の原理では断じてないルソー『社会契約論』のページ参照)

 また、確かにルソーは「同情」「憐れみ」の重要性を説きはしたが(ルソー『人間不平等起源論』のページ参照)、そのゆえに、貧者のために徹底的に富者を滅ぼせなどとは一言も言っていない。

 私がアーレントのルソー批判が不当だと思うのは、こんな風に、アーレントがかなり強引に自分の文脈でルソーを解釈してしまっているところにある。

 ともあれ、先に進もう。


 フランス革命が、以上のように自由の構成から社会問題の解決へと目的を転換させてしまったのに対して、アメリカ革命は、最初から最後まで、自由の構成を目的として貫き通した。

「アメリカ的立場が実際上宣言しているのは、全人類は文明化された政府を必要としているということ以上のことではない。これにたいし、フランス的立場は、政治体から独立して、またその外部に権利は存在していると宣言しており、さらに進んで、このいわゆる権利――すなわち人間としての人間の権利――を市民の権利と同等視している。」

 フランス革命は、人は生まれながらに平等だという思想を生んだ。しかしこれは、いわばあらゆる権力や支配を否定する考えにつながってしまう。

 しかし、人間が他者とともに、しかも自由な存在として生きるためには、公的なもの、つまり「政治体」が必要なのだ。

 自由になるために、自由を保障できる公的空間を設立する。アメリカ人はこのことをよく知っていた。そうアーレントは指摘する。

 その理由を、彼女は次のように述べる。

 まず、アメリカはイギリスの「制限君主制」下において革命を起こしたということ。

 フランス革命は、「絶対王政」下における革命だった。人びとは、まずとにかく権力を絶対的に打ち倒さなければならなかった。それゆえに、革命家たちには新しい権力を構成するという発想がなかなか生まれなかったのだ。

 それに対して、アメリカには、「制限君主」に代わるよりよい「権力」を構成するという発想がそもそものはじめから存在していた。

 あるいは、アメリカにはフランスのような「貧困」という「社会問題」がほとんど存在しなかったことも幸いした。(奴隷制という、貧困問題を覆い隠すさらなる問題は存在したが。)

 だから、革命の目的を常に「自由の構成」に定め続けることができたのだ。

 アメリカ革命がわれわれに教えたことは何か。アーレントは言う。それは、人間は複数性を基礎とした人間のつながりにおいてのみ、真に人間らしく「活動」できるということだ、と。


「個人としての人間をも信頼できるのは、ひとりの人間ではなく複数の人間がこの地球上に住み、彼らの間に世界を形づくっているという事実があるためである。人間性の落し穴から人びとを救うのは、人間のこの世界性なのである。」



「権力とは、人びとが約束をなし約束を守ることによって創設行為のなかで互いに関係し結びあうことのできる、世界の介在的(in-between)空間にのみ適用される唯一の人間的属性である。そして、それは政治領域では最高の人間的能力とみてさしつかえないだろう。」



(もっともアーレントは、その後のアメリカは、このような革命精神を持続・発展させることができなかったと失望している。)




3.自由になるために=現れの空間

 こうしてアーレントの問いは、人は自由になるためにどのような社会をつくる必要があるか、というものへと結実していく。

 彼女の答えは、主著『人間の条件』で示されたものと基本的にはまったく同じだ(アーレント『人間の条件』のページ参照)。

「公的幸福を共有することなしにはだれも幸福であるとはいえず、公的自由を経験することなしにはだれも自由であるとはいえず、公的権力に参加しそれを共有することなしには、だれも幸福であり自由であるということはできない」のだ。

 そのような自由の空間を、アーレントは「現れの空間」と呼ぶ。

「ポジティヴな意味における自由は、平等な者のあいだにのみ可能である。そして、平等そのものは、けっして普遍的に妥当な原理ではなく、やはり限界づけを伴っており、空間的限界の内部においてのみ適用できるものである。このような自由の空間は、――ジョン・アダムズの用語をそのまま使うのではなく、ただその主旨にしたがっていえば――現れの空間(space of appearance)とも呼ぶことができよう。」

 まず、対等——平等と訳すより対等と訳したほうがいいと私は考えている——が条件である。

 そして、対等な存在同士として、私は何者か、あなたは何者か、と、相互に生き生きと問い合える空間。これが現れの空間である。そこでは多様な意見(opinion)が飛び交い、人々は皆、「『表明し、議論し、決定する』活動にたずさわる」ことができる。

 私たちの政治社会は、市民不在の「代表者」たちによる決定で動かされてしまいやすいものだ。

 しかし私たちは、できるだけ皆が意見を表明し合い、政治社会において現れ出ることができるような社会を構想する必要がある。

 そうなってはじめて、わたしたちは自由な社会を現実のものとすることができるのだ。

 アーレントはそう主張する。


(苫野一徳)



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