ウェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』

はじめに

 科学は「価値」について論じることができない。より正確には、何が「価値」あるものか、決定することはできない。

 100年以上も前にそう喝破した、社会「科学」者ウェーバーの名著。
 
 多くの人は、科学が何らかの「真理」を発見すれば、それにしたがって何をすべきかということも決定される、と素朴に考えているかも知れない。

 実は現在においてもなお、少なくない「科学者」たちは、そのように考えている。

 自然はこうなっている。だからわれわれはこうすべきである。

 私たちは容易に、「こうなっている」「こうすべきである」に、直接的に結びつけてしまいがちだ。

 たとえば「進化論」

 生物は環境に適応して常に進化している。

 だとすれば、われわれは常に「進化」すべきであって、劣等種は滅ぼされるべきである。

 かつての優生学思想を唱えた科学者たちの中には、そのように素朴な考えをもっていた人たちもいた。

 ナチスは強制断種を行い、オーストラリアのアボリジニたちは、白豪主義によってその絶滅が意図された。

 恐ろしい、と今なら多くの人が思うだろう。

 しかしこのような考えは、実は今でも続いている。

 たとえば、凶悪犯罪者たちの脳を調べれば、ある共通の構造が取り出せるかも知れない。

 ということは、犯罪者はその脳の構造によってそもそも犯罪者になるべく生まれているのだから、生まれたときに脳を調べて、犯罪者脳の子どもたちには前もって矯正教育をやるべきだ……と、実際に言っている学者もいる。

 特に現代は「脳科学」全盛の時代。「脳」が分かれば、まるで人間のすべてが分かるとでもいいたげだ。

 しかしそんなことは、実は決してない。

 われわれは確かに、「悲しい」とき、「嬉しい」とき、「恋をしている」とき、脳がどのように働いているかを探知することはできるだろう。しかしだからと言ってそれが、私たちの人生の「意味」や、恋をしていることの「価値」を、教えてくれるわけでは決してない。ましてや何かを「すべき」であるということを、要請できるはずもない。

 ウェーバーは言う。

 科学は、ある目的のための「手段」や「知識」を与えるものであって、何をすべきかを教えるものではない、と。

 いつの時代も再読されるべき、名著だと思う。


1.科学は何をすべきかを教えることはできない

「経験科学は、なんぴとにも、なにをなすべきかを教えることはできず、ただ、かれがなにをなしうるか、また――事情によっては――なにを意欲しているか、を教えられるにすぎない。」

「存在」「当為」を区別せよ、というのが、ウェーバーの第一の命題だ。

 世界は「こうなっている」、だから「こうすべきである」、というのは、間違った考えなのだ。

「世界に起こる出来事が、いかに完全に研究され尽くしても、そこからその出来事の意味を読み取ることはできず、かえって、〔われわれ自身が〕意味そのものを創造することができなければならない。」

 世界の意味や価値を決定するのは、科学ではなくわれわれ自身なのだ。

 実はわれわれには、世界は「絶対にこうなっている」ということができない。

 このことは、フッサールなど現象学のページでもさんざん述べた(フッサール『イデーン』『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』のページなど参照)。

 では科学的「客観性」とはいったい何なのか。本書でウェーバーは、この問いに挑む。


2.一つの絶対的「原理」などはない

 その前に、ウェーバーによる科学の自己限定についてもう少し続けよう。彼は次のように言っている。

「実践的な社会科学は、なによりもまず「ひとつの原理」を確立し、それを妥当なものとして科学的に確証し、その上で、当の原理から、実践的な個別問題を解決するための規範を一義的に演緯すべきである、というような見解が、まま専門家によっても相変わらず信奉されているが、これはもとよりナイーヴな信仰にすぎない。」

 ウェーバーの念頭には、マルクス主義がある。マルクス主義は、人類の歴史とは階級闘争の歴史であって、やがて人類は資本主義を打ち倒し社会主義を樹立する、という唯物史観を唱えた。唯物史観にとって、これは一つの絶対的「原理」だった。

 しかしそんなことは決してない、とウェーバーは批判する。

「「世界観」としての、あるいは、歴史的実存を因果的に説明する公分母としての、いわゆる「唯物史観」は、断固拒否すべきである。」


3.科学の「客観性」とは?

 さて、では科学的「客観性」とは何か?ウェーバーは次のように言う。

「ある事象の「社会-経済的」現象としての性質は、その事象それ自体に「客観的」に付着している、といったものではない。そうした性質はむしろ、われわれの認識関心の方向によって制約され、この方向は、われわれが、個々のばあいに、当該の事象にいかなる文化意義を付与するかによって決まる。」

 これは非常に重要な指摘だ。

 科学的「客観性」とは、世界は絶対にこうなっているということとは違う。

 それは、ある関心からみたときにはこう考えるのが最も妥当だろう、という、限定された見識なのだ。

 哲学の観点からすると、フッサールハイデガーが提示した「関心相関性」の原理を、「科学」の領域に援用した言明だということもできる(ハイデガー『存在と時間』のページ参照)。


4.理念型

 ここで、ウェーバーは「理念型」という重要な概念を提示する。

 科学的な知識とは、世界の絶対的知識ではなく、経験を導く補助的な手段なのだ。そのような世界のひとつの「見方」のことを、ウェーバーは「理念型」という。

 したがって、科学の役割とは、よりよい「理念型」を提示し続けることにある。

「ある科学が成熟するとは、じっさいつねに、理念型が(誤って)経験的に妥当するものや類概念と考えられているかぎり、そうした理念型〔概念の誤り〕を克服することにある。」
「これらの科学においては、いかなる理念型的構成も暫定的であらざるをえないが、それと同時に、たえず新たな理念型を構成することも不可避であって、この暫定性と不可避性が、それら学科の課題の本質をなしているのである。」

「科学」を探究する者は、今もなお、このウェーバーの洞察をつねに肝に銘じておく必要があると思う。

(苫野一徳)

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ウェーバー『宗教社会学論選』

 

はじめに

 ウェーバーの大著『宗教社会学論集』から、訳者大塚久雄・生松敬三両氏の選によって、「序言」を含む4論文が収められている。

 宗教が生み出した、人間の「理念」「エートス」「倫理観」といったものが、どのように社会を作り上げてきたのかを考察した名著。

 マルクス主義によれば、社会は下部構造としての経済によって規定されている。しかしウェーバーは、上部構造に分類される宗教文化といったもの、そしてそうしたものが作り上げる人間の価値や倫理といったものもまた、人間社会を作る上で大きな役割を果たしていることを洞察し、論じ続けた。

 宗教社会学の嚆矢にして金字塔。


1.西洋の合理主義

「いったい、どのような諸事情の連鎖が存在したためた、他ならぬ西洋という地盤において、またそこにおいてのみ、普遍的な意義と妥当性をもつような発展傾向をとる文化的諸現象――少なくともわれわれはそう考えたがるのだが――が姿を現わすことになったのか」

 ウェーバーによれば、まず近代合理主義的「科学」は、西洋にしか生まれなかった。

「今日、われわれが「普遍妥当的」だと認めるような発展段階にまで到達している「科学」なるものは、西洋だけにしか存在しない。」

 「資本主義」も同様だ。

「近代西洋においてわれわれの生活を支配しつつあるもっとも運命的な力は、いうまでもなく資本主義であるが、この資本主義についても事情はまったく同様である。」

 いったいどのような「精神」「倫理観」「エートス」が、このような合理主義的思考を西洋において可能にしたのか。

 もっともここでいう「合理主義」に、ウェーバーは限定をつけている。

 後にレヴィ=ストロースが明らかにしたように、西洋的な「合理主義」は、いわば「合理主義」の一つのバージョンに過ぎない。

 たとえば呪術による医学といった、現代のわれわれから見ればあまりに「非合理的」な営みも、その文化においては十分な「合理性」を備えたものだ。西洋的合理主義だけが、最も洗練された優れた「合理主義」だというわけではない。(レヴィ=ストロース『野生の思考』のページ参照)

 しかしこの西洋的合理主義には、大きな特徴がある。「経済的合理主義」だ。

「経済的合理主義は、合理的な技術や合理的な法ばかりでなく、その成立にさいしては、特定の実践的・合理的な生活態度をとりうるような人間の能力や素質にも依存するところが大きかったからである。」

 禁欲して勤勉に。このプロテスタンティズムの倫理が、やがて富の蓄積を生み出し資本主義成立のドライバとなった。「プロ倫」で、ウェーバーはそう言っていた。

 このような経済的な合理主義こそ、西洋独自のものにほかならない。

 ではなぜ、それは西洋において起こったのか。



2.世界宗教の経済倫理

 そこでウェーバーは、それぞれの宗教によって人々が抱く実践的な「倫理観」について考察する。

「宗教の心理的なまたな詔関連のうちに根底をもつ行為への実践的起動力praktische Antriebe zum Handelnこそが問題とされるのである。」

 各宗教において、その倫理をつくる際の最も根本的な動機となったのは、いわれのない「苦しみ」から逃れる、というものだった。

 悪人が栄え、善人が苦悩する。

 それはおかしい、と、死後の「裁き」が持ち出される。輪廻転生が説かれる。メシアの王国が夢見られ、パラダイスについて語られる。


 このような考えが、やがてそれぞれの宗教の「理念」「世界像」を形成していく。そしてウェーバーは、次のように洞察する。

「人間の行為を直接に支配するものは、利害関心(物質的ならびに観念的な)であって、理念ではない。しかし、「理念」によってつくりだされた「世界像」は、きわめてしばしば転轍手として軌道を決定し、そしてその軌道の上を利害のダイナミックスが人間の行為を推し進めてきたのである。つまり、「何から」wovonそして「何へ」wozu「救われる」ことを欲し、また――これを忘れてはならないが――「救われる」ことができるのか、その基準となるものこそが世界像だったのである。」

 人間は基本的には「利害」で動く。

 しかし長い目で見れば、宗教や文化によって形成された、「理念」「世界像」に基づいて動くのだ。

 そして西洋における「理念」や「世界像」こそが、近代合理主義を生み出す大きな契機となったのだ。

 もっとも、世界を何らかの形で合理的に説明しようという動機は、宗教の担い手たちが「知識人」であったなら、どの世界宗教においても起こっている。

「その背後には、つねに現実の世界で特殊的に「無意味」と感じられるものへのある態度決定と、したがってまた、この現世の組立てが全体としてはなんらかの意味ある「秩序界」であり、またありうるし、さらにあらねばならないという要求が秘められていたのである。ところで、本来の宗教的合理主義の中心的所産であるこうした要求は、徹頭徹尾、知識人層を担い手としていた。」

 「無意味」と感じられてしまう世界に「秩序」をもたらすことで、世界を「意味」あるものとすること。そのような試みが、各宗教社会の知識人層たちによって試みられた。

 ところがそう簡単に世界は合理化できるものではない。そのような限界の前に、「知識人層」があまりに大きな影響を持っていた社会では、宗教はむしろ、合理的説明を避け「瞑想」へと方向を変えていく。

 それがアジアだった。

「当然のことながら、これがいちばん強く現われたのは、現世とその「意味」をひたすら思索によって捉えようとするような上流知識人層にとくに強く規定されている宗教や宗教倫理のばあいであった。たとえば、アジアの、とりわけインドの世界宗教がそれである。そうした宗教すべてにとっては、瞑想、詳言すれば、瞑想によって与えられる単独者の深い至福の休息と不動の境地に入ること、これが人間にとって到達吋能な最高究極の宗教財となり、それ以外のいかなるかたちの宗教的境地もせいぜい相対的な価値しかもたない代用品と考えられた。」


 それに対して、西洋における宗教の担い手たちは、「市民」だった。そしてまさに、この「市民」は、西洋にしか存在しないものだったのだ。

「「市民」Bürgerという概念は西洋以外の地域ではどこにも存在せず、また「ブルジョアジー」という概念も近代西洋以外どこにも存在しなかったし、それと同様に階級としての「プロレタリアート」も存在しなかった。」

 この「市民」が、西洋的合理主義、すなわち経済的合理主義の担い手となった。

「彼らのばあいにはまさしく、技術的・経済的な合理主義への傾向に結びついて、きわめてさまざまな程度においてではあれ、倫理的・合理的な生活規制を呼びさます可能性がつねに存在しつづけたのである。」

 彼らこそが、自らは神の「道具」である、と言いうる存在だったのだ。禁欲しながらせっせと働く、という倫理観を、彼らは醸成していくことができたのだ。

「だからこそ、西洋においては、そこでもやはり熟知されていた瞑想的神秘論やオルギア的ないし無感動的なエクスタシスに対抗して、行動的禁欲がたえず優位を維持しつづけることになったのである。」

 階級に縛られない自由な経済活動を行っていた「市民」の存在が、瞑想オルギア(狂騒)へと逃避する傾向のあったアジア的宗教倫理との違いを生んだ。「市民」は、自らの経済活動を「禁欲」「勤勉」なものたらしめることを、その宗教倫理として醸成したのだ。

(苫野一徳)



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