ヘーゲル『哲学史講義』(6)


1.アリストテレス

 ヘーゲルは、アリストテレスをプラトン以上に高く評価する。

 まず、彼は次のようにアリストテレス哲学の誤解を解く。


「アリストテレスの哲学とプラトンの哲学はまっこうから対立するもので、後者が観念論なら、前者は実在論、しかももっともありふれた実在論である、といった(俗っぽい)考えがあまねく流布している。」

「実際は、アリストテレスの思索の深さはプラトンをしのぐほどで、というのも、かれは観念論的な思索を突きつめた人だからで、経験的な視野をどんなに広げても、根は観念論者だったのです。」

 ちなみに、ヘーゲルにとって「観念論」はある意味褒め言葉だ。

 これまでにも見てきたように、事物は単なる客観物として存在しているのではなく、どこまでも私たちの思考・精神・観念において存在している。

 それゆえ哲学は、その観念(精神)の運動それ自体を思考の対象とするほかにない。


 哲学は、本来「観念論」以外ではありえない。対象を独立した客観物と捉えるのは、きわめて次元の低い思考なのだ。

 さて、アリストテレスは、周知のようにありとあらゆる事柄について、整理し、分類し、列挙した哲学者だ。

 その分類や列挙は、時に何の脈絡もないように思われるほど、ただ膨大なだけに見える。

 そしてそれゆえにこそ、アリストテレスは、単純な経験主義者、実在論者のように一見見える。

 しかしヘーゲルによれば、アリストテレスは、そうした実在物を哲学的概念において定義づけようとした、極めて高度な観念論者なのだ。


「このやりかたによってこそ、さまざまな側面が完全に取り上げられるし、みずから脈絡を探索し発見する気にもなります。この配列から、配列の思想的考察へと論はすすみます。そこでは、対象がさまざまな側面から定義づけられ、そこから概念が、哲学的概念が、単純な定義として浮かびあがってくる、——この場面こそ、アリストテレスの哲学の本領をなすもので、かれの最高度の思索が示されます。」


2.形而上学

 アリストテレスの高度な観念論は、その著『形而上学』に最もよく現れている(アリストテレス自身は、これを「形而上学」ではなく「第一哲学」と呼んでいた)。

 それはつまり、存在それ自体を探究する学問である。

「純粋哲学ないし形而上学をアリストテレスは他の学問からきっぱりと区別し、「存在を存在として研究し、存在に絶対的に属するものを研究する学問」と名づけている。存在の本質を定義することが——実体を認識することが——アリストテレスのねらいです。」    

 ここに、二つの重要な概念が登場する。

 可能性(デュナミス)と、現実性(エネルゲイア)あるいは完成体(エンテレケイア)である。

「(α)可能性(デュナミス、ポテンティア)の形態と、(β)現実性(エネルゲイア、アクトゥス)ないし、完成体(エンテレケイア)の形態——目的をふくみ、目的の実現された状態——の二つです。これはアリストテレスの著作の至るところにあらわれるとらえかたで、アリストテレス理解には欠かせぬものです。」    

 たとえば、物質は潜在的な可能性(デュナミス)にすぎない。

「というのも、物質はあらゆる形を取りうるけれども、それ自身は形を生みだす原理ではないからです。」

 それに対して、可能性(デュナミス)と現実性(エネルゲイア)の統一にこそ、真に客観的なものがあるとアリストテレスは言う。

 それこそ、「神」、あるいは「不動の動者」と呼ばれるものである。

 神は、自ら動くことなく、しかしまたすべてを動かす。そしてその動かすという活動それ自体が、神の本質なのである。

 精神の運動を叙述するところに哲学の本質を見るヘーゲルは、こうして、同じく「運動」的な観念論を展開したアリストテレスを高く評価する。

「観念論としてこれ以上のものはない。べつのいいかたをすれば、神はその可能性がそのまま現実性であるような、本質が活動そのものであり、可能性と現実性が不可分であるような、そういう実体です。 」   

 それに比べて、プラトンのイデアは静態的である。アリストテレスがプラトンのイデア論を批判した最大の理由も、ヘーゲルはここにあると言う。

「プラトンの理念は、静止したものととらえられて、純粋な活動がない。プラトンの静止した理念や数はなにものも実現しないが、絶対的なものは静止していながら、同時に絶対的な活動です。」    

 さらにヘーゲルは、「不動の動者」とは実は思考それ自体のことでもあると言う。


「しかし、本当の原理は「思考」にある。「思考は思考によってのみ動かされる」のだから。思考が対象を取るので、思考こそがものを動かす不動の存在です。といっても、思考の内容は思考にほかならず、思考の産物にほかならず、かくて、不動の思考は思考活動そのものと完全に一体化しています。つまり、思考のうちには、動かすものと動かされるものとが同じものだ、という同一性がなりたっている。〔中略〕思考の本質は思考であり、思考こそが絶対の原因であり、みずからは不動にして、みずからの活動によって生みだした思考と同一の存在です。」


「常識的な真理の定義は、「頭に思い浮かべたものと対象との一致が真理である」というものです。しかし、頭に思い浮かべたものは思い浮かべたものにすぎず、わたしがその内容と一致することはけっしてありません。家や柱を思い浮かべるとき、わたしは家や柱ではなく、わたしと家のイメージはべつのものです。思考のうちにのみ客観と主観の真の一致があって、わたしは思考だといえる。だから、アリストテレスの立場は最高のものだといえるので、これ以上に深い認識はありえません。」

 いかにもヘーゲル的なアリストテレス解釈だ。

 『哲学史講義』(1)の「はじめに」でも述べたように、ヘーゲル哲学の根底には、人間は「絶対精神」(=神)の精神を分有しており、これを歴史を通して実現していくものである、という時代に制約された「フィクション」がある。

 それゆえヘーゲル哲学の土台には、いつも、神と人間との精神の、一種の合一性のようなものがある。

 しかしこれは、今日フィクションと言うほかないものだ。

 それゆえ、この観点からのヘーゲルのアリストテレス評価も、今の私たちが字義通りに受け取ることは難しい。

 ヘーゲルのアリストテレス評価の要諦は、まさに、アリストテレスが「不動の動者」(神)と人間の「思考」との一体性を訴えた点にあるからだ。

「知性はそれ自体が思想であり、さらにまた正真正銘の思考活動であり、自分と対峙しつつ絶対的に存在するもの、思考の思考である、ということです。この定義は抽象的ながら、まさしく絶対精神の本性をいいあてたものです。」    

 しかしその上でなお、哲学とは、思考の運動それ自体を自覚化する運動であるという言い方はまったく正しい。

 そしてヘーゲルは、アリストテレス哲学をまさにそのようなものとして受け取ったのだ。







(苫野一徳)



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