ヘーゲル『哲学史講義』(3)



1.クセノファネス

 ピタゴラスの哲学は、まだまだ「思いつき」レベルのものでしかなかったが、エレア学派にいたって、哲学は「概念」を高度に発展させることになる。

 エレア学派とは、一般にクセノファネスパルメニデスメリッソスゼノンのこと。

 まず、クセノファネスから。

 ヘーゲルは言う。

「クセノファネスは、生成と消滅、変化、運動、等々の観念は真理をいいあてたものではなく、主観的な観念にすぎないと主張します。一なるものだけがある、存在だけがある、それが原理だというのです。」

 ここに、絶対的な「一」の概念が登場するのだ。


2.パルメニデス

 続いて、パルメニデス。

 パルメニデスの主な主張は次のようだ。

「思考とその存在は同一であり、思考は存在という大肯定の外ではなにものでもない。」    

 思考と存在の同一。これは、思考が自らを省みて自らを展開するというヘーゲル弁証法と軌を一にするものだ。

 それゆえ、ヘーゲルはパルメニデスを次のように高く評価する。

「パルメニデスとともに本来の哲学がはじまる。理念の世界への上昇がここに見られるのです。ひとりの人間がすべての想像や思いこみから解き放たれ、それらを真理なきものと断言し、存在という必然的なものだけが真理だと言明する。このはじまりは、むろんまだ茫漠と曖昧で、そのなかになにがあるのかは不分明ですが、まさにそれをあきらかにしていくことが、いまだすがたを見せぬ哲学の全体を形成していくことです。


3.ゼノン

 ヘーゲルは、ゼノンこそが「弁証法」の創始者であると言う。

「ゼノンの独自性は弁証法にあります。かれはエレア派の巨匠であり、エレア派の純粋思考を概念の自己運動たらしめ、学問の純粋な魂となした哲学者であり、弁証法の創始者です。これまでのエレア派は、「無は実在性をもたず、存在しない。だから、生成と消滅もない、」というだけでした。ところがゼノンは、同様に、存在に矛盾するものを仮定し、これを廃棄するのですが、無や運動が存在しないとはじめから主張するのではなく、理性の歩みに従って、あると仮定されたものがおのずとみずからを否定していくさまを示します。」

 それまでのエレア学派の哲学者のように、ただ絶対の「一」を主張したり、思考と存在との同一を主張したりするだけでなく、ゼノンは思考の運動それ自体を問題にしたのだ。

 ここでヘーゲルは、弁証法には「外的弁証法」と「真の弁証法」があるとして次のように述べる。

「一般に弁証法といえば、(α)外的弁証法——事柄の運動の総体とは区別される観察者の運動——と、(β)たんなる外からの洞察の運動ではなく、事柄そのものの本質、つまり、内容の純粋概念に導かれた運動とがあります。」

 「外的弁証法」とは、様々な事柄を外側から観察してあれやこれやの矛盾を見出すこと。

 それに対して、「真の弁証法」とは、事柄を観察している私の思考の運動それ自体のこと。

 つまり「真の弁証法」とは、事柄それ自体に正反合の運動があるのではなく、思考それ自体の側にこそ弁証法があるということを自覚した思考の運動なのだ。

 ヘーゲルは、エレア学派の弁証法は、「真の弁証法」と言っていいものだと主張する。もっとも、それをとことん追いつめることはできなかったのだが、と。

「エレア派のおこなったことは、真の弁証法の展開と名づけてきしつかえありませんが、ただ、かれらは、把握した概念と本質をさらに突きつめることなく、矛盾によって対象の無なることを証明するにとどまっています。」


4.ゼノンのパラドックス

 「矛盾によって対象の無なることを証明する」とは、言うまでもなく、有名な「ゼノンのパラドックス」のことを言い表している。

 ゼノンがこれらのパラドックスで言いたかったのは、「運動は矛盾するものだから真理ではない」ということだった。

 運動なき絶対的な「一」の証明である。

 最も有名なのは、アキレスは亀に追いつけないという、「アキレスと亀」のパラドックス。

 しかしヘーゲルは、ゼノンのパラドックスは、どれもでっち上げられた概念に基づくものだと主張する。

 ゼノンは、空間や時間の無限分割を問題にするのだが、そもそも空間や時間が無限分割可能なものだという考え自体が、「思考」によって不用意に思いつかれたまやかしにすぎないのだ。

 ここでヘーゲルは、次のような印象的な言葉を述べる。

「難問が生じたのは、現実にはわかちがたくむすびついた対象の契機を、思考の力でむりやり区別することにいつも原因があります。〔中略〕が、思考にはまた、この損害を回復するだけの力が備わっています。思考を克服することこそが困難であり、困難をつくりだすのは思考以外にはないのです。」

 難問が生じるのは、不徹底な思考のゆえである。しかしそれゆえにこそ、それは徹底した思考によって解き明かされるべきものなのだ。

 ともあれ、ヘーゲルは、未だ中途半端ではあるにせよ、エレア学派が概念を高度に使用しようとしたことを次のように高く評価する。

「エレア派に至ってはじめて、無限の概念が展開されてその矛盾があらわになっている、つまり、矛盾が意識されている。」


5.ヘラクレイトス

 次に来るのがヘラクレイトスだ。

 ヘーゲルはヘラクレイトスを高く評価しているが、それは彼こそが、先に述べた「真の弁証法」を原理にした哲学者であったからだ。

「弁証法は、(α)外的な弁証法、すなわち、事柄の魂にふれることのない、あれこれの理由づけの段階、(β)対象の内在的弁証法ではあるが、観察する主体に帰属するものとされる段階、(γ)ヘラクレイトスの客観の弁証法、すなわち、弁証法そのものを原理ととらえる段階、にわけることができる。この展開は必然的なもので、それをおこなったのがヘラクレイトスです。」

 ヘラクレイトスの哲学は、言うまでもなく「生成」の哲学。

「ヘラクレイトスは、一切が「なる」だという。「なる」が原理です。」

 ここには哲学の大きな一歩があるとヘーゲルは言う。

「ある」(存在)から「なる」への移行は偉大な思想の力を示します。「なる」はまだ抽象的なものですが、しかし同時に具体への第一歩、すなわち、対立する観念の最初の統一体です。」

 ヘラクレイトスは「火」を原理としたと言われるが、これもまた、「生成」の観点から理解されるべきものだろう。

「そもそもヘラクレイトスは「ある」と「あらぬ」を同じものと考え、「なる」という無限の概念を考えていた以上、タレスのように水や空気などを絶対的な実在だということはできなかった。それが第一のもので、そこから他のものが生じるとはいえなかった、と。」

「自然はそれ自身が過程です。そのあらわれの一つに、一契機ないし一元素がべつのものに、たとえば火が水に、水が土や火に移行する現象があります。


6.エンペドクレス、レウキッポス、デモクリトス

 続いて、エンペドクレスレウキッポスデモクリトスについて。

 エンペドクレスは、世界は火、水、空気、土の四つの組み合わせで成り立っているという、いわゆる四元素の創始者。

 もっともヘーゲルは、それは「思いつき」レベルの思想にすぎないとして、エンペドクレスをほとんど評価していない。

「エンペドクレスはそれぞれの契機を適切に区分せず、並列するだけで、そこには理性的な関係が見られません。」

 レウキッポスとデモクリトスは、「原子論」の提唱者だ。

「第一に取り上げるべきは、一なるものであり、自立存在という定義です。これはいままでにはなかった。パルメニデスは存在という抽象的な普遍を原理とし、ヘラクレイトスは過程を原理としたので、一ないし自立存在の定義はレウキッポスの手になるものです。」

 しかしこの「一なるもの」たる原子は、今の物理学が言うような、物質的なものに還元される概念ではない。

「一の原理はまったく観念的なものであり、まったく思想にぞくするものです。〔中略〕レウキッポスの原子は、物理学の小物質たる分子ではありません。」

「レウキッポスの体系は、主観的観念論を超えた高度な観念論です。」

 それはあくまでも、世界の観念的な見方、つまり思考によって存在を捉えようとする態度のたまものなのだ。

 しかし行きつくところ、原子論は、いわば短絡的な機械論的世界観に矮小化されることになる。

「この原理は、思想の一歩前進である以上、大いに尊敬されねばなりませんが、その先がどうなるかと考えてみると、ただちに不満がきざしてきます。具体的かつ現実的なものの一切について、つぎにくるイメージはこういうものです。「充実したものは単一ではなく、無限に多数である。この無限に多数のものが空虚のなかを動く。〔略〕」

「これはまったく外的な関係です。独立したもの同士が独立性を失わないままに結合したもので、機械的な合体にしかすぎない。生命あるもの、精神的なもの、等々もすべてそのように結合されるだけで、だから、変化も生産も創造もたんなる合体にすぎない。ここにこそ思想のまったくの貧弱さがあらわれています。」

 思考の力で世界を捉えようとしていたはずの態度が、結局のところ物理学主義に還元されてしまうのだ。


7.アナクサゴラス

 最後に、アナクサゴラス

 彼において、ギリシャの哲学はついにアテネを中心に動き始めることになる。

 アナクサゴラスの思想原理は、言うまでもなく「知性」(ヌース)だ。

「アナクサゴラスの原理は、かれがギリシャ語でいうヌース、つまり、思想ないし知性を、世界の単一の実在として、絶対的なものとして、認識したことにある。ヌースが単一だというのは、それが一つの存在だということではなく、普遍的なもの(統一するもの)だということです。」

 アナクサゴラスにおいて、哲学はついに、思考することそれ自体を中心課題に据えるようになったのだ。

「知性とは自分自身を明確にしていく活動であること。これはいままでになかった考えです。ヘラクレイトスの「なる」はたんなる過程にすぎず、自主自立して自分を明確にするものではない。」

 世界に対する問いの根底には、その世界を問うている知性それ自体への問いがある。

 アナクサゴラスに至って、哲学はついにそのことを明確に捉えるようになったのだ。

 もっとも、アナクサゴラスの捉え方はまだまだ不十分だったとヘーゲルは言う。

 彼は、その知性の内容についての思索を、十分展開することはなかったのだ。


 その仕事を一手に引き受けた哲学者こそ、続くソクラテス、そしてプラトンである。





(苫野一徳)


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