ヘーゲル『哲学史講義』(7)


1.独断主義

 ギリシャ哲学は、タレスらの自然哲学に始まり、プラトン、アリストテレスに至ってその最盛期を終える(前のページまでの時代)。

 それは、外部の自然世界から「自己」の内部へと関心が移り、そしてその自己の「思考」それ自体を把握していく営みだった。

 続く時代は、その後の独断主義懐疑主義を経てアレクサンドリア派へと至る時期である。

 独断主義は、思考それ自体を捉えようとする壮大さをもはや持たず、何が「真理」であるかをめぐる基準を問題とする。

「いまや主要な問題は基準をどう取るかにあります。プラトンやアリストテレスのような思索の大きさはもはやなく、哲学を導くのは分析的思考です。原理も抽象的・分析的な原理です。分析的な関係のもとでは、哲学の課題は真理の基準をどこに求めるかという問題としてあらわれる。というのも、思考と実在の一致、もしくは、主観的な概念と客観との同一性が真理と見なされるために、この一致を判定する原理が求められるからです。」    

 独断主義の2大巨頭は、ストア派エピクロス派

 ストア派は、思考された存在だけを真理と捉え、エピクロス派は、その対極に、感覚された個物だけが真理であると考える。

 どちらも、「これこそが真理である」と主張する点で独断的な哲学である。ここには、独断的な思考それ自体を省みる思考の運動がない。

 ヘーゲルは、これはいかにもローマ的な哲学であると言う。

「それらはたしかにギリシャの哲学ではありますが、ローマ世界に移しかえられた哲学です。〔中略〕ローマという抽象の世界では、個人は、現実があたえてくれそうもない満足を自分の内部に抽象的にさがし求めるほかはない。思想という抽象へ、実在する個人という抽象へ、——つまり、主観そのものの内的自由へ、——逃避するほかはありません。」    

 ローマが「抽象の世界」だというのは、ヘーゲルの『精神現象学』では次のように説明されている。

 すなわち、古代ローマ人は、個人の権利がローマ法によって保障されてはいるものの、それは実は抽象的な権利であって、本当に自由なのは皇帝ただ一人なのである、とヘーゲル『精神現象学(その3)』のページ参照)。

 それゆえローマでは、内的自由を確保するために、個人は自分の内部に「独断的」に引きこもるほかなくなってしまうのだ。


2.ストア派の汎神論

 ストア派の哲学の特徴は、まずその汎神論にある。

「要点は、理性(ロゴス)が世界を秩序立て、支配し、生みだし、一切に浸透し、すべての自然形態(理性の生産物)の基礎をなす実体であり原動力だということです。理性的に働く理性の活動が神と名づけられる。それは知的な世界霊魂であり、それを神と名づけるのは汎神論だといえる。汎神論といえば、概念や理性が世界のうちに存在すると考えるすべての哲学が汎神論です。」    

 世界には神の理性があまねく行き渡っている。ストア派はまずそう考える。

 ストア派の創始者ゼノン(前に見たエレア派のゼノンとは別人)は、万物の根源をヘラクレイトスを受け継いで「火」だと言ったが、それは火がさまざまな物質を特定の元素に変えると考えられたからである。

 つまり、「火」は「神」の活動と同等のものと考えられたのだ。

「ストア派にとっては、一切が「なりゆくもの」にすぎず、その際、火が活動の原理です。火が不定形の物質を特定の元素に変え、この元素の混合によって植物や動物が生まれる。が、それだけでは不十分で、さらにいえば、神が自然や火のすべての活動力であり、世界の魂です。だから、ストア派の自然観は完全な汎神論です。世界の魂である神は、火であると同時に理性であり、自然の理性的な秩序であり活動力です。」    


3.ストア派の論理学

 神があまねく行き渡っているこの自然世界は、それゆえに合理的な存在であるとストア派は考える。

 したがって大事なことは、この自然の合理性を思考によって捉えることである。そして、この思考によって捉えられた存在だけが真理である。

 この思考のプロセスを、ゼノンは次のような気の利いた比喩を用いて説明している。


「イメージをわがものとするこの過程をゼノンは「手の運動の比喩」によって説明した。開いた手を示して、これが直観(知覚、直接の意識)だとかれはいった。指を少し曲げて、これが心情の同意である(イメージがわたしのものになることだ) 。指を完全に曲げてにぎりこぶしをつくって、これが概念的にとらえることだ。(ドイツ語でも、概念的把握を似たような感覚的な比喩であらわすことがあります。)つぎに左手をもってきて右手のにぎりこぶしを強くはげしくにぎって、これが学問であり、学問は賢者しか手にできない、とかれはいった。」」

 このようなストア派の論理学(思考の原理)を、ヘーゲルは次のように批判する。

「ストア派は精神が自己のうちに帰るところでおわっていて、自己と対象の統一を確認し、一致を認識するにとどまる。そこからふたたび外に出て、みずから生みだした内容を相手に学問を展開するところには行っていない。」    

 ヘーゲルから見れば、ストア派の認識論には弁証法が欠けているのだ。


4.ストア派の道徳論

 ストア派といえばその道徳哲学が最も有名だが、その基本命題はやはり「自然に従え」である。

 自然的であることが理性的であることであり、そして理性的であることが道徳的である。

 しかし、一体何が自然的であるかについては、空虚な一般論が述べられるだけで十分明らかにはされていないとヘーゲルは言う。

 それでも、自らの堅固な意志に従って生きることこそが幸福であると論じるストア派の思想にはある種の偉大さがある。

「ストア哲学の偉大な点は、意志が堅固に保たれていれば、なにものもそこには侵入できず、すべてははねのけられるので、苦痛でさえもあえて排除すべき目的とはなりえない、と考えるところにあります。」    

 が、自らの意志を保ち続けるのはそう簡単なことではない。

 そこでストア派は、それを「賢者の理想」という形で描き出さざるを得なくなる(セネカ『生の短さについて』のページ等参照)。

 ヘーゲルはこのことについて次のように言う。

「ストア派の倫理的現実は賢者という理想にすぎず、現実ではない。」    


5.エピクロス

 ストア派が理性・思考を原理としたのに対して、エピクロスは感覚を原理とするエピクロス『教説と手紙』のページ参照)。

 快楽と満足こそが本来の感情であって、人はこれに基づいて行為すべきであるとエピクロスは言うのだ。

 ヘーゲルはこれについて次のように言う。

「これ以上に単純なものが考えられないほど単純で、かつ抽象的で、しかしきわめて平凡な説です。」    

 エピクロスの自然学もまた、きわめて素朴なものだとヘーゲルは言う。

 彼は、すべては原子の偶然的なぶつかり合いであると言うのだ。

「ストア派に受けいれられた世界の最終目的は創造主の知恵、また、ストア派によって多方面に開発された目的論的なもののとらえかたが、エピクロスには存在せず、すべてが、原子の偶然にして外的なぶつかりあいによって形成されるできごとです。あるのは偶然であり、外的必然であって、それがすべての相互関係をまとめあげる原理です。」    

 このような自然の姿を、人間はまず感覚で捉え、次に概念へと類推する。ちょうど、電気や磁気を「力」とか「法則」いった概念で捉えていくように。

 このこと自体は、近代の科学にも通じるものだとヘーゲルは言う。

「エピクロスは経験的な自然科学および経験的な心理学の発明者といえる。ストア派の目的や知性概念と反対の極をなす、なまの経験や感覚そこにはあります。」    

 もっとも、ヘーゲルは、エピクロスの類推は自由気ままなもので、思いつきの域を出ないものなのだがとも指摘する。

 最後にエピクロスの道徳哲学だが、ヘーゲルは、エピクロスの原理が感覚にある以上、道徳哲学も当然「まずい感情主義」にしかならないと批判する。

「エピクロスの道徳の抽象的原理を取りだしてみれば、その道徳はとてもまずいものだと思わざるをえない。〔中略〕いま、感情が行動の根拠だと主張されるとすると(「わたしのなかにそうしたい衝動があるから、それが正しいのだ」)、それがエピクロス的です。」    

 もっとも、エピクロスも実際は単なる感情主義であったわけではなく、そこには思索がちゃんと結びついている。

「どうしても見のがしてならないのは、満足感こそが目的だとエピクロスがいうとき、この満足感は哲学の結果としてしか得られないことです。思慮のない浮かれた男がなんにも考えないで快楽におぼれ、ふしだらな生活を送っているとして、しかし、その男をエピクロスの徒と見なすわけにはいかない。」    

 ではエピクロスは何を目指していたのかと言うと、それは実は、ストア派と同じ「アタラクシア(平静)」であったとヘーゲルは言う。

「エピクロス派の目標はストア派のそれと同じです。エピクロスは目標としてまたしても賢者の心の状態(アタラクシア)を、つまり、恐怖と欲望から自由になった、精神の自己同一な平静状態をもちだします。」    


6.新アカデメイア派

 以上のような、思考を独断的原理としたストア派と、感覚を独断的原理としたエピクロス派に反対したのが、プラトンの後継である新アカデメイア派である。

 有名なアルケシラオスは、確かなことなど本当は分からないのだから、「賢者は賛同ないし同意をさしひかえねばならぬ」と主張した。

 カルネアデスは、これをさらに推し進めて、真理の基準など絶対に存在しないと主張した。

「アルケシラオスは「それなりの根拠」といういいかたをしましたが、カルネアデスの主張する原理は、真理の基準というものは絶対に存在しない、と表現される。」    

 こうした新アカデメイア派の主張は、こののち自覚的な懐疑派として展開していくことになる。





(苫野一徳)

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