ヘーゲル『哲学史講義』(2)


1.タレス

 ヘーゲルの哲学史講義は、いよいよ古代ギリシャの哲学へ。

 ヘーゲルはまず次のように言う。

「タレスとともにようやく本来の哲学史がはじまります。」   

 言うまでもなく、タレスは万物のアルケー(根源)は「水」であると言った人物だ。

 しかしなぜこの言葉が哲学の始まりなのか?

「水が絶対的なものだ、あるいは古代ふうのいいかたで、水が原理だ、というタレスの命題は、哲学的です。そこに哲学のはじまりがあるというのは、それが、一なるものこそ本質であり、真理であり、完全無欠なものであることを意識させるからです。ここには、感官によって知覚されるもの、直接に存在するものとの分離が、それらから身をひく動きが、あらわれています。」    

 感覚で捉えられる現象の背後にある、「一」なるものへの思索。ここに、哲学的思考の始まりがあるとヘーゲルは言うのだ。


2.アナクシマンドロス

 続いて、万物のアルケーは「無限なもの」と言ったアナクシマンドロス

 ここには、「水」という実在物を超えた、より思想的・観念的な哲学の目覚めが見て取れるとヘーゲルは言う。

「さて、無限なるものを原理とする考えのすすんだところは、絶対的な実在がもはや単一のものではなく、否定的なもの、どこまでも広がるもの、有限の否定物であるとする点にある。無限の全体という考えは、原理は一なるもの、単一なるものだといういいかたを超えるものです。同時に、物質的な側面から見れば、アナクシマンドロスは水という個別元素を廃棄しています。無限なるものという原理を対象として見ると、それは物質というより思想に近い。が、他方、アナクシマンドロスが物質一般、つまりどこまでも広がる物質以外のものを考えていなかったのもあきらかです。」    


3.アナクシメネス

 次に、万物のアルケーは「空気」であると言ったアナクシメネス

 ここで言う「空気」もまた、単なる物質ではなく、高度に思想的・観念的なものであるとヘーゲルは言う。

 アルケーは物質ではあるが、同時にそれを超えたものである必要があるとアナクシメネスは考えたのだ。

「かれは、物質は感覚的な存在をもつことが必要だと考え、しかも空気には形にとらわれないという利点があるとした。空気は水ほど物体的でなく、目に見えないもので、動きだけが感じられるというわけです。」    


4.ピタゴラス

 次にピタゴラス

 ピタゴラスについて、ヘーゲルはかなりの紙数を割いて論じている。

 もっとも、世界は「数」で成り立っているというピタゴラスの教えについては、ヘーゲルはほとんどこれを重視していない。

「数を観念の表現として用いたというのは、いい古された話で、たしかに意味深長に見える話です。直観的に感じとれる以上の意味がそこにあることは、すぐにわかるからです。(一は二であり、三は四になる、という魔法の計算。)しかし、そこにどれだけの意味があるかは、数の話をする人にも、話を聞いて理解しようとする人にもわかつてはいない。思想が濁ってくればくるほど意味深長に見えるといった次第で、要するに、もっとも肝心でもっとも困難なこと、——つまり、事柄を明確な概念でもって言明すること、——それだけは、だれもしようとしない。というわけで、かれの哲学も、後代のいい伝えによるかぎり、不透明で浅薄な頭脳の生む、曖昧で不確実な考えのごとくに見えます。」    

 数には何やら魔法的なものがある。だからそれを根底に据えたピタゴラスの哲学には、一見何やら深遠な意味が隠されているようにも見える。

 しかしそれも、結局は曖昧でこじつけに満ちた、「思いつき」の思想にすぎないとヘーゲルは言うのだ。

 ヘーゲルが評価するのは、むしろ教育者としてのピタゴラスだ。

「かれこそ、民衆のための最初の教師と見なすことができます。みずから知者ではなく知を愛する者(哲学者)と呼んだはじめての人がピタゴラスだといわれ、その呼び名は、知恵を所有しているのではなく、知恵を達成不可能な目標として追いもとめる謙虚さを示すものだといいます。」    

 ピタゴラスは、厳しい規律に基づく教団を作り、人びとの教育に専念した。

 それは、それまでのギリシャにはなかった初めての試みだったのだ。

 もっとも、まさにその非ギリシャ的性質のゆえに、ピタゴラス教団はギリシャにおいては長く続くことができなかったのだが。

「ピタゴラス集団は、自由意志にもとづく修道会であり、教育と教養の施設であり、さらには持続する共同生活の場でもあったのですが、社会から隔離されたこのような集団は、ギリシャの政治的・公的・宗教的な生活にはなじまないもので、ギリシャでは長つづきできませんでした。」    

 さて、ピタゴラス哲学の根本概念である「数」についてだが、のちのアリストテレスは、その『形而上学』において次のようにこれを説明している。(アリストテレス『形而上学』のページ参照)

「数が万物の本質であり、宇宙全体の組織は、調和のとれた数の体系と数の関係を骨組とする」    

 数の根本は「一」だが、これはそれ自体においてはまだ貧しい思想であるとヘーゲルは言う。

 「一」は一だけで存在する。それゆえこの概念は、他との関係性を欠いたまだ素朴な概念なのだ。

「それは思想のはじまりではあるが、最低のはじまりであり、いまだ自立した普遍的な思想ではない。なにかが概念の形態を取るためには、直接みずからのもとで対立物と明確に関係しなければならず、——この単純な運動が概念をなすのであって、どんな概念でも直接にその対立物と肯定的ないし否定的に関係するのですが、数はそうではない。数は限定されたものではあるが、対立はなく、たがいに無関心です。」    

 言うまでもなく、ここにはヘーゲルの弁証法的思想が色濃く言い表されている。

 ヘーゲルにとって、哲学的思考とは、精神の成長、その「運動」でなければならないのだ。

 ピタゴラスにおいても、「数」の思想は運動することになる。

 ピタゴラスにとって、「二」は「限定されたもの」「多なるもの」を表すものだ。

「一が同一性、一般性だとすれば、第二のものは、二、区別、特殊性です。こうしたもののとらえかたはいまなお哲学的に有効なもので、それを最初に意識化したのがピタゴラスです。」    

 「三」は「完成体」を表す数字である。

「一は二を通過してさらにすすみ、無限定と多とふたたび統一されるとき、三となります。」    

 このあたりまでは、まだそれなりによく考えられているとヘーゲルは言う。

 しかし「四」以降になると、それは単なる思いつきでしかなくなってしまう。

 「四」もまた、ピタゴラス思想においては完全なるものを表す数字だが、それはあまり根拠のあるものではないとヘーゲルは言う。

「四が完全な数だという考えは、地、水、火、風の四元素や四方位などをもとにいわれることで(たしかに自然のうちには四が深くはいりこんでいます)、いまでもよく知られた考えですが、あまり根拠のあるものではない。」    

 「四」の次には「十」が来るが、ここまで来るともはや単なる数遊びであるとヘーゲルは言う。

「四のつぎには、ピタゴラス派は、四のもう一つの形式である十にただちに移行します。〔中略〕「四は、以前の四つの数をうちにふくんで完成する。すなわち、1+2+3+4=10となる。」が、四つの数をふくむ十という実在は、ここでは、たんなる数遊びの外的・表面的結果にすぎず、概念とはとてもいえません。」    

 以上のように、ピタゴラスは世界の真理の根底に「数」を見出そうとしたのだが、哲学的には、イメージの戯れと言うべき程度のものに終わってしまった。

 それを象徴するかのように、ピタゴラスは様々なつじつま合わせもしてしまったとヘーゲルは言う。
 
 たとえば、目に見える天体は9個しかないにもかかわらず、ピタゴラスは、理論的には10あるはずだとして「反地球」という天体の存在を主張した。

 ちなみに、彼はこの10個の天体は音を立てて動いていると主張したのだが、その情景がとても美しいので、以下に紹介しておきたいと思う。


「これら十個の天体は、すべての運動物体と同様、音を立てていて、しかも、それぞれの物体がその大きさと速度のちがいに応じてちがった音を立てている。大きさと速度のちがいは天体相互の距離のちがいによって生じ、この距離は、和音をなすような音楽的間隔を保っている。こうして、運動する天体(天界)の調和音(音楽)が、——ひびきの美しい世界コーラスが、——奏でられる。」

 以上見てきたように、ヘーゲルはピタゴラスの哲学を「思いつき」レベルを脱していないと批判するのだが、しかし同時に、その「必然性にもとづく」思想の力については高く評価してもいる。

「理念の偉大さを、——必然性にもとづく理念の偉大さを、——わたしたちは認めなければなりません。天体の運行は、すべてが数の比であらわされる必然性の体系であり、必然性として把握できる体系であって、耳に聞こえる音楽の土台とも本質ともなりうる比の体系をなします。ここには世界という建造物の体系が、太陽系が、思想としてとらえられています。」

 哲学史は、こうして次のエレア学派へと移っていく。

 エレア学派においては、ピタゴラスがまだイメージにおいてしか捉えられなかったものが、より厳密な概念として展開していくことになる。




(苫野一徳)


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