ヘーゲル『哲学史講義』(8)


1.懐疑主義


 一方に独断主義が現れれば、他方には必ずそれを相対化する懐疑主義が登場する。

 古代哲学においても、御多分に洩れず、ストア派エピクロス派という両独断論に続いて、徹底的な懐疑主義が現れる。


 ヘーゲルは言う。



「懐疑主義とは全身麻痺のようなもので、真理が不可能なことが確信にまで至った思想ですもっとも、その確信は普遍的なものとはいえず、否定的な力しかもたないまま、個々の自己意識のなかに存在するものですが。」

懐疑主義の説くところは疑いの教えだとよくいわれるが、これは正確ないいかたではない疑いとは、なにかをよしとする考えに反対してその不確実をいうだけのもので、優柔不断態度です。〔中略〕古い懐疑主義はなにかを疑うものではなく、対象の非真理を確信している。古い懐疑主義真理たりうる可能性をもつ観念を相手にあれこれ検討を加えるだけでなく、対象の非真理をきっぱりと証明します。」


 古代懐疑主義は、「それは確かではない」とただ疑うだけのものではなく、真理などないことを強く主張するものなのだ(アナス&バーンズ『古代懐疑主義入門』のページ参照)。


 懐疑主義の創始者とされているのは、アリストテレスと同時代の哲学者、ピュロン


 何でも疑ったピュロンは、自分の感覚も信用しなかったので、馬や車を避けようともしなかったとか、壁に向かってまっすぐ進んだとか、色々逸話が残っているが、このことについてヘーゲルは次のように言う。


「ちょっと考えてみれば、そうした逸話がかれの哲学を冷やかすためにつくられたこと、逸話の目的が懐疑主義の原を極端におしすすめて、懐疑主義を笑いものにするところにあることは、すぐにわかる。」    


 アイネシデモスも有名な懐疑主義者だが、ヘーゲルは、彼を哲学的教養を身につけた懐疑主義者と呼ぶ。


 そして、セクストス・エンペイリコス。彼は医者だったとも言われている。



2.新プラトン派


 しかし、こうして何でも懐疑する時代ののちには、やはりまた「客観」への揺り戻しが起こることになる。


 しかし今回は、単純な独断主義はもはや通用しない。


 真理は思考にあるのか(ストア派)、感覚にあるのか(エピクロス派)という問いは棄却されている。


 次なる哲学は、一方に思考するものがあり、他方に思考されるものがあり、そして第三に両者の統一があると考える。


 哲学は、こうして三位一体の思想へと展開するのだ。


 まずは、フィロン


 彼は、上の三位一体の思想をきわめてイメージ的に論じた哲学者だとヘーゲルは言う。


「一般にフィロンの哲学は概念や思考の形而上学であるよりは、精神をもっぱら純粋思考として取りだすことに重点があって、「ある」と「あらぬ」の対立はイメージとしても不明確で、概念や理念も独立の形態を備えていません。」    


 しかし新プラトン派(アレクサンドリア派)は、やがて高度な哲学を築き始める。


「アレクサンドリア派はプラトン哲学を下敷きにしながらも、プラトン以後のアリストテレスその他の哲学(ストア哲学)をも取りいれている。〔中略〕高い教養の核心をなすのは、絶対的実在が自己意識としてとらえられねばならないこと、自己意識をもつことが絶対的実在の本質であること、つまり、絶対的実在は個の意識のうちにあること、——そうした深遠な原理です。」    


 とはいえ、その中心的哲学者であるプロティノスの哲学は、未だイメージ優位と言わざるをえないとヘーゲルは言う(プロティノス『エネアデス』のページ参照)。



「プロティノスはこの実体にすべてを還元する。それだけが真理であり、万物のうちにあってまったくの自己同一を保ちます。が、この第一のものからすべてが生じるので、一なるものは関かれています(創造や生産とむすびついています) 。しかし、絶対的なるものが抽象的に定義されるだけで、内部に活動をもつ一としてとらえられなかったなら、創造や生産を絶対的なるものから引きだすことはできない。プロティノスにあっては、この第二段階への移行は哲学的ないし弁証法的におこなわれるのではなく、移行の必然性がイメージや像によって表現されるだけです。」

「自分を開いていく必然性が説き明かされることはなく、ともかくそういうことになっていて、そういうことがおこった、といわれるだけです。」

 それがプロクロスになると、思想の完成度は非常に高くなる。



絶対的な一が多くのにわかれて、多数の一というかたちで多が生みだされるこの多は概念であり、多くの物ではないから、それ自体は一であるいや、一般的にいえば二であって、限定なきものに対立する限定である番目にくるのが一つの全体であって、限定と無限定の統一ないし混合体で、ここにはじめて、存在、ないし、実体、ないし、多くの一があらわれる


3.哲学史第1期の概観


 以上、私たちは、古代ギリシャ・ローマの哲学第1期をこれまでに見通してきた。


 その流れは、ヘーゲルによると次のようになる。


 まず、外部の自然への関心(自然哲学)。


 それが、ソクラテスプラトンによって自己の関心へと移り、アリストテレスによって思考それ自体の概念的把握として完成する。


 ところがその後、哲学は何を真理とするかをめぐる独断主義に陥り(ストア派エピクロス派)、その帰結として懐疑主義が興隆する。


 が、さらにその帰結として、哲学は三位一体という仕方で再び真理を捉えようとする(新プラトン派)。


 こうして哲学史は、続く第2期に突入する。


 中世の哲学がそれである。




(苫野一徳)

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