ヘーゲル『哲学史講義』(5)


1.プラトン


 いよいよ、プラトンについて。

 はじめにヘーゲルは、次のような興味深いことを言う。

「プラトンの著作を究極の哲学と見なすぐらいなら、全体として不満を感じるほうがましだといえます。かれの立場は明確で動かしようがない。が、人はそこに立ちどまることも、そこにもどっていくこともできない、——理性はいっそう高度なものを求めるからです。だから、かれの立場をわたしたちにとって最高のもの、わたしたちの取るべき立場と見なすことは、現代人の弱さのあらわれといってよく、それは、人間精神の要求の大きさとおそろしさに耐えきれず、それにおしつぶされる気がして、ぐずぐずとしりごみするものです。」

 プラトンを高く評価しつつも、ヘーゲルは、それを最高・究極のものと見なす風潮に強く異を唱えるのだ。

 時代が思想的行き詰まりを迎えた時、人びとは、思わず過去の哲学に究極を見ようとする傾向がある。

 しかしそれは、文字通り「現代人の弱さのあらわれ」なのだ。

 プラトンの哲学は確かに偉大だ。しかし人間の理性は、その後も成長することを止めはしない。

 現代の哲学こそが、最も進んだ精神を表現するものでなければならない。そうヘーゲルは言うのだ。


 さて、現代から見たプラトン哲学の問題、あるいはその限界は、彼が「神話」を多く用いた点にあるとヘーゲルは言う。

「対話形式によるプラトン哲学の表現で、いろんな要素がばらばらに存在している一番の問題点は、実在のたんなるイメージと実在の概念的認識とが、(イメージによる表現と思索的表現とが、)一般にきちんとしたむすびつきをもたないままに混じり合い、とくに、イメージのふくらみが神話的表現にまで至ることです。本来の学問がそれにふさわしい形態を取るにあたって、まず手はじめにこうした混合が生じるのはやむをえないことではありますが。」    

 もちろんそれは、神話の世界に生きていた当時のギリシャ人たちにとって、ある意味では避けられないことではあった。

 しかしその上でヘーゲルは次のように言う。

「プラトンの対話篇をもとにプラトン哲学をつかまえるためには、イメージによる語り、とくに、哲学理念を神話によりかかって表現したものと、哲学理念そのものとを区別しなければならない」    

 私たちは、プラトンの哲学からイメージ的表現(神話)を取り除き、その真に哲学的な部分だけを抽出する必要があるのだ。


2.イデア

 プラトンのイデア説も、時に神話的に語られるものだ。

 しかしわれわれは、その哲学的な本質だけをつかまなければならない。

 ヘーゲルは言う。

「かれの多くの対話篇の内容は、ばらばらな多数の個物は真なるものではないのを示すことにあって、個物のうちに一般概念をこそ見なければならないというのがかれの考えです。〔中略〕だから理念をなにか超越的なもの、どこか遠くにあるものと考えてはならない。」

 プラトンの「イデア」は、しばしば何らかの超越的な絶対者のように受け取られてしまうことがある。

 しかしヘーゲルは、そうした解釈を慎重に退ける。

 それはむしろ、知性が自らの運動を通してつかみ取っていく物事の本質のことなのだ。

 たとえば、「善」と一言で言っても、「あれも善」「これも善」と、善なるものは無数に挙げられる。

 しかしここで言われる「善」とは、そもそもいったい何なのか?

 私たちがさまざまな「善」に「善」という言葉を当てている以上、そこには共通の意味本質があるはずだ。

 プラトンは、そのような意味本質をこそイデアと呼んだのだ。

 さらに重要なことに、物事の本質(イデア)は、対象のうちにではなく、その本質を洞察しようとする知性自身のうちにある。

 そうヘーゲルは言う。

 そして、プラトンの有名な「想起説」もまた、そのような文脈において解釈し直す。

「もともと自分のもとにあるものが自覚されていくので、運動の結果として生じてくるのはすでにあったものです。普遍的なものは運動のはじまりからそこにあり、運動のなかでも自分の外に出ていくことはない。そして精神とは絶対に普遍的なもので、精神が自覚するのはすべて自分のもとにあるものであり、その運動はたえず自分のうちに帰っていくことです。学習とは、まさしくそのような運動であって、外部のものがなかにはいってくるのではなく、自分の本質が自覚されること、本質が意識されることにほかならない。」    

 「善」であれば「善」の本質を、この私の知性・精神が、いったいどのように捉えているのか。

 イデアを想起するとは、そのような精神の運動の自己了解にほかならないとヘーゲルは言うのだ。

 プラトンの「想起説」は、とりもなおさず神話的に語られるので、その哲学的意義はきわめて誤解されやすい。(プラトン『メノン』のページ参照)

 しかしヘーゲルによれば、プラトンの「想起」は、本来、上に見たような「自覚」「内面化」「自己了解」と捉えられるべきなのだ。


「想起ということばはある意味ではうまくない表現で、というのも、べつの機会にすでに獲得した考えを再現する、という意味にとられやすいからです。が、語源からすると、想起(Erinnerung)にはもう一つの意味があって、それは、内面化する(Sich-innerich-machen)、内面にはいっていく(Insichgehen) ということで、こちらのほうに深い意味がこめられている。この意味でこそ、普遍的なものの認識は想起にほかならない、といえるので、その場合の想起(内面化)とは、さしあたり外的な形で多様なものとして示されるものが、内面化され普遍化されること、しかもそれが、わたしたちの内面への歩み、自分の内面の意識化の働きによっておこなわれること、そういう意味内容をもちます。」


3.プラトンの国家論

 次に、プラトンの国家論について。(プラトン『国家』のページ参照)

 この点について、ヘーゲルの評価は極めて低い。

「かれの国家論の限界は、硬直した法治国家体制に似て、個人が国家に張りあえるだけの正式な権利を認められないところにあります。全体だけが国家の内容をなし、個人の性質も問題とはされるが、つねに全体に組みいれられていて、個人が個人として確固たる位置を占め、絶対的に価値を認められることがありません。」    

 プラトンの国家論においては、個人の権利は十分に認められず、ただ国家に組み入れられただけの存在とされるのだ。

 よく知られているように、プラトンは民衆を3つの階層に割り振った。

(1)統治者、学者、知者、(2)軍人、(3)農民と職人、の3階層だ。

 これら3つの階層それぞれに対応して、プラトンは基本徳目を次のように述べる。すなわち、


(1)知恵、(2)勇気、(3)節制

 そしてこれらすべてを貫く普遍的な徳として、「正義」を挙げる。

 「正義」とは、端的に言って「自由」の実現のことである。

「プラトンは正義を全体のありかたに求め、自由とは、理性的な自由が国家組織を通じて実現されることだと考えたのです。」    

 ただしここで言われる「自由」は、必ずしも万人の「自由」を意味しているわけではない。

 先述したように、プラトンにおいては国家が個人に対して優位にあるからだ。

 それゆえ、たとえば国家による「教育」は、個々人に公共心を養う者という本質を持っている。

 さらにプラトンは、(1)階層選択の自由の禁止、(2)私有財産の禁止、(3)結婚の自由の禁止を主張する。

 こうした個人の自由を否定する国家論は、近代ヨーロッパが到達した自由な国家に比べれば著しく劣るものであるとヘーゲルは言う。

「キリスト教において主観的自由の原理が必要不可欠のものとしてとらえられ、個人の魂が絶対的な目的と見なされ、精神の概念に欠くことのできないものとして世界に導きいれられるのを見たわたしたちは、プラトンの国家制度が、共同体組織の高度な要求を満たしえぬ次元の低いものだと考えざるをえません。プラトンは個人の確信や知や意志や決定を認めず、それらを自分の国家理念と統一できなかった。が、正義の立場からすれば、個人にも正当な権利を認め、高度な次元で全体に組みいれ、全体と調和させねばなりません。」    

 精神は成長する。人びとは、ようやく近代になって、古代の哲学者たちが考えもしなかった、各人の「自由」を実現しうる国家を構想するにいたったのだ。






(苫野一徳)



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