ヘーゲル『哲学史講義』(1)


はじめに

 哲学史について論じられたあらゆる本の中で、本書はダントツの一級品だと私は思う。

 哲学など、絶対の答えのない問題を、ただぐちゃぐちゃこねくり回して考えているだけのもの、などという一般的な理解がある。

 しかし本書を読めば、人間の精神が、思想のリレーを通していかに進歩してきたかがよくわかる。

 「進歩」の概念を忌み嫌う現代思想の目には、ヘーゲルの「進歩史観」もまた、今日否定されるべきもののように映るに違いない。

 しかしヘーゲルの洞察力は、そのような浅薄な理解など寄せつけないほど奥深くに突き刺さっている。

 もちろん、ヘーゲル哲学の根底には、人間は「絶対精神」(=神)の精神を分有しており、これを歴史を通して実現していくものである、という時代に制約された「フィクション」がある。

 そのため、そのような文脈において叙述された部分は、今日かなりの程度割り引いて読まれる必要がある。

 しかしその割引を加味してなお、哲学史全体を見やる彼のまなざしの広さと深さは、他の追随を許さないほど圧倒的だ。

 以下、まさに哲学史に残るヘーゲルの哲学史講義を、じっくり味わっていくことにしたいと思う。


1.哲学史とは何か?

 哲学史、それは、人間精神の進歩の歴史であり、そしてその「自覚」の歴史であるとヘーゲルは言う。

「さまざまな段階や発展の局面が、時間のなかで、歴史的な出来事として、特定の場所で、特定の民族のもとで、特定の政治状況のもとで、幾多の要素がからみあって、——要するに経験的な形式で——生ずるといったあらわれかたをするように見えるとき、その光景を記述するのが哲学史です。哲学史とはなにかと問われたとき、そう答えるのが唯一の価値ある返答です。」    

 しかし、哲学的洞察力のない哲学史家は、哲学史を様々な思想の単なる寄せ集めに過ぎないと考えてしまう。

「哲学史研究者の多くが理念を認識する目をもたないため、哲学史は思いこみの無秩序な寄せあつめにすぎないものになっている。現象の奥にある理念を諸君に示すこと、理念に照らして現象を説明すること——それが哲学史を講義するものに課せられた任務です。」    

 哲学的精神のない哲学史家を、彼は次のようにも批判する。

「哲学史家の多くにとって、哲学体系の列は、たんなる思いこみやあやまりや思考の遊びにしか見えない。機智に富み、精神の努力にあふれでいる、等々、形式面にかんしてかれらはあれこれお世辞をならべはするが、しょせんは思考の遊びの列にしか見えていないのですから。哲学的精神を欠いた哲学史家に、理性的思考とはなにかがどうして把握でき、表現できるでしょうか。」    

 さらに彼は、いわゆる「流行哲学」もまた次のように痛快にこき下ろす。

「こんなことをわたしがいうのも、あたらしい哲学、最新の哲学、といういいかたが、きわめて安直になされるからです。こんないいかたで意味あることをいった気になる人びとは、数々の哲学を気軽に絞首刑にしたり祝福したりすることでしょう。どんな流星でも、いや、どんなろうそくの炎でも太陽と見なし、また、どんな理屈でも哲学だとさけびたて、その証拠に、哲学はふんだんにあって、日のあらたまるたびにきのうの哲学は駆逐される、といったりする人びとなのですから。かれらにはお気にいりのことばがあって、意味のありそうな哲学にあるレッテルを貼りさえすれば、それでその哲学の価値が定まると考えている。流行哲学というレッテルがそれです。」    

 流行哲学など、単なる思いつき程度の浅い思想が、たまたまその時代の雰囲気にマッチしてしまったがために流行しただけのものである。だからそれは、哲学史的には取るに足りないくだらぬものだ。

 二千数百年におよぶ哲学の歴史に精通した、そしておそらくは、その思想のリレーの先に、哲学の営みをいくらか完成させたと自負していた、ヘーゲルならではの力強い言葉だ。

 「通俗哲学」と彼が呼ぶものに対しても、ヘーゲルの言葉は厳しい。

 キケロやパスカルなど、ウィットに富んだいわば「うまいことを言う」哲学者たちへの揶揄である。(キケロ『友情について』、パスカル『パンセ』のページ等参照)

「哲学という点からすれば、通俗哲学には一つの欠陥が貼りついています。通俗哲学が最後に訴えかけるのは、(近代においてもそうですが)人間のもって生まれた心情です。キケロは、なにかというと心情をもちだします。道徳本能の話にも心情が出てきます。〔中略〕感情がまず呼びおこされ、理由や理屈はその後にくる。しかも、この理由や理屈がまた直接に心情に訴えるものです。」    

 単に心情に訴えかける「うまいことを言う」哲学は、哲学の名に値しない。

 哲学は、どこまでも理性的な普遍性を捕まえるものでなければならないのだ。


2.堕落の時代に哲学は登場する

 哲学史の一般傾向として、ヘーゲルは次のような興味深いことを言う。

「たとえば、イオニアの哲学は小アジアのイオニア国家群が没落しつつあるとき登場しています。ソクラテスとプラトンは没落途上のアテネの政治にはもはやなんのよろこびも見出さず、プラトンはデイオニュシオスのもとでもっといい政治をおこなおうとしました。つまりアテネでは、アテネ市民の堕落とともに、哲学興隆の時代がきたのです。ローマでは、本来のローマ的生活たる共和国がローマ皇帝の専制のもとに没落しつつあるとき、——つまり以前の信仰生活がゆらぎ、一切が解体と産みのくるしみにとらわれた世の不幸の時代、政治生活の没落の時代に、——はじめて哲学は広まりました。また、偉大で、ゆたかで、華麗でありながら、内面的には死んでいた帝政ローマの没落にともなって、アレクサンドリアの新プラトン派の哲学者たちによる、古代哲学の高度な、最高の仕上げがなさレました。同様に、一五、六世紀において、中世のゲルマン的生活の形態が大きく変化し、——以前は政治と宗教がなお統一を保ち、国家が宗教にたたかいを挑んでも宗教の優位は動かなかったのに——国家と宗教とのあいだに分裂が生じたまさにそのときに、哲学が、最初はたんなる暗記物として、しかしのちには近代を画する独立した形をもって登場してきました。このように、哲学は歴史形成の一定の時期にのみ登場してくるのです。」    

 堕落の時代に、哲学は発展する。

 現実世界の様々な問題を前に、人間精神は、それらの問題を力強く解き明かそうと立ち上がるからだ。

 また彼は次のようにも言う。

「思考は自立し、自由に存在し、自然から解き放たれ、直観への埋没から身をひき離さねばならない。思考は自由な思考として自己のうちにはいっていかねばならず、そのとき自由がしっかりと意識される。 」

 思考が、何らかの信仰や専制政治などに囚われている時、哲学は決して生まれない。

 哲学が始まるのは、自由な思考が芽生えた時なのだ。

 それゆえ哲学は、自由な政治体が確立されている場所に起こる。

「歴史上に哲学が登場するのは、自由な体制が樹立されている国でなければなりません。」    

 東洋は、自由な国とは言い難い。

「意志が有限なのは東洋の性格です。意志の内容は有限であり、いまだ普遍的なものとしてとらえられていない。だから、主人と奴隷の階層しかなく、専制政治が世界を支配するのです。恐怖が支配の基本をなします。」    

 古代ギリシャにおいて哲学が花開き、近代ヨーロッパがそれを発展させ得たのは、そこに精神の自由があったからなのだ。

 次の有名な言葉を引用しよう。

「東洋ではただひとり(専制君主)が自由であり、ギリシャでは一定数の人が自由であり、ゲルマン人の生活では万人の自由が認められ、人間が人間であるかぎり自由だと認められる、と。」    


3.東洋の哲学

 以上のように、東洋の哲学にはほとんど重きをおかないヘーゲルではあるが、本書の前半部では、その東洋哲学についてがかなり詳しく論じられている。

 哲学はもちろん、歴史、宗教、芸術、経済等、ありとあらゆることに精通した、稀代の知識人ヘーゲルの姿がここでも垣間見える。

 ただ、東洋哲学は通過点として扱われているにすぎないので、ここでもさらりと触れるにとどめておこう。

 孔子については、ヘーゲルは次のように言う。(『論語』のページ参照)

「孔子と弟子たちとの対話が残されていますが、そこにあるのは通俗道徳です。それは、至るところ、どんな民族にもあるもので、特筆すべきものではありません。孔子は実用的な知恵のもちぬしで、思索的な哲学はまったくなく、あるのはただ、善良な、有用な、道徳の教えで、そこにはなんら特別のものはありません。キケロの道徳教訓書『義務について』のほうが、孔子の全作品よりも有益です。」    
 
 道教については次のように言う。(『老子』のページ参照)

「最高のもの、究極のもの、根源的なもの、第一のもの、万物の根源は、無であり、空虚であり、まったくわけのわからぬもの(抽象的普遍) であるわけで、それがまた、道(理性)と名づけられます。ちなみに、ギリシャ人が、絶対者は一である、といい、近代人が、絶対者は最高の実在である、というとき、ここでもすべての概念規定が抹消され、たんなる抽象的実在だけが残って、肯定の表現は取っているものの、道教と同じ否定の思想が述べられているにすぎない。哲学がそういう表現にとどまるかぎり、それは初歩の哲学です。」    

 「道」とは何かということについての概念的把握が乏しい道教は、まだまだ初歩の哲学だとヘーゲルは言うのだ。

 インドの哲学については、ヘーゲルは中国の哲学よりほんのわずかだけ評価しているようだ。

「インドの考えは以下の通りです。まず、一つの普遍的な実体があり、それは抽象的な形を取ることも具体的な形を取ることもあるが、そこから一切が生じてくる。生じてくるものとして、一方に神々があり、他方に動物や無機の自然があって、人間は両者のあいだに位置します。宗教的にも哲学的にももっともすぐれた点は、意識をもった人間が、礼拝や犠牲やきびしい蹟罪行為、さらには哲学や純粋な瞑想によって、実体と一体化できるという考えです。」    

 ブラフマンとアートマンの関係性にしっかり思考を巡らせた点を、ヘーゲルはおそらく評価したのだろう。

 そんなわけで、続いていよいよヘーゲルは、本丸であるギリシャの哲学について論じ始める。

 最初に取り上げられるのは、言うまでもなくタレスである。




(苫野一徳)



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