竹田青嗣『欲望論 第2巻:「価値」の原理論』(その2)



1.価値審級の源泉=「母」–「子」における「言語ゲーム」

 これまで「母」(養育者の総称)と「子」における「言語ゲーム」について見てきたが、竹田によれば、これは人間的価値審級の源泉と言うべきものである。

「われわれの仮説は、言語ゲームという成育の環境を欠くなら、「子」は定常的な「関係的身体性」の形成を損なうだけでなく、そのことによって人間的価値審級「よい–わるい」「きれい–きたない」の形成を欠くということ、すなわち、「母–子」の言語ゲームは人間的価値審級の源泉にほかならない、という仮説である。」

 人間は、この原初的な「言語ゲーム」を通して、人間的価値の審級を自らのものにしていくのだ。

 以下、その「言語ゲーム」が「母」–「子」においてどのように展開されていくかを見てみよう。

 最も原初的な「母」–「子」の「言語ゲーム」は、まず「要求–応答」関係として現れる。

 しかし、ここにやがて「禁止」の項が登場することになる。

「「母–子」間の要求–応答関係は、はじめは完全に一方向的なものとして、つねに「子」が要求し「母」がこれに応答する関係として進む。しかし、ある時点でこの関係は逆転する。それが母親によるはじめの「禁止」(初期禁止)である。」 

「「子」が親の禁止を理解し、またそれに続く諸要求に従うことができるようになるや、「子」にとって世界は新しい分節を形成する。それまで中心をなしていた「母–子」の親密かつ内閉的世界、すなわち「安心–不安」(母親の現前と不在)「愉楽–退屈」という基礎的分節の中心は、「禁止–許可」という新しい世界分節の中心性によってその基本形式を一変する。」   

 「禁止」の登場によって、「子」の世界はガラリと変わる。彼は世界に、「禁止–許可」という新しい世界分節を見出すことになるのだ。


3.善悪の起源

 竹田によれば、ここにこそ人間的「善」–「悪」の価値審級の源泉がある。

 つまり、「母」によって「許可」されているものが「善」として、そして「禁止」されているものが「悪」として分節されるのだ。

「「母」の言葉「よい」は、一切の肯定性を示す言葉を代表する。「よい」は、「快い」「おいしい」「うれしい」「たのしい」「きれい」「やさしい」「かわいい」「まちどおしい」「やわらかい」「明るい」「できる」を代行しうる。「わるい」は、その反対の意味をもつ語のほぼすべてを代行しうる。すなわち、「よい」と「わるい」は、世界のうちで生じる一切の情動様態をその肯定性と否定性において二分する。」

 言われてみれば当たり前のように思える。しかしここには、実は哲学的善悪論の新たな展開がある。

「本体」論に支配されていた従来の哲学は、結局のところ、これまで「善悪」の「本体」を暗黙のうちに探求していたからだ。

 しかし竹田は、善悪の起源は「言語ゲーム」のほかにないことを論じるのだ。

 さて、「母」–「子」の「言語ゲーム」は、「子」の成長につれてより広い「言語ゲーム」へと開かれていくことになる。

 端的に言えば、「子」は「家政のゲーム」に参加していくのだ。

 ここにはある種の「競合関係」が登場する。

「初期禁止を転回点として「母–子」の要求–応答の言語ゲームは大きく展開し、やがて複数の主格、すなわち父親やきょうだいが参入する「家政のゲーム」となる。 〔中略〕「母–子」の内密的な親和的応答の関係は後退し、「子」は家政の掟のうちで位置を与えられ、家族の成員のうちではじめの競合関係を生きねばならない。」

 こうして、「子」は「母」–「子」の言語ゲームから「家政のゲーム」へ、そしてさらに広い「言語ゲーム」の世界へと開かれていくことになるが、この諸々の関係性のうちで、彼はさまざまな「自己ロマン」を育て上げていくことになる。

 つまり「子」は、この関係性の中で自己価値承認欲求を持ち、「このような自分でありたい」「あのような自分でありたい」というロマンを描くようになるのだ。

 このロマンには大きく3つの範疇があると竹田は言う。

「自己ロマン化の三つの大きな範疇。「卓越性のロマン」「道徳と正義のロマン」「美的ロマン(挫折と屈折を養分とする、「道化」や「悲劇」のロマン化もある)。この岐路がいかに現われるかについは判明である。自己意識は本質的に自己価値承認の欲望であり、「自己ロマン」は他者の承認が集まる可能性の場所で結晶化する。すなわち自分のうちの他に抜きん出ている点の感度が、未来の自己像への憧憬を育てる。」

 自己のロマンもまた、わたしたちは徹頭徹尾「言語ゲーム」の中で育んでいくのだ。


4.美とは何か

 「善–悪」の審級の源泉が「母」–「子」の言語ゲームにあったように、「美–醜」の審級の源泉も、基本的には「母」–「子」の言語ゲームにあると竹田は言う。

 しかしこのこともまた、哲学史において十分洞察されてこなかった。

 ここで竹田は、カントの美的認識論や、それを継承したシラーの美学、さらに新カント派の美学等を批判的に検討するのだが、ここでは割愛することにしたいと思う。

 従来の哲学的美学を総覧した上での竹田の結論は次のようだ。

「ここまで来てわれわれは、「美の謎」の核心にあるのが「美の普遍性」の問題であることを理解せねばならない。あるいはまた、近代哲学における美学的探求の努力が、根本的には、美の普遍性をいかに根拠づけうるか、という主題をめぐっていたことを再確認せねばならない。」    

 なぜ、わたしたちはあるものを「美」と認識しうるのか。しかも、なぜそこにある種の普遍性を見出しうるのか。

 これが、哲学的美学における核心的問いである。

 この問いをさらに展開すれば次のようになる。


「第一の問題。プラトンによる美の知覚–感覚性と美的感受性の矛盾。なぜ単なる知覚(視覚・聴覚)が美的感受の能力をもつのか。
 第二の問題。美は主観性だが普遍性を要求する(カント)。しかし美の感受ははたして普遍性をもつか。もつとすればその根拠は何か。
 第三の問題。美と芸術の本質的区別。
 第四の問題。最後に、美と善の関係的本質。」


1.なぜある種の知覚が美的に感受されるのか、2.美はなぜ普遍性を持つのか、3.美と芸術とは何が違うのか、4.美と善とはどのような関係にあるか。

 これらの問いに、以下で竹田は挑んでいく。


5.美的感受

 まず第1と第2の問いについて。

 ここでも、考えるべきは「母」–「子」の言語ゲームだ。

 この言語ゲームにおいて、先行するのはまず「きたない」であると竹田は言う。

「ここではごく一般的な経験的洞察として、はじめに「きたない」が、つぎにその反対概念としての「きれい」が「子」に了解されること、この意味了解の基礎の上に、われわれの主題である美的な感受性としての「きれい–きたない」の分節が了解されていくということが重要である。」    

 嘔吐物や排泄物などを、「母」は「きたない」と名指しこれを禁止する。「きれい–きたない」の審級は、こうしてまず「きたない」という言葉によって分節されるところから始まるのだ。

 では、「きれい」はどのように「子」において分節されることになるのだろうか。


「「母」がどのような対象を美的な意味で「きれい」と呼ぶのかについて、さらに考察してみよう。「母」が、「きれい」という言葉で指し示す範例的な対象は以下である。花、衣服の色や柄、絵本の色調、とくにキラキラと光るもの、色ガラス。磨き上げられたもの、等々(総じて、視覚主導)。そしておそらくは、少し後になって、夕焼けや星空などの自然の情景や風景。」


「ここでは、「きれい」は「きたない」を予想せずその対立項ではない。また「きたない」がもつ禁止・抑止の指示性をもたず、「よい」がもつ、触れたりそれで遊んだり食べたりしてよいという許可の意味をもたない。ここでの「きれい」は、ある対象をともに見ること推奨されており、そのことでそこで生じる感情の共有を促す、といった意味をもっている。」

 これは非常にすぐれた洞察だ。

 「きれい」は、「きたない」の反対項として分節されるわけではないし、「許可」としての「よい」として分節されるのでもない。

 この言葉は、「母」との間のある種の感情の共有を促すものとして「子」に訪れるのだ。

 このあと竹田は、「きれい」が「美」へと転移されていく道筋や、様々な美的対象についての考察を展開するのだが、ここでは省略する。

 ともあれ、竹田によれば、ある知覚が美的に感受され、かつまた普遍性を持ちうる根拠は、上に見てきたように、美がそもそもにおいて、「母」との間の感情共有として「子」に訪れるものであるからなのだ。