セネカ『生の短さについて』


はじめに

 2000年前の自己啓発書、とでも言えるだろうか。

 しかしその内容は、現代でも十分傾聴に値する。

 生はそれ自体としては決して短くない。ただ浪費するから短く感じられるだけなのだ。

 岩波文庫には、「生の短さについて」に加えて、「心の平静について」「幸福な生について」の3篇が収められている。

 以下、それぞれ紹介していこう。

 私たちはどうすれば幸福に生きられるのか?

 古代ローマのストア派哲学者の知恵が光る。


1.生の短さについて

 セネカはまず次のように言う。

「われわれにはわずかな時間しかないのではなく、多くの時間を浪費するのである。」    

 自分の自由な時間を無駄にすること。ここに生の浪費があるのだ。

 だから自分自身の時間を生きよとセネカは言う。

「人間的な過誤を超越した偉人の特性は、自分の時間が寸刻たりとも掠め取られるのを許さないことなのであり、どれほど短かろうと、自由になる時間を自分のためにのみ使うからこそ、彼らの生は誰の生よりも長いのである。」    

 この観点からの、当時の学者たちへの次の批判は興味深い。

「今やローマ人の中にも大勢いる、役に立たない文学研究に魅せられた人たちが、あくせくしながら実は何もしていない、という事実を疑う者は一人もいないであろう。〔中略〕例えば、ウリクセースは何人の漕手を有していたかとか、『イーリアス』と『オデュッセイア』はどちらが先に書かれたかとか、作者は同一人物かとか、その他、この種の事柄がそれで、秘密として人に教えなければ教えなかったで秘めた心が満足せず、公にすればしたで博学と思われるよりはむしろ鼻持ちならない人間と思われるような類いの些事である。」

 このように、セネカはどうでもいいことばかり研究している学者たちを批判するのだが、その上で、真に探求すべきは哲学であると主張する。

「すべての人間の中で唯一、英知(哲学)のために時間を使う人だけが間暇の人であり、(真に)生きている人なのである。」   

 なぜなら、彼らは時空を超えて偉大な人たちと対話をするからだ。そしてそこに、人類の叡智を発見するからだ。

「ソークラテースとともに議論することも許され、カルネアデースと共に懐疑することも、エピクーロスと共に憩うことも、ストア派の人々と共に人間の本性を克服することも、キュニコス派人々と共に人間の本性を解脱することも許される。」    

「彼ら思想の天才たちは、君に永遠への道を切り好いてくれ、君を何人も投げ落とされることのない高みへと昇らせてくれるであろう。これこそ、死すべき人間の生を引き延ばす唯一の方法、いや、死すべき人間の生を永遠不滅の生へと転じる唯一の方法なのである。」    

 だからとにかく、自分自身の時間を生きよ。他人のための時間は生の浪費である。セネカはそのように言う。

「何かに忙殺される者たちの置かれた状況は皆、惨めなものであるが、とりわけ惨めなのは、自分のものでは決してない、他人の営々とした役務のためにあくせくさせられる者、他人の眠りに合わせて眠り、他人の歩みに合わせて歩きまわり、愛憎という何よりも自由なはずの情動でさえ他人の言いなりにする者である。そのような者は、自分の生がいかに短いかを知りたければ、自分の生のどれだけの部分が自分のものであるかを考えてみればよいのである。」    


2.心の平静について

 続いて「心の平静について」。

 この作品は、贅沢欲や名誉欲をどうしても払拭できない、そのために心がいつも穏やかでない、という、セレーヌスという者への応答として書かれている。

 これに対してセネカは次のように言う。

「症例を次々に数え上げればきりがないが、この病態の結果は一つである。自己に対する不満がそれだ。その由って来る因は、心の平衡の欠如と臆病な欲望、あるいは完全には満たされない欲望である。望むだけのことを思い切ってできなかったり、望むだけのことを達成できなかったりして、すべてを希望に託す場合がそれに当たる。」    

 自分に対する不満。それが心の不安を生んでいる。

 ではどうすればいいのか?

 セネカは次のように言う。

「最善の策は、アテーノドーロスが言っているように、実生活の活動に従事し、国政に携わり、市民の義務を果たすことに専心することであろう。」    

 あれこれの欲望や、それが叶わないことによる心の不安を感じるならば、ただただ日々の活動に従事してみよ。それが心の平安をもたらすだろう。セネカはそう言うのだ。

 また、能力以上のことをしたり、あれやこれや様々なことに手を出しすぎるのもよくないと言う

「種々の新たな雑用が生まれるこうした仕事も避けなければならないし、また、そこから自由に撤退することが許されないような仕事にも近寄るべきではない。手をつけるべきは、終えることができるか、少なくとも終えられると期待できる仕事であり、忌避すべきは、活動が思った以上に広範に及び、意図したところでは終わらない仕事である。」    

 そのためには、日ごろからいわば「足るを知る」訓練をしている必要がある。

「これ見よがしの見栄を排除し、装飾性ではなく実用性をもって物の価値を測ることに慣れよう。食べ物は飢えを、飲み物は渇きを抑えるものとし、肉欲は必然性のあるところへ向かわせることにしよう。自分の手足に頼り、服装や食物は最新の流行に合わせるのではなく、われわれの先人の風習が勧めるものに合わせることを学ぼう。自制心を鍛え、贅沢を控え、虚栄心を抑え、怒りを鎮め、貧しさを偏見のない日で眺め、質素を大切にし、たとえ多くの人がそれを恥じようとも、自然の欲求を満たすには安価で賄えるものを当て、手綱が切れたようなとめどない期待や、未来をひたすら待ち望む心に、いわば伽をはめる術、富を運命に求めるのではなく、われわれ自身に求めるようにする術を、われわれは学ぼうではないか。」    

 人生には苦しいこともたくさん起こる。しかし人間は、それらに慣れてしまうことだってできる。これは人間の1つの希望だとセネカは言う。

「考えてみたまえ、伽をはめられた囚人は、臑を締めつける重荷の桎梏にはじめのうちは苦しむものの、そのうち憤るのはやめて我慢しようと心に決めるが、そのとき、必然は雄々しく耐える術を教え、慣れはたやすく耐える術を教える。君が、災いを敵対的なものにするのではなく、むしろ軽いれものと考えるようにしようと思いさえすれば、どのような類いの人生にも喜びや安らぎや楽しみがあると分かるはずだ。われわれ人間に対する自然の善行で、これほどありがたいものはない。自然は、われわれ人間がどのような艱難に生まれつくか分かっているので、災難の緩和剤として、慣れというものを見つけ出してくれ、耐えがたいほど過酷な艱難をもすぐに馴染みになるように導いてくれるのである。」    

 虚栄もよくない。自分のありのままをさらけ出した方がいい。

 人にどう見られるか気にしてばかりいる人生は不幸だからだ。

 とは言うものの、自分をさらけ出すことで人から馬鹿にされることもあるだろう。

 でもそれがどうしたことか、とセネカは言う。徳ある人間でありさえすれば、私たちが恥じるものは何もないのだ。

「徳には、目を近づけて眺められでも、安っぽく見られる危険はないし、また、絶えざる見せかけのために苦しめられるよりは、純朴さで蔑まれるほうがまだしもましなのである。」    


3.幸福な生について

 最後に、「幸福な生について」。

 幸福な生とは何か。それは自然(本性)に沿った生き方である。

 自然に沿った生き方とは何か。それは精神が健全であることだ。

「幸福な生とはみずからの自然(の本性)に合致した生のことであり、その生を手に入れるには、精神が、第一に健全であり、その健全さを永続的に保持し続ける精神であること、次には勇敢で情熱的な精神であること、さらに見事なまでに忍耐強く、時々の状況に適応し、己の肉体と、肉体に関わることに気を配りながらも過度に神経質になることなく、また、生を構築するその他の事物に関心を寄せながらも、そのどれ一つをも礼賛することなく、自然の賜物を、それに隷属するのではなく、用に供する心構えでいる精神であること以外に道はない。」    

「こうも言えよう、幸福な人とは、欲望も覚えず、恐れも抱かない人であるが、ただし理性の恩恵によってそうであるような人である、と。なぜなら、木石にも恐れや悲しみの感情はなく、家畜もまた同様だからである。だからといって、幸福が何であるかの理解が欠如しているものを幸福なものとは誰も呼ばないであろう。」    

 自らの理性によって精神を健全に保つこと。これが幸福な生き方なのだ

 そのためには、前述したようにいわば「足るを知る」ことが重要だとセネカは言う。

「幸福な人とは、それがどのようなものであれ、現在あるもので満ち足りている人、今あるみずからの所有物を愛している、みずからの所有物の友である人のことなのである。幸福な人とは、理性の勧めに耳を傾け、理性の勧める、みずからが関わる物事のあり方を受け入れる人のことなのである。」    

 ところで、古来、徳と快楽は同じであると言う者たちがいる(エピクロス派を念頭に置いている)。

 快楽の限りを尽くすことが徳のある生き方だと彼らは言うのだ。

 しかしセネカは彼らを批判して言う。

「似ても似つかぬもの、いや、それどころか正反対のものを、なぜ一緒くたにしようとするのか。徳は高いもの、屹立して王者のごときもの、敗北を知らず、溌溂として疲れを知らぬものである。」    

 なぜか? まず第一に、それは快楽が満たされればすぐに失われるものであるからだ。


「快楽は喜悦の絶頂に達した瞬間に消滅するものであり、それほど広い場所をとらず、それゆえ、すぐに満たし、すぐに倦怠を覚えさせ、はじめの勢いが過ぎれば、すぐに萎えしぼんでしまうものなのである。」

「だからこそ、古人は、最も快い生ではなく、最も善き生を追い求めよと説き、快楽を正しく善き意志の先達とするのではなく同伴者とせよ、と教えたのである。」

 セネカは快楽を否定しているわけではない。ただ、快楽に飲まれるなと教えるのだ。

 実を言うと、快楽主義と訳されるエピクロス主義の祖エピクロスは、決して安易な快楽主義者ではなかった(エピクロス『教説と手紙』のページ参照)。

 通俗的なエピクロス主義者たちが、エピクロスの思想を誤って受け取っただけなのだ。セネカは次のように言う。

「彼の説く例の快楽はわずかで、ささやかなものに限定されており、彼はわれわれが徳の戒律とするものを快楽の戒律としている。彼は命じる、快楽は自然に従え、と。ところで、自然を満たすぜいたくにはごくささやかな贅沢で足りる。」    

「懶惰な閑暇を幸福と称し、口腹の欲と肉欲こもごもの生活を幸福と称している者たちは皆、悪事の後ろ楯となってくれる立派な権威者を得ようとして、その魅惑的な名に惹かれて彼(エピクーロス)の門を叩きはするが、聴いた教えどおりの快楽ではなく、自分が携えて行った快楽を相変わらず追い続け、その挙句、自分の悪行は教義に適うものという謬見を抱き始め、それからというもの、おずおず、こそこそどころではなく、大っぴらに奢侈に耽るようになる、ということなのである。」    

 セネカが説くのは、徳によって快楽の主人になることだ。

「徳をして先頭を歩ましめ、徳をして旗手を務めしめよ。それでも、われわれは快楽を覚えるだろうが、われわれが快楽の主人であり、統制者なのである。」    

 続けてセネカは興味深いことを言う。

 「お前は偉そうなことばかり言うが、自分自身でそんな生き方ができているのか?」

 このように私を非難する者があるだろう、と。

 もっともなことだ。なぜなら私は賢者ではないから。そうセネカは言う。

 でも私は、そのような生き方をすべきだと考えている。まだできていないかもしれないが、そのように生きたいと考えているのだ。

「私が語っているのも、徳についてであって、私自身についてではないし、私が悪徳に非を鳴らすとき、その悪徳は何よりも私自身のそれなのである。その力をもてるならば、私もそうあるべき生き方をしたい。」    

 また、「お前は哲学者なのに、なぜ富裕な暮らしをしているのか?」と哲学者に詰問する者もあるだろう、とセネカは言う。

 これに対して彼は答える。

「賢者にとって、貧しい境遇にあるよりは、裕福な境遇にあるほうが、精神を開発するためのこの資源が大きいことに疑問の余地はないであろう。なぜなら、貧しさには(177)(貧しさに)傾かせられず、屈服させられないというたった一種の徳目しかないが、豊かさの中では節制、寛容(物惜しみのなさ)、節倹、計画性、剛毅といった徳目が広い活躍の場を得るからである。」   

 賢者が貧しくなければならないといういわれはない。セネカはそう言うのだ。

 しかもまた、賢者の富裕と愚者の富裕とには天と地ほどの差があるとセネカは言う。

「なぜなら、富は、賢者にあっては所有者である賢者に隷属するが、愚者にあっては所有者である愚者を支配するからである。賢者は富に何の権利も認めないが、君たちにとっては富がすべてだからである。」    



(苫野一徳)

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