竹田青嗣『欲望論 第1巻:「意味」の原理論』(その5)



1.言語の本質

 前のページで、竹田による現代言語哲学批判を見た。

 少しだけおさらいしておこう。

 現代の言語哲学は、一方で、言語を厳密に規定することで客観性に到達しようと試みる(ラッセルなど)。

「論理学は、概念と記述の一義的な規定可能性を探究することによって、言語の万人にとっての論理操作の同一性を(数学がそうであるように)作り出そうとしてきた。そこでは、たとえば、「存在とは無ではないものである」「一とは多ではないものである」「同とは他ではないものである」、といった概念の一義化が規定される。論理のこのような一般形式化と規定規則の厳密化、表現された命題における「意味」の普遍的同一性を確保するとみなされる。」

 しかし他方で、そんなことは不可能であることがすぐさま主張される(サールストローソンなど)。

 要するに、ここで繰り広げられているのは、またも意味の「同一性」(本体)とその不可能性(相対化)の対立なのだ。

 竹田は言う。われわれはこの意味の「本体論」を解体して先へ進まなければならないが、それは論理学的地平においては不可能なことである、と。

「「意味」の本質の問題を(その多様なパラドクスともども)解明するには、意味の問いを論理学的地平から引き離し、意味の本体論を解体して、これを現象学的欲望相関的意味論の地平へと差し戻さねばならない。論理学的な意味論の地平では、「語」あるいは「命題」「文」の意味は、形式化され一般化されたものとしての「一般意味」(一般意味表象)しか表示することができない。だが、発語された言語(「語り(パロール)」すなわち企投的な「現実言語」においては、語(あるいは言述)の意味は本質的に「企投的意味」であって、一般意味はこれを媒介するだけである。」    

 欲望論の構えから見れば、言語は「一般意味表象」「企投的意味」の2つの本質構造を持つものであることが理解される。

 前者は、「青」「空」「人間」といった概念の、まさに一般的な意味のこと。

 後者は、この一般意味表象を媒介に、己の「意」を伝えるもの。まさに欲望論の次元に属するものだ。

 従来の言語哲学は、この「企投的意味」を十分捉えることなく、ただ「一般意味表象」のみを分析してきた。

 しかし言語は、「一般意味」を媒介に「企投的意味」を伝えるところにその本質があるのだ。

 それゆえ、論理学がどれだけ「一般意味」の形式論理を明らかにしようと試みたところで、それは様々なパラドクスを生み出すだけで、言語の意味の本質にたどり着くことは決してない。

 言語もまた、欲望相関的な世界分節にほかならないのだ。

「モノの「名」は、欲望相関的体験の総括としての「概念」である。「コト」に関しても事情は同じである。
 こうして、事物はその「名」(語)をもち、「語」はその指示対象を意味するというとき、われわれは「名」や「語」の意味の発生的本質をいわば忘却している。そのために「語」はそれ自身のうちに意味をもつとみなされ、同様に「対象」はさまざまな意味を内含するといわれる。しかし対象とその名(語)がもつ意味は「一般意味」にすぎず、それはわれわれの生の実践的関係のうちで生成する意味の一般痕跡にすぎない。」

 言語哲学は、本来、われわれが世界をどのような仕方で欲望相関的に分節しているのかを、人間関係(言語ゲーム)の本質論を底にして解明する必要がある。

 このことについて竹田は次のように言う。

1)意味の本質に接近するには、まず言語的意味の本質へと接近しうる方法が必要である。

 論理学の地平においては言語の意味の本質に接近することは決してできない。なぜなら論理学は、言語行為の痕跡的秩序(=一般言語表象)についての形式的体系化であり、そのことで言語的意味の本質部分をあらかじめ消去しているからである。

(2)言語的意味の本質へと接近するには、企投的実践としての言語行為の本質を捉えねばならず、それゆえ「言語ゲーム」の本質を考察しなければならない。

(3)「言語ゲーム」の本質に近づくには、現実の人間関係における関係性の本質を捉えねばならない。そのためには人間関係における関係感情の本質を把握しなければならない。

(4)人間間の関係感情の本質を把握するには、主体と対象との間のエロス関係の本質を捉えねばならない。

 言語的意味の本質は、企投的意味の本質を洞察することによってしか解明しえない。

 そのためには、まずわれわれの「企投的実践」である「言語ゲーム」(ウィトゲンシュタイン)の本質を解明する必要がある。すなわち、言語が人間関係において交わされるそのあり方の本質解明をする必要がある。

 とすれば、そもそも人間関係(関係感情)の本質とは何かが問われなければならない。

 こうして議論は、欲望論の本丸へと展開していく。


2.物理学的実在論

 と、その前に、現代の実在論に再び触れておくことにしよう。

 世界は徹頭徹尾「欲望相関的」に分節されるものである。

 これが前述した「欲望論哲学」の肝だが、現代哲学は、あいも変わらず、今なお客観それ自体への探求を続けている。

 メイヤスーの思弁的実在論や、特にアメリカで隆盛している物理学的実在論などがそうだ。

 メイヤスーについては前に述べたので、ここでは物理学的実在論について。

「物理学的原理主義者、すなわち心的な現象は完全に物理状態、脳の分子レベルの構造に還元可能であるという消去主義的実存論者たち(ポール・チャーチランド、パトリシア・チャーチランド、ダニエル・デネットなど)にならんで、完全な還元は困難だがいわばファジーな還元ならば可能であると考える論者も登場している。哲学的ゾンビ説で知られるデイヴィッド・チャーマーズの主要な主張。意識、心の完全な還元(物理的構造への)は不可能だが、意識作用を差異についての情報と解釈することによって、還元によらない実在論的説明は可能である。」    

 心や意識は脳の分子レベルの物質に還元可能であるとする、物理学的実在論。

 しかしこれもまた、あの形而上学的独断論の21世紀的再演と言わねばならない。

 ここでは再び、「本体」としての「実在」が想定されているのだ。

「認知科学や心脳一元論などの現代実在論は、決してこの古典的問題を解決できない。現代の物理学主義的実在論ができるのは、専門的な知識をいっそう膨大に援用して、この問題の本質を一般の人間にとっていっそう深遠な問題に見せかけわけの分からないものにすること、複雑で高度なテクノロジーのおかげでそのうち一切のことがらが物理の秩序に還元され、心を創り出すことができるのかもしれない、という漠然とした表象(イメージ)を人々に与えることだけである。」

 物理学的実在論が問うているのは、心身一元論か二元論かという、あの古典的問題の現代版だ。

 しかしそれは、そもそも問いの立て方を間違えた擬似問題なのだ。

 心の正体としての「物質」などという「本体」に、私たちは決して達することができない。それゆえそのような観念は、早々に解体してしまわねばならない。

 竹田は言う。

「哲学にとって重要なことは、この心身二元論や一元論の難問を新しい装いで延々と反復することではなく、ことがらの本質を解明してこれに終焉をもたらし、哲学と科学が人間と社会の課うるその可能性と限界をはっきりと示すこと、さらに、いかにして哲学が正義と不正義、善や悪といったものの根拠の問いを、普遍的な仕方で探求しうるかの原理を究明することである。」


3.原存在信憑

 何度も述べてきたように、私たちは「本体論」を解体しなければならない。

 しかしそのことは、相対主義がしばしば主張するような「世界は存在しない」を意味しない。

 世界それ自体という観念を解体したとしても、世界がなんらかの仕方で存在しているという私たちの確信までは解体することができないからだ。

 ウィトゲンシュタインは、『哲学探究』において次のような卓抜した比喩を述べている。

《人は皆或る箱を持っている、としよう。その中には、我々が「かぶと虫」と呼ぶ或るものが入っているのである。しかし誰も他人のその箱の中を覗く事は出来ない。そして、皆、自分自身のかぶと虫を見る事によってのみ、かぶと虫の何たるかを知るのだ、と言うのである。——ここに於いて、人は皆夫々の箱の中に異なった物を持っている、という事も可能であろう。否、それどころか、箱の中の物は絶え間なく変化している、という事すら想像可能であろう。——さてしかし、このような人々に於ける「かぶと虫」という語が、それでも彼らに於いて、有効に使用されるとすれば、どうであろう?——そうであるとすれば、「かぶと虫」という語のその使用は、或る物の名前としての使用ではない。箱の中の物は、そもそも——或るものとしてすら——その言語ゲームには属さないのである……何故なら、その箱は空っぽですらあり得るのであるから》    
 
 誰もお互いの箱の中のカブトムシを見たことがないが、しかし(言語ゲームを通して、)その存在を確信している。

 これを受けて竹田は次のように言う。

「この寓喩は、ウィトゲンシュタインのすぐれた哲学的直観をよく示している。われわれはまさしく、一人一人が、自分だけが見る「世界」というカブトムシを心のうちにもっている。自分のムシを誰にも見せることはできず、また、誰も他人のカブトムシを目撃できない。しかし人間は、各自がそのカブトムシのありようを「言語ゲーム」によって交換しあうことができる。このことによって、人間だけが「世界の現実性」と「世界の客観性」についての集合的信憑を創り出す。しかしまた、同じ理由で世界の「本体」の観念、価値や意味の「本体」の観念をも創り出す。このことは人間にとって不可避なことである。」

「われわれはこの事態を、このようにして生み出された「世界の本体」の観念を、世界はたしかに存在するという不可避の観念を、「原存在信憑」と呼ぶ。」    

 誰も「世界の本体」など見たことがないし、それを共有しているなどと言うこともできない。

 しかしそれでもなお、私たちは世界の存在を確信している。これを「原存在信憑」と竹田は呼ぶ。

 私たちが問うべきは、「本体」とは何かではなく、この原存在信憑はいかに成立し共有されうるのかという問いのほかにない。

 世界の客観性や普遍性について考える際、「本体」の観念などまったく必要ではないのだ。

 竹田は言う。

「こうして「存在問題」は終焉する。存在問題の終焉とともに、それに終焉をもたらしたものと同一の思考の原理によって、現代の「認識の謎」と「言語の謎」もまた解明される。」    

 「本体」が解体された今、その真の存在とは何かとか、認識がそれに到達することは可能かとか、それを言語で表現することは可能かとかいったすべての問題は無意味なものとなる。

 問うべきは、徹頭徹尾、欲望相関的に分節された世界の普遍性(共通了解可能性)にほかならないのだ。


4.「意味」と「価値」の本質論

 それゆえ、「意味」と「価値」の本質は次のように言うことができる。


「「意味」は、つねに根源的に実存主体にとっての相関者である。」

「対象の「何であるか」を知るとは、その対象が主体にとって肯定的か否定的か、どのような目的性を構成するものか、この目的のために何が必要か、そのために何が企投されるべきでありその優先性や順序性が何であるか、という秩序の総体を把握することにほかならない。「対象ノエマ」の本質は、第一義的に対象を身体–欲望相関性において把握し了解することにある。何かに「意味」があるとは、そこに、目的相関的秩序の総体的な予期的了解が見出されることにほかならない。」

 「意味」や「価値」の本体などはない。それは欲望相関的な秩序にほかならない。

「「価値」は質的強度の秩序であり、「意味」は目的にいたる優先性や順序性の秩序である。主体における「われ欲す」が発動してはじめて、世界は当の対象をめぐる意味と価値の秩序となる。」    


 私たちは、欲望や衝動の衝迫によって世界に秩序を生成する。


 その優先性や順序性の秩序が「意味」であり、その強度が「価値」となるのだ。