竹田青嗣『欲望論 第1巻:「意味」の原理論』(その4)





1.新カント派

 ここで再び時代を巻き戻し、ドイツ観念論の後の、19世紀末から20世紀初頭にかけての新カント派の価値論についても見てみよう。

 竹田は次のように言う。 

「総じて新カント派では、価値の問題にかかわる諸観念を哲学的に追求するための、方法上の原理が見出されることはなかった。ここでは、汎神論的絶対者の媒介によって認識と美を統合するというドイツ観念論の道は廃棄されたが、その代わりに、価値の超越性、本体性の観念の理念化や、また愛の観念の聖化という道が目ざされた。」

  ヨーロッパを席巻していた科学主義に対抗して、新カント派の哲学者たちは人間的意味や価値の哲学を再興しようと考えた。

  しかし彼らの方法は、結局のところ、ある何らかの超越的価値を独断的に措定するものでしかなかった。

  たとえばヴィンデルバントは、「価値それ自体」という価値の「本体論」を探究した。

「ヴィンデルバントは、要請としての神というカントのアイデアを受けて、要請としての「価値自体」という考えを提示する。それは一方で、汎神論へと先祖返りしたドイツ観念論の「絶対者」の形而上学を相対化するという批判的狙いをもったが、もう一方で、「価値」の本体的観念を温存しようとする試みでもあった。」

  現象学の影響を受けたシェーラーは、しかし現象学的還元の意義をまったく受け取らず、ばかりかきわめて恣意的な仕方で「還元」を用いて超越的な価値論を展開した。

 「シェーラーで用いられる「還元」の概念は、客観世界の想定の現象学的意識への還元を意味せず、単に、世俗的世界に対する対抗としての遮断と否定を意味する。現実性の基盤としての生活世界、世俗世界、自然世界に対する強い嫌厭と否認は、その背後に秘匿されているはずの「超越的な本質世界」の予見を導く。」

  新カント派について、竹田は次のように結論づける。

 「一九世紀における「価値」哲学の考察は、ほとんどの場合(シェーラーが象徴するように)、日常のさまざまな効用的価値から、社会的な現実価値(経済的・権力的価値)へ、そして審美的価値、道徳的(倫理的)価値、さらに、聖なる価値へと上向してゆく、という定型をとる。」

 しかしそれは、結局のところ恣意的な価値の「本体論」と言うしかないものだったのだ。


2.現代の言語哲学

 次に現代の言語哲学について。

 竹田はまず次のような挑発的なことを述べる。

「「言語論的転回」というかけ声とともに、伝統的な認識の構図と諸概念は完全に顛倒されるというマニフェストが発せられた。しかしこれ以上馬鹿げた錯覚はありえない。むしろそこに現われたのは、正確に、「独対論」対「相対主義的懐疑論」という古典的対立の二〇世紀的変奏、すなわち、厳密論理主義対相対主義的論理主義批判、という古典的な認識論的対立の反復だからである。」

  20世紀「言語論的転回」の名のもとに、言語哲学が隆盛を極めた。

  人間の認識は言語によって織りなされているのだから、従来の哲学のように主観はいかに客観に的中することができるかという問題構図は、むしろ言語分析へと転回されなければならないとされたのだ。

  しかし竹田によれば、これは何ら新しい問題設定ではない。

 「対象−認識あるいは客観−主観。この構図に「言語」という項目を挿入すると「対象−言語−認識」あるいは「客観−言語−主観」となる。さらにそれは「対象−認識主体−言語主体−言語−受語主体」といった構図へと展開される。古典的認識論の困難が主観と客観、対象と認識の「一致」の不可能性という点に焦点化されていたとすると、現代言語哲学ではその焦点は、言語主体−言語−受語主体における「意味」の一致(=同一性)の不可能性の問いとして現われるのである。

 しかし、われわれがここにゴルギアス・テーゼを置き入れるなら、問題の核心はまったく不変であることがただちに理解されるであろう。」

  20世紀の言語哲学、すなわち論理実証主義分析哲学も、結局のところあのゴルギアス・テーゼの現代版にすぎないのだ。

 その問題の核心は次のように言い表すことができる。

「一方には、「厳密規定」の可能性を論証しようとする議論(前期ウィトゲンシュタイン、カルナップなど)があり、他方にこれを帰謬論によって否認しようとする議論(後期ウィトゲンシュタイン、クワインなど)があり、そしてその中間的調停派(ストローソン、クリプキ、オースティン)などのいわば折衷的議論がある。すなわち、ここで議論は世界と価値の本体論の代わりに「意味の本体論」をめぐるが、この本体を解体する原理はどこにも見出すことができない。」

「論理学はいわば意味の数学化であって、記号と意味の連結を厳密に規定することで記号=意味の同一性を実現し、そのことで記号(言語)につきまとう多義性を排除しようと試みる。しかし、ここでは、言語記号の本質はまさしくそれが意味の多義性を含むという点にある、ということが理解されていない。言語記号は多義的な意味を孕みうることでまさしく言語としての本質を保つが、論理学は言語が多義的意味を含むその構造的本質を解明するのではなく、それを単数的意味へと規範化する試みにほかならない。
 しかし論理学はむしろこのことによって、必然的に「意味の謎」にぶつかる。」

 論理実証主義は、言語を厳密に使用することで世界の正しい認識をもくろんだが、その後の言語哲学は、
後期ウィトゲンシュタインの影響のもと、そのようなことは不可能であるという主張を繰り広げた。

 たしかに、『哲学探究』における後期ウィトゲンシュタインの功績には動かしたがたいものがある(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』のページ参照)。

 その要諦は次のように言える。

(1)語の意味を、厳密に規定することはできない。それは必ず多義性をもつ。

(2)語が意味を一定の規定において表示するためには、暗に表示の規則が存在するのでなければならない。

(3)しかし、個々の語の意味規定の規則も、語の配列的意味の規則も、これを厳密には規定できず、また事前にこれを規定することもできない。言語がそのつど必要とする言語規則(意味規定のルール)は、いま行なわれている言語、ゲームがどのような言語ゲームかという了解によってのみ規定される。しかしそれがどのような言語、ゲームであるかは、ただそこで用いられている言語のルール(用法)によってしか決定されない。

  ウィトゲンシュタインのすぐれた点は、それゆえ言語哲学は相対主義に陥るほかないと主張するのではなく、言語の多義性にもかかわらず、なぜ、そしてどのような仕方で言語ゲームが成立しうるのかを、さまざまなパラドクスを解明することで解き明かす必要があると言ったところにこそある。

「注意すべきはウィトゲンシュタインの問い方であって、彼はこれらの例を、解決不可能なパラドクスとして、すなわち相対主義の立場から厳密認識論の不可能性の論証として示してはいない。彼はこのパラドクスは相対主義の主張の正しさを示すのではなく、むしろこのパラドクスを解明するなしには意味の本質に届くことはできない、という仕方で問題を提示している。」

 しかしウィトゲンシュタイン以降の言語哲学は、その後、言語の意味は厳密に規定することができないということばかりを延々と繰り返すことになる。

  しかしこの主張は、相も変わらず、あの第3のゴルギアス・テーゼに正確に対応する。

  すなわち、「存在は決して言語化されない」

  しかしこれもまた、結局のところ存在やその意味の「本体」が仮定されているがゆえに起こる疑似問題である。

  「本体論」を解体すれば、その瞬間この問題もまた消失してしまう。

  20世紀言語哲学における「言語論的転回」の錯覚を、竹田は次のように総括する。

「第一の錯覚は、論理学によって認識の超越論的構成の問題に新しい照明を当てうるという錯覚。
 第二に、厳密論理主義によって厳密認識の新しい可能性を見出せるという錯覚。
 第三に、論理相対主義によって厳密論理学主義を批判すればこの問題は解明される、とする錯覚。」

 そして言う。

 「現代言語論における「意味の同一性規定」というテーゼ自体を、認識論的に顛倒しなければならない。言語記号は本質的に多義的である。にもかかわらず、言語はある仕方でそのつど意味を一義的に規定する。その構造的本質を現象学的−欲望論的に把握しなければならない。」

  言語には多義性があるがゆえに、「意味の同一性」(意味の本体)などには到達しえない。それは言うまでもないことだ。

  しかしその上でなお、われわれはコミュニケーションにおいて言語の一義性を共同確信することがある。

  それはいったいなぜなのか。そしてどのようにしてなのか。

  その本質構造は、意味の「本体論」を解体した末の、「現象学‐欲望論」によってのみ解明することができる。

  のちにわれわれは、竹田による言語本質論を見るだろう。


3.脱構築

  しかしその前に、現代のもう一つの相対主義の代表選手、デリダ脱構築について。

  知られているように、『声と現象』において、デリダはフッサールを批判して、絶対的な「今」「ここ」などないということを主張した(デリダ『声と現象』のページ参照)。

 あるのはただ「差異の運動」だけである。

 「絶対的な「今」の観念を、時間性を詳細に分析するなら「今」はそれ自体としては存在しない、というパラドクスに追い込むことに尽きる。絶対的な「今」は存在せず、「今」と呼ばれるものはじつのところ「過去」「今」「未来」といった契機の「差異の運動」でしかないことが示され、この絶対的な「差異の運動」が記号論的には「原(アルシ)=エクリチュール」と呼ばれる。」

  デリダのフッサール解釈はひどい誤解に基づくものだが、ここではそれについては割愛する(上述の『声と現象』のページを参照)。

  ここで理解しておくべきは、デリダの論理は、相も変わらず帰謬論を駆使した単なる相対化にすぎないということだ。

  要するに、彼は「同一性」としての「本体」など不可能であるということを、さまざまな論理的パラドクスを駆使して帰謬論的に主張したにすぎないのだ。

  しかしここには、自ら設定した「差異の運動」とか「原=エクリチュール」とかいったものも、論理的には相対化しつづけなければならなくなるというパラドクスが生じることになる。

  それゆえ彼は、「差異」もまた絶対の根源ではないといったことを、ただ延々と繰り返すほかなくなってしまうのだ。

「相対主義はそれが自己自身の論拠をおいつめると、“どんな主張も妥当性をもたない”へと転化し、結局、自己の主張を「相対的な正しさ」に留めるほかないからである。デリダは、「今」(同一性)を先構成するものとして「差異」(原=(アルシ)エクリチュール)を置くが、そのことでこの「純粋な差異」の概念が新しい“根源性”(根拠性)を帯びることになり、今度はこの「差異」の根源性の性格を打ち消すために、さまざまな論理的努力が要請されることになる。」


4.ドゥルーズの「差異」

  同じことはドゥルーズにも言えるが、彼の場合は、むしろ相対主義というよりはその反対に「現代の形而上学」と言ったほうがふさわしい(ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』のページ等参照)。


「世界の一切は「差異」である。一切は「差異の反復」である。この「差異」は、痕跡としての、再表象としての差異ではなく、それ自身差異化する運動としての、いわば「力」(強度)としての差異化の運動である。二〇世紀の新しい寓喩−説話的世界哲学は、こうしてまず独自の仕方で世界の「根本原理」と「究極原因」(動因)を設定する。」

  「世界は本当はこうなっている」。こう主張するのが、形而上学的独断論だった。

  ドゥルーズは、まさに独断的に、世界は「差異の反復」であるという形而上学的イメージを述べ立てるのだ。

 その際、彼は己の言葉をとことん難解化、韜晦化、謎言化することに力を注ぐ。

  竹田はまたも挑発的に次のように言う。

 「哲学の理説が普遍性の根拠についての本質理論をもたないとき、その正当性を主張するために用いられる基本的な戦略は以下である。すなわち難解化、煩瑣化、膨大化、曖昧化、韜晦化、秘教化、謎言化、神秘化、そして聖化。」

「ある意味できわめて独創的な装いをもった預言者哲学が登場するや、もはや理論の普遍性や正当性を問題とする動機をもたない知的伝播者たちが、その周りに蝟集して、この謎言化話法を反復しはじめる。」

 その難解で謎めいた哲学は、まさにそれゆえにこそ、人びとに「ここには何かすごいものがあるに違いない」と思わせ、それを解読することに精を出させてしまうのだ。

  竹田の挑発は続く。

 「そこに現われるのは、伝統的「本体」に対置されたもう一つの「本体」観念にすぎない。そう見えないとすれば、ここでは、きわめて高度な難解化、晦渋化、韜晦化の謎言話法が、すなわち思考の工程に暗号をかけて解読不可能にする技法が功を奏しているからである。現代の多くの思想伝播者たちは、秘教化された預言者的哲学を歓迎する。その暗号を解読するために多くの時間を用いること自体が、一つの知的特権を形づくるからである。」

  あらゆるタイプの難解化、韜晦化、謎言化は、仏教哲学の時代から形而上学的独断論の常套手段だ。

 この極めて難解な哲学は、その絢爛な難解さそれ自体のゆえに、これを「解読」したいとする知的追随者たちを生む。

 しかしだまされてはならない。この難解な寓喩‐説話的世界理説は、とどのつまりが検証不可能な独断論にすぎないのだ。

 ドゥルーズの動機は、デリダと同じく一切の「同一性」にノーをつきつけることにある。

 この「同一性」こそ、ある種の全体主義的暴力をもたらす思想であるからだ。

 それゆえ彼の哲学は、この全体主義的「同一性」の世界に対する「革命の要請」の哲学へと最終的に変貌することになる。

 「世界は、「反復としての差異」として存在すべきであったが、いたるところ「表象=再現前化」する反動力、秩序と制度を捏造する否定的力によって、その本来あるべき姿を歪曲され、抑圧されている。この表象において、ドゥルーズの反復としての「差異」の哲学は、矛盾に充ちた世界における彼岸的な救済者としての寓意力をうる。カントの形而上学の不可能性の哲学が、『実践理性批判』において「神の要請」の哲学になったように、世界の根源理説としての「差異」の哲学は、決定的な場面で「革命の要請」の哲学へと変貌する。」

  現世否定と革命の要請という根本動機から作り出された、形而上学的な寓喩‐説話的世界理説。これこそドゥルーズ哲学の正体にほかならないのだ。



(苫野一徳)

Copyright(C) 2017 TOMANO Ittoku  All rights reserved.