シュッツ『生活世界の構造』


はじめに

 現象学的社会学の創始者として知られるシュッツ(1899-1959)。

 フッサールが創始した現象学を、社会学に応用した。

 本書は、シュッツの未完の集大成を、高弟トーマス・ルックマンが編んだもの。日常生活世界についての、分厚い現象学的記述が続く。

 しかし、本書で明らかにされていることのほとんどは、私には改めて叙述するまでもない自明のことであるように思われる。これほど細かな記述をすることに、一体どれほどの意味があるのだろうか。

 本家フッサールの「知覚」の本質分析、その弟子ハイデガーの「実存」の本質分析、メルロー=ポンティの「身体」の本質分析など、名だたる現象学者の現象学的本質分析に比べて、シュッツのそれは、ただ細かいだけで、一部の例外を除いて深い洞察がほとんど見られない(フッサール『イデーン』、ハイデガー『存在と時間』、メルロー=ポンティ『知覚の現象学』のページ等参照)。

 ともあれ、以下シュッツの「日常生活世界」分析を追っていくことにしよう。


1.生活世界とは何か

 まず、シュッツは生活世界を次のように定義する。

「日常生活世界とは、常識的態度のうちにいる十分に目覚めた通常の成人が、端的な所与として見出す現実領域のことであると理解されるべきであろう。」    

「生活世界は、何よりも実践の領域であり、行為の領域なのである。それゆえ行為と選択の問題は、生活世界の分析において中心的な位置を占める。」

 こうしてシュッツは、生活世界における私たちの「行為」と「選択」にフォーカスしてその本質構造を明らかにする。


2.生活世界の成層化

 現象学的な考えに従えば、私たちは客観世界それ自体を前提してはならない(フッサール『イデーン』のページ参照)。

 それゆえ、ここで言われる生活世界は、私たちの主観的経験に現れる意味的世界のこととなる。

「何よりも重要なのは、様ざまな現実秩序を成しているのは客体の存在論的な構造ではなく、われわれの経験のもつ意味だということを重視することである。」    

 私たちは、日常生活において様々な意味領域を絶えず行ったり来たりしている。

「ある意味領域から別の意味領域への移行は、唯一、「飛躍」(キルケゴールの意味での)をとおしてのみ成し遂げられるのである。ここで「飛躍」とは、ある体験の様式を別の体験の様式に取り替えることにはかならない。」    

 それはえたとば、「仕事にとりかからねばならない」という動機によってだったり、「科学的観照をしている際の突然の空腹」によってだったりする。

 また私たちは、時に空想の世界や夢の世界とも行き来する。


3.世界時間

 さて、私たちは、このように極めて主観的な経験の意味世界を生きているのだが、また同時に、客観的な時間の中を生きているとも確信している。

 この時間を、シュッツは「世界時間」と呼ぶ。

 たとえば私たちは、眠りによって意識が中断するものの、目覚めたときにはまだその世界時間が続いていることを確信している。


 さらに言えば、自分が生まれる前、あるいは死んだ後にも、世界は続いていることを確信している。

 この、自身の時間の有限性を根拠に、私たちは1日、あるいは人生のプランを計画するのだ。


4.主観的時間

 その一方で、私たちは自身の主観的時間をも生きている。

 そして私たちは、この主観的時間における経験の意味を、絶えず反省を通して理解している。

「デューイの言葉は、経験の意味構成の時間構造を明確にするうえでなお有益であろう。ある経験の意味は、経験「それ自体」に備わっているわけではなく、むしろ反省的な対向によって付与されるのである。」

 この反省的理解には、2種類の仕方があるとシュッツは言う。

 複定立的な把握と、単定立的な把握である。

「過ぎ去った経験の意味を「把握」するには二種類の仕方がある。すべての経験は、もともと内的持続のうちで一歩一歩——フッサールがこの過程をそう名づけたように複定立的に——形成される。私は、実際の意識におけるこの複定立的な形成過程を、反省的対向によって追遂行することができる。」

「だが、〔中略〕、複定立的に形成されてきた経験の意味を一瞥のもとに——フッサールがそう名づけたように単定立的に——捕捉することができるのである。」   

 要するに、一歩一歩順を追って把握することもあれば、それを一瞥のもとに把握することもあるのだ。


5.他者

 自然的態度において、私たちは、私たちと同じような「他者」が存在していると確信している。また、その他者と私たちが同じ世界を共有していると確信している。

 では、その他者を私たちはどのように経験しているのだろうか?

 シュッツは、他者関係には「汝指向」「われわれ関係」と、「彼ら指向」「彼ら関係」があると言う。

 ブーバーの言う、「我と汝」の関係と「我とそれ」の関係に若干近い。もちろん、ここにおけるシュッツの理論には、ブーバー理論のような倫理的含みは一切ないが(ブーバー『我と汝』のページ参照)。

「われわれが汝指向という表現によって指示するこの対向は、他者が「人格」として経験される一般的な形式なのである。これ以降、汝指向において現出してくる他者のことを共在者と呼ぼう。」    

「彼ら指向の準拠点は、類型的な同時代者の意識過程に関する類型であり、具体的かつ直接的に経験される他我の現存在でもなければ、一歩一歩形成される主観的意味連関を伴った他我の意識生でもない。彼ら指向の準拠点は、社会的世界一般についての私の知識から派生してくるのである。したがってそれは必然的に、ある客観的な意味連関のなかに位置している。」    

 「われわれ関係」が人格同士の関係であるのに対して、「彼ら関係」は、客観的な意味連関における関係(あの人は教師である、警察である、子どもである・・・など)である。


6.生活世界についての知識

 続いてシュッツは、私たちがどのように生活世界についての知識を得ていくかを明らかにする。

 私たちは、様々な類型を元に世界を見ている。そしてその類型をはじめにもたらすのは、まずやはり両親である。

「客観的な社会的現実との最初の出遭いにとって決定的な共在者は、もちろん年長者であり、そしてなかでもとりわけ、また類型的にいっても、社会的に定義された両親である」    

 私たちが知識集積をしていくにあたっての第一の基本要素は、世界時間と身体であるとシュッツは言う。

「状況は、内的持続がそれを超越する世界時間のなかに埋め込まれることによって、また身体が、体験する主観に賦課された生活世界の構造のうちに組み込まれることによって、変わることなく「境界づけられる」ことになる。」    

 私たちの知識は、世界時間と自らの身体という条件に規定されているのだ(たとえば、もし仮に30次元の世界があったとしても、私たちは身体能力的にそれを認識することができない)。

 このように、私たちの知識はいわば客観的に制限されているものの、同時に私たちは、様々な知識を主観的条件において獲得していく。

 例えば、ルーティン化した経験を通して、私たちは様々な知識を自明のものとして獲得していく。

 ところが、このルーティンを破る「問題的状況」が生じたとき、私たちは新たな知識を獲得しようとするのだ。


7.親近性、規定性、信憑性

 先述したように、私たちは、知識を様々な類型に応じて獲得する。それゆえ「親近性」とは、自らの経験がその類型に当てはまることを言う。

 たとえば、「犬」という類型を私は持っているが、この類型にあった動物を私が見たとき、私はその動物に親近性を覚える。

 この「類型」は、私にとって「規定」されたものだ。したがって「規定性」と「親近性」には密接な関係があるとシュッツは言う。

 しかし、私たちの生活経験を記述する上で最も重要なのは、「規定性」や「親近性」よりも「信憑性」である。私たちは自らの生活経験を、絶えず何らかの「信憑性」に基づいて送っているからだ。

「知識要素の信憑性が、ある意味ではもっとも重要な次元である。他の諸次元にくらべて信憑性は、生活世界における行為とはるかに直接的に絡み合っている。信憑性は、行為企図の実行可能性に関する比較衡量を規定するからである。」    

言語は、きわめて高い信憑性(「私は間違いなくそれを知っている」)から、様ざまな中間段階(「非常に蓋然的に」「おそらくは」「もし私に間違いがなければ」)を経て、ごくわずかない信憑性(「私にはそう思える」「そうかもしれないが、あるいはまたそれは」……など)にいたるまで、この次元の段階を特徴づける多くの言い回しを提供している。」



8.レリヴァンス

 「レリヴァンス」は、シュッツ理論の重要概念の1つである。

 もっとも、シュッツ自身はこの言葉を十分に定義づけていないため、その本質を理解するのはやや困難だ。

 ここでは、さしあたり様々な「相関性・関係性」と考えておけばよいだろう。
 
 私たちは、様々なものに対して様々な形の相関性を見てとっている。

 シュッツは、この相関性には大きく主題的レリヴァンス、解釈的レリヴァンス、動機的レリヴァンスという区分を設けることができると言い、前の2つには「賦課されたレリヴァンス」「動機づけられたレリヴァンス」があると言う。

 何かを主題的に見ている時や解釈しようとしている時、私たちは、そのレリヴァンスが向こうからやってくる(賦課される)場合もあれば、能動的に見出す場合もあるというわけだ。

 賦課されるレリヴァンスは、たとえば、親近性のあったものが親近性を失った時に見出されるものだ。

 たとえば、家に帰った時、部屋の隅に見慣れないロープの束があったとする。その時、私たちは思わずそれに関心を惹かれる。

 動機づけられたレリヴァンスは、賦課されたレリヴァンスとは対照的に、主観的な動機を理由にレリヴァンスを発見することだ。

 さらにシュッツは、仮定的レリヴァンスというものも提示する。


「私が部屋で一緒に座って手紙を書いていると、突然、通りから大きな爆発音が聞こえてきた。その爆発音は私の注意を強引に惹きつける。私は手紙を書くのを中断する。〔中略〕それはどうも銃声か自動車のバックファイアであるようだと思いつく。もしそれが銃声だったら、私は何らかの対応措置を講じるよう動機づけられる。窓に近づき何も異常がないことがわかると、銃声という可能性をありそうもないこととして取り消す。」

Xが生じているのかどうか、主観的な確信をもって言うことができないのがいまの状態である。私はただ、その出来事は類型Xからのものであるかもしれないという知識をもっているにすぎない。精確に言えば、その出来事によってある「仮定的レリヴァンス」が私に「賦課」されたのである。」

 主題的レリヴァンス、解釈的レリヴァンス、動機的レリヴァンスのそれぞれは、互いに絡み合っている。

「経過のなかでは、これら三つのレリヴァンス構造のいずれかが「最初に」実効的に作動すると述べることは意味のないことであろう。ただ反省的に捕捉する場合に限って、いずれかのレリヴァンスが「最初に」現われ出てくることはあるだろう。」    


9.知識と社会

 以上のように、私たちは様々な仕方で知識を獲得するが、この個人的知識と社会的知識はどのような関係にあるのだろうか?

 社会的な知識は、決して主観的な知識の総和ではないとシュッツは主張する。

 それはむしろ、主観的な知識の「客体化」である。

 そのもっとも原初的なプロセスは、次のようである。


Aが鍋の水は熱いのか冷たいのかを知りたい場合、Aはここでもまた「自立した」一連の段階を試みるなかで、二つの可能性のどちらなのか決断を下すことができる。ところが、Bが鍋に指を入れ、すぐさま苦痛に顔をゆがめて指を引き抜くのを目にしたとしたら、ABの行動とその表情との結びつきを、Bが鍋の水を熱いとみなしたことの指標として解釈するだろう。」

Aは問題をめぐる巡回査察のある段階をBから「引き継いだ」、だがAはその「試みずに済ませた」諸段階を、多かれ少なかれ明確な類推の帰結を用いて自らの手で解釈しなければならない、ということである。この段階の「客体化」においてすでに、きわめて限定されてはいるが「知識の社会的な派生」が事実として関係してきている。」

 上の例では、AとBは互いを見知った間柄だ。

 しかし知識が社会化するとは、それが匿名化していくことである。

「主観的知識は記号体系という「理念化され」「匿名的な」意義母型へと移し替えられ、また、対応する意味へと移し戻されることによって、ふたたび主観的な知識へと変換される。」    

 さらに、この客体化に「世代を超えた伝達」が加わって、知識は社会化されたと言いうることになる。

 またその際、1.社会構造が長らく保持され、2.社会的知識がその社会にとってレリヴァントであり続けていることが、知識の社会化の条件となる。

 ただし例外として、宗教的知識などを挙げることができるとシュッツは言う。

「これまで述べてきたことが当てはまるのは、とりわけ日常生活の問題を克服するための明白でプラグマティックな技術に対してなのである。問題になっている知識が、たとえば宗教的知識のような非日常的な現実領域に関する知識に近ければ近いほど、形式は変化して場合によっては神話的な形式をとることがあるにしても、その知識が保持される蓋然性はますます高くなる。」    

 この、本書最後に書かれた「知識と社会」の章には、なるほどと唸らせてくれる知見がいくらかある。

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(苫野一徳)

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