九鬼周造『「いき」の構造』


はじめに

 ハイデガーの弟子としても知られる、九鬼周造(1888-1941)。

 本書では、日本人独特の感性とされる「いき」の本質解明が試みられている。

 さすがは、本質観取の名手ハイデガーに認められた哲学者と言うべきだろう。本書で繰り広げられる現象学的本質観取には、本家ハイデガーを思わせるほどの洞察がある(ハイデガー『存在と時間』のページ等を参照)。

 「いき」とは一体何なのか?

 本書を読めば、その本質に迫ることができる。


1.「いき」の本質契機

 まず、九鬼は「いき」の本質契機を3点明らかにする。

 1つは「媚態」

「媚態とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。そうして「いき」のうちに見られる「なまめかしさ」「つやっぽさ」「色気」などは、すべてこの二元的可能性を基礎とする緊張にほかならない。〔中略〕異性が完全なる合同を遂げて緊張性を失う場合には娼態はおのずから消滅する。」    

「二元的関係を持続せしむること、すなわち可能性を可能性として擁護することは、媚態の本領であり、したがって「歓楽」の要諦である。」    

 ここで言われる「二元性」とは、ありていに言えば、「手に入りそうで入らない」距離感のことと言っていい。

「媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである。」   

 2つ目の本質契機は「意気地(いきじ)」にあると九鬼は言う。


「「いき」の第二の徴表は「意気」すなわち「意気地」である。意識現象としての存在様態である「いき」のうちには、江戸文化の道徳的理想が鮮やかに反映されている。〔中略〕「いき」には、「江戸の意気張り」「辰巳の侠骨」がなければならない。」

 そして3つ目の本質契機は「諦め」にある。

「「いき」の第三の徴表は「諦め」である。運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心である。「いき」は垢抜がしていなくてはならぬ。あっさり、すっきり、瀟洒たる心持でなくてはならぬ。」    

 要するに、媚態を土台にしながらも、それが単なる媚態ではなく、そこはかとない諦念が漂い、かつ張りのあるところに、私たちは「いき」を感じると九鬼は言うのだ。


「「いき」を定義して「垢抜して(諦)、張のある(意気地)、色っぽさ(媚態)ということができないであろうか。」

 ここに九鬼は、武士道仏教との融合の姿を見る。「いき」が日本人特有の感性とされる所以である。

「要するに、「いき」という存在様態において、「媚態」は、武士道の理想主義に基づく「意気地」と、仏教の非現実性を背景とする「諦め」とによって、存在完成にまで限定されるのである。」   


2.「いき」の自然的表現

 以上、意識現象としての「いき」の本質を明るみに出した九鬼は、続いてその客観的表現(仕草や芸術表現)の考察に進む。

 彼によれば、「いき」な仕草や表情には次のようなものがある。


姿勢を軽く崩す
薄物を羽織る
湯上り姿
細っそり
細面
流し目
弛緩と緊張の口
薄化粧
襟足
素足

 これらはいずれも、先に挙げた二元性を表現したものである。

 こうした「いき」な仕草への感性が日本独特のものであることを、九鬼は次のような例を挙げて説明している。


「歌麿も『婦女相学十躰』の一つとして浴後の女を描くことを忘れなかった。しかるに西洋の絵画では、湯に入っている女の裸体姿は往々あるにかかわらず、湯上り姿はほとんど見出すことができない。」


「いき」なものとして抜き衣紋が江戸時代から屋敷方以外で一般に流行した。襟足を見せるところに媚態がある。〔中略〕西洋のデコルテのように、肩から胸部と背部との一帯を露出する野暮に陥らないところは、抜き衣紋の「いき」としての味があるのである。」


3.「いき」の芸術的表現

 続いて、「いき」な芸術とはどのようなものだろうか?

 まず九鬼は、芸術を主観的芸術客観的芸術とに分け、「いき」が存分に表現されるのは主観的芸術においてであると言う。

 客観的芸術とは、絵画、彫刻、文学などのこと。対する主観的芸術は、模様、建築、音楽のことである。

「芸術が客観的であるというのは、芸術の内容が具体的表象そのものに規定される場合である。主観的であるとは、具体的表象に規定されず、芸術の形成原理が自由に抽象的に作動する場合である。絵画、彫刻、詩は前者に属し、模様、建築、音楽は後者に属する。前者は模倣芸術と呼ばれ、後者は自由芸術と呼ばれることもある。」    

 なぜ客観的芸術より主観的芸術の方が「いき」を表現しやすいのか?

 九鬼によれば、それは客観的芸術が「いき」なものをそのままに描き出してしまいやすいからである。


「(客観的芸術は、)既に内容として具体的な「いき」を取扱っているから、「いき」を芸術形式として客観化することにはさほどの関心と要求とを感じないのである。」

「それに反して、主観的芸術は具体的な「いき」を内容として取扱う可能性を多くもたないために、抽象的な形式そのものに表現の全責任を託し、その結果、「いき」の芸術形式はかえって鮮やかな形をもって表われてくるのである。」

 それゆえ九鬼は、以下、模様や建築、音楽について考察する。

 まず模様について。

 「いき」は二元性を備えている必要があるが、平行線ほど二元性をよく表しているものはないと九鬼は言う。


「永遠に動きつつ、永遠に交わらざる平行線は、二元性の最も純粋なる視覚的客観化である。模様として縞が「いき」と看做すされるのは決して偶然ではない。」

 さらに、「横縞」よりも「縦縞」の方が「いき」である。

「その理由の一つとしては、横縞よりも縦縞の方が平行線を平行線として容易に知覚させるということがあるであろう。両眼の位置は左右に、水平に並んでいるから、やはり左右に、水平に平行関係の基礎の存するもの、すなわち左右に並んで垂直に走る縦縞の方が容易に平行線として知覚される。」   

「なおまた、他の理由としては、重力の関係もあるに相違ない。横縞には重力に抗して静止する地層の重味がある。縦縞には重力とともに落下する小雨や「柳条」の軽味がある。」    

 色について言えば、青系統が「いき」である。

「「いき」な色とはいわば華やかな体験に伴う消極的残像である。「いき」は過去を擁して未来に生きている。〔中略〕また、「いき」は色気のうちに色盲の灰色を蔵している。色に染みつつ色に泥まないのが「いき」である。「いき」は色っぽい肯定のうちに黒ずんだ否定を匿している。」    

 建築について言えば、「いき」な建築は茶屋にあると九鬼は言う。

「茶屋の座敷としては「四畳半」が典型的と考えられ、この典型からあまり遠ざからないことが要求される。また、外形が内部空間の形成原理に間接に規定さるる限り、茶屋の外形全体は一定度の大きさを越えてはならない。」    

 さらに、二元性の表現としては、木材と竹材との控えめな二元性が「いき」を表している。

 建物の明るさにおいては、「行灯」が「いき」である。

 次に音楽について、九鬼は次のように言う。

「旋律上の「いき」は、音階の理想体の一元的平衡を打破して、変位の形で二元性を措定することに存する。二元性の措定によって緊張が生じ、そうしてその緊張が「いき」の質料因たる「色っぽさ」の表現となるのである。また、変位の程度が大に過ぎず四分の三全音くらいで自己に拘束を与えるところに「いき」の形相因が客観化されているのである。」   


4.概念の本質分析に「学」の本義がある

 本書の「結論」において、九鬼は次のように述べる。


「「趣味」はまず体験として「味わう」ことに始まる。」


「「いき」は個々の概念契機に分析することはできるが、逆に、分析された個々の概念契機をもって「いき」の存在を構成することはできない。「媚態」といい、「意気地」といい、「諦め」といい、これらの概念は「いき」の部分ではなくて契機に過ぎない。それ故に概念的契機の集合としての「いき」と、意味体験としての「いき」との間には、越えることのできない間隙がある。」

 しかしその上で九鬼は言う。

「意味体験を概念的自覚に導くところに知的存在者の全意義が懸っている。〔中略〕意味体験と概念的認識との間に不可通約的な不尽性の存することを明らかに意識しつつ、しかもなお論理的言表の現勢化を「課題」として「無窮」に追跡するところに、まさに学の意義は存するのである。」

 どれだけある体験の本質を明るみに出したところで、それらの契機を組み合わせればその体験を再現できるというものではない。

 しかしそれでもなお、体験や概念の本質を明らかにすることにこそ、哲学の本義はあるのだ。


(苫野一徳)


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