エピクテートス『人生談義』


はじめに

 古代ローマにおける、元奴隷のストア派哲学者エピクテートス

 エピクテートス自身は書物を残さなかったが、弟子アッリアノスによって彼の語録が残されており、それが編まれて本書ができた。

 しかしほとんどメモのような断片も多く、読みにくといったらない。どこからどこまでがエピクテートスの言葉で、どこが弟子や対話相手の話なのか、判別するのに骨が折れる箇所も数多い。

 が、読み慣れるとかなり面白くもある。相当ユニークな人だったことも伝わってくる。

 「意志の力ではどうしようもないことに頓着するな」

 これが本書のメインメッセージだが、確かにこのことを少し意識しておくだけで、私たちはいくらか生きやすくなるかもしれない。


1.頓着するな

 まず、いかにもエピクテートスらしい対話を紹介しよう。

 いらぬことに腹を立てるなとエピクテートスは言う。


「なぜわれわれは立腹するのか。それはわれわれから奪い去れる事物を、われわれが尊重するからである。だから君の着物は尊重せぬがいい、そうすれば君は泥棒に腹を立てないだろう。妻の美しさを尊重せぬがいい、そうすれば姦夫に腹を立てないだろう。

 これに対する弟子の疑問と、エピクテートスの答えが続く。

「しかし暴君は縛るでしょう。」
「なに? 足をだろう。」
「いやちょん切るでしょう。」

「なに? 首をだろう。すると何を彼は縛りもしなければ、ちょん切りもしないだろうか。それは自由意志をだ。

 何事も、頓着しなければ腹が立つことなどないのだ。


2.権外のことには大胆であれ。権内のことには細心であれ

 では、私たちが頓着すべきでないものとは何なのか?

 エピクテートスは言う。

「意志外のもののある処では、君は大胆であれ、だが意志的なもののある処では、細心であれ」

 意志ではどうしようもないことについて、頓着したところで仕方ない。だから常に大胆であれ。

 しかしその逆に、意志によって変えることができるものについては、細心の注意を払うべきである。

 エピクテートスはそう言うわけだ。

 たとえば「死」は、私たちの意志によってどうすることもできないものだ。

 それに対して「死」の恐れについては、私たちの意志で何とでもできる。

けだし死や苦労が怖いのではなくて、苦労や死を怖がることが怖いのだ。

「それでわれわれは死に対しては、大胆を向けるべきであり、死の恐怖に対しては、細心を向けるべきである。」

 こうしたことをよく理解している人を、エピクテートスは「教養ある人」と呼ぶ。そして言う。

「本当に教養ある人々にとって、最も美しく、最もふさわしくあるべきものは、平静であり、無畏であり、自由である。つまりこれらについては、自由人たちのみが、教養を受けることが許される、と主張している大衆を信ずべきではなく、むしろ教養ある人々のみが、自由である、と主張する哲学者たちの方を信ずべきである。」

 この「意志外」「意志内」を、エピクテートスは「権外」「権内」とも呼ぶ。

「不安がっている人を見ると、私はいうのである、この人は一体何を欲しているのだろうか、もし彼が何か自分の権内にないものを欲していたのでないならば、更にどうして不安になってるのだろうかと。だから竪琴を弾いてうたう人も自分独りでうたうならば、なるほど不安ではないけれども、舞台にあがると、たとい彼は非常に声がよく、そして見事にならしても、不安になるのだ。なぜかというに、彼はただ見事にうたいたいばかりでなく、拍子喝釆もされたいからである、だがこれはもはや彼の権内にはないのだ。」


3.哲学者から聴こうとする者は、それに値する者であれ

 ここで少し挿話を。

 ある時、エピクテートスの元に「もっと話を聞かせてください」と言ってきた者がいた。

 それに対してエピクテートスはこう言った。

「哲学者たちから聴こうとする人は、聴き方について、かなりな熟練が必要だ。」

 そして言う。

「私を君は刺戟しないからだ。というのは、素質のいい馬に騎手たちが刺戟されるように、君の何を見た時、刺戟されるだろうか。君の肉体を見た時か。君の肉体は格好が醜い。君の着物を見た時か。それも余り贅沢だ。君の態度や容貌を見た時か。何もこれという格別のものがない。君が哲学者の話を聴きたいのなら、彼に「あなたは何も云ってくれないのですか」などといわぬがいい。むしろ聴くことができる君自身を示し給え、そうすればいかに君はその話す人を動かすかわかるだろう。」


4.権外のものに対して大胆であるための練習

 さて、先述したように、エピクテートスは「権外(意志外)」のものに対しては頓着せず大胆であれと説く。

 しかしそれは、どのように修行すれば可能になることなのだろう?

 これについて、エピクテートスは次のような練習をせよと言う。

誰某の息子が死んだ。」
「それは意志外のものである、従って悪ではないと答えるがいい。」

「誰某がその父から遺産を相続した。君はどう思うか。」
「それは意志外のものである、従って悪ではない。」

「皇帝が彼に有罪を宣告した。」
「それは意志外のものである、従って悪ではない。」

「彼はそれらを苦に病んでいる。」
「それは意志的なものである、従って悪である。」

彼は立派に辛抱した。」
「それは意志的なものである、従って善である」

「息子が死んだ。何が起ったのか。」
「息子が死んだのだ。」
「その外は何でもないか。」
「何でもない。」

「船がなくなった。何が起ったのか。」
「船がなくなったのだ。」

「彼は牢獄に入れられた。何が起ったのか。」
「彼が牢獄に入れられたのだ。だが「不幸だ」ということは各人が自分で附加するのである。」

 あるいは次のようにも言う。

この勉強を朝から晩までやらなくてはならない。最も些細なもの、最もこわれやすいもの、すなわち壺やコップから始めて、次にこのようにして下着、小犬、小馬、それからちょっとした地所へと進むがいい。ここから君自身、肉体、肉体の部分、子供、妻、兄弟へと進むがいい。到る処よく見まわして、君自身から〔それらのものを〕棄て去るがいい。考えを清めて、何か君のものでないものが、君にくっついていないように、君のものと一緒に大きくならないように、またなくなった時に、君に苦痛とならぬようにするがいい。そして君は毎日、ちょうど学校で練習しているように練習していても、僕は哲学しているなどといわぬがいい、(それは僭越な言葉だ、)むしろ奴隷状態から解放してくれる人(哲学の先生)を求めているのだというがいい。というのはこれこそ本当の自由だからである。」


5.哲学するとは、心構えをしておくこと

 以上のように、エピクテートスによれば何事にも動じない心を身につけることこそ「哲学する」ということの意味である。

だが哲学するということはどういうことなのか。出来事に対して心構えをして置くことではないか。そうすると「もし私が出来事を静かに堪える心構えができてるならば、何でも生起するがいい、」と何かこのようなことを君がいってることになるのが、君はわからないか。

「今熱病にかかる時であるならば、立派にかかるがいい。渇くべき時ならば、立派に渇くがいい、飢えるべき時ならば、立派に飢えるがいい。それは君の権内にあることではないか。誰が君を妨げるだろうか。いや、医者は飲むことを禁止する事たろうが、立派に渇くのを禁止することはできない。また食うのを禁止するだろうが、立派に飢えるのを禁止することはできない。」


(苫野一徳)

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