有島武郎『惜しみなく愛は奪う』


はじめに

 有島武郎43歳の時の作品。

 「惜しみなく愛は与える」と言ったパウロに対して、有島は、愛は惜しみなく奪うものであると主張する(もっとも、パウロのそのような言葉は実際のところ聖書には見当たらないらしい)。

 なぜか。

 自己は、絶えず自己増大をめがける自己愛的存在であるからだ。

 そのために、他者への愛がどれほど利他的な行為に見えても、その本質は、相手を自己の内部に取り込むことにこそあるのだ。

 本書の主張は、ほとんど以上のことに尽きる。

 しかしこれは、私には正直あまりにも青年的な主張であるように思われる。

 実際私も、学生時代、本書にはずいぶんと入れ込んだ時期があった。

 しかし今の私には、有島の主張は、自我が肥大化した思春期の悩める若者の自己問答以上のものには思われない。

 自己犠牲的な愛など本当は存在しないのではないか。私の心は、本当はエゴイズムでいっぱいなのではないか……。そのような、悩める若者の心情吐露を聞いているようだ。

 私の考えでは、愛は、それを愛と呼ぶ以上、単なる自我愛に還元されるものではない。哲学者としては、その本質をこそ、洞察しなければならない。

 と、それはともあれ、以下本書のポイントを紹介していこう。


1. 愛は与えるのではなく奪うもの

 有島はまず次のように言う。

人は愛を考察する場合、他の場合と同じく、愛の外面的表現を観察することから出発して、その本質を見窮めようと試みないだろうか。ポーロはその書翰の中に愛は「惜みなく与え」云々といった、それは愛の外面的表現を遺憾なくいい現わした言葉だ。愛する者とは与える者の事である。彼は自己の所有から与え得る限りを与えんとする。

 愛の現象ではなく本質を見よ。有島はそう言うわけだ。

 ではそれはどうすれば可能なのか。

 体験を深く省察することによってである。


本能を把握するためには、本能をその純粋な形に於て理解するためには、本能的生活中に把握される外に道はない。体験のみがそれを可能にする。」

 そうして彼は次のように結論する。

「私の体験は縦しそれが貧弱なものであろうとも――愛の本質を、与える本能として感ずることが出来ない。私の経験が私に告げるところによれば、愛は与える本能である代りに奪う本能であり、放射するエネルギーである代りに吸引するエネルギーである。

 表面的には、愛は惜しみなく与える行為であるように見える。しかしその実、それは相手を私に吸収し奪い取る行為なのだ。

 なぜか。有島は次のように言う。

私は私自身を愛しているか。私は躊躇することなく愛していると答えることが出来る。私は他を愛しているか。これに肯定的な答えを送るためには、私は或る条件と限度とを附することを必要としなければならぬ。他が私と何等かの点で交渉を持つにあらざれば、私は他を愛することが出来ない。切実にいうと、私は己れに対してこの愛を感ずるが故にのみ、己れに交渉を持つ他を愛することが出来るのだ。私が愛すべき己れの存在を見失った時、どうして他との交渉を持ち得よう。そして交渉なき他にどうして私の愛が働き得よう。だから更に切実にいうと、他が何等かの状態に於て私の中に摂取された時にのみ、私は他を愛しているのだ。然し己れの中に摂取された他は、本当をいうともう他ではない。明かに己れの一部分だ。だから私が他を愛している場合も、本質的にいえば他を愛することに於て己れを愛しているのだ。そして己れをのみだ。」

 私に根底的に備わっているのは、自己愛である。そして私は、この「私」を増大させようとして、相手を私の中に取り込もうとするのだ。

「アミイバが触指を出して身外の食餌を抱えこみ、やがてそれを自己の蛋白素中に同化し終るように、私の個性は絶えず外界を愛で同化することによってのみ生長し完成してゆく。」

例えば私が一羽のカナリヤを愛するとしよう。私はその愛の故に、美しい籠と、新鮮な食餌と、やむ時なき愛撫とを与えるだろう。人は、私のこの愛の外面の現象を見て、私の愛の本質は与えることに於ての可成り立つと速断することはないだろうか。然しその推定は根抵的に的をはずれた悲しむべき誤謬なのだ。私がその小鳥を愛すれば愛する程、小鳥はより多く私に摂取されて、私の生活と不可避的に同化してしまうのだ。


2. 無償の愛など詭弁

 以上から有島は、無償の愛などというものは詭弁であると論じる。

或はいうかも知れない。愛するということは人間内部の至上命令だ。愛する時人は水が低きに流れるが如く愛する。そこには何等報酬の予想などはない。その結果がどうであろうとも愛する者は愛するのだ。これを以てかの報酬を目的にして行為を起す功利主義者と同一視するのは、人の心の絶妙の働きを知らぬものだと。私はそれを詭弁だと思う。一度愛した経験を有するものは、愛した結果が何んであるかを知っている、それは不可避的に何等かの意味の獲得だ。一度この経験を有ったものは、再び自分の心の働きを利他主義などとは呼ばない筈だ。他に殉ずる心などとはいわない筈だ。」

 自らの命を投げ出して愛する人を守る行為も、有島に言わせれば、結局のところ相手と自分とを同一視しているからにほかならない。

場合彼が死ぬことは私が死ぬことだ。」


3. 愛と憎しみ

 有島によれば、愛と憎しみは表裏一体のものである。

「憎みとは人間の愛の変じた一つの形式である。愛の反対は憎みではない。愛の反対は愛しないことだ。だから、愛しない場合にのみ、私は何ものをも個性の中に奪い取ることが出来ないのだ。憎む場合にも私は奪い取る。」

「如何なるものも、或る視角から憎むべきものならば、他の視角から必ず愛すべきものであることに私達は気附くだろう。ここに一つの器がある。若しも私がその器を愛さなかったならば、私に取ってそれは無いに等しい。然し私がそれを憎みはじめたならば、もうその器ば私と厳密に交渉をもって来る。愛へはもう一歩に過ぎない。私はその用途を私が考えていたよりは他の方面に用いることによって、その器を私に役立てることが出来るだろう。その時には私の憎みは、もう愛に変ってしまうだろう。」


4. 自由結婚

 最後に有島は、両性の間に愛あるところ、結婚は制度に束縛されず自由におこなわれるべきだと主張する。


「愛のある所には常に家族を成立せしめよ。愛のない所には必ず家族を分散せしめよ。この自由が許されることによってのみ、男女の生活はその忌むべき虚偽から解放され得る。自由恋愛から自由結婚へ。」

(苫野一徳)

Copyright(C) 2017 TOMANO Ittoku  All rights reserved.