ヘーゲル『キリスト教の精神とその運命』


はじめに

 ヘーゲル(1770〜1831)が、27歳から30歳にかけて書いた本書。

 死後76年経って公刊された。

 若きヘーゲルは、世界のさまざまな矛盾を「愛」(の宗教)によって克服できるはずだと考えていた。

 しかしその後、彼はその限界に行き当たることになる。

 残念ながら、愛は社会変革の原理にはなり得ないのだ。

 壮年ヘーゲルが行きついたのは、「相互承認」の哲学だった。

 彼は、ある意味では愛をも止揚して、現代においてもなお最も原理的と言うべき「相互承認」の原理にたどり着いたのだ(ヘーゲル『精神現象学』『法の哲学』のページ参照)。

 のちに自らによって乗り越えられる愛の宗教だが、しかし本書には、若きヘーゲルのすでに天才的な弁証法的思考が随所に見られる。

 その強靭な思考の数々は、他のヘーゲルの著作同様、私たちに汲めども尽きせぬインスピレーションを与えてくれる。

 以下、本書の章立てに沿って紹介・解説していこう。



1.ユダヤ教の精神とその運命

 ヘーゲルは、本書をまずユダヤ教の誕生から書き起こす。

〔アブラハムにとって〕絶対的に対立している世界全体は、仮に虚無ではないとすれば、それに疎縁な神によって支えられていた。自然のうちのいかなるものも、神にあずかることなく、すべては神によって支配されていた。」

   ユダヤ人にとって、神は人びとから隔絶した存在なのだ。

 そしてこの神は、他の神々(民族)に対して暴虐的である。


「アブラハムとその子孫たちの嫉み深い神や神々のなかには、彼とこの民族こそつの神を有する唯のものであるという怖るべき自己張がひそんでいたのである。」

「だからこそ、彼の子孫たちが順境に恵まれて、彼らの現実が彼らの理想からさほど分離されず、彼ら自身が彼らの統一の理念を実現しうる実力を具えていたときには、彼らは果たして、暴虐苛酷のかぎりをつくし、あらゆる生命を絶滅させる専制権力を容赦なくふるって支配したのである。」


2.イエスの登場

 イエスが説いたのは、そのような神への隷従からの人間性の回復だった。

単に主を礼拝すること――主人への直接の隷属、喜びもなく楽しみも愛もない服従――を要求する命令、すなわち、儀礼化した宗教的命令に、イエスは、それと正反対のものを、人間の衝動を、人間の欲望を対置した。」   

 それはただ単に律法を説くことではない。むしろ律法は、愛によって止揚されなければならないのだ。

彼がこの天国において彼らに示そうとすることは、律法の消滅ではなく、むしろ律法は全く新しい正義によって――義務主義者たちの正義とは全く異なる、それよりも豊かで完全な正義によって――成就されなければならないということであり、すなわち、律法の欠陥を充溢させるとであると説く。」   

 律法の止揚。このことを、ヘーゲルはのちの『精神現象学』『法の哲学』などでも見られるような、きわめて弁証法的な表現で次のように言っている。

律法の成就――およびそれと関連するもの――において、義務や道徳的志操などは、傾情に対立する普遍者たることをやめ、そして傾情のほうは、律法に対立する特殊者たることをやめるのであるから、両者の合致は生であり、――そして相異なるもののあいだの関係とみれ――愛であり、すなわち、それはひとつの存在であって、概念律法)として表現されれば、必然的に律法(すなわち自己自身)と同である存在であり、また、現実的なもの(傾情)として概念に対立させられれば、これまた自己自身(す傾情)と同である存在なのである    


3.愛による運命との和解

 罪を犯したものは、たとえ罰に服したとしても自らの運命と和解することはできないとヘーゲルは言う。

「良心の咎め、良からぬ行為をしたという意識、悪人としての自意識は、刑罰を受けても、少しも変わることがない。」    

 そして言う。

「彼は悪の恐るべき現実と律法の不易性から、ただ恩寵の許へ救いを求めるよりほかはない。〔中略〕彼は抽象的正義の執行者の胸に取りすがってその好意にあずかろうとし、その好意が片眼をつぶって、彼を現実の彼とはちがうように見てくれることを頼みにするのである。彼自身はさすがに自分の犯罪を否認するわけではないが、しかし不誠実にも、〔執行者の〕好意のほうから彼の犯罪を見逃してくれるように願い、そして、他の存在者が彼について抱くかもしれぬ不実な意見や観念のうちに、ひそかな慰めを見いだすのである。これでは、汚れのない道を通って意識の全一性へ立帰ることはできないし、刑罰や威嚇する律法や良心の咎めを止揚することもできないであろう。    

 『精神現象学』ばりのすぐれた心理分析だ。

 これに対して、愛は私たちを運命と和解させる。


「犯人がおのれの生の破壊を感得し(罰を受け)あるいはおのれが破壊されていることを(良心の咎めにおいて)自認するやいなや、ただちに彼の運命のはたらきが始まる。そして破壊された生の抱くこの感情は、失われた生への憧憬とならずにはいない。

の憧憬はきわめて良心的になり、おのれの罪責の意識とあらためて直観された生との矛盾のさなかで、なおもこの生への還帰を自制し、意識の咎めと苦痛の感情を引きのばし、折あるごとにそれをかきたてて、軽薄に生と和合することを慎み、魂の深みからあらためて生と和合し、生をもう一度友として喜び迎えることができるようになるまで待つのである。

再びおのれ自身にめぐり合う生のこの感情は愛であり、愛において運命は和解されるのである。

 自らのしでかしたことに対して、真に良心の咎めを感じた時、私たちは失われた生を憧憬せずにはいられない。

 この憧憬は、私たちに良心をもたらし、魂の深みから生との和合を、つまり「愛」を求める。

 愛こそ、私たちと運命とを和解させるものなのだ。

 この愛は、もはや自身の権利をさえ主張しない境地のものである。

こうして、苦悩なくして権利を止揚すること――生と自由とをもって権利喪失と権利〕闘争という次元を超越する心境が出現する相手が敵意をもって近づくものを手離し、相手が侵害するものをわがものと呼ぶことをやめる人は、喪失の苦悩を免れる。 

自分を救い出すために、人間は自分を殺す。自分のものが他者の支配下におかれるのを見ずに済ますために、彼はもはやそれを自分のものと呼ぶことをやめる。こうして人間はおのれ自身を保たんがためにおのれを破滅させる。」   

 愛は、さらに徳をも完成させる境地である。

 徳は、本性的に他の徳との衝突を避けられないものだ。

 のちの『精神現象学』の表現を借りれば、私たちは、道徳的であればあるほど「徳の騎士」となり、他の道徳を持つ人たちを攻撃してしまう傾向があるのだ(『精神現象学』(2)のページ参照)。


「いかなる徳も、その概念からみてもその活動からみても、踏み越えることのできない限界をもっている。人間がこの特定の徳のみをもちながら、その徳の境界(84を越えて行動するならば、彼はその徳を墨守してあくまでその意味での有徳な人物でありつづけるあまり、現実には悪徳的にしか行動しえなくなる。

 しかし愛はこれを止揚する。

愛は〔個別的な〕諸徳の補完である諸徳につきまとうすべての一面性、排他性、被制約性は、愛によって止揚されており、もはや有徳な罪悪とか罪悪的な徳行とかいうものはなくなっているなぜなら愛は、生きとし生けるすべての存在自身の生ける関係だからである愛においてはすべての分離、すべての制限された状況は消え去っており、したがって諸徳の制限もなくなる〔中略〕イエスは愛こそが彼の友人たちの魂となることを要求して、「私はあなたがたに新しい誠命を授けるお互いに愛し合いなさいひとはそれをみて、あなたがたが私の友人であることを知るであろうと教えた


4.イエスの宗教

 イエスは、自分のことを人の子であると同時に神の子であると呼んだ。

 しかしこのことが、ユダヤ人たちをして瀆神行為であると思わせることになる。

「彼ら貧しき者たち、みずからの内にただおのれの悲惨さと賤しい隷従の意識、神的なものにたいする対立の意識――人間的存在と神的存在とのあいだの乗り越えることのできない断絶の意識――しか持ち合わせていなかった者たちが、どうして一人の人間の内に或る神的なものを認知するはずがあったろうか。精神はただ精神のみを認知する。」


5.イエスの運命

 そのような現実から、イエスは引き下がらざるを得なかった。


神の国においては、もっともひたむきな愛と、したがって最高の自由から湧きでる関係以外の関係はありえない〔中略〕けれども彼の現実の世界においては、彼はすべての生ける関係から逃避せねばならなかった。なぜなら、それらの関係がすべて死の掟に支配されており、人間たちはユダヤ的なるものの圧制下に捉えられていたからである。

それゆえにイエスは彼の母や兄弟縁者たちから遊離したのである彼は女を愛して子供を産ませるわけにはいかなかったし、他の人びととの共同生活を享受しうるような家父長となり、市民仲間となるわけにはいかなかった。

 しかし信者たちは、イエスとは少し違っていた。

 彼らは、この現実世界を否定しつつ団結したのだ。

 したがって、彼らは時に狂信的・破壊的にならざるを得なかった。


このようにして教団の結束は運命との和解を得なかったが、それはユダヤ的精神という極端にたいする反対の極端であり、この両極を美において和解させる中庸ではなかった

生を侮蔑する夢想は、きわめて容易に狂信へ移行しうるものである。なぜなら、それは自分の没交渉的存在を維持せんがために、自分を害するもの、そしてそれ自体はもっとも純粋なものであっても自分にとっては不純なものを破壊せざるをえず、それの内容を――しばしばもっとも美しい人間関係をも――傷つけざるをえないからである。


6.キリスト教団の運命

 以上のようなキリスト教団はいかなる運命をたどることになるか。

 キリスト教団は、イエスの復活によって真に教団となった。

 しかしここには、1つの矛盾が解決されないままに残っている。

 人間イエスと、復活して神となったイエスの矛盾である。

 キリスト教団は、常にこの2つのイエスを持ってきた。

 そしてこのことが、キリスト教団の分裂的意識を生んできたのだ。

引きつづく時代の運命のなかで展開されてきたキリスト教のあらゆる形態において、神的なものはただ意識のなかに現存するのみでけっして生のなかに現存すべきものではないという対立関係の根本性格は〔変わることなく〕存続している    

 理想と現実は、決して一つに融合し得ない。

 キリスト教団は、結局のところこのような意識から逃れられないのだ。

 ヘーゲルは本書を次のように結んでいる。

世界にたいする好意と憎悪と無関心とを多少とも交えた意識の両極のあいだで、――神と世界、神的なものと生との対立関係の範囲内にあるこれらの両極のあいだで、キリスト教会は前向きにも後向きにも循環行程を経歴したのであるが、個別人格的でない生ける美のなかで安らぎを得ることは、教会の本質的な性格に反することなのであるそして、教会と国家、礼拝と生活、篤信と徳行、聖職と世俗とがけっしてひとつに融合しえないということが、教会の運命なのである    

 若きヘーゲルが成し遂げたかったのは、このようなキリスト教団を、イエスが説いた本来の「愛の宗教」へと改革することだったのだ。


(苫野一徳)

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