ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』(2)


はじめに

 邦訳第2巻では、ショーペンハウアーの芸術論が展開される。

 面白いところもないことはないが、何しろ最初から最後まで彼の形而上学的世界観に基づいた芸術論だから、ほとんどの部分をオトギバナシとしてしか読むことができない。

 その点、同じく壮大な形而上学的物語を展開しながらも、その形而上学を上手に取り除けば、どこを切っても深い洞察に満ちていると言わずにいられない、ヘーゲルの芸術論とは対照的だ(ヘーゲル『美学講義』のページ参照)。


1.意志―イデア―表象

 ショーペンハウアーの形而上学的世界観において、世界には「意志」―「イデア」―「表象」という3つの側面がある。

 まず「表象」は、前巻でも見た通り、われわれに立ち現れている現象世界のこと。

 それに対して「意志」は、この「表象」の法則(時間・空間)に縛られない、世界を貫く何らかのエネルギーのようなものと差し当たり考えておけばいいだろう。

 最後に「イデア」は、表象界に属しはするものの、「意志」の客体性であると言われる。「意志」がまったき状態で表象界に現象したもの、とでも言えるだろうか。

 さて、人間はふだん「表象」の世界をしか認識できないのだが、この認識は、そもそも「意志」に奉仕するものであるとショーペンハウアーは言う。

「認識はたいてい、どこまでも意志への奉仕に従うことを通例としている。いやむしろ、認識は意志に奉仕するという目的のために発生したとさえいえるほどである。    

 何を認識するにしても、私たちはこの世の意志エネルギーから逃れられないのだ。


2.芸術と天才

 ところが、ごくまれに、この意志から逃れて「純粋な鑑照」を可能にする人たちがいる。

 それが芸術家だ。

芸術のただ一つの起源は、イデアの認識である。そして芸術のただ一つの目標は、この認識の伝達ということに外ならない。    

 彼らは現象界の個物にまどわされることなく、「意志」の客体性であるイデアを見る。

 それゆえショーペンハウアーは、芸術的天才について次のように言う。

天才の本質は、だからほかでもない、このような純粋な観照をおこなう能力を圧倒的にもっているか否かにかかている。」   

「こういうわけで天才性とは、純粋に直観的に振舞い直観に自己没入する能力のこと、がんらいが意志への奉仕のためにのみ存在する認識に対し、この奉仕をさせないようにする能力のことである。これはすなわち自己の関心、自己の意欲、自己の目的をすっかり無視して、つまり自己の一身をしばしの間まったく放棄し、それによって純粋に認識する主観、明断な世界の眼となって残る能力のことである。

 ここから、ショーペンハウアーの天才論が展開される。

 いわく、イデアを見る天才は日常生活をないがしろにしてしまいがちである。

「天才は往々にして実生活上の自分自身の歩き方を考察する方はないがしろにする。したがって天才は自分の実生活にかけてはたいてい不器用きわまりない。普通人にとって認識能力とは、自分の実生活上の道を照らしてくれる提灯であるが、天才にとってのそれは、世界を明らかにしてくれる太陽である。」    

 また、天才はイデアを見る者に独特の表情をしている。

「「天才的な表情」とは、認識が意欲に決定的に立ち勝っていることが表情のうちに認められることにある。したがって意欲に対しいっさい関係をもたない認識、すなわち純粋認識が表情のうちに表現されていることに、「天才の表情」の本質があるといえる。」

 もっとも、イデアを見続けるのは張りつめた緊張感の中にいるということなので、人は四六時中天才であり続けることはできない。

「というのは、意志から自由になったイデアの把握には大きな緊張――たとえ自発的な緊張とはいえ――が要求されるため、どうしてもふたたび緊張がゆるむときがあり、次の緊張が訪れるまでには長いあいまがあるからである。緊張のゆるんだこの長いあいまには、天才人といえども、長所も短所も普通人とさして変わるところはないのである。」    

 さらにショーペンハウアーは、天才は数学を嫌悪する、などとも言う。

「天才的な人は根拠の原理の内容に注意を向けることを嫌うが、それはまず、数学への嫌悪として、存在の根拠に関連して現われるであろう。数学の考察は現象のもっとも普遍的な形式、それ自体根拠の原理が形をなしたにすぎない空間と時間に関わる考察である。したがって、現象の内容のみを、現象のうちに表明されているイデアのみを探し出す考察、あらゆる相互関係を離脱するこの考察とは完全に対立している考察が数学のそれである。 」

   だから、偉大な芸術家は数学の能力を持たないとショーペンハウアーは言う。


「芸術上の偉大な天才で数学の能力をもつものがいなかったことは、経験のうえからも立証されている。この両方の才能に同時に傑出したものなどは一人もいなかった。」

 相変わらずの無茶苦茶さが発揮されてきたが、次の挿話はちょっとだけ面白い。

「同じく周知の事実であるが、これとはまた反対に、傑出した数学者は芸術作品に対しあまり感受性をそなえていないということも、右に述べた同じ理由から説明できるであろう。これを端的に物語る有名な逸話がある。あるフランスの大数学者(編者注、ジル・ペルソンヌ・ド・ロベルヴァル)がラシーヌの『イフィジェニー』を読み終わったあと、肩をすぼめて、「これは何を証明しているのかね」と尋ねたそうである。」

 次のような箇所も、まずまず悪くはない。

天才人はイデアを完全に認識するが、さまざまな個体を認識することはない。それゆえに世人の言うとおり、詩人は人間というものを深く根本的に知ることはできるが、人間たちを知るのはきわめて拙劣である。詩人はだから瞞されやすく、狡猾な人間の手にかかって思うさま弄ばれるのである。    

 以上のように、ショーペンハウアーにとって、芸術とは「イデア」を表現するものにほかならない。

 「意志―イデア―表象」というショーペンハウアーの形而上学体系を差し引けば、悪くない点もないではない。

 確かに、芸術は私たちの目の前に世界の「ほんとう」を描き出してくれる。「ああ、確かにこれこそほんとうの人間だ」「これこそほんとうの美しさだ」……そういった世界の「ほんとう」を指し示してくれる。

 ただ、ここで私が言う「ほんとう」は、ショーペンハウアーの「意志―イデア―表象」スキームにおける「イデア」とは違ったものだ。

 世界=人間の、新たな普遍的な見方を開いてくれるもの、芸術の「ほんとう」を、私たちはそのように考えるべきだろう。

 芸術には、確かにそのような本質があるのだ。


3.美と崇高

 ともあれ、先に進もう。

 続いてショーペンハウアーは、美と崇高の違いについて筆を進める。

 この部分には、「なるほどその言い方は面白い」と言える記述もいくらか見られる。

 まず、美は2つの契機から成り立っているとショーペンハウアーは言う。

 1つは、イデアそのもの。そしてもう1つは、私たちが「意志を持たない純粋な認識主観」になることだ。

 このいわば静謐な鑑照において、私たちは美を認識することができるのだ。

 ところが、もしここに「意志」が関わってくれば、そこには美も平安もなくなってしまう。

 なぜか? ショーペンハウアーは言う。


意欲は満たされればそれでいったんは終わる。しかし一つの願望が満たされれば、これに対し少なくとも十の願望は満たされないままで残っているのである。」

「だからわれわれの意識がわれわれの意志によって満たされているかぎり、つまりわれわれがさまざまな願望の衝迫とそれに伴う休みない望みや怖れに身をゆだねているかぎり、いいかえればわれわれが意欲の主体であるかぎり、われわれにはけっして永続的な幸福も平安も生じないであろう。」

 意志はつねに何かを願望する。それゆえ意志に支配されている状態は、この願望が叶えられないことへの不安と、表裏一体の状態なのだ。

 それゆえ完全な幸福は、私たちがこの意志の支配から超脱し、純粋な認識主観になっている時に訪れる。

われわれはもはや個体ではない。個体は忘却されている。われわれはただ純粋な認識主観であるのみであろう。われわれはただ一つの世界の眼として存在するばかりであろう。

 余談ながら、「一つの世界の眼」という表現は、19世紀アメリカの思想家エマソンの、「私は一個の透明な眼球になる」という言葉を思い出させる。エマソンがショーペンハウアーを読んでいたというのは、十分考えられることだ(『エマソン論文集』のページ参照)。

 また、ショーペンハウアー自身たびたび仏教やインドの哲学に言及しているように、この辺りの記述からは、輪廻からの解脱無常無我に類する思想を読み取ることができる。

 さて、ようやく「崇高」についてだが、ショーペンハウアーによれば、「崇高」は、この「純粋な認識主観」と「意志」とのせめぎ合いにおいて生まれるものである。

すなわち崇高感は、観照された客観の、意志一般に対する承認された敵対関係を超克していくものだというこのたった一つの補足によって、美感からは区別されるのである    

 ショーペンハウアーの挙げる例がなかなか面白い。

「厳冬のさなか、自然界がくまなく氷結している頃、低くさす陽の光が石の塊りに当たってはね返されるさまをわれわれは目撃するとしよう。こうした場面では陽の光は射すには射すけれど、熱を与えることはない。したがって陽の光はきわめて純粋な認識形式にとってのみ都合がよい状態で、意志にとっては不都合な状態であるといえる。〔中略〕しかしこの純粋認識の状態は陽の光による加熱が欠けていること、すなわち生命を吹きこむ原理が欠けていることをいささかでも思い出すことで、いちはやく意志の利害関心をあるていど超克することを要求し、あらゆる意欲をしりぞけ純粋認識を保ちつづけよという軽い勧告をうちに含んでいる。が、この純粋認識の状態はまたそれだからこそ、美感から崇高感への移り行きともなるのである。それは美のうちにうかがわれる崇高のほんのかすかなほのめきであり、美そのものはこの場合にはごくわずかな程度しかすがたを見せない。」    

 辺りを照らす冬の日の光に、私たちは美を感じる。その時私たちは、意志の影響を受けない純粋な認識主観になっているのだ。

 ところがここに「熱」が加わると、とたんに「意志」が頭をもたげて、私たちは崇高を感じるようになる。

 「熱」に意志の現れを見出すショーペンハウアーの言い方は、無茶苦茶のようにも思えるが、「なるほど面白い」と思えなくもない。

 さらに彼は次のようにも言う。

「崇高の印象がさらにいっそう強まるのは、われわれが昂然と相争う自然力の大規模な戦いを目の前にしたときであって、前述の環境に例をとれば、落下する奔流の轟然たる音にかきされて自分の声も聞こえなくなってしまうような場合である。」    

 ところで、ショーペンハウアーによれば、崇高さの反対は「魅惑的なもの」である。

 たとえばエロティックなものを見る時、私たちはどうしても「純粋な認識主観」でいることはできない。

歴史画や彫刻において、かの魅惑的なものは裸体像にあるそのポズといい、半ばしか身につけていない衣裳といい、そしてその取り扱い方の全体といい、眺める者の心に淫蕩の気持を起こさせることを狙いとしているこれによって純粋に美的な見方はただちになくなってしまい、芸術の目的は阻止されることになる。」

 だから、芸術は魅惑的なものを避けなければならないとショーペンハウアーは言う。

 魅惑的な芸術もありうるはずだから、個人的にはショーペンハウアーの芸術論の狭隘さを感じてしまうのだが。


4.諸芸術

 続いてショーペンハウアーは、建築、文学、音楽などの芸術の諸ジャンルについて論じていくのだが、このパートでもまた、読者は随所に強引さを感じずにはいられない。

 たとえば彼は、建築は「有用性」を持つものなので、芸術としては次元が低いものであると言う。

 そしてさらに次のように言う。

「建築美術の唯の美学上の材料は、がんらい重力と剛性との間の争いであるといえる    

「したがって、がんらい木という材料からは建築美術上のいかなる作品も作り出すことはできないのである。    

 建築は重さと硬さに魅力がある芸術なのだから、木造建築は芸術たり得ないとショーペンハウアーは言うのだ。

 さすが、相変わらずむちゃくちゃなことを臆面もなく言ってくれる。

 建築が最低次元の芸術だとするなら、ショーペンハウアーにとって音楽は最高次元の芸術だ。

「音楽は、意志全体の直接の客観化であり、模写なのであって、音楽はこの直接という点にかけては世界それ自体と同じほどに(意志に対し)直接なのであり、いな、さらに多様に現象して個物の世界を形成しているあの数々のイデアと同じほどに(意志に対し)直接なのである。だからして音楽はけっしてほかの芸術のようにイデアの模写なのではない。それは意志それ自身の模写なのであり、イデアはこの意志の客体性でもあるのである。」    

 音楽は、私たちにイデアを直接伝える。それはもはや、意志の客体性そのものである。そうショーペンハウアーは言うわけだ。


5.生きんとする意志

 ショーペンハウアーにとって、意志とは「生きんとする意志」にほかならない。

「意志が意欲しているものは、つねに生命であって、生命とはまさしく表象に対するこの意欲の表現以外のなにものでもないのであるから、われわれが端的に意志」という代りに「生きんとする意志」というとしても、それは同じことであって、言葉の重複にすぎない。    

 繰り返し見てきたように、この「意志」は、ショーペンハウアーに言わせれば「物自体」であって、時間・空間の制限を超脱したものである。

 だから、意志にとっては個々人の「死」など取るに足らないものである。

「個体は生きんとする意志の現象の、いわばほんの一つの標本ないし見本にすぎないものなのであって、個体の生滅に対しては、生きんとする意志はなんら痛痒を覚えないものなのである。一個人が死んだからといって自然全体がいっこう傷つけられないのと同様である。」    

 こうして続く邦訳最終巻において、苦悩としての生という、ショーペンハウアー哲学において最もよく知られたテーゼが展開されていくことになる。








(苫野一徳)

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