モンテーニュ『エセー』(3)



はじめに

 モンテーニュが生涯書き続けた長大な書物『エセー』。

 本ページでは、その最後のパートである邦訳5、6巻を紹介しよう。

 正直、この最終パートは、これまで以上に、とりとめもないことがただつらつらと書き連ねられているような印象を受ける(モンテーニュは何度も手を入れたそうだが)。

 あいかわらず深い洞察はほとんどないし、些末な自分語りが延々と続く。

 少しだけ興味をそそられる部分としては、これだけ高名な人が、自分の恋や性についての好みを、いくらかあけすけに書いているところだろうか。

 と言っても、その内省の深さは、たとえばアウグスティヌスの『告白』にはるかにおよばない(アウグスティヌス『告白』のページ参照)。


 結局、全巻を通して、私は残念ながらモンテーニュを好きになることはできなかった。


1.恋と性

 本書でモンテーニュは、現代のフェミニストが聞けば激怒するようなことを言う。

「恋愛となると、これは主として視覚と触覚に関するものであるから、精神の美しさがなくとも相当のことはできるが、肉体の美しさがなくてはどうしようもない。美こそはご婦人方の真の長所である。    


「理性と知恵と友情の務めは、男性のほうによけい見いだされる。だから、男性が国政を司るのである。」

 ちなみに、モンテーニュは「苦しみに耐え忍べ」という思想を批判して、苦しみは逸らせばいいのだと言う。そして、恋愛はそのためにも有用であると言う。

「私はかつて、自分の性格から、非常な悲しみに打たれたことがある。〔中略〕だが、それをまぎらすために、強烈な気分転換を必要としたので、わざと、つとめて、恋をあさった。それには私の若さも手伝った。恋は私を慰め、友を失った悲しみから救ってくれた。ほかの場合もすべてこれと同じで、つらい考えにとらえられたときは、それを征服するよりも変えるほうが近道だと思う。」

 恋や性の快楽を、モンテーニュはそれなりに味わったようだが、しかし結婚については次のように言っている。

よい結婚というものがあるとすれば、それは恋愛の同伴と条件をこばみ、友愛の性質を真似ようとする。結婚は人生における甘美な結合であり、恒常と、信頼と、無数の有益で堅実な相互の奉仕と義務に満ちた結合である。」

 ちなみに、この部分は歴史学者ゾンバルト『恋愛と贅沢と資本主義』にも引用されている。

 モンテーニュが活躍した16世紀、ヨーロッパには自由恋愛(貴族たちの浮気)が蔓延していたが、しかし結婚については、モンテーニュのような保守的な考えが一般的だったとゾンバルトは指摘したゾンバルト『恋愛と贅沢と資本主義』のページ参照)。

 さて、そのような自由恋愛が盛んだった当時のフランスだが、モンテーニュはこれについて次のようなことを言う。

「本当のことを白状しよう。われわれのうちで、自分の不徳よりも妻の不徳から来る恥辱を恐れない者は一人もない。〔中略〕。自分の妻が夫である自分より不貞であるくらいなら、むしろ自分が泥坊であり、瀆神者であるほうが、あるいは、妻が人殺しであり、異端者であるほうがましだと思わない者は一人もない。」

 妻の不貞は夫の不貞より恥辱である。そうモンテーニュは言うのだ。

 これもまた、現代のフェミニストが聞いたら烈火のごとく怒るにちがいない。私も、時代の時代性は考慮に入れた上で、なんてひどいことを平気で言うのだと思ってしまう。
 
 モンテーニュはさらに次のようにも言う。

「女性の本質は疑惑と、虚栄と、好奇心の中にとっぷりと漬かっているから、尋常な方法でこれをなおそうなどと期待してはならない。」

 だんだんと、引用するのがおそろしくなる。

 さらにモンテーニュは、女性はそう軽々しく自分を男の前に差し出してはならないとも言う。その方が、男はチャレンジ精神をくすぐられるから、と。

「ご婦人方にも、自分に箔をつけ、自重することを、われわれ男性の気を引き、ごまかすことを、教えようではないか。〔中略〕階段の数が多ければ多いほど、登りつめた場所には高さと名誉がある。」
 
 その意味で、フランスでのあいさつが「接吻」であるのはよろしくないとモンテーニュは言う。

「ごらんなさい。わが国民に独特な挨拶の形式が、接吻のしやすいことによって、いかにその魅力を台なしにしているかを。〔中略〕三人のお供を連れた男にならば、どんないやな男にも、唇を差し出さねばならぬというのは、女性にとって不快で不公平な習慣である。」

「また、われわれ自身もこれで大した得をしているわけではない。というのは、この世の中は、三人の美女に接吻するには五十人の醜女と接吻しなければならぬようにできているからだ。」

 よくもまあここまで言えるものだと感心する(笑)。


2.王侯貴族の不幸

 続いてモンテーニュは、高貴な身分の人たちは実は不幸であると言う。

「さて最近ある出来事から思いついて、ここに取り上げる気になった高貴の身分の不便というのは、次のことである。おそらく、人間同士の交際において、肉体と精神の力験しをして名誉や価値を競う以上に楽しいものはないが、雲の上の高貴な身分の人は、これの本当の勝負には加われない。実際、私から見ても、人々が主侯方を尊敬するあまり、かえっていい加減にあしらっているとしか思えないことがよくあった。〔中略〕もしも王侯方に少しでも勝利を望む気持があるとわかれば、勝たせてやろうとつとめない者はないし、彼らの名誉を傷つけるよりは、自分の名誉を裏切るほうがましだと思わない者はない。

 王は、誰かと勝負をしようとしても、家臣たちは誰も本気でかかってきてはくれないのだ。

 さらにまた、彼らはいつも阿諛者に囲まれている。

「彼らはあんなにも絶えず、きまりきった称讃を聞き馴れているから、本当の称讃を知らずにいる。


3.愚鈍と借り物の思想

 続いてモンテーニュは、彼の「愚鈍」嫌いについて滔々と語る。

「議論が混乱して秩序がなくなると、私はかっとして、節度をなくし、主題を離れて形式にこだわり、あとで赤面するような、頑固で、地悪な、横柄な議論仕方におちいる。」

「ばかを相手に本気で議論することはできない。こういう無茶な先生の手にかかっては、私の判断ばかりでなく、良心までが駄目になる。

 しかし、彼が愚鈍よりもさらに憎むものがある。

「知識は正しく用いられるならば、人間の修得しうるもっとも高貴で強大な能力である。けれども、これを自分の能力や価値の土台とする人々、判断力を記憶だけに頼って、《他人の影に隠れて》書物によらなければ何もない人々(この種の人々は無数にいる)、そういう人々の中にある知識を、私は、あえていうならば、愚鈍よりもいささか余計に憎む。」

 前巻でも言ったが、『エセー』もまた、ほとんどが古典の引用や解説だ。彼が批判するタイプの人間に、いくらか似ているように思われるのだが……。

 彼自身、自分は「猿真似」が得意だと告白している。

「私にはやたらと猿真似をする傾向がある。むかし柄にもなく詩を作っていた頃(もっともラテン語以外の詩はけっして作らなかったが)、出来上がった詩句を見れば、私がさっきまで読んでいた詩人が誰であるか、はっきりとわかったものだ。また、私の初期のエセーのあるものは、いくらか他人の匂いがする。〔中略〕私は何かを見つめていると、それを自分にとり入れてしまう。」


4.人には頼らない

 自分は人に頼ることを何より嫌う。モンテーニュは続けてそのように言う。

「私は、私以外の誰のところにも、また、誰からも、縛られることを死ぬほど嫌っている。私はどんなに些細な揚合にも、重大な揚合にも、他人の好意にすがる前に、できるだけそうしないですませようとつとめる。」

 独立独歩の、近代的人間の先駆者と呼ぶべきだろうか。

 ちなみに、現代では、むしろ人の力を借りられる力こそが重要だと私は思う。


5.人間の愚かさについて

 第6巻には、中々面白いエピソードが登場する。せっかくなので引用しよう。

「正しいか正しくないかは別として、イタリアのことわざに、「足なえの女と寝たことのない者はウェヌスの完全な魅力を知らない者だ」というのがある。偶然か、もしくは何か特別の事件が、ずっと前にこの言葉をこの国民の口に言わせたものであるが、これは女にも男にも当てはまる。現に、アマゾン族の女王も、あるスキュティア人から恋をしかけられたとき、《そのことなら足なえがいちばんうまい》と答えた。この女性の国家では、男性の支配を避けるために、男児が生まれるとすぐに、腕や、脚や、その他、男性を女性よりも優勢にしそうな身体の部分をすべて不具にして、男性をこちら側のわれわれが女性を使っているような目的にだけ使った。私なら、「足なえの女の不規則な運動があの営みに何か新しい快感をもたらし、相手の男性に何かぴりっとした美さを与えるのだ」と言ったかも知れない。だが最近になって、古代の哲学もこの問題を次のように解決していることを知った。すなわち、「足なえの女の脚や腿はその不完全さのために、当然受けるべき栄養を受けないから、その上にある性器がいっそう充実し、栄養がよく、旺盛になる。」あるいは、「この欠陥が運動を妨げるので、この欠陥のある人は精力を消散させないで、ウェヌスの営みにいっそう元気に当たることができる」というのである。」

「この勘定でいけば、どんな理屈でもつけられないものはないだろう。」

「われわれの創意は融通自在でどんな夢想にも理屈をつけることができる上に、われわれの想像も同じように、多くのつまらない外観にだまされて、誤った印象を受けやすくできている。現に私も、かつては、昔から一般に信じられているこのことわざのために、足のまっすぐでない女から普通の女よりも快楽を得たと信じたし、そのことを女の魅力の中に数えたこともある。」

 人間は、どんな迷信的なことも、理屈をつけて信じることができる生き物なのだ。


6.心配するな

 将来起こるかどうかも分からない災いを思って、心配などするな。モンテーニュは続けてそのように言う。

こんなにまで注意して、人間にふりかかるあらゆる不幸を予想して何になるか。また、こんなにまで苦労して、おそらく全然起こらないかも知れない不幸に備えて何になるか。例《災厄に会うかも知れないという心配は災厄そのものと同じ苦痛を与える。》

 死さえも怖れることはない。

「昔、多くの剣闘士たちは、初めはこわごわ戦ったが、後には敵の剣に喉を差しのべ、敵をうながしながら、勇敢に死を嚥み下した。〔中略〕あなた方は死に方など知らなくとも少しも案ずることはない。自然が、その場で、あますところなく十分に教えてくれるであろう。」

 それゆえモンテーニュは、死のことばかり考えている哲学者を次のように批判する。

「哲学者はいくらでも自慢するがよい。《哲学者の一生は死の考察である》と。けれども私の考えでは、死はたしかに生の末端ではあるが目的ではない。終極ではあるが目標ではない。生はそれ自身が目的であり、その目指すところでなければならない。」

 「常に死を覚えて生きよ」と言ったハイデガーなら、これに何と応えるだろうか(ハイデガー『存在と時間』のページ参照)。


7.醜さについて

 前巻では、畸形の子どもへの温かい理解を見せたモンテーニュだったが、ここでは彼は次のようなことを言う。

「あらゆる偉大な特質において完全な模範であったソクラテスが、人々の言うように、うつくしい魂に似合わないあんなにもみにくい肉体を持ち合わせたというのは、私には残念なことである。あんなにも熱心に美を愛した彼に自然は不正を働いたのである。肉体と精神との相関関係ほど真実らしいことはない。〔中略〕だがもう一つの、畸形と呼ぶのにふさわしい醜さは、ずっと実質的で、内部にまで影響を及ぼすことが多い。」


 それに引き換え、自分は容貌には恵まれてきたとモンテーニュは言う。

「私は、形からいっても、人に与える感じからいっても、恵まれた顔をもっていて、〔中略〕ソクラテスとは反対の印象を与える。これまでにもしばしば、私を全然知らない人々が、私の風采と態度だけを信用して、自分自身の問題や私の問題で私を頭から信頼してくれたことがある。また、他国に行ってもそのために珍らしい歓迎を受けたことがある。」

 前巻での感動を返してくれと言いたくなる。


8.分け隔てなく生きる

 そのくせ彼は、自分は分け隔てのない人間であると言う。

 というのも、自分は父親によって、貧しい村に預けられそこで育てられたから、と。

「父は、私を揺籃の時代から、領内のある貧しい村に里子に出し、私が乳を飲んでいる間、いや、そのあとも、そこに留めおいてもっとも卑しい普通の暮らしに私を慣らした。〔中略〕子供らを育てる仕事は自分で引き受けてはいけない。いわんや、妻になどまかせてはいけない。庶民の、自然の掟の下で、運命が子供らを作り上げてくれるのに任せるがよい。習慣が粗食と艱難に鍛えてくれるのに任せるがよい。」

「私がすすんで弱者の味方になるのは、そこにいっそう光栄があるからだし、私の中に限りなく権威をもつ生来の同情心があるせいでもある。」



(苫野一徳)

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