モンテーニュ『エセー』(2)


はじめに

 前巻でも書いたように、私はどうもモンテーニュが好きになれない。

 へりくだったように見せかけて、実はかなり自惚れの強い人だったように思えるし、何より本書には、深い人間洞察というものがほとんどない。

 まあこれだけ膨大な本だから、ちょっとは「いい話」にも出会えるけれど、それも深くうなるほどのものではない。

 基本の構えが、ちょっとエスプリをきかせて世間の常識をゆさぶる(陳腐な)懐疑主義的手法にあるから、小気味はいいけれど、「だからどうした?」と思わずにいられない。

 と、色々言ってしまったけれど、以下では邦訳3、4巻について紹介していこう。


1.人間の取るに足りなさについて

 本巻でモンテーニュは、まず人間がいかに取るに足りない存在であるかを延々と述べ立てる。

 まず彼は次のように言う。

「思い上りは人間の生れつきの病気である。あらゆる被造物の中で、もっとも傷つきやすくもろいのは人間である。同時にもっとも倣慢なのも人間である。」 

  人間は、他の動物に比べてはるかにすぐれていると思い込んでいる。しかしはたして本当にそうかとモンテーニュは問う。

「私が猫と戯れているとき、ひょっとすると猫のほうが、私を相手に遊んでいるのではないだろうか。」

「あらゆる動物のうちで人間だけが自由な想像と放肆な思考とをもっていて、あることや、ないことや、自分の欲することや、虚偽のことや、真実のことを、思い描くというのが本当だとすれば、これは非常に高くつく優越であって、ちっとも自慢にはならない。というのは、そこから苦しみの種となるもろもろの悪の根源、たとえば、罪悪、病気、優柔不断、悩み、絶望が生まれるからである。」

 人間のように賢い動物だっている、と続けてモンテーニュは言う。

 もっとも、以下の「賢い」動物の例は、人間の賢さとは比較にならないように思うのだが……。

「プルタルコス自身が船中で見たという犬の例もはぶきたくない話である。〔中略〕その犬は壺の底にある油を祇めようと苦心したが、壺の口が狭くて舌が届かないので、小石を探してきで壺の中に沈めて、油を縁の近くまで上げてやっと舐めることができた。これこそ非常に利口な精神の働きでなくて何であろうか。」

「象にはいくらか宗教心があると言える。なぜなら象は一日のある時刻に、沐浴して身を浄めたあとで、われわれが腕をさし上げるように鼻を高く上げ、昇る朝日をじっと見つめて、教えられたり命ぜられたりせずに、自分から、長い間瞑想にふけって立ちつくしているからである。」


2.学問のむなしさについて

 人間に続いて、モンテーニュは学問も次のようにバカにする。

ウァロやアリストテレスが、あんなに多くのことを知っていたことからどんな利益を得たろうか。そのために彼らが人間の不幸を免れたろうか。荷担ぎ人足に降りかかる事故から逃れることができたろうか論理学によって痛風の痛みをいくらかでも慰められただろうか。

学問は、私の考えでは、人生に必要なものの中では、光栄とか家柄とか高位とか、あるいはせいぜい美貌とか富とかその他、人生の役には立つが、それも遠くから、しかも、本性によるよりもわれわれの想像によって役に立つもろもろの特質と、同列を占めるものである。

 人間は理性を誇るが、それも感情には打ち勝てない。たとえば次のような例を挙げてみよう。

哲学者を細い針金で編んだ目の荒い籠に入れて、ノトル・ダム寺院の塔のてっぺんからぶらさげて見給え理性では明らかに、絶対落ちないとわかっていても、(彼が屋根職人の仕事に馴れていない限り)あんなにひどく高いところから見下ろしたら、恐怖と戦慄を禁じえないであろう。    


3.モンテーニュの自分語り

 邦訳第4巻では、モンテーニュの自分語りが延々と続く。

 正直、私にはモンテーニュの浅薄な人柄が暴露されているだけであるように思えてならない。

 まず彼は、自分が人から自惚れた奴と思われる傾向があると言い、それについて次のような言い訳をする。

「ごく幼い頃から、私の中にはどこかしら偉そうな威張った物腰や身振りがあると人から言われたものだ。このことについては、まず第一にこう言いたい。「ある性状や傾向が自分のものになり切って、身体の中に融け込んで、感ずることも認めることもできないくらいになっているならば、それをもつことは少しも不都合ではない」と。」    

 以下のような記述からは、伝統的な権威が好きで、隣の芝生をいつも青く見ているような人柄も伝わってくる。

「遠い昔の国家や風習が私の気に入る。言葉もその通りである。私は、ラテン語がその威厳のゆえに、真価以上に、子供や俗衆をごまかすと同じように、私をごまかすことに気がついている。私の隣人の家政や、邸宅や、馬は、同じ価値のものでも、私のものでないために、私のよりもよく見える。」    

 そしてまた、これまでの記述からも明らかなように、モンテーニュは人を小馬鹿にしたような哲学がお好きのようだ。

「私の一般的な傾向として言えることだが、古代の人々が人間一般についてもったあらゆる意見のうちで、私が好んで抱き、もっとも愛着する意見は、われわれ人間をもっとも軽蔑し、こきおろし、価値のないものとする意見である。哲学がわれわれの自負と虚栄を攻撃するときほど、また、率直に自分の未解決と、無力と、無知を認めるときほど、有利なことはけっしてないように思われる。」   

 次のような言い方にも、私は何となくいやらしさを感じてしまう。

どんな人でも、私以上に自己を小さく見ことは、いや、私以上に私を小さく見ることは、なかなかできないだろうと思う。私は自分を普通の人間だと思っている。

 次の記述にいたっては、もう完全に学者失格ではないかという気さえする。

「自分の意見を作るためには少しも勉強しなかった。ただ以前からでき上がっている意見を支持し援助し奉仕するために勉強しただけである。    

 本心なのか、それとも諧謔的な冗談なのか……。


4.ちょっといい話

 と、以上のようなわけで、私はモンテーニュがどうも好きにはなれないのだが、本書にはところどころ「ちょっといい話」も登場する。

 もっとも、だからと言ってとりたてて深い洞察があるわけでも、新たな発見があるわけでもない。

 これだけ膨大な著作を書けば、少しはいい話も登場するというだけの話だ。

 印象的なエピソードとして、奇形の子どもを「見世物」にしている親にモンテーニュが出会った時の話を紹介しよう。

「生まれて満十四カ月だったが、両の乳の下のところにもう一人の頭のない子供がすがるようにくっついていた。〔中略〕不完全なほうの子供をまくり上げると、その下に別のほうの子供の瞬間が見えるという工合である。したがって、この二つの肉体は乳と臍の間でくっついている。」    

 これについてモンテーニュは次のように言う。

われわれが奇怪と呼ぶものは神にとってはそうではない。神はその広大無辺の御業の中に、そこにお入れになった無限の形態を見ておられる。いまわれわれがびっくりした崎形児も、人間にはわからない何か別の種類のものに似ているのかも知れない。神の全知全能からは、善良なもの、普通なもの、規則的なものしか生じない。われわれにはそこにある調和と関連が見えないだけである。    

 ちょっとだけ、モンテーニュのことが好きになれる。

 次の話も、個人的には少しお気に入りだ。

怒りほど判断の正確をかき乱す感情はない。怒りに駆られて罪人を処刑するような裁判官があったら、これを死刑にすることに異存のある者はあるまい。それなのにどうして、父親や教師にも怒りに駆られて子供を鞭打つことを禁じないのだろうか。あれではもはや矯正ではなくて、復讐である。    

 次の記述は、ちょっとした洞察と言っていいかもしれない。

おそらくぜんぜん女なしですますほうが、自分の妻と一緒にいてすべての点で立派に振舞うことよりも容易であるし、貧之しているほうが、富裕のなかで節度を守るよりも、ずっと気苦労がなくてのんきである。理性に従った享楽は禁欲よりつらい。あるのを節制するほうが、ないのを我慢する上りもずっとつらい徳である。    

(苫野一徳)

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