クリシュナムルティ『愛について、孤独について』


はじめに

 インド生まれのユニークな思想家・教育者、クリシュナムルティ(1895〜1986)。

 14歳で「神智学協会」に見出され、その後「星の教団」の教祖様に祭り上げられてしまう。

 数万人の会員を有する国際組織「神智学協会」は、かねてより世界の主要な宗教の統合を掲げ、またそれを可能にする「世界教師」の出現を予言していた。

 クリシュナムルティは、神智学協会の人びとからその「世界教師」だと考えられたのだ。

 ところがクリシュナムルティ自身は、そんな自分の役回りや協会の考えに徐々に疑問を持つようになる。

 そして1929年、彼はついに、真理は「組織」によって体現されることはないとして、教団の解散を宣言する。

 カリスマ的宗教指導者が、多くの信者たちの前で自ら一切の宗教組織を否定したのだ。

 その後の彼は、一介の思想家として、世界中を旅しながら人びととの対話を重ねるようになる。

 本書は、そんな彼が「愛」と「孤独」について語った記録を集めたものだ。

 さすが、その言葉には人の心を震わせる力がある。そして、愛についての底まで届いた洞察がある。

 もっとも、哲学徒としては、あともう一歩だけ踏み込んで言葉を紡いでほしかったと思わなくもない。しかしここは、クリシュナムルティ自身の「言葉は愛ではありません」という思想を尊重しておこう。

 生粋の「哲学者」は、物事の本質をどこまでも言葉にすることに力を注ぐ。

 しかしその一方で、その明晰な概念使用は、それゆえにある意味では「ありがたみ」に欠ける。

 その意味では、クリシュナムルティのようなカリスマ的精神的指導者には、哲学者とは異なったいくらか「含み」のある言葉の方が、よく似合うと言うべきだろう。


1. 愛は快楽(思考)ではない

 クリシュナムルティは、まず次のように愛と快楽とを峻別することを説く。 

「愛は快楽ではありません。快楽の重要性を理解してください。快楽は思考によって支えられており、したがって、思考は愛ではありません。思考は〔中略〕愛を生み出したり、つくり出したりすることはできません。」    

 「快楽は思考によって支えられる」とは少し理解が難しいが、おそらく次のようなことを意味している。

 私たちは、自分にとっての快楽は何か、さらなる快楽は何かと、常に思考を通して快楽を求めている。

 しかし愛は、そのような快楽を求める思考によっては得られないものだ。そうクリシュナムルティは言うのだ。

「思考が快楽について検討し熟慮熟考し、快楽の支えとなるイメージや映像をつくり出し、快楽に養分を与えているのです。」

 なぜ人は快楽を求めるのか? クリシュナムルティは問う。

「私はそれが正しいとか、悪いとか言っているのではなく、ただ、そう訊ねているにすぎません。 」   

 クリシュナムルティによれば、その答えは次のようだ。

「私たちの人生は多かれ少なかれ機械的であり、毎日同じことの繰り返しです。〔中略〕それゆえ、それとは別の行為がきわめて重要になるのは当然です。もし、私たちが、知的な面において自由で激しい情熱をもち、熱狂的な人生を送っているならば、セックスはそれなりの存在意義を得て、それほど重要ではなくなります。」    

 退屈な日常の繰り返しからの自由。私たちはこれを求めて快楽に走るのだ。

 しかし、愛はそのようなある種の逃避とは本質的に異なったものだ。

「求めていないのに知らずのうちに見出したり出会うもの、それこそが愛と呼ばれるものであり、その時には愛以外に何もありません。」    

 本当にそうかな? と、私たちは自らに問うてみる必要がある。

 エーリッヒ・フロムは、名著『愛するということ』において、愛はそれにふさわしい相手がいれば自動的に可能になるようなものでは「ない」と言う。

 恋やエロティシズムであれば、それにふさわしい相手がいれば私たちは簡単に落ちることができる。でも、愛はそのようなものではないとフロムは言うのだ(フロム『愛するということ』のページ参照)。

 フロムによれば、愛を可能にするには、まず相手を「知る」必要がある。そして何より、ナルシシズムを克服する必要がある。

 つまり、人を愛せるようになるためには、私たちには「思考」や「意志」の力が必要なのだ。

 それに対して、クリシュナムルティは、愛は「思考」ではなく「知らずのうちに出会うもの」であると言う。

 フロムとクリシュナムルティとは、一見正反対のことを言っているように見える。

 でも私には、これは同じことを異なった角度から表現したにすぎないように思われる。

 フロムが言うように、私たちが人を「愛せるようになる」ためには、確かに思考や意志の力によってナルシシズムを克服する必要がある。

 これについては、クリシュナムルティもほぼ同じようなことを次のように言っている。

「野心家は愛することができません。家族に愛着を覚えている人は愛を欠いています。嫉妬も愛とは何の関係もありません。」    

 でも、そうして誰かを愛した時、私たちはきっと、「知らず知らずのうちに愛に出会った」と思うに違いない。

 その時私たちは、私はこの人をこれこれこういう理由で愛している、などと「思考」することはない。

 誰かを愛している時、私たちは、それを思考しているのではなく感得しているのだ。

「愛は気づきではないと言えるでしょうか。気づくことが愛なのです。私たちは一体であると気づかせてくれるのが愛ではないでしょうか。それは香りのようなものです。私たちは香りを解剖し、分析することはできません。愛は素晴らしい香りですが、分析をはじめたら消失してしまいます。」    


2. 愛は所有も比較もしない

 それゆえクリシュナムルティは次のように言う。


「愛に関して、所有することは障壁をつくり出すことにならないでしょうか。もし私が、あなたを所有し、「もつ」とすれば、それは愛でしょうか。

また、心とは比較の道具ではないでしょうか。私たちは、これはあれよりいいと言ったり、自分よりもっと美しい人や、もっと賢い人と自分自身を比較します。

「心が比較を行なっているかぎり、そこに愛は存在しません。心は、弱点を見つけようとして絶えず評価し、比較し、計測しています。したがって、比較のあるところに愛は存在しません。父と母がわが子たちを愛するとき、彼らを比べたりはしません。一人の子供を他の子供と比べたりはしません。いずれもわが子として愛しているのです。」

 誰かを愛している時、私たちは、この人は自分の所有物であり、あの人やこの人より優れているために愛しているのだ、などと「思考」することはないのだ。


3. 孤独について

 続いて孤独について、クリシュナムルティはまず次のように言う。

「神という概念にせよ飲酒にせよ、逃げ込もうとしている対象には変わりありません。孤独から逃れているという点では、神の崇拝とアルコール中毒との間に根本的な違いはありません。社会的には両者の間に違いはあっても、神の探求を通じて自分から、自分の空虚さから逃れている人は心理的には酔っ払いと同じレベルにあります。」   

 重要なことは、孤独から逃れることではなくまずこれを理解することであるとクリシュナムルティは言う。

 では孤独とは何なのか?

 クリシュナムルティによれば、それはただ心が作り上げたにすぎないものだ。

 私たちに孤独を感じさせるもの、それは私たち自身の「自意識」なのだ。

「孤独は自己孤立化のプロセスの極地です。自己自身についての意識が強くなればなるほど孤立化は深まっていくのであって、自己意識は孤立化のプロセスなのです。」

 自意識に捉われなくなった時、私たちは孤独を感じることもなくなる。

 むしろ私たちは、「孤独」とは本質的に異なったものである「単独」を、もっと大切にしようではないかとクリシュナムルティは言う。

「単独とは外部の影響や記憶という内部の影響、そのすべての影響がすっかりなくなった状態のことです。心がこの単独状態にあって初めて、心は不減なものを知ることができるのです。」    

 「孤独」に不安を覚えるのではなく、「単独」になって心を安らげよ。クリシュナムルティはそう言うのだ。


(苫野一徳)


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