キルケゴール『反復』


はじめに

 キルケゴールは、その全著作を通して、ほぼ2つのテーマだけを、ただひたすらに、ねちねち、ねちねちと、繰り返し書き続けた。

 1つは、キリスト者としての「罪」の念と、それに対する恐れ。

 そしてもう1つは、レギーネ・オルセンへの恋と、その挫折。

 本書は、特に後者に焦点が当てられた作品だ。

 1837年、24歳のキルケゴールは、当時14歳だったレギーネに恋をした。そしてその後、1840年には婚約にまでこぎつける。

 ところが翌年、彼は自らその婚約を破棄してしまう。それも、レギーネへの愛が失われたからではなく、「愛ゆえに」と言って。

 この婚約破棄の理由は、その後も研究者たちによってずっと議論が続けられているが、はっきりとは分かっていないようだ。

 もっともキルケゴールは、破談後、もうそれは気持ちが悪いほどに、ねちねち、ねちねちと、レギーネへの思いを本に書き続けた。本書にも、その思いがこれでもかというほど書き綴られている。

 ところがその書き方がいくぶん謎めいているために、彼の気持ちをはっきりと理解するのは難しい。

 ただ、一つだけはっきりしていることがある。

 キルケゴールは、何だかんだでレギーネとよりを戻したかったようなのだ。

 それが、本書のタイトルでもある「反復」という思想に表れている。

 キルケゴールは言う。「追憶の恋」は不幸だが、「反復の恋」は幸福である、と。

 「追憶の恋」とは、失われた恋を思い出し、悲しみ懐かしむ恋のこと。

 それに対して「反復の恋」は、あの恋がもう一度繰り返されることを確信する恋である。

 実際キルケゴールは、レギーネとの再婚約を考えていた。

 そこで彼は、コペンハーゲンからベルリンへ遊学に出かけた際、わずか2週間で本書を書き上げた。

 本書を通して、自分が「反復」を求めていることを、彼はレギーネに伝えたかったのだ。

 ところがコペンハーゲンに戻ってみると、なんとレギーネは、幼かった頃の家庭教師フリッツ・シュレーゲルと婚約してしまっていた。

 キルケゴールの思いは、結局果たされなかったのだ。

 ……と、こう見てくると、キルケゴールは、何と言うか自分の気持ちに翻弄されっぱなしの、ちょっと情けない人のように思えてくる。

 本書で彼は、「これからの新しい哲学は、人生が反復であることを教える!」などと力強く説くのだが、それも結局は成就せず、またまたウツに陥ってしまう、何だか滑稽なほど哀しい人でもある。

 でも、それでもなお、キルケゴールの言葉には何か不思議な魅力がある。

 とことんメランコリックで、とことん情けなくて、哀しくて、うじうじしたキルケゴール。

 でもそんな彼だからこそ、まるで一点突破するかのように、人間のある種の普遍性を描き出すことができたのではないかと思う。
 

1.人生は反復である

 古代ギリシア人は、あらゆる認識は「追憶」であると言った。

 しかし新しい哲学は、「人生は反復である」と教える。

 キルケゴールはまずそのように言う。

 古代ギリシアにおける「追憶」とは、おそらくプラトンの「想起説」のことだろう。

 人はなぜ、「美」を「美」と認識することができるのか?

 それは、人は生まれる前、天上界において「美のイデア」を見ていたからだ。その美のイデアを想起して、人は美しいものを「美」と認識するのだ。

 これがプラトンの想起説だった(プラトン『メノン』のページ参照)。

 それに対して、キルケゴールは人生は反復にほかならないという。

 それはいったい、どういう意味か?

 キルケゴールは言う。

反復と追憶は同一の運動である、ただ方向が反対であるというだけの違いである。つまり追憶されるものはすでにあったものであり、それが後方に向って反復されるのに、ほんとうの反復は前方に向って追憶される。」    

 追憶は過去に向かう運動だ。それに対して、反復は未来へ向かう。キルケゴールは続ける。

追憶の恋のみが幸福だ、と或る作家はいった。〔中略〕実をいえば、反復の恋だけが幸福なのである。反復の恋には、追憶の恋と同じように、期待の不安がない、探検に伴う不安な冒険もない、しかしまた追憶のもつ哀愁もない、そこには瞬間の至福な確実さがある。」    

 追憶の恋は、結局のところ失われた恋を悲しんでいるだけのものだ。

 それに対して反復の恋は、あの至福がまた再び繰り返される(反復される)ことを確信している。

 そうして彼は次のように言う。

反復を選んだものだけがほんとうに生きるのである。    


2.追憶の恋の不幸

 ここでキルケゴールは、ある青年との出会いについて述べる(この青年はおそらくキルケゴール自身のことではないかと思われる)。

 青年は激しい恋に燃えていた。

 しかし彼はとてもメランコリックな男で、それゆえその恋は、その最初からすでに「追憶の恋」に堕していた。

 要するに、恋のはじめから、青年はその終わりを追憶していたのだ。

メランコリックな男は恋をしてみるといい、そしたらなにもかも消し飛んでしまう、とよくひとは揚言する。しかし彼がほんとうにメランコリックであるなら、彼にとってなによりも重大なことがらを彼の心がどうしてメランコリックに考えずにいられるだろうか。彼は深くそして熱烈に恋している、これは明らかだ。それだのに、彼は最初の日からもう彼の恋愛を追憶する状態にある。つまり、彼の恋愛関係はすでに全く終っているのである。    

 恋が恋である以上、私たちがそのようなメランコリックでセンチメンタルな気持ちに陥るのは、ある意味で当然のことだ。

 しかしキルケゴールは言う。

「まことの恋にはそのほかにこの気分を利用することのできるアイロニカルな弾力性がなくてはならぬ。これが彼には欠けている。」    

 また、すべての恋がそうであるように、彼の恋もまた、恋人を自分の中に吸収してしまういわばエゴイスティックなものだった。

彼はつねに彼女をただあこがれていただけだった。彼女は彼自身のなかに吸収されてしまったのである。彼女の想い出はいつまでも生々しく残るだろう。彼女は彼にとってあまりに大きい意味をもってしまった、彼女は彼を詩人に仕あげてしまったのだ、だからつまり彼女は自分自身の死刑判決文に署名してしまったのだ。    

 そのような恋は、いつか当然終わることになる。青年もまた、その恋の終わりを予感していた。


「時の経つのにつれて、彼の恋愛関係は悩みを加えていった。〔中略〕それは彼女に向って、あなたではもの足りなくなった、私はもうあなたでは間に合わない、私にはもう上に昇るための踏み台はいらない、と告げるにひとしかった。」

 そこでキルケゴールは、青年に次のようなアドバイスをする。

「一切をぶち壊してしまいなさい、女をからかったり欺いたりすることしか楽しみにしないような軽蔑すべき人間に君は転身するのです。」

 なぜそのような話になるのか、このぶっ飛び方がいまいちよく分からないが、キルケゴールはさらに次のような計画まで立てる。

「私はある流行品店で私の求めているものを見つけた。たいへん愛嬌のある若い娘で、私が将来の面倒をみる約束をしたので、私の計画に加ってくれた。彼はどこか公の場所で彼女と一緒にいるところをひとに見られるようにし、彼女と情交があるということについて疑いの余地を残さぬような時刻に彼女を訪ねなくてはならぬ。」    

 ところが、最後の最後で青年は躊躇した。そして計画は頓挫することになる。

 それからしばらく、青年とは音信不通状態になる。


3.絶頂と絶望

 本書の中盤では、キルケゴールのメランコリックな心模様がさまざまに描かれている。

 まず彼は言う。

「人間にはその一生涯を通じてほんの半時だけでも、無条件に、あらゆる点で満足したなどということはありうるものでない。」    

 彼がそのように思うようになった背景には、次のような経験がある。


私はかつてほぼそれに近い状態に達したことがある。或る朝のこと起き上ると珍しく気持がよかった。この快感は午前のうちに比類がないほど増して行った。かっきり一時に、私は絶頂に達して、眩暈がするほどの極限にいるのを予感した。それはもはや快感の尺度では、詩の寒暖計でさえも、表示されないほどの高度であった、身体は地上的な重さを失っていた、身体をもっていないような気さえした。あらゆる機能は満ち足りて働き、どの神経も自己自身を、また全体との調和を楽しみ、また一つ一つの脈拍は有期待全体を打ち震わせて瞬間の快楽を想い出させそれを感じさせるばかりだったから。

そのとき突然、私の一方の眼が少し痒くなりはじめた。それが睫毛だったか、それとも毛屑か塵だったか、私は知らない。しかしこの瞬間に私が絶望のどん底にころび落ちたことだけは確かである。これは、私と同じ高みに登ったことのある人なら、この高みに立って同時に、そもそも絶対的な満足はどこまで達し得られるものか、という原則的な問題に頭を悩ましたことのある人なら、誰にでも用意に理解できることであろう。それ以来、私はいつか絶対的にそしてあらゆる点で満足を感じてみたいという希望をすっかり棄ててしまった、いつまでもというのでなくせめて数瞬間だけでも絶対的に満足を感じてみたいというかねての希望までも放棄してしまった。

 躁鬱、あるいは鬱気質の人の心象風景が、見事に描かれている。


4.破約と後悔

 本書後半では、再び例の青年が登場する。

 彼からしばしば手紙が届くようになったのだ。

 恋人とは破約した、しかし後悔の念から逃れられない。

 手紙にはそうあった。

彼を捉えているものは乙女の愛らしさではなくて、彼が彼女の生活の邪魔をして彼女にたいし不正を犯したということについての後悔なのである。彼は彼女に無思慮に近づいたのである。彼は自分の恋が実現できないことを確信している、彼は彼女がいなくとも彼也に幸福になることができるのだ、ことにこういう新しい景物を手に入れたからには。そこで彼は破約する、しかし不正を犯したということを忘れることができない    

 どのような意味で、青年(=キルケゴール)が「彼女にたいし不正を犯した」のかは、いまいちよく分からない。

 恋という、いわば彼女を「自分自身に吸収してしまう」罪を犯したことなのか。

 恋の成就の後に、彼女のことが一瞬でも飽きたと思ってしまったことなのか。

 そのあたりのことははっきりとは分からないが、キルケゴールはともかく、彼女との恋における自らの過ちを後悔したのだ。

 しかしその上で、彼はレギーネとの恋が「反復」されることを願った。

 人生が未来へ向けた希望ある「反復」であることを、キルケゴールは祈るように願ったのだ。


(苫野一徳)


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