ルソー『言語起源論』


はじめに

 言語および音楽の起源について論じた本書。ルソーの死後に出版された。

 ルソーは言う。言語、それは、単なる身体的な「欲求」からではなく、人びとが互いにつながりたいとする「情念」によって生まれたものである、と。

 原初の言語は詩的なものだった。それはやがて旋律となり、音楽を生み出すことになった。

 音楽家としても知られていたルソー。「むすんでひらいて」は、ルソーの作曲だ。

 小説『新エロイーズ』はヨーロッパ中で大ベストセラーになり、『告白』は自伝文学の金字塔を打ち立てた。

 天才哲学者であっただけでなく、天才芸術家でもあったルソー。

 その類まれなる人間洞察、そして読者を強く惹きつけずにはいない文才が、本書でもあますことなく冴え渡っている。


1.言語の起源は、身体的な「欲求」ではなく精神的な「情念」にある

 まずルソーは、人間は原初の頃からコミュニケーションのためにジェスチャーを使っていたことを述べる。

 つまり視覚と聴覚だ。

 視覚は、伝えたいメッセージを最も直接的に相手に伝えることができる。ルソーはこんな面白い例を挙げている。

「軍勢とともにスキタイに入り込んだダレイオスは、スキタイ王から、カエル、鳥、ネズミと五本の矢を受け取った伝令は黙って贈り物を渡し、立ち去った。この恐ろしい訓示は理解され、ダレイオスは大いに急いでかろうじて自国に帰った。この記号を手紙で置き換えてみれば、それが脅迫的であればあるほど怖くないだろう大ほらにすぎなくなり、ダレイオスはそれを笑っただけだっただろう    

 そして言う。

このように、人は耳よりも目に対してよりよく語りかけるものだ。〔中略〕音は色の効果を持つ時ほど力強いことはない。    

 しかしその一方で、人の情念を震わせるのは、視覚的な言語ではなく聴覚的な言語の方である。

しかし心を感動させ情念を燃え上がらせなければならない時、事態はまったく異なくり返し感銘を与える言説の連続的な印象は、一目ですべてが見える物自体の存在より、はるかに人を感動させる    

 以上からルソーは次のように言う。

「われわれに身体的欲求しかなかったなら、われわれがことばを話すことが決してなく、身振りの言語だけで互いに理解し合えたということは大いにありうることだと考えられる    

 身体的な欲求やメッセージを伝えるだけなら、われわれは繊細な言語などというものを必要としなかったに違いない。

 ではなぜ人は言葉を必要としたのか?

「この起源はどこから来るのだろうか精神的な欲求、情念からである。生きる必要によって互いに避け合う人間たちを、すべての情念が近づける。人間たちから最初の声を引き出したのは、飢えでも渇きでもなく、愛、憎しみ、憐憫の情、怒りである。」

 ルソーによれば、身体的な欲求は人びとをつなげるよりむしろ遠ざける。原始の人びとにとって、家族・親族以外の見知らぬ人は、恐怖の対象であるからだ。

原初の時代において、地上に散らばっていた人間には、家族以外に社会はなく、自然の法以外に法はなく、身振りや分節されていないいくつかの音以外に言語はなかった。彼らはいかなる共通の博愛の観念によっても結ばれておらず、力以外にいかなる審判者もいなかったので分たちを互いに敵同士だと思っていた。」   

 このような時代において、人びとは恐怖を感じながらも平和だった。

「だれもが、自分の手の届くものしか知らず、それしか望まなかった各人の欲求は彼を同胞たちに近づけるどころか、同胞たちから遠ざけていた。人々は出会うと互いに攻撃しあったかも知れないが、めったに出会わなかったいたるところで戦争状態が支配していたが、地球全体が平和だった    

 精神的な情念は、そんな彼らを結び合わせる。そうルソーは言う。

 ここにこそ、言語の起源があるのだ。

「炎を見ると動物たちは逃げだすが人間は引き寄せられる。人々は共同の炉の周りに集まり、宴を行い、踊りを踊る。習慣の甘美な結びつきは知らず知らずのうちに人間を同胞たちに近づけ、その粗野な炉の上には、人間性の最初の感情を人々の心の奥深くにもたらす神聖な火が燃えている。」    


2.最初の言語は比喩的(詩)だった

 続いてルソーは次のように言う。

「人々はまず詩でしか話さなかった。理論的に話すことが考えられたのはかなり後のことである    

 言語が情念を伝えるところから始まったとするならば、最初はすべてが情熱的な詩のようなものであったに違いない。

 しかしその進化とともに、それは冷たく理論的なものになっていく。

「それはより正確になるが情熱的でなくなる。感情に対して観念が置き換わり、もはや心にではなく理性に語るようになる。そのこと自体によって抑揚は消え分節が広まり、言語はより正確でより明晰になるが、よりだらだらとして無声で冷たくなる。」    


3.北方の言語と南方の言語

 一般に、南方の言語の方が情熱的で、北方の言語の方が冷たく理知的であるとされる。

 このことについて、ルソーは次のように言う。

暑い国々の情念は、恋愛と柔弱さに起因する官能的な情念である。自然は住民にあまり多くのことをしてくれるので住民たちはするべきことがほとんどない。    

 冷たい言語を用いる北方のヨーロッパ人は、したがって南方の人びとの精神性を十分に共有することが難しい。ルソーは次のような例を挙げて言う。

アラビア語を少し読めるからと言っラン』に目を通して微笑を浮かべる人がいても、マホメットがみずから、その雄弁で律動的なこの言語で、心よりも先に耳を魅惑する響きのいい声で、しかも常に熱狂の抑揚で教えに魂を込めながら預するのを聞いたならば、次のように叫んで大地にひれ伏しただろう「神に遣わされた偉大な預言者よ、栄光や殉教に導いてください私たちは勝利するか、さもなければあなたのために死にたいのです。」」 


4.音楽の起源

 言語の起源に続いて、ルソーは音楽の起源についても思索をめぐらせる。

 ルソーの考えでは、音楽の起源は旋律(メロディー)以外の何ものでもない。

詩は散文より先に発見された。それは当然だった、情念は理性よりも先に語ったのだから。音楽についても同様だった。最初は旋律以外に音楽はなく、音声語の多彩な音以外に旋律はなく、抑揚は歌を形作り、音長は拍子を形作り、人は分節や声〔母音〕によってと同じくらい、音とリズムによって話していた    

 これは、同時代の音楽家ラモーに対する批判でもある(本書ではラモーが名指しで批判されているわけではないが)。

 ラモーは、音楽の起源は「和声」にあると考えた。美しい音の組合わせこそが音楽の起源なのだと。

 しかしルソーに言わせれば、それは芸術の何たるかを全く理解しない戯言だ。

 ラモーのような音楽家は次のように言う。


私は芸術の偉大な真の原理をお見せしました。芸術の原理ですって。すべての芸術、すべての学問の原理ですよ。色の分析とプリズムの反射の計算によって、自然にある唯一の正確な関係、すべての関係の規則が与えられます。ところで、宇宙ではすべてが関係にすぎないのです。つまり絵を描くことを知っていれば、色の組み合わせ方を知っていればすべてを知っているのです。」

 これに対してルソーは言う。


「このように推論するほど感情と趣味が欠けていて、絵画がもたらしてくれる快楽を愚かにもその芸術の物質的側面に限定してしまうような画家がいたらわれわれは何と言うだろうか。」

「つまり絵画は視覚に快いように色を組み合わせる術ではないのと同様に、音楽は耳に快いように音を組み合わせる術ではない。それだけなら、どちらも芸術ではなく自然科学のうちに含まれるだろう。」

 音楽を音の理論的な組合わせに、絵画を色の理論的な組合わせに還元する者は、芸術のことを何も分かっていない。そうルソーは言う。

 芸術とは、単なる科学的・物理的な刺激−反応ではなく、そこに精神の偉大さを感じさせるものなのだ。


それがわれわれの神経に引き起こす振動のみによって音を考えている限り、音楽の真の原理も、心に対する音楽の力についての真の原理も得られることはないだろう。

われわれの感覚がわれわれに対してひき起こす最大の力が精神的な原因によるものでなければ、野蛮人に対しては無であるような印象に対してなぜわれわれはかくも感じやすいのだろうかわれわれの最も感動的な音楽はカリブ人の耳にとってはうつろな騒音にすぎないのはなぜだろうか

 したがって、音楽の起源は和声などにではなくメロディーにあると言わねばならない。

 メロディーこそが、人間の情念、その精神の豊かさを最も表現するものであるからだ。


旋律は声の変化を模倣することによってうめき声、苦痛や喜びの叫び、脅し、うなり声を表現する情念の音声的記号はすべて旋律の領域に属している旋律は語の抑揚や、各語において心の動きに用いられるい回しを模倣する旋律は模倣するだけでなく語り、分節はないが生き生きとしていて熱烈で情熱的なそのことばづかいは音声一言語そのものよりも百倍も力強い

しかし和声は旋律を束縛することによって旋律から力強さと表現力を奪い、旋律から情熱的な抑揚を消し去りその代わりに和声的な音程を置き、弁舌の調子の数だけ旋法があるはずの歌を二つの旋法だけに従わせ、その体系に収まらない無数の音や音程を消し去り破壊してしまう

 芸術を物理的法則に還元してしまう芸術家を、ルソーは改めて次のように批判する。

彼らは、この芸術を純粋に身体的・物理的な印象に近づければ近づけるほどこの芸術をその起源から遠ざけてしまい、原初の力強さをそいでしまう。声による抑揚を離れて和声の制度に専念することで、音楽は耳にとってよりうるさくなり、心にとって甘美さをより失った。音楽はすでに語るのをやめてしまった。やがて音楽は歌わなくなり、そのすべての和音と和声全体をもってしでもわれわれに何の効果も及ぼさなくなるだろう。    


5.言語と政治

 最後に、ルソーは当時の政治社会と言語との関係について次のように言う。


説得が公共の力の代わりとなっていた古代においては、雄弁は必要だった。公共の力が説得を代補している今日では、雄弁は何の役に立つだろうか。「これが朕の意志である」と言うには、芸も文彩も不要である。

社会は最終的な形態を取った。大砲と金貨をもってしないと何も変わらなくなり、「金を出せ」ということ以外に民衆に言うべきことがなくなったので、それは街角の張り紙か家々に入る兵士をもって言うのである。そのためには人を集める必要はない。むしろ臣民は散らばったままにしなければならない。それは近代政治の第一の格言である。

 絶対王政の時代、言語はただの「命令」の言語になりはてた。人びとを結び合わせる情念的な言語は、絶対君主にとっては邪魔なのだ。

『人間不平等起源論』や『社会契約論』の主題が、本書でもまた別の角度から述べられているのが面白い(『人間不平等起源論』『社会契約論』のページ参照)。



(苫野一徳)

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