ラウダン『科学と価値』


はじめに

 現代を代表する科学哲学者、ラリー・ラウダンの1984年の著作。

 邦訳の副題は「相対主義と実在論を論駁する」。文字通り、科学哲学における相対主義と実在論に異議申し立てをした作品だ。

 私自身は、この問題はフッサール現象学が最も原理的に解いたと考えているので、現象学的還元の発想のない本書の主張は非常に中途半端なものと考えている。

 しかしこの点を論じると長くなるので、ここでは割愛して、本ブログにおけるフッサールの『イデーン』『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』のページなど参照していただきたい。

 とまれ、以下、ラウダンがどのようにして相対主義と実在論の問題を克服しようとしたか、見ていくことにしよう。


1.同意説とその問題

 まずラウダンは、科学研究はこれまで、科学における「同意」か「不一致」のどちらか一方ばかりを強調してきたという。そして、そのどちらをも説明する理論を持ってこなかったのだ、と。

 まず同意説から見てみよう。

非常に長期にわたって、哲学者たちは一般にライプニッツ的理想と私が呼ぶものを受け入れる傾向にあった。簡潔に言うなら、ライプニッツ的理想は、事実に関する全ての論争は証拠に関する適切な規則を導入することによって公平に解決されると主張する。

 要するに、正しい科学的方法に則れば、科学は同意に向かうと考えるのだ。

 しかしこれは事実に反する。

 トーマス・クーンが明らかにしたように、科学のパラダイムは時に急速に転換する。そして異なるパラダイム同士は、どうがんばっても折り合えない「共約不可能性」の問題を抱えているのだ(クーン『科学革命の構造』のページ参照)。


2.不一致説とその問題

 しかしだからと言って、科学の不一致説を唱えることも誤りだ。

 クーンや、さらにラディカルなファイヤーベントらは、科学の不一致を強調するあまり、なぜ科学者たちがあるパラダイムからパラダイムへと移動するのか、その合理的な理由を説明することができなかった。


3.正当化についての階層モデル

 そこでラウダンは、まず科学における正当化についての「階層モデル」を振り返る。

 それは、事実→方法→目的(価値)の階層からなるモデルである。

 ここにおいて、「事実」の不一致は「方法」によって解決され、「方法」の不一致は「目的」によって解決される。

 しかし「目的」の不一致は、それ以上の審級がないため解決不可能となる。

事実についての不一致は方法論的なレベルで解決され、方法論上の意見の相違は価値論的レベルにおいて取り除かれる。価値論的なレベルでの意見の相違は、(科学者たちが同一の目的を共有すると想定されることを根拠として)存在しないとされるか、あるいは、もし存在するのであれば、解決不可能であるかのどちらかであると考えられている    

 これは標準的なよくできたモデルだが、いくつかの欠陥がある。

 まず、このモデルは、「目的(価値)」を達成するための方法は必ずしも1つではないことを見逃している。また、「目的」が方法を完全に規定するわけではないことも見逃している。

 要するに、どのような「目的(価値)」をめざそうとも、科学の方法は一つではないのだ。

「ずっと追い求められてきた、唯一の「科学的方法」なるものはかなわぬ望みであるだろう。    


4.クーン批判

 しかしだからと言って、ファイヤーベントのように科学の方法は「何でもあり」というわけにはいかない。

 ここで、ラウダンはファイヤーベントほどには過激ではないが、同じような相対主義的傾向を持つクーンを批判する。

 まず、クーンによれば、上述した「事実」「方法」「目的」は、パラダイム転換の際、すべてパッケージになって一気に変わるとされる。

 しかしラウダンによれば、そんなことはあり得ない。

「二人の科学者がちょうど同じ認知的目標にしたがっていながら、それでも宇宙に何が備わっているかについて根本的に異なった見解を支持するかもしれない、と考えることは全く可能なのである。」 

   「科学者たちは、認知的方法や目的に関する完全な一致が存在しない場合でさえも、事実レベルのどの理論を受け入れるべきかに関しては、ほぼ満場一致に到達することができるし、またしばしば到達してきた。価値論に関する同意は、それゆえ、事実に関する同意の必要条件でも十分条件でもない。」

 要するに、科学者たちは、同じ目的を持ちながらも方法や事実認識において異なることはあるし、目的が同じでなくても、事実認識や方法論が一致することはあるのだ。

 さらにラウダンは、クーンの相対主義を次のように批判する。

 上述モデルにおける「目的(価値)」は、これを異にする者同士がいた場合、それを調停するより上位の審級を持たない。したがって、クーンによれば、どの「目的(価値)」(ひいてはパラダイム)を持つかは、究極的には人それぞれの好みによるということになる。

「悪名高いことに、彼は、新しいパラダイムを受け入れることを、「回心の体験」と表現している。」    

 しかしそんなことはないとラウダンは言う。科学者は、どのような「目的」やパラダイムを受け入れるかについて、ちゃんと合理的な判断をしているのだ。


5.網状モデル

 そのことを理解するために、階層モデルから「網状モデル」へと転換する必要がある。

「網状的描像が階層的描像と最も根本的に異なるところは、相互調整、相互正当化の込み入った過程は、科学的なコミットメントの三つのレベルすべての間で進行する、と強調する点にある。正当化は、階層の中で下向きになされるのと同じだけ上向きにもなされ、目的、方法、事実に関する主張を結び付けている。もはやわれわれは、これらのレベルのどれか一つが、特権的であるとか、第一義的であるとか、あるいは他のレベルと比べてより根本的であると考えるべきではない。」    

 要するに、「事実」「方法」「目的」は、階層ではなく、相互に作用し合った入れ子構造の関係にあるのだ。

 そう考えると、「目的」のレベルで食い違いがあった場合にはこれを調停する審級がないとする「階層モデル」の主張は成り立たなくなる。

 「事実」や「方法」の次元との相互作用が、科学者たちがどのような「目的」を持つかを合理的に選択させるのだ。

 たとえば、「目的」があまりにユートピア的すぎる場合、科学者はその目的を棄却するだろう。

「もし誰かが私に、彼の根本目標は光速よりも速く移動することであるとか、あるいは同時に二つの場所にいることであるとか言うならば、私の反応は次のように言うことだろう。すなわち、世界とその法則が許す可能性に関する、われわれの知識の現状からすれば、彼は達成不可能なことを目指している、と。」    

 公言された目的と、実際の目的とが食い違っている場合も、科学者は目的それ自体を見直すことになるだろう。

 その好例に次のようなものがある。

 18世紀における科学の「目的(価値)」は、「観察不可能なものは科学の対象から排除しなければならない」というものだった。

 しかしすでにその頃から、この目的ではうまく説明できないものがたくさん現れていた。

「実際に成功をおさめている、電気の理論、発生学、一八世紀中ごろの化学は、観察不可能な存在者の措定に決定的な仕方で依存しているように思われたのである。」    

 こうして科学者たちは、科学の「目的(価値)」それ自体を見直すようになったのだ。

「観察不可能なものを含まない科学という古い明示的目的は、そのような存在者を措定した理論の著しい成功の餌食となった。」    

 以上が、ラウダンによる相対主義批判だ。科学は、それが同意を押し進めるだけの合理的な理由を持っているのだ。


6.実在論批判

 最後に、ラウダンはもう一方の実在論批判を行う。標的は、パトナム、ポパー、セラーズ、ボイドらだ。

 多様な仕方で彼らを批判するラウダンだが、その最大のポイントは次の点にある。


実在論者は、科学の目標は自然的世界についてより真であるような理論を見出し続けることだと主張する。

実在論の擁護者のうち誰もまだ、近似的真理についての首尾一貫した説明で、近似的に真な理論はそれらをテストしうる範囲にわたって予測に成功するだろうということを含意するようなものをまだ明示できていない。

 要するに、われわれは何が実在的な「真」であるかを確かめるすべを持たないのだ。したがって、「真」にどれだけ近づいているかを知ることもできない。

 この意味において、実在論は根本から論駁される。


(苫野一徳)

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