プロティノス『エネアデス』


はじめに

 3世紀における、いわゆる「ネオプラトニズム」(新プラトン主義)の創始者プロティノス

 プラトンがイデアの世界と現実界とを区別したのに対して、プロティノスはこれを一元的に綜合しようと試みた。

 本書で彼は、語りえぬ絶対の「一者」(ト・ヘン)について、さまざまな角度から論じている。

 その形而上学的世界観において、世界は次のように秩序づけられている。すなわち、

 一者→知性(ヌース)→魂→自然(ピュシス)→素材    

 「一者」とは、名づけえぬ絶対の存在のこと。

 知性(ヌース)は、この一者から光をあたえられることによって成立する。

 魂は、知性(ヌース)から善なる光をあたえられることによって魂になる。

 プロティノスの描き出すイメージによれば、中心を同じくする三つの円を描いたとして、中心に近い円が一者、次の円が知性(ヌース)、そして外側の円が魂となる。

 要するに、わたしたちの魂は、知性によって光を与えられなければならず、また知性は一者から光を与えられなければならないというわけだ。そうでなければ、わたしたちは単なるこの世界の「素材」にすぎない。


 古来より、形而上学的世界観にはいくつかの類型がある。

 現世を超えた絶対の神の世界を論じるもの(キリスト教)。

 善の神と悪の神からなる世界を論じるもの(ゾロアスター教)。

 一切が「空」であることを論じるもの(大乗仏教)。

 など。

 これらそれぞれの世界観をもとにして、さらにいくつもの形而上学的世界の展開がある。特に仏教は、キリスト教以上に、そうした形而上学的世界を究極にまで展開したように思われる(『仏教の思想』シリーズのページ参照)。

 プロティノスの場合はどうか?

 絶対の神の世界とわたしたちの魂とが、そもそもはつながり合っていることを論じるもの。

 そういっていいだろう。

 肉体や感覚にとらわれ、一者とのつながりを見出せない人びとに、プロティノスはその真理を思い起こさせようとする。おそらくここに、プロティノス哲学の真髄がある。


 哲学においては、カント以来、こうした形而上学的世界観は「検証不可能な物語」として「禁止」されることになる(カント『純粋理性批判』のページ参照)。

 実際、一者など本当に存在するのか(プロティノスは、それは存在するとかしないとかいう次元のものではないというのだが)、わたしたちは本当にこの一者とつながっているのか、といったことは、どうがんばっても「分からない」ことだ。

 したがって、プロティノスをはじめ、あらゆる形而上学的哲学は、今やまじめに受け取られるべきものではないといわなければならない。

 しかしそれはそれとして、人間がその理性(推論能力)を駆使して描き出す形而上学的世界観は、わたしたちがどこまでこの世界の果てを「理性的に想像・推論しうるか」を知る意味において、いつまでも興味のつきないテーマではある。

 以下では、本書からいくつかの論文を取り上げ紹介・解説することにしよう。


1.「善なるもの一なるもの」

 「一者」について、プロティノスはまず次のようにいう。

「それは何らかのもの(実体)でもなし、また何かの性質でも量でもないわけである。それは知性でもなければ、たましいでもない。それは動いているものでもなければ、また静止しているものでもない。場所のうちになく、時間のうちにないものである。それはそれ自体だけで、唯一つの形相をなすものなのである。否、むしろ無相である。」

 このような「一者」を、わたしたちは知識を得るように知ることはできない。

「かのものの会得は、学問的知識によるのでもなく、また他の知性対象のごとく、知性の直知によるのでもない。それは知識以上の直接所有の仕方によるのである。」    

 それは「直接所有」によってしかたどりつけないものなのだ。ありていにいえば、一者と「合一」することによってといっていい。

 それゆえプロティノスは次のようにいう。

見る者は見られたものと相対して二つになっていたのではなくて、見られたものと自分で直接に一つになっていたのであるから、相手は見られたものというよりは、むしろ自分と一つになっているものというべきであったろう。

「かくて、もし自分がこのようなものになるのを視るにいたるならば、そこにひとは自己をかのものの似すがたとしてもつことになるわけである。」


2.「三つの原理的なものについて」

 「三つの原理的なもの」とは、「一者」「知性」「魂」のこと。

 プロティノスによれば、わたしたちの知性も魂も、本来は一者から生じたものである。

「知性はかのものの肖像なのである。〔中略〕しかし、かのものがそのまま知性となるのではない。〔中略〕見るはたらきが知性なのである。」

まことに、われわれのいう知性はかくのごとき素性のものであってみれば、この上なく純粋なものとしてのこの知性には、第一の始元以外のところからは決して生じえないというのが、当然のことでなければならない。」

「ところで、知性から生まれたもので、一種の言論的表現であり、またひとつの存在として成立しているものに、たましいの知性的な部分がある。これは知性を中心に運動して、どこまでも知性に依存するような、知性の光彩であり、また跡形なのである。」


3.「幸福について」

 以上のようなわけだから、「幸福」とはこの「一者」と合一した状態であるということになる。

 このような幸福状態においては、もはや何も求めるところはなくなる。

「〈完全な生〉の状態にある人はほかに何も求めたりはしないということが、彼自身が善であるということを物語っているのである。というのも、他にまだ探し求めなければならないようなものが何かあるのだろうか。」    

 しかしそれは本当だろうか? 現世的な幸福を抜きにして、ただ「一者」と合一しているだけで、わたしたちは本当に幸福といえるのだろうか?

 プロティノスはいう。

君たちの主張が、幸福は〈苦しみを受けないこととか、〈病気にならないこと〉とか、〈不運でないこと〉とか、それにまた、〈大きな災害にめぐりあわないこと〉とかの中にあるということなら、人は誰でもそのような災いにあえば、それでもう幸福ではないとうことになっただろう。しかし幸福が〈ほんとう善いものを所有すること〉中にあるのな、どうして、こ点に注目し幸福を判別しようとせず、これを見捨てて、幸福の中に数えられてもいないことなどを探究する必要があるだろうか。    

 プロティノスにいわせれば、現世的な幸福など真の幸福とはいえないのだ。

 それゆえ彼はいう。たとえ戦争で妻や子どもを捕虜にされ殺されたとしても、「幸福」な者は幸福であり続けるのだと。

「賢者は、望ましくないことが身にふりかかる時には、自分のもっている徳によって、魂がそれに直面しても、動揺したり惑わされたりしないようにするのである。    

 では、わたしたちはどうすればそのような境地にたどりつくことができるのか? 

 それは肉体や感覚から離れることによって、とプロティノスは説く。

「体力や感覚力にあまりにも恵まれすぎていると、かえってそれが重石になって、人を感性界のレベルヘ引き下げてしまうおそれがあるからである。そこで、もう方の、〈最善なるもの〉に面した側に、いわば(感性的な面との均衡をとる)分銅のようなものがあるのだから、人はそれを用いて、肉体を弱め、劣ったものとし、まことの人間は〈外的なもの〉とは別であることを示さなければならない。」

「さて、この世に住んでいて、美男子で背が高く、金持で、すべての人の支配者となっている男、それも、彼が心底からの俗人だからそうなることができたような男がいると仮定してみようはそのような男をねたんではいけない。彼は肉体的な条件とか財産や地位にだまされているのである。
 これにたいして、知者(=賢者)の方は、おそらく地位・財産・美貌・健康など、〈ほんとうの自分〉に関係のないものは全然もたないだろうし、たとえもっていても、彼の関心は〈ほんとうの自分〉にあるの、だから、そんなものは自分で徐々に少なくしていくだろう。    


4.「美について」

 最後に「美」について。

 当然のことながら、「美」もまた、プロティノスにとっては感性界を超えた「一者」と関係づけられているものをいう。

「要するに、この感性界の美は(あの知性界の美の)映像にすぎず、いわば(あの世から)脱け出し、素材(界)に降りてきてこれを飾りつけ、(その素材を身にまとって)姿をあらわし、われわれをびっくりさせる亡霊(影)のようなものなのである。    

 これと反対に、「醜い魂」とは「一者」とのつながりの絶たれたもののことである。

 しかし、いっさいは本来「一者」から生じたものである。

 したがって、わたしたちはいわば黄金についた泥を拭うようにして、そもそもの美を回復させることができる。

「人がその土塵を拭い取ると、美しい姿をした黄金が残されることになるが、これは、黄金が他のものにかかわらず、自分とだけしか交わっていないことによるのである。まことに、魂のばあいも同じことが言えるのであって、あまりにも肉体と交わりすぎることによって生ずる、肉体ゆえの欲望から離れ、そのほかの情念からも自由となり、肉体にやどることによってもつようになったいろいろなものから浄化されて、ただ自分だけになった時、その魂は、自分以外のものに由来するいっさいの醜さを捨て去ったことになるのである。    

 では、そのような美をわたしたちはどうすれば見ることができるのだろう?

 プロティノスはいう。

 そもそもわたしたちが「一者」と結ばれ合っているものである以上、わたしたちは自らの美に眼をやればいいのだと。

「まず、君自身に返り、君自身を見なければならぬだが、それでも君自身の美しさを見ることができなければ、彫刻家のようにふるまうがよい。彫刻家のつとめは美しい彫像を作りあげることで、そのために、彼は、いろいろな部分を切りとったりみがいたり、なめらかにしたりきれいにしたりしこれをねばり強くつづけることによって彫像にしい容姿をあたえるのだが、同じように君も、君の余分なところを切りとり、曲ったところをまっすぐにし、漠然と暗くかすんでいるところをきれいにして輝きをあたえ、これをねばり強くつづけながら、徳のもつ神のような栄光が君のうえに輝きわたるまでは、つまり、「聖なる台座に鎮座まします節制を観るまでは、君の彫像作りをやめてはならない。

つまり、眼は太陽のようにならなければ、太陽を見ることはできないのであるし、同様に魂も美しくならなければ、美を見ることはできないのである
 だから神や美を観ようとする者は、まず自らが完全に神のような者となり、きわめてしい者とならなければならぬ。」


(苫野一徳)


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