デュルケーム『宗教生活の原初形態』(1)



はじめに

 デュルケーム宗教社会学の大著。

 宗教とは何か? それはなぜ、どのように始まったのか?

 未開部族の宗教を手がかりに、デュルケームはこの問いに挑む。

 人間にとって、宗教とは、そして社会に生きるとはどういうことか、深く考えさせてくれる名著だ。


1.宗教とは何か?

 本書のはじめに、デュルケームはまず宗教の本質を明らかにすることを試みる。

 まずデュルケームは、それは「超自然的」なものではないという。

 むしろそれは、「自然法則」を理解しようとするものである。

 つまり宗教は、科学以前に、世界の成り立ちを合法則的に説明しようとした営みだったのだ。

 続いてデュルケームは、宗教は「神」の概念を必ずしも含む必要のないものだと述べる。

 仏教やジャイナ教を見れば、そのことは一目瞭然だ。

 では宗教の本質とはいったい何なのか? デュルケームは言う。

「世界を一つはあらゆる聖なるもの、他はあらゆる俗なるものを含む二領域に区別すること、これが宗教思想の著しい特徴である。」
  
 つまり宗教とは、「聖」「俗」の区分に対する「信念」と「儀礼」の体系なのだ。

「宗教現象は、当然に、二つの基本的範疇すなわち信念と儀礼とに配列される。」

 これはきわめてすぐれた洞察といえるだろう。

 では、聖なるもの、俗なるものとはいったい何か? デュルケームはいう。

「聖物とは、禁止が保護し孤立させる物である。俗物とは、この禁止の適用された聖物から離れたままでいなければならない物である。」

 さらにデュルケームはいう。

「歴史には教会の無い宗教は存しない。」

 つまり宗教とは、すぐれて集団的・社会的な本質を持つものなのだ。

 こうして、デュルケームは宗教を次のように定義する。

「宗教とは、神聖すなわち分離され禁止された事物と関連する信念と行事との連帯的な体系、教会と呼ばれる同じ道徳的共同社会にこれに帰依するすべての者を結合させる信念と行事である。」


2.アニミズム論批判

 宗教がどのようにしてはじまったのかという説には、大きくアニミズムナチュリズムの2つがある。

 本書でデュルケームは、そのどちらの説も批判する。

 まずアニミズムについて、デュルケームは次のようにいう。

 アニミズムとは、世界のいたるところに目に見えない精霊を認めるものである。

 この説の主唱者タイラーは、アニミズムのはじまりは死者や祖先の霊崇拝にあったという。

 これに対し、デュルケームはまず次のような事実によってこの説を批判する。

「事実はむしろこれに反する。祖先崇拝は中国、エジプトおよびギリシャやラテンの諸都市などの進歩した社会にしか発達せず、特色ある形態をとりもしない。これに反し、後に述べるように、知られているかぎりでもっとも下級で単純な社会組織の形態を現わしているオーストラリア社会には欠如しているのである。」

 さらにデュルケームは、アニミズムはつまるところ夢のような実体のないものを崇拝するものであり、人類がそのような幻想から宗教を作り出すはずがないという。

「諸民族が、あらゆるときに赴き、生きるに必須なエネルギーを汲んだ宗教のような観念体系が、幻想の織合せにすぎない、とは認め難い。」

 のちに見るように、デュルケームの考えでは、宗教とは社会的な「実体」をもつものなのだ。


3.ナチュリズム批判

 続いて、デュルケームによるナチュリズム批判を見てみよう。

 目に見えない精霊を崇めるアニミズムとはちがって、ナチュリズムは目に見える月や太陽、動物、植物などを崇めるものである。

 ナチュリズムの主唱者たちは、宗教のはじまりはこのような自然崇拝であって、アニミズムはそこから派生したのだと考える。

 しかしデュルケームは、ただの自然崇拝は宗教とはいえないという。

「宗教は、これらの自然力が抽象的形態で精神に表象されるのをやめたときに、始めて真に構成されるのである。これらの自然力が人格者・生きた考える存在・霊的威力または神々に変形しなければならない。」

 さらにデュルケームは、そもそも原始人は、自然に圧倒されることなどないという。

「彼らはけっして宇宙の力が自己の力よりも秀でているとは意識しない。科学によってまだ節度を教えられていないので、彼らは事物に対する支配権を自己に帰する。〔中略〕すでに述べたように、彼らは自然界の基本要素を思いのままにし、風を激しくし、雨の降るのを強い、身振りで太陽を止めうるなどと信じている。」


3.トーテム信仰

 こうしてデュルケームは、ナチュリズムでもアニミズムでもない宗教の原初形態の探究を開始する。

 考察の対象とされるのはトーテミズムだ。

 オーストラリアをはじめとする原始社会の氏族は、自分たちをたとえばカンガルー族であると考える。この場合、カンガルーがトーテムとされているのだ。

 トーテムとされる動植物を、人びとは食べてはならないとされる(ただし特別な儀式などの時には食べる)。

 また、彼らはそのトーテムの画像をさまざまな聖物に刻む。

「チュリンガ」の画像検索結果 有名なのはチュリンガだろう。(右写真)

 ここで重要なのは、このチュリンガなどトーテム画像を刻まれた聖物は、トーテムそのものよりも聖なるものとされるということだ。

 したがって、トーテミズムは動物崇拝とは区別される必要がある。

 そもそも、トーテム動植物は氏族の同胞、家族と考えられているのだ。

 ところで、氏族のトーテムに加えて、部族によっては個人トーテムと性的トーテムというものもある。

 個人トーテムは、氏族のトーテムとは別に、個人の守り神とされるものである。

 たとえば鷲を個人トーテムとする者には、未来を予見する目が与えられると考えられている。

 氏族トーテムが歴史的に決定されたものであるのに対して、個人トーテムは個人の選択によって決定されるという特徴がある。

 性的トーテムは、氏族(集合的)トーテムの一種と考えられるもので、たとえばクルナイ族では、男子はすべてエミュ紅雀の兄弟であり、女子はみな美しい頬白の姉妹であるとされている。


4.マナ

 さて、このトーテミズムは、いったいどのような宇宙観に基づいた宗教なのだろうか?

 デュルケームはいう。

「トーテミズムは、某の動物、あるいは某の人間、もしくは画像の宗教ではない。これらの存在のいずれにも見出されるが、それにもかかわらず、そのいずれとも混淆されない一種の匿名の非人格的な力の宗教である。これをすべて所有しているものはなく、また、すべてがこれを分有しているのである。」

「すなわち、トーテムとは、この非物質的な本体、このあらゆる種類の異質的存在を通じて伝播しているエネルギーの想像に再現される物質的形態にすぎないのである。これだけが礼拝の真の対象である。」

 つまり未開部族の人びとは、ポリネシアやメラネシアの言葉でいう「マナ」がこの世界に行き渡っていると考えるのだ。

 これについて、デュルケームは、世界にあまねく存在するこの「力」の観念こそ、科学の精神の萌芽であったという。

「力の観念は宗教的起源のものである。宗教からこの観念をまず哲学が、ついで諸科学が借りたのである。」


5.社会的な聖と俗

 ところで、聖と俗の観念を、人はいったいどのように得たのだろうか?

 デュルケームは、それはきわめて社会的な観念であるという。

 社会は個人に対して圧倒的な力を持っている。

「われわれは自分が造ったのではない言語を話す。自分が発明したのではない器具を用いる。自分が制定したのではない法を援用する。認識の財宝はこれを蓄積したのではない各世代へ伝達される、等々である。われわれはこれらのいろいろな文明の財貨を社会に負うているのである。しかも、どのような源泉からこれらを得てきたかを一般的には知らないが、少なくとも、われわれの作品でないことだけは明瞭である。」

 とはいえ、その力は、「聖なるもの」にまで昇華されないかぎり本領を発揮しえない。

「これらの事物が通俗の経験に現われるままの経験的特質にとどまるかぎり、宗教的想像がこれらを激変させないかぎり、われわれはこれらの事物に対して尊敬に類する何ものをももたないし、また、そこには、われわれをわれわれ自身の彼方に高めるのに必要な何ものもない。」

 そこで、社会は「聖」と「俗」との区分を作り出すことになる。

「俗」とは、端的にいって「労働」の世界のことである。

 対する「聖」は、集団的狂騒、すなわちコロボリーのことである。

「前者では、経済的活動が主宰していて、一般に、その強度はきわめて凡庸である。〔中略〕ところが、コロボリーが行なわれるとすべてが変ってしまう。原始人は、情緒的な機能が自らの理性や意志の制御に不完全にしか服従していないので、容易に自制心を失う。」

「そのような経験がことに数週間を通じて毎日反復されるとき、それは、実際に、双方の間には比較のできないこつの異質の世界がある、という確信を彼にとどめないであろうか。一つは、彼が物憂くも日常生活を送っている世界である。これに反し、もう一つの世界には、狂愚の状態にまで彼を興奮させる異常な威力と同時に関係しない限り、参入できないのである。前者は、俗の世界であり、後者は、聖なる事物の世界である。」

 こうして作り出された社会的聖と俗から、宗教的観念は登場したのだ。デュルケームはそのようにいう。


「したがって、宗教的観念が生まれたと思われるのは、この激昂した社会的環境における、この激昂そのものからである。」

 宗教は苦悩や恐怖から生まれたと時にいわれるが、以上からそれは大きな間違いだということになる。

「原始人は、その神々を、自らあらゆる価値を払ってもその好意と妥協しなければならない外者・敵者・根本的にまた必然的に悪意ある存在とは見なかった。まったくそれとは反対に、神々はむしろ親友・縁者・当然の保護者であった。」

 むしろ、トーテミズムは、私の言葉でいえば「全体性への信任」から生まれたものなのだ。

「トーテミズムの根本にあるものは、要するに、恐怖や束縛のそれ以上に信任の感情である。〔中略〕嫉妬深い怖ろしい神々は宗教進化の後期にしか現われない。〔中略〕社会の魂を個人はすべて自身のうちにもっている。それは彼の一部をなしている。したがって、それが伝える衝動に身をゆだねるときには、彼は、拘束にゆだねるのではなくて、彼の天性が呼ぶところに赴くのだ、と信じている。」


6.なぜトーテムなのか? なぜ動植物なのか?

 それにしても、なぜこの社会=聖的経験がトーテムとして固着することになったのだろうか?

 デュルケームはいう。

 人間は、何らかの「しるし」に意味を見出すものである。

 たとえば、黒は喪の色である。したがって、それは悲しみを意味する。

 同じように、戦争の際、人は自分たちの旗を守ることに命をかけることがある。

 トーテムは、この氏族の旗と同じ意味を持つものと考えられる。

「トーテムは氏族の旗である。したがって、氏族の個人意識によび起す印象――依存ならびに活力が増加したという印象――が、氏族の観念より、ずっと甚だしくトーテムの観念に結びつくのは当然である。」

「氏族とは、本質的には、同一名をおびて、しかも、同一の徴を囲んで繋がり合う個人の集合である。名とこれを物質化した徴とを取り去ってしまうと、もはや、氏族は表象することができないのである。」

 では、それはなぜ動植物だったのか? デュルケームはいう。

「記号的画像の材料はデッサンによって象られうる事物にだけ求められた。他方、これらの事物は、氏族の人々がもっとも直接に、またもっとも親しく関係していたものでなければならなかった。動物はこの条件を最高度でみたした。〔中略〕この関連では、植物は次にしか出てこない。指物は、栽培されないかぎりは、食料のうちで二次的な地位しか占めないからである。〔中略〕太陽・月・星は余りにも遠く、他の世界に属しているという印象を与えたのである。」






(苫野一徳)

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