ブリュル『未開社会の思惟』


はじめに

Lucien Lévy-Bruhl フランスの文化人類学者、リュシアン・レヴィ=ブリュル(1857〜1939)。

 本書で彼は、いわゆる「未開人」の思考パターンを描き出す。

 ひと言でいえば、それは「融即の法則」に基づいた思考であるとブリュルはいう。


 「融即の法則」、それは何もかもを同一視する思考、何もかもに因果関係を見出す思考である。

 もっとも、このいい方はやや雑駁にすぎる印象も拭えない。

 実際、のちにレヴィ=ストロースはブリュルを批判し、未開人独特の強靭な論理的思考を「野生の思考」として描き出すことになる(レヴィ=ストロース『野生の思考』のページ参照)。

 とはいえ、あらゆる人類が同じような考え方・感じ方をするにちがいないと信じられていた当時にあって、ブリュルが未開社会独自の思考様式を描き出したことには、大きな意義があったというべきだろう。

 ちなみに、ブリュルは本書で、この「融即の法則」からいわゆる「科学的思考」へと人間社会が跛行的に進歩してきたことを述べてはいるが、なぜ、どのような条件でそのような思考の展開が起こったのかについてはまったく触れていない。

 おそらく、その背景には狩猟採集社会から定住・農耕・蓄財社会への移行、そして普遍的な戦争状態や、強大な支配社会の登場などがあったであろう。

 人間の思考様式と社会構造との関係性について、より深い探究が必要だろうと思う。


1.集団表象の研究

 本書冒頭において、ブリュルは、未開社会を知るためには「個人」の心性ではなく「集団表象」を研究しなければならないという。

 集団表象とは、その集団が持っている世界観のことである。

 わたしたちは、未開社会の人びとも、基本的にはわたしたちと同じような物の見方をすると考えがちだ。

 しかしそれは全くの誤りであるとブリュルはいう。

「集団表象はそれ自身の諸法則を持ち、該諸則は、特に原始人に関係する場合、文明国の白人成年者の個人の研究からは発見できない。」

 もちろん、未開人もわたしたちと同じような視覚、聴覚、嗅覚、体感覚などを持ってはいる。

 しかしその感覚が受け取ったものの解釈の仕方は、わたしたちのものとは異なっている。

 彼らは、彼らの社会の世界観に基づいて世界を解釈しているのだ。(この点については、ブリュルも本書で言及しているデュルケームの書『宗教生活の原初形態』のページを参照のこと。)

 そこで本書の課題は次のように述べられる。

「私が本書で試論或は序説の意味で試みようとしていることは劣等社会、就中我々が知る限りで最も低い社会で集団表象を規制する最も一般的な諸法則の予備的研究である。」


2.神秘的世界

 まず、ブリュルは未開人の世界観は全般的に「神秘的」なものであるという。

 たとえば、そこに生物と無生物の区別はあまりない。

「存在するすべてのものが神秘的な作用力を具えて居り、この作用力が我々の五感によって知られる属性よりもその性質上はるかに重要であるので、生物と無生物との区別は原始人の心性にとっては我々の心性ほどの関心性を持ってはいない。」   

 ブリュルは、こうした「神秘的」世界観の例をたくさん挙げる。

 たとえば、「肖像」は彼らにとって生物と同じような実在物である。

 人や村の「名前」もまた、きわめて重要な実在的意味を持っている。

 「影」もまた、その持ち主と同じ存在意義を持っている。

「フィジ島では、同じ発達段階の社会の大部分に於けると同じく、他人の影の上を歩くことは、致命的な侮辱である。西部アフリカでは、人の影に小刀または針を刺すことによる殺人が時々行われる。もしその現行中を抑えられた場合には、犯人は即刻死刑に処される。」    

 「夢」もまた、彼らにとってはひとつの現実である。

「彼等は夢に覚醒時の知覚と同じく確実な現在知覚を見ている。しかし彼等にとって、それは就中未来の与件、精、霊、神との交通、その個人的な護神と接し、それを見出す手段でさえもある。彼等が、夢を通じて知ったことの実在性については、全幅の信頼を持っている。」    


3.融即の法則

 以上のような「神秘的」世界観を貫く法則を、ブリュルは本書で「融即の法則」と名づける。

 たとえば、北部ブラジルのボロロ族は、自分たちは金剛いんこであると誇っている。

 これについてブリュルは以下のように述べる。

「これは単に、死んでから彼等が金剛いんこになるとか、金剛いんこを変形したボロロ人として扱わねばならぬとかいうだけを意味するのではない。〔中略〕彼等がそれによって意味させようとしているのは、本質上の同一性である。」    

 こうした思考を、ブリュルは神秘的であると同時に「前論理的」と呼ぶ。


4.前論理的思考の諸特徴

 前論理的思考の特徴を、ブリュルは本書でいくつも描き出す。

 たとえば、彼らは「記憶力」にはすぐれているが「計算」はできない。

 数を数える時も、1、2、3、4、5...とはじめは数えられるが、数が増えるにつれて理解ができなくなる。

 狩りに行く際、彼は獲物に前もって呪いをかける。

 狩りの最中には、獲物の種の名前を呼んではならないといったいくつもの「タブー」がある。

 獲物を取り囲んだ時は、煙草の煙を吐き出して獲物との間にある神秘的空間を作る。

 獲物を仕留めた後は、その霊の復讐を怖れて、あるいはその霊を弔うための儀式を行う。

 病気は呪術によるものとされ、巫医や呪術師が取り除く。

 死もまた呪術による殺人である。

 以上のような前論理的思考の特徴を、ブリュルは次のようにいう。

「論理学者が「これの後で、したがってこれのために」という詭弁の名で指していることはこの融即を考え浮べるのに或る助けにはなろう。夏、大きい彗星が現われた年の秋、例外的なブ葡萄の収穫がある。皆既日蝕の後、戦争が勃発する。既に高等な型の社会の心性でさえも、かかる前後関係は偶然の符合ではないのである。時に於ける事件の相互関係は直接の継起に於けるだけではない。明瞭な分析とは相容れない一つの関係が、葡萄酒と彗星とを、また戦争と日蝕とを結びつけるのである。ここに、我々が融即と呼んで来たものの鮮かな遺物がある。しかし、全く劣等な型の社会の心性は偶然関係を認めない。その表象中に形成されるすべての関係に紳秘的意味を与えるこの心性は、「その後、したがってそのため」と云うと同じく容易に、「それの傍、だからそれのため」と云うのである。空間的の隣り合わせは時間の隣り合わせと同じく融即である。」    

 未開人は、時間的・空間的に隣合わさる事柄の一切を、因果関係として認識するのだ。


5.神話=集団的連帯感を保障する機能

 以上から、ブリュルは神話の機能について次のような仮説を述べる。

社会集団に対する個人の融即が未だ直接に感ぜられるところ、囲繞集団に対するそ集団の融即現実に生活されているところ――即ち、神的共存の段階がつづいている限――では、神話は数に於て乏しく、質に於て貧弱である。オーストラリア土人、及び北中央ブジルの土族等々の場合がそれである。集団が多少進歩した型をとると、例えばツニ族、ロコイ、メラネシア土族及びその他の諸族では、これに反して、神は次に豊富に咲き揃いつつあるのが見られる。しからば、神話はまた、直接なものとして感ぜられなくなった融即を実現しようと努めるとき、融即がもはや生活されない同体感を保証すため仲介用の運搬物に頼りはじめたとき、現われる原始心性の産物であろうか。

「一言で云えば、原始心性にとって、神話は社会集団の、その過去との、また囲繞存在の諸集団との連帯感の表現であり、この連帯感を支持し、再生させる手段である。」

 神話が発展するのは、これまでに述べてきた「融即の法則」がやや薄れ始めた社会においてである。

 それゆえ社会は、社会の連帯感を維持するために、「融即の法則」に基づいた神話を作り出したのではないか。そうブリュルはいう。


5.上級型への過渡

 社会が進歩するにつれ、前論理的・神秘的な融即の法則に基づいた認識は薄らいでいく。

 代わりに進歩するのが、抽象的一般観念に基づく合理的推論、つまり「科学的」論理である。

 とはいっても、それはきわめて跛行的な進みゆきである。

「劣等社会の心性は、経験の教えを多少とも受けるようになってからでさえ、長い間前論理的であり、その表象の大部は神秘性の痕跡を残している。」    

 その証拠に、中国やインドでは、あれほど文明が発達したにもかかわらず科学はほとんど発展しなかった。

 それは、その社会の「集団表象」が、いまだ前論理的なものにとどまったからだろうとブリュルは述べる。


6.融即の法則は消滅しない

 本書の最後に、ブリュルは、どれだけ社会が進歩しても、未開社会から受けついできた融即の法則が消えることはないだろうという。

 その証拠に、われわれの学の歴史には、これまでつねに主知主義に対する反主知主義からの攻撃があった。

「こんな学説は定期的に現われるもので、現われる度毎に新たな歓迎を見出す。これはそれが、純粋実証的科学乃至は哲学が到達しようと自負し得ないものを約束するからである。それは直感、相互浸透により、主体と客体との相互的同体感により、一語にして云えばプロチヌスが無我境という名で示している、十全な融即によって行われる本質との直接な密接な接触である。」
 
 要するに、主知主義(科学的思考)と反主知主義(融即的思考)は、人間の持つ2つのまったく異なった思考パターンなのである。

 そして、にもかかわらず、これらは時代を超えてつねに共存してきた。

 ブリュルはいう。

「我々の社会にあってさえ、融即の法則に支配される表象と表象連繋とは消え去るどころではない。それらは、多少損われてはいるが未だ根絶されずに、多少独立して、推理の法則と相並んで存在している。本来の理解は論理的統一に傾き、その必要を宣言している。しかし実際では、我々の精神活動は合理的であると共に不合理である。前論理的なるもの及び神秘的なるものは論理的なるものと共存している。」    


(苫野一徳)


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