W.ジェイムズ『宗教的経験の諸相』(2)

はじめに

 前巻で、ジェイズムは宗教的経験の本質を「神的なものとの関係性の悟りの経験」として描き出した。

 この経験は、何らかの精神病的な潜在意識によってもたらされるものである。

 しかしだからと言って、それはくだらない幻想・幻影であるというわけではない。なぜならわたしたちは、そこに確かな「意味」「価値」を感じとることができるのだから。

 ではその「意味」「価値」とはいったい何なのか?

 本書でジェイムズは、この問いに答える。


1.狂信

 まずジェイムズは、禁欲主義、心の強さ、清らかな心、慈愛といった「聖徳」を数え上げ、これらを分析する。

 そして言う。これらは、度を超した時攻撃的な「狂信」になってしまうのだと。

 そのひとつの典型が「十字軍」だった。

「熱狂的な帰依者は、〔中略〕自分の神がどれほど僅かに侮辱を加えられでも、無視されることがあっても、憤慨せずにはいられないし、自分の神に敵するものには恥をかかしてやらずにはいられないのである。」

「こうして、いくたびも十字軍遠征が説かれ、大虐殺がおこなわれたのであって、その理由は、自分たちの神が軽んじられたものと想像して、その侮辱を一掃するというにほかならなかったのである。」

 では、どのようなタイプの人が「狂信者」になってしまうのか。

「狂信というものは、専横で攻勢的な性格の人にのみ見いだされる。信心が強くて知性の弱い、おとなしい性格の人の場合には、神の愛の思いに心は夢中になって、ためにあらゆる実際的な人間的利害が排除されてしまう。」

 専横で攻勢的な人が「狂信者」になりやすい。そうジェイムズは言うのだが、そもそもなぜ人はそうした専横的で攻勢的になるのか、ジェイムズはここでもう一歩深めて考察する必要があったのではないかとわたしは思う。

 たとえば、その奥底には、自意識の過剰さと、それが満たされなかったり認められなかったりしたルサンチマンなどがあるのかもしれない。

 ないものねだりとは分かりつつ、個人的には、人が「狂信者」になる条件を、ジェイムズにもっと克明に論じ尽してほしかったと思う。


2.行為の「よさ」「正しさ」について

 続いてジェイムズは、(宗教的)行為の「よさ」について次のように言う。

 いかにもプラグマティズムにふさわしい、そして妥当な考え方だ。

「完全な行動というものは、三つの条件の間の関係である。すなわち、行為する人と、彼の行為の目的と、行為を受ける人々との間の関係である。行動が抽象的に言って完全であるためには、意図と遂行と受容との三条件が相互に適合していなければならない。最善の意図でも、間違った方法でおこなわれるか、間違った受容者に向けられるかすれば、失敗に終わるであろう。このように、行動の価値を批評したり評価したりする人は、行動がおこなわれるための他の二要素を除外して、ただ行為者の意図だけで判断するわけにはゆかない。」

 行為の妥当性は、彼の目的と他の人びととの関係性において決まる。そうジェイムズは言うのだ。

 それ自体において「正しい」「よい」行為などというものはない。たとえばどれだけ信仰に篤い人も、望まない人に行きすぎた「布教」をすれば、単なる独善になってしまうだろう。

 当たり前のことではあるが、常に心にとめておくべき重要な指摘だ。


3.聖者の価値

 以上のように、「聖徳」と言っても絶対に正しい聖徳などないし、行きすぎればそれは「狂信」にさえなってしまうものだ。

 しかしそうは言っても、さまざまな「聖者」の存在は、わたしたちにとってやはり大きな希望だ。

 彼らがいるから、わたしたちは世界には救いがあると思うことができるのだ。

「けれども、私同様、諸君も確信されていることと思うが、もしこの世の生活がそういう頑固で、冷酷で、けんか腰の方法ばかりでいとなまれるとしたら、まず即座に兄弟に援助の手をさしのべて、その兄弟が援助に値するかどうかを考えることなどはあとまわしにするというような人が一人もいなかったら、加害者に対する同情から自分自身に加えられた害を喜んで忘れるような人が一人もいなかったら、いつも他人を疑って暮らすよりも、むしろ何回でも喜んでだまされているような人が一人もいなかったら、思慮分別という一般の規則にのっとるよりも、むしろ情熱的、衝動的に人間を扱うことを喜ぶような人が一人もいなかったら、この世はいまよりも無限に住みにくい場所になってしまうことであろう。黄金律が当然のことになるような日が、過去においてでなく将来いつか、来るだろうという楽しい見込みが、私たちの想像から奪われてしまうことであろう。」

「この観点から私たちは、すべての聖徒たちのうちに見いだされる人間的な慈愛、またある聖徒たちに見られる過剰な慈愛こそ、真に創造的な社会的力であり、或る種の徳の実現が彼らの人的な慈愛によってのみ可能になるものであることを、認めることができるのである。聖徒たちこそ善の創造者であり、作者であり、増進者である。」

 その意味において、聖者を激越に批判したニーチェは偏りすぎている。ジェイムズはそう言ってニーチェを批判する。

 ニーチェは、博愛だとか利他だとかいった聖職者の道徳を、力弱き者のルサンチマンが生み出した「奴隷道徳」であると批判した。

 それにかえて、われわれは「貴族道徳」を持たねばならない。強き者が自らの価値を認め、また他者にもそれを認めさせうる、そのような「貴族道徳」を、と(ニーチェ『道徳の系譜』のページ参照)。

 これに対してジェイムズは言う。

「あわれなニーチェの反感はそれ自体がいかにも病的である。」

「ある意味では、そしてある程度まで、両方の世界の世界が認容されなければならないし、考慮されなければならない。」

 聖職者の道徳も、貴族道徳も、わたしたちはどちらもバランスよく持つ必要がある。

 さすがはプラグマティズムの哲学者、実にまっとうな、バランスのとれた批判だと思う。

 ジェイムズは言う。

「すべての人間が同じように侵略的であるような社会は、内部の摩擦によって自滅するであろうし、また、一部の人々が侵略的であるような社会では、そこに何らかの秩序を保つためには、他の人々が無抵抗でなければならない。これが現在の社会状態なのであって、この混合のおかげで、私たちは多くの恵沢に浴しているのである。」


4.神秘主義

 続いてジェイムズは、宗教的「神秘主義」について考察を進める。

 神秘的な精神状態について、ジェイムズはまず次の4つの特徴を挙げる。

 1.言い表しようがない、2.知的状態、3.暫時性、4.受動性

 1については説明は不要だろう。

 2は、神秘状態というのは、単に気分が高揚しているだけでなく、ある「真理」を知ったという知的状態でもあるということだ。

 3は、しかしその状態は長くは続かないということ。

 そして4は、この状態は意志によってつかむものではなく、向こうから「やってくる」ものであるということだ。

 この神秘状態を、ジェイムズはやはり潜在意識のたまものであると説明する。

 その証拠として、ジェイムズは次のような経験を物語る。

「亜酸化窒素とエーテル、ことに亜酸化窒素は、十分に空気で薄められると、異常なまでに神秘的意識を刺激する。〔中略〕数年前、私自身もこの亜酸化窒素による中毒をこの観点から観察して、その観祭を印刷して報告した。そのとき私の心には自然に一つの結論が生まれたが、この結論が真理であるという私の印象はそれ以来ゆるがずにいる。それは、私たちが合理的意識と呼んでいる意識、つまり私たちの正常な、目ざめているときの意識というものは、意識の一特殊型にすぎないのであって、この意識のまわりをぐるっととりまき、きわめて薄い膜でそれと隔てられて、それとはまったく違った潜在的ないろいろな形態の意識がある、という結論である。」

 ジェイムズ自身そのようなトリップ体験をしたのかどうかは定かでないが、彼は続けて次のように言う。

「私自身の経験をふり返ってみても、それらの経験はすべてが相寄って、私が何か形而上学的な意義を認めずにいられないような種類の洞察に集中するのである。その基調はきまって和解である。世界にはさまざまな対立があって、この対立するものの矛盾と葛藤から私たちのあらゆる困難や苦労が生まれてくるのであるが、その世界における対立物がまるで融け合って一体となってしまったかのような気がするのである。」   

 神秘体験は、ある種の「合一体験」なのである。

 ちなみに、唐突な話だが、わたしもこの「合一体験」をかつて存分に味わったことがある。それはまさに、宗教的経験・神秘体験と言うほかないものであり、そのためわたしは、ある時期「人類愛教」という宗教を実際に創設し、教祖さまになってしまったことがある。

 だからこのジェイムズの本は、わたしにとっては、かつての自分の体験がそのまま描かれているようなリアリティがある。読んでいる間はずっと身につまされているようだった。

 ジェイムズもまた、同じような体験をしたことがあったのではないか。わたしにはそんな気がする。

 ちなみに、この時の体験は、『子どもの頃から哲学者―世界一おもしろい、哲学を使った「絶望からの脱出」!』(大和書房)という本にくわしく書いたことがある。お恥ずかしいエピソードだが、ご興味のある方がいらっしゃれば、笑い飛ばしながらお読みいただければ幸いだ。




5.宗教と哲学

 さて、ジェイムズは最後に、宗教と哲学の関係性について論じる。

 ここで言う哲学とは、もちろんプラグマティズムのことだ。彼は言う。

「簡単に言えば、信念とは行動のための規則である。〔中略〕したがって、或る思想の意味を明らかにするためには、私たちは、それがどんな行動を生み出すのに適しているかを決定しさえすればよい。」

 プラグマティズムの考え方にしたがえば、絶対に正しい「信念」などというものはない。先に見たように、わたしたちの「信念」は、自分の行動をよりよいものに導いてくれるかぎりにおいて、「よい」とか「妥当」とか言うことができるものなのだ。

 それゆえ、宗教や宗教的経験の「よさ」も、プラグマティックな観点からすれば、どれだけ行動に「役立つ」かという点からはかられる(この点については、ジェイムズ『プラグマティズム』のページも参照されたい)。

 とそう考えたなら、宗教における「形而上学」的テーゼは、ほとんど何の役にも立たないものと言わなければならない。

「例えば、神の自存性、あるいは神の必然性、神の非物質性、神の「単一性」、あるいは私たちが有限な存在のなかに見いだすような種類の内的な多様性や継起に対する神の優越性、神の不可分性、および、本在と活動性、実体と偶有性、可能性と現実性などのような内的区別の欠如、一つの類への包含に対する神の拒絶、神の現実化された無限性、それが伴なうもろもろのふさわしい道徳的な性質とは別の神の「人格性」、許されてはいるが積極的ではない惑に対する神の関係、神の自己充足、自己愛、自己自身における絶対的幸福、――率直に言って、これらもろもろの性質がどうして私たちの生活と何か一定の関係をもちうるのであろうか?」

「これらの属性のどれかが真であるとして、それが私たちにとって宗教的にほんの僅かな意義でももっていようなどとは私には考えられない、と私は率直に告白せざるをえない。いったい、神の単一性により善く適応するために、私はどんな特別の行為をすることができるというのであろうか?」

 では、哲学的に言って意味ある宗教的経験の本質とは何だろうか?

 ジェイムズは言う。それは、「より高いものとの交流を通した、不安感とその解決である」と。

 そして繰り返し述べてきたように、それが神の恩寵であるにせよないにせよ、この経験は、潜在意識の媒介によって可能になるものなのだ。


6.科学も哲学も、宗教には取って代われない

 最後にジェイムズは言う。

「諸君はアル-ガザーリー(イスラーム神学者―引用者)が神秘主義に関する講義のなかで私たちに語ったことを記憶しておられるであろうが、――酩酊の原因を、意志が理解するように理解するということは、酩酊していることではない。科学は宗教のいろいろや要素についてあらゆることを理解するようになり、そして、どの要素が、他の知識部門とあまねく調和することによって、真であると考えられるべき資格をもっているかを決定することさえできるかもしれない。けれども、この科学における最大の学者が、みずから敬虔であることの困難をもっとも強く感ずる人であるかもしれない。」

 宗教的経験を頭で理解することと味わうこととはまったく別のことである。

 その意味で、科学や哲学が宗教に取って代わることは決してできない。

 そしてまた、科学や哲学が、宗教よりもすぐれていると言うこともできない。

 ジェイムズは言う。

「私たちの経験の世界は、いつの世においても、客観的な部分と主観的な部分とのこつの部分から成り立っていて、そのうち客観的な部分のほうが主観的な部分よりも量りきれないほど広大ではあるけれども、しかし主観的な部分も見のがされることも無視されることも決してできない。〔中略〕内的状態は私たちの経験そのものである。〔中略〕このような具体的な個人的経験は小さなものであるかもしれないが、しかし、それは存続しているかぎりは実質のあるものである。」

 わたしたちは、科学があつかう客観的世界と同時に、わたしたち自身の主観的世界を生きているのだ。 

 この主観的世界を、客観的観点からだけ分析し論じることはできない。なぜならそれは、わたしたちの観察対象である以上に、まさにわたしたちがそれを生きているところのものであるからだ。

 だからジェイムズは言う。現代の宗教を、今は通用しない荒唐無稽な神話と同じように否定してしまうべきではない、と。

「だから、私は宗教の遺物説を、とんでもない誤謬の上に立っているものとして、躊躇なく排斥する。私たちの先祖が多くの事実誤認をして、その事実誤認を彼らの宗教と混合したからといって、だから私たちは宗教的であることを全然やめるべきである、という結論は出てこない。」

 現代科学がどれだけバカにしようが、宗教的経験には、「より高きものとの交流を通した、不安感とその解決」というすぐれた意味があるのだ。

(苫野一徳)

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