W.ジェイムズ『宗教的経験の諸相』(1)


はじめに

 プラグマティズムの哲学者、ウィリアム・ジェイムズによる宗教論の名著。

 本書は、ジェイムズがアメリカの学者として初めて、イギリスのエディンバラ大学でのギフォード講演に招聘されて行った講演をもとに書かれたものだ。

 20世紀初頭においてはまだまだ学問後進国だったアメリカだが、パースジェイムズデューイらが提唱したプラグマティズムの哲学は、その後世界中に広まっていくことになる。

 本書の主題は、「宗教的経験」の本質的特徴を描き出すことにある。

 それは多分に、わたしたち自身の「潜在意識」のたまものである。

 しかしだからと言って、意味のない幻想というわけでもない。

 自身が味わった鬱体験に駆動されながら、ジェイムズは宗教的経験の本質にせまっていく。

 それはいったい、わたしたちの人生にどんな意味をもたらすものなのか?

 ジェイムズの洞察が光る名著である。


1.宗教的経験の「意義」「価値」を考える

 本書冒頭で、まずジェイムズは「医学的唯物論」を批判する。

 医学的唯物論とは、「神の啓示」や「神秘体験」といった宗教的経験を、身体器官の欠陥などによって説明する考え方だ。

「医学的唯物論は、聖パウロがダマスコへの途上でキリストの幻影を見たのは、彼が癲癇病患者であったからで、大脳皮質後頭葉の放電傷害のせいだといって、片づけてしまう。また、聖テレサはヒステリー患者であり、アシジの聖フランチェスコは遺伝性変質者であるとして片づける。ジョージ・フォックスが彼の時代のインチキの横行に我慢しきれなかったことも、彼が精神の誠実を切に求めたことも、結腸障害の徴候だと見なすのである。」    

 しかしジェイムズは言う。たとえそのような理由が人びとに宗教的経験をもたらすのだとしても、そのことによって宗教的経験を一笑に付すのはまちがっているのだと。

 重要なのは、人びとの宗教的経験が、人間の生にとってどのような「意味」「意義」をもっているかを明らかにすることだ。

 なぜならそれは、人間にとって、確かにあるかけがえのない価値をもった経験であるからだ。

 医学的唯物論は、哲学が古くから陥ってきた「単一起源」探究の現代版であるとジェイムズは言う。

 この世界の絶対の根拠。「単一起源」説は、そのような絶対の起源を見つけ出すことを夢見る。

 しかしそれは、どこまで言っても「独断論」であることをまぬがれない。

 形而上学(絶対を追求する学)は不可能である。これはカント以来哲学の常識だ(カント『純粋理性批判』のページ参照)。

 しかし人びとは、いまだにこの世の絶対の起源をめぐって論争を続けている。

 ジェイムズらのプラグマティズムは、そうした「絶対」をめぐる争いをやめ、人間にとって何が価値あるものかを考えようと訴えたのだ。


2.主題は「個人的宗教経験」

 続いてジェイムズは、本書の主題を個人的な宗教経験に限定すると述べる。教会制度の歴史や、宗教の社会学分析は対象外にして、あくまでも個人的な「宗教的経験の諸相」を叙述しようと言うのだ。

 そこで、ジェイムズは宗教(的経験)をまず次のように定義する。

私たちは宗教をこういう意味に解したい。すなわち、宗教とは、個々の人間が孤独の状態にあってかなるものであれ神的な存在と考えられるものと自分が関係していることを悟る場合だけに生ずる感情、行為、経験である、と。

 ここで言われる「神的存在」について、ジェイムズは次のように言う。

「ここで用いる「神」という言葉は、単に根源的、包括的、実在的なものだけを意味するのではない、ということを断わっておく。というのも、狭い意味に制限しておかないと、神という言葉の意味が事実あまりにも広くなってしまいかねないからである。私たちは、個人が、呪詛や冗談によってではなく、厳粛で荘重な態度で、応答せずにはいられないような根源的な実在という意味においてのみ神を用いることにしたい。」

「厳粛で荘重な態度で、応答せずにはいられないような根源的な実在」。宗教的経験は、必ずそのような実在との関係を伴った経験である。ジェイムズはそう言うのだ。


3.健全な心の宗教

 このような宗教的経験には、大きく2つのタイプがあるとジェイムズは言う。

 「健全な心の宗教」と、「病める魂の宗教」だ。

 「健全な心の宗教」から見ていこう。

 ジェイムズが例として挙げるのは、19世紀アメリカの思想家ラルフ・ウォルドー・エマソンや、エマソンの同時代の詩人ホイットマンなどである。

 彼らは「悪を感じることができない」人である。

 「健全な心」の持ち主は、2つの仕方でその宗教をもつ。

 1つは、「健全な心」を文字どおり無意識にもつ仕方で。もう1つは、「意志」によって。

 「意志」によって「健全な心の宗教」をもつ者は、同時に楽観論哲学へと足を踏み入れるとジェイムズは言う。

 その心理分析は非常に興味深いものだ。

「悪をもみ消すということが、まったく率直で誠実な人の場合には、故意の宗教的政策、あるいは、偏見にまで成長することがあるのである。」

それらの事実の悪を認めることを拒否せよ、そのもつ力を軽蔑せよ、その現存することを無視せよ、諸君の注意力を他の方面に転じよ。そうすれば、たといそれらの事実は依然として存しようとも、とにかく諸君自身にとっては、その事実のもつ悪は、もはや存在しないことになる。

 不幸から目をそむけ、悪をもみ消したいという欲望が、わたしたちを「健全な心の宗教」へと向かわせる。そうジェイムズは言うのだ。

 つまり、この信仰は、いわば苦しみからの反動によって抱かれるものなのだ。


4.病める魂

 「健全な心」とは対照的に、「病める魂」は世界のあちらこちらに悪を見出さずにはいられない心である。

 彼らが経験する宗教的経験は、「健全な心」の持ち主のそれとは当然異なったものになる。

 ここでジェイムズは、次のようなきわめて興味深いことを述べる。

ふつう、苦痛閾の一方の側で暮らしている人が、他方の側で暮らしている人とは違った種類の宗教を必要とするのは、当然なことではあるまいか。ここに、要求の型が違うとそれに応じて宗教の型も異なるのではないか、というこの両者の相対関係の問題がおのずから生じてくる」   

 世界にはさまざまな宗教がある。その教えは、時に対立的であったりする。

 しかしそれは、人間の性質や求めるものが違う以上、当然のことだ。

 1つの絶対に正しい宗教があるのではない。求めるものに応じて、その人にとってのよりよい宗教があるにすぎないのだ。

 プラグマティズム宗教論の、基本テーゼと言っていい考えだろう。


 ところで、「病める魂」の最良の例として、ジェイムズはロシアの文豪トルストイを紹介している。

 よく知られているように、トルストイは、世界的な大成功をおさめたにもかかわらず、その後突如としてそれまでの自分の芸術を否定し、何もかもを捨てて放浪し、その挙げ句野たれ死んでしまった。

 晩年のトルストイは、宗教による解決に満足を見出そうとした。

 このことについて、ジェイムズは言う。

ここで私たちが注意しなければならないことは、ただ、彼にとって日常生活が魅力をまったく失ってしまった、という現象であり、また、トルストイほどの有力な、才能にあふれた人間にも、それまでいつも価値多いものと思われていた一切のものが、ぞっとするような嘲笑のように見えるにいたった、という事実である。    

 世界から意味がなくなるという経験。これが、「救い」を求めるものとしての宗教の本質を浮き彫りにするのだ。


ここに、助け給え、助け給え、という宗教的問題の真の核心がある。

ある性質の人々はあまりにもそういう宗教を必要とするのである。


 続けて、ジェイムズはここで驚くべきことを言う。

 今日、「健全な心」と「病める魂」の双方を見比べた時、相手に対して不寛容なのは「健全な心」のほうであろう、と。

健全な心の人から見ると、光の中で生きることをしないで、鼠の穴を掘り返したり、恐怖を捏造して、あらゆる不健全な種類の悲惨事にのみ心をわずらわしているそれら怒りの子たち、第二の誕生を熱望する者たちは、鼻もちのならないものといってよいようなものなのである。もしかりに宗教上の不寛容、絞首、焚刑がふたたび行なわれることになったとするならば、過去はどうあったにせよ、今日では、健全な心のほうが、二者のうちより非寛容な側に立つであろうことは、疑いない。

 「健全な心」は「病める魂」を理解することができない。だから彼らは、その理解できないものを攻撃することになる。そうジェイムズは言うのだ。

 さらにジェイムズは、宗教的により深いのも、「健全な心」ではなく「病める魂」のほうであると言う。

「注意を悪からそらせて、ただ善の光のなかにだけ生きようとする方法は、それが効果を発揮する間は、すぐれたものである。〔中略〕しかし、憂欝があらわれるや否や、それは脆くも崩れてしまうのである。〔中略〕なぜなら、健全な心が認めることを断乎として拒否している悪の事実こそ、実在の真の部分だからである。結局、悪の事実こそ、人生の意義を解く最善の鍵であり、おそらく、もっとも深い真理に向かって私たちの眼を開いてくれる唯一の開眼者であるかもしれないのである。」

 もっとも、この点についてはやや異論の余地があるようにも思われる。

 悪こそ真の実在。ジェイムズはそう言うのだが、それこそジェイムズにならって言えば、人それぞれの「気質」による見方ではないか。この点、ジェイムズは自身の「気質」に不当に肩入れしすぎていると言えなくもない。実際、なぜ「悪こそ真の実在」と言いうるのか、ジェイムズはこれ以上まったく説明していない。

 さらに、彼が次のように言うにいたっては、やはりかなり偏見を帯びたものと言わざるをえないように思われる。

したがって、もっとも完全な宗教は、厭世的要素がもっともよく発達した宗教であるように思われる。もちろん、そういう宗教のなかで私たちにもっともよく知られているのは、仏教とキリスト教である。


5.分裂した自己とその統合

 ジェイムズによれば、「健全な心」の人は「1回の誕生で足りる人」である。

 対して「病める魂」は、「2回の誕生を必要とする人」だ。

 「健全な心」がただ楽観的世界を信じていればいいのに対して、「病める魂」は、その挫折の絶望と、宗教による復活という2回目の誕生を経験するのだ。

 「病める魂」は、自己分裂の苦しみをしばしば味わう。

「人間の内心は、現実的自己と理想的自己という、不倶戴天の敵として対立しているものと人間が感じる二つの自己の戦場なのである。

 なりたい自分と、現実の自分。この分裂が、わたしたちをひどく苦しめるのだ。

 ジェイムズによれば、宗教はこの分裂を統合へともたらしてくれる最も力のある救済である。

「トルストイがそれを人々がそれによって生きるところのものと言っているのは正しい。」


6.回心

 続いてジェイムズが取り上げるのは「回心」の経験だ。

 彼はそれを、人格的エネルギーの習慣的中心の移行」と定義する。

 回心には2つある。1つは意志的な回心、もう1つは自己放棄的回心だ。

 意志的な回心は、文字どおり自分の意志によって回心を決意するものだ。

 本書にとって重要なのは、2つめの自己放棄的回心のほうだ。これは意志によるものではなく、思いがけずわたしたちにやってくる回心なのだ。

 ジェイムズは、この自己放棄的回心は2つの経路をとってやってくるという。

 1つは「罪の意識」にさいなまれている時。もう1つは激しい「理想」に燃えている時だ。

 さらにジェイムズは続ける。このような回心経験が訪れるには、3つの条件が必要になると。

 1つは鋭い「感受性」をもっていること。2つは、無意識的なヴィジョンが見える「自動現象」が起こること。3つは「被暗示性」が強いこと。

 要するに、宗教的経験は、人びとの潜在意識が作用して訪れるものなのだ。

 ここでジェイムズは、本書にとってきわめて重要なことを述べる。

 ある人びとは、宗教的経験を「神の恩寵」であると言う。

 ジェイムズは、そのこと自体を否定しはしない。

 しかしこの恩寵にアクセスできるためには、人間の内面、すなわち潜在意識の条件が整っている必要があるのだと。

 こうして彼は、宗教と哲学や科学との調停をつけようと考えたのだ。

 その上でジェイムズは言う。

 哲学者や科学者の中には、宗教的経験を非合理なものとして一笑に付す者がいる。それはひと時の狂騒にすぎないと言うものがある。

 しかしジェイムズは言う。

人間はどの高さからでも堕落する――それを示す統計など私たちは必要としない。たとえば、愛は、よく知られているように、変わらぬものではないが、変わらぬものにせよ変わるものにせよ、愛はそれが続いている間は、飛躍し到達すべき新しい理想を啓示する。このような啓示が男にとっても女にとっても愛の意義をなしているのであって、その愛がどれだけ持続するかは問題でない。回心の経験も同じことである。すなわち、たとえ短時日間の経験であっても、回心の経験は、人間にその精神的能力の高水位がどれだけであるかを示すものであって、これが回心の経験の重要性をなすのである。

 回心の価値は、それが一瞬のものだからと言って減ぜられるものではない。

 むしろ、この一瞬のうちに、いわば世界や人生のすべてを悟ったと思えてしまうこと。そのような体験にこそ、宗教的経験がもっているきわめて独特の「意味」があるのだ。




(苫野一徳)

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