アーレント『アウグスティヌスの愛の概念』




はじめに

 アーレント(19061975)が23歳の時に出版した博士論文。

 この若さで、すでにこれほどの晦渋な文章を書いていたとは驚きだ。ラテン語が随所に散りばめられた、かなり難解な本である。

 もっとも、以下のまとめを読んでもらえれば分かるように、本書の内容は実はきわめてシンプルだ。

 簡単なことをわざわざ難しく書こうとする、若きアーレントの気負いのようなものも感じられなくはない。

 指導教授は、ハイデルベルク大学のカール・ヤスパース

 その前は、フライブルク大学にて一時期フッサールに師事していた。そのさらに前、10代のころには、フッサールの弟子のハイデガーに師事していた。

 このハイデガーとアーレントが、一時不倫関係にあったことはよく知られている。

 本書にも、あるいはこの時の経験がかすかににじんでいるかもしれない。現世的な愛は、「失うことの恐れ」を抱かせる。本書でアーレントはそのように述べる。

 「アウグスティヌスの愛の概念」と名づけられてはいるものの、アウグスティヌスの著作をアーレントなりに読み解いた、彼女自身の愛についての思索である。


1.欲求としての愛(Amor qua appetitus

 愛、それはわたしたちにまず「欲求」としてイメージされるものである。

 しかしそれはどのような欲求なのか?

 「善きもの」を所有したいとする欲求。それが「欲求としての愛」である。

 アーレントはまずそのように言う。

 しかしこの愛はきわめて不安定なものだ。

 なぜなら、もしそれを得られたとしても、わたしたちはこれを失うかもしれない恐れにつねにさいなまれるからだ。

「「欲求」、つまり「愛」とは、人間が自らの「善きもの」を確保する可能性にほかならない。
 この「愛」は「恐れ」metusに転化することがある。」

「要するに、所有し保持したいという「欲求」から、失うことへの恐れが生じる。」

「人間は、「一時的なもの」res tempralesを渇望するかぎり、つねにこうした脅威のもとにあり、「失うことへの恐れ」と「所有への欲求」とが不断に対をなしている。」

 それゆえ「正しい愛」は、そのような「失うことの恐れ」を抱かない愛だと言うことができる。


2.カリタス

 アウグスティヌスはそのような愛を「カリタス」と呼ぶ。

「正しい「愛」とは、まさに正しい「愛の対象」を保持することに存するのである。〔中略〕アウグスティヌスは、世界に固執し、それによって同時にこの世界を構成する――すなわち、現世的な――この誤った「愛」を、「欲望」cupiditasと呼び、永遠と絶対的未来を追求する正しい「愛」を、「愛」caritasと呼ぶのである。」

 「欲望としての愛」と「正しい愛」(カリタス)とは、いったい何が違うのだろう?

 それは、それぞれの愛が追い求める対象である。アーレントはそのように言う。

 「まちがった愛」が求めるのは、現世的なものすべてである。

 それに対して、「正しい愛」(カリタス)が求める対象は、言うまでもなく「神」である。

 神を愛した時、わたしたちは永遠を手に入れる。それは「恐れなき状態」である。

 それゆえ、そこにあるのはまったき「自由」だと言える。わたしたちは、もはや何ものにもとらわれることはないのだ。

「この恐れなき状態とともに自由が獲得される。この自由は、失うことへの恐れから自由にされた存在のあり方にほかならない。」


3.愛の秩序

 ひとたび神への正しい愛(カリタス)を見出したなら、わたしたちは愛の秩序を見出すことになる。

「人間は、絶対的未来とともに、原則的に世界の外に立脚する視点を獲得する。人間はこうして、この世界の外の視点から、世界および自己自身の世界との関係を秩序づけることが可能になる。この秩序づけに対して、統一的指導原理を付与するのは「最高善」であり、その秩序づけの対象となるのは現存する世界である。」data-blogger-escaped-comment-EndFragment    

 ひと言で言えば、その秩序は「神への愛隣人愛身体への愛」となる。

「その秩序にしたがえば、「われわれを越えたもの」supra nosは至上価値として最も多く愛すべきであり、「われわれ」nosと「われわれのそばにあるもの」iuxta nos――つまり、「隣人」proximus――は、同一の度合いにおかれるべきであり、「われわれより下にあるもの」infra nos、すなわち「身体」corpusは、「秩序づけられた愛」ordinata dilectioの最後、つまり最下位におかれるべきである。」


4.「創造者」(Creator)と「被造者」(creature

 「創造者」(神)は「被造者」(人間)の起源である。

 しかしこの「被造者」は、自らもまた世界を創造し、その世界に生きる。

「人間は、「神に造られたもの」から、つまり、所与の被造世界から、世界を作り上げるのであり、自己自身を世界に帰属する存在者たらしめる。」

 ここに「罪」がある。人間は、自分が「被造者」であることを忘れ、まるでこの世が自分のものであるかのように錯覚してしまうのだ。

「「貪り」は、「被造者」がまずもって作り上げた世界を愛する。ここにこそ、その固有の「罪」peccatumがある。」

「「被造者」は自分自身が「創造者」であると信じ込むが故に、ここに「高慢」superbiaが生まれる。」

 ここからわたしたちを逃れさせるのは、神がわたしたちに与えたもうたわたしたちの「良心」である。アーレントはそのように言う。

 しかし、どれだけ人間が良心によって罪から逃れる可能性を持っていたとしても、救いを真にもたらすのは「神の恩寵」だけである。

「たとえ起源への立ち帰りの要求が、「良心」の要請として「われわれの内に」in nobis根拠を持っているとしても、「神の恩寵」gratia Deiである「権能」の授与は、外側からなされる。」

 ここに、キリスト教における「自己否定」がある。一切は「神の恩寵」にゆだねられているのだ。

「つまり、被造者は、世界、それとともに自己自身――それが「世界に帰属しているde mundo限りにおいて――とを否定したのである。この自己否定において、被造者は被造的存在の本来の真理と意義とを獲得する。」


5.隣人愛

 「隣人愛」は、この自己否定の現実化にほかならない。

「被造者は、自己自身を放棄すると同時に、すべての世界的な関係をも放棄する。被造者は、「神によって創造された」a Deo creata者としてのみ、自己自身を理解し、彼は自らの手で初めて作り上げられたものすべてを、また自ら打ち立てたすべての関係を拒否する。したがって、他者ないし隣人は、彼の世界の中の具体的実存における意味――例えば、友としての、あるいは敵としての意味――を被造者に対して失なってしまう。こうした「神が[愛する]ごとくに」愛する「愛」において「愛する者」diligensにとっては、他者ないし隣人は、神の「被造者」としてのみ存在するのであり、「愛する者」は神の愛から生まれた人間と、「神に創造された」者として出会うのである。」
 
 自己を否定し、すべてを神にゆだね、それゆえ神が愛された世界と隣人を愛すること。これこそ「隣人愛」の本質なのだ。


6.罪を背負った人類

 このように、人間は本来、一個の個人として、神へと帰り、神の愛された隣人を愛すべき存在である。

 ところがその一方で、人間は一個の個人であると同時に、罪を背負った「人類」の一人としても存在している。

 アーレントはそのように言う。

「つまりアダムという共通の始祖Abstammungを持つという事実であり、さらにまた万人相互の平等性――明確で拘束力を持つ平等性――に関する事実である。」

 人類は皆平等である。しかし何をもって平等なのか?

 ――罪をもった人間として平等なのだ。アーレントはそのように言う。

 ここにおいて、「隣人愛」はもうひとつの本質をもつことになる。

「隣人は、二つの異なった仕方で理解することができる。一つには隣人は、神がすでに思寵をもって働きかけた人間としてのみ、つねに理解される。〔中略〕あるいはまた、隣人は、罪に依然として巻き込まれた人間として理解することができる。〔中略〕他者は根本的にあなたと均一であるので、つまり、他者はあなたと同様に罪ある過去を持っているので、それ故にあなたは彼を愛すべきである。」

 要するに、わたしたちは隣人を、神に愛される者として愛すべきであると同時に、わたしたちと同じ罪を背負ったものとしても愛するべきなのだ。

 こうして、アーレントは本書を次のように締めくくる。

「他者は、「人類」に帰属する者「として」隣人なのであり、彼はまた、個々の人間の孤立化の実現から生じる経験、つまり、この人類の中から召し出されたとの召命、およびその明確な自覚のもとで隣人なのである。」


(苫野一徳)

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