柳田聖山・梅原猛『無の探求〈中国禅〉』(仏教の思想7)


はじめに

 禅は、古代インド人のヨーガの知恵から始まった。

 遠く紀元前20世紀にさかのぼるといわれている。

 その後、2000年の歴史をかけて、ヨーガの瞑想はアジア各地に広がっていった。そして、インド、中国、日本と、それぞれに多様な展開を見せることになる。

 著者の柳田氏がいうように、

「いわば、縦に二千年の歴史を貫き、横にインド・中国・日本というアジアの全域にひろがった瞑想の思想は、各地の異質な文明と結びあって、百花乱れ咲く偉観を導いたのである。」

 禅はもともと、選ばれた少数の者のみの宗教だった。また、思想的体系を持たない、あるいはこれを嫌うという特徴を持っている。

 今日、禅といえば「無」の思想がすぐに想起されるが、これが「思想」として体系化されたのは、実は西田幾多郎鈴木大拙といった近代日本の哲学者たちによってだったのだ。


1.瞑想の人ブッダ

 いうまでもなく、仏教の開祖ブッダは瞑想の人だった。

「ブッダがかれの弟子たちに求めたのは、ひっきょうは自制と瞑想による内面的な平安の生活であった。」

 しかし、ブッダの時代、瞑想を説くのはきわめて一般的なことだった。

 ブッダの瞑想は、他の人びとの説く瞑想とは何が違ったのか?

 よく知られているように、それは極端な苦行を避け「中道」を説いたところにある。

「じっさい、ブッダの瞑想は、なにか一途に思いつめたような深刻さをもたぬ。原始仏教の無常観は、通常一般にいわれているような神経質な厭世観ではない。仏教の根底には徹底して楽天的な、人間性の肯定がある。」


2.神異

 さて、中国において禅が広まったのは、もともとはその「神異」への驚嘆や憧れからであったと考えられている。

 神異とはつまり神通力のこと。

 古代インドにおいて、神通には次の6種があるとされていた。

神足通(あらゆる場所を自由に行動する)
天耳通(あらゆる物音を聞きわける)
他心通(自分と他人の心の動きを知る)
宿命通(前世のことを知る)
天眼通(来世のことを知る)
漏尽通(迷いの根源を解消し、四つの聖なる真理〈苦・集・滅・道〉を証して、この世に生まれる原因なきを得る)

 そもそも仏教が伝来した背景にも、中国人たちのこうした神通力への憧れがあったといわれている。

「とくに、神足通のうちに含まれる飛行自在の魅力に、当時の中国人がいかに熱意をもっていたことか。たとえば、後漢の明帝が、一夜の夢の中に、かれの宮殿の庭前に飛来したブッダの自由な空中飛行ぶりと、その身体から発散する光の明るさに感動し、ついに勅使を西域につかわして仏教を求めたのが、そもそも仏教伝来の最初であるといわれる。」    

 あるいは、中国に来た最初の伝道師、安世高は、安息国(パルチア)の王子であったといわれているが、天文五行、医方異術をよくし、鳥獣の声まで聞きわけることができたという。

 さらには、クチャ国からやって来た仏図澄(ぶっとちょう)。彼もまた、神異の人だった。

 彼が中国に来たのは、いわゆる五胡十六国の時代。彼を迎えたのは、河北の地に趙という小国を建てていた鮮卑種の石勒と石虎の父子だった。

「胡族の指導者たちが、仏教の哲理に深い理解をもつはずはなかった。かれらの関心は、もっぱら神異の魅力にあったのである。」

 仏図澄は、石氏を中心として華北の地を教化し、かずかずの神異によってかれらの蛮俗をやわらげ、ブッダの不殺の教えをひろめた。

「つねに従う弟子は数百人、前後に教えをうけたもの一万、遊歴の地に寺を建てること八九三寺という。」

 しかし、やがて中国で仏教の理解が深まるにつれて、ただの神異は外道であると解されるようになる。

 こうして仏教は、やがて上層階層のものとして発展していくのだ。


3.格義仏教とその批判

 3世紀はじめに漢帝国が滅び、その後三国時代が訪れると、王弼(おうひつ)何晏かあん)、郭象(かくしょうらによる玄学の運動、つづいて林の七賢人に代表される清談が起こることになる。

「玄学と清談は、中国における新しい哲学の出発を意味する。かれらは、〔中略〕道家の古典たる『老子』や『荘子』をよりどころとして、しきりに形而上的な「虚無」を論じた。虚無は、なによりもすぐれて魅力ある自由の哲学であった。」

 こうして、老荘の思想によって解釈された仏教が中国で広がっていくことになる。

 これを「格義仏教」という。

 この格義仏教を、本来の仏教ではないとして批判したのが、仏図澄の弟子にして、中国における最初の沙門、道安だった。

 彼の本格的な般若思想の研究は、その後クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)の来朝をまって飛躍的な完成を遂げる。

 クマラジーヴァの門下には、やがて多くの天下の俊英が集まることになる。なかでも僧肇(そうじょう)は、大乗の空の理解における第一人者とよばれた。

 しかし、著者の柳田氏によれば、彼らの般若理解はインド仏教のそれとはいくらか異なるものだった。

「いうなれば、現象のすべてを、本来的な無の作用とするのである。とくに僧肇のばあいは、真理が現実に即したものであることを、あれだけ強調したにもかかわらず、その基本的な坐りを、無としての主体に求めることに傾いたように思われる。」

インド仏教の論書は、つねに真理が意識的な有無の分別を、二つながらともに越えることを強調して、意識分別を越える真理そのものを肯定的に説くことをしない。それは、本来はすぐれてきびしい実践的な瞑想の所産であったためと思われる。しかし、中国的な玄学の環境に人となった僧肇が、そうした般若ハラミツを理解するのに、形而上的なものとみたことは、やはりやむを得ぬ宿命であった。」

 しかし続けて、柳田氏は次のようにいう。

「それは、かれが批判した格義の説に逆戻りすることを意味しない。むしろ、般若思想の裏に隠れて見えなかったインド的な瞑想の実践が、やがて新しい中国的なものとして歩みだすのに役立ったというべきである。

 ここへいたって、中国人は独自の仏教を築き上げるようになったのだ。


4.天台、華厳とのつながり

 やがて、禅は天台宗華厳宗とつながっていくことになる(『絶対の真理〈天台〉』『無限の世界観〈華厳〉』のページ参照)。

 天台は、随の王室の保護によって栄えていたが、唐の時代になるとにわかに衰え始める。

 代わって台頭したのが、唐の則天武后の時代に黄金時代を迎えた華厳と、これと結びついたボダイダルマ系の禅宗だった。

 しかし実のところ、天台もまた、その宗祖天台智顗によって禅の方法をすでに体系化していた。

 『摩訶止観』において、智顗は禅の方法を次の4種あげている。

1常坐三昧
2、常行三昧
3、半行半坐三昧
4、非行非坐三昧

「これらの四種の三昧は、人間の一般的なあり方を、歩くこと(行)、とどまること(住)、足を交えてすわること(坐)、および横になって眠ること(臥)の四つとするうち、とくに瞑想にふさわしい姿勢として、坐と行の二つをとりあげたものである。」

 常坐三昧は、つねに坐して瞑想し、精神の安らぎを得る実習。常行三昧は、仏像の周囲を静かにめぐりつつ、動中に瞑想を修するもの。主として念仏や礼拝などの行動を指す。

 第3と第4は、この2つをかわるがわる用いるものだ。

それは、インド以来の仏教のすべての学問と実践を、正しく総合し体系づけようとする、智顗の遠大な意図を一示すもので、そこに本格的な中国仏教の一つの特色があったということができる。」

 しかし、じっさいの修行としては坐禅と念仏のいずれかが当然力を持つことになる。

「じっさい、『摩詞止観』の書かれた時代に前後して、禅と浄土という二つの異なった実践運動が、ほとんど同時に起こっているのは、おおいに注目すべきである。」

「こうして、坐禅と念仏の実習が、他の多くの実践の中から、もっとも基本的なものとして選びだされる。それは、あらゆる学問と実践を、内容的に総合しつつ、それぞれの立場において意義あるものとみた智顗その人の考えと、あきらかに異なった立場である。」

 天台が、その総合性のゆえにすぐれてインド的であったとするなら、禅は、その現実主義や実践性のゆえに、すぐれて中国的なものだったといえる。


5.北宗禅と南宗禅

 8世紀のはじめ頃、いわゆる北宗禅が華厳と手を結ぶ。

 その代表的人物である道信弘忍(ぐにん)らは、人間はもともと清浄な存在であると説いた。

「客塵(きゃくじん)ということばは、もっともよくそのことを表わしている。すでに、本来の心が清浄だというのは、そうした客塵に対してのことである。したがって、本来の清浄性そのものに立てば、もはや塵もないかわりに、清浄という名称すら無用である。〔中略〕現実的な行道としては、どこまでも客塵を払うという用によって、本来の清浄性にかえり、それを自覚しようとするのである。」

 このような「離念」を説いた北宗禅に対して、荷沢神会(かたくじんね)の南宗禅「無念」を説いた。

「離念は鏡の塵を払うようなものであり、無念はもともと払うべき塵なしとする立場である。」


6.あたりまえの生き方が真理である(馬祖の「無事」)

 と、こうなると、禅はきわめて日常に密着したものとなる。

「真理は、いまやあらためて学ばれたり修行されたりするものではなくて、すでに人々の生活の中に自明のものとしてあり、それとして特別に意識されぬところに、ほんとうに地についたはたらきを発揮するのである。」

 ここに登場するのが、臨済宗の源流となった馬祖である。

 彼が説いたのは「無事」である。

「真実の現在は、かえって無事である。無事こそ人間の本質である(無事是貴人)。臨済が無事を強調するのは、そうした全体的な人間の本質を見ていたからである。無事は、馬祖のあたりまえの生き方の徹底であり、神会の無念や無住の発展にほかならぬ。


7.禅問答と公案

 こうして、禅はきわめて日常的、実践的なものとして展開することになった。

 しかしそれは同時に、思想としてはその臨界につきあたったことを意味している。

「ここで注意しなければならぬのは、思想としての中国の禅は、もはやこれ以上発展しようがなかったことである。無限の個性に徹した唐末五代の禅は、思想の体系よりも現実的な日常生活に深く徹することによって、大きく変化するのである。」

「いったい、禅の語録の特色は、つねにそれが第三者の筆録であることだ。一人の学者が、みずから筆をとってつづった著述の書と、禅の語録はまったく性格を異にする。とくに、その文体が話しことばであることは、もっともその内容にふさわしい。」

 この禅問答が、いわば公的なものとして認められたのが「公案」だ。

 公案とは、もとは裁判の判例のこと。それが後の裁判に対して、一つの確かな実例となることから、とくに公の名を与えられたのだ。

「いうならば、あくまで特殊なものであり、私的なものでありながら、それがどこまでも生きたものとして、抜きさしのできぬ歴史的現実の一つの断片なるゆえに、公的の意義をになうのである。」

 豊かな禅問答の集録から、公案の成立への推移は、唐末五代の動乱より、宋の統一国家の成立の時期に応じている。

いうならば、唐代にもっとも新しい仏教であった禅は、もっとも活気あふれる仏教であったがゆえに、宋代にはいるとともに、中国人の仏教の代表として、公的な伝統を形成するのだ。」

 こうして禅は、いわゆる体制内知識人の養成にその中心的な努力を注ぐようになる。


8.「無字」の発見

 こうした体制的な禅を打ち破ろうとしたのが、五祖法演以後の運動だ。

 彼らは「趙州無字」(じょうしゅうむじ)の公案を用い、これによって「無」の立場を確立していく。

 それは、知識や感覚による理解を捨てて、ひたすらに主体的な悟りに至る方法だ。

「法演にはじまり、大慧によって強化された「無字」の工夫は、ついに南宋以後の禅の方法を貫くものとなる。」

 しかし注意しなければならないのは、「無字」はあくまでも禅の方法であるということだ。

 これが思想として取り上げられるようになるのは、「はじめに」でも述べた通り、日本の近代哲学においてなのである。

(苫野一徳)


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